第32話: 揺るがぬ声
灰汁の匂いが、しなかった。
オリヴィアは目を開けたまま、板の天井を見上げていた。
桶は昨日と同じ場所にある。湯気も上がっている。北棟の洗い場は夜のあいだも火を落とさない決まりだった。匂いのもとは、何ひとつ動いていない。
動いたのは、こちらだ。
起き上がらずに卓へ手を伸ばした。指の先が甕の縁に当たる。酢の甕だった。蓋をずらし、指を浸けて、舌へ載せた。
左の縁で、遅れて酸が立った。
右は、水と変わらなかった。
昨日は、右でも遅れて戻ってきた。三日前は、両方が同じ速さだった。
オリヴィアは指を口から抜き、しばらく動かなかった。
七年、道具はこの二つきりだった。器の底を舐めて量を測り、湯気の上に立つものを拾う。それができなくなれば、残るのは薬草の名を覚えている頭だけになる。頭では、量が測れない。
九日目。
蝋を開けるのが十一日目。メリディアから紙が戻るのが十二日目。
一日、こちらが先に立つ。
その一日で何をするかは、昨夜のうちに決めていた。決めたときは、まだ舌の右が生きていた。
オリヴィアは麻を掴んで体を起こした。
部屋の輪郭が右へ流れ、半拍遅れて戻ってくる。息を三つ数えるあいだ動かずにいると、床の位置がだいたい元に戻った。
戸の外で、桶を置く音がした。
「お目覚めでございますか」
侍女頭が戸の内側に立っていた。手に紙を一枚持っている。墨がまだ乾ききっていないらしく、指の先を紙から離して持っていた。
「書き直してまいりました」
「拝見してもよろしいですか」
「お目にかけるほどのものではございません」侍女頭は紙を卓へ置いた。「月ごとの員数だけでございます」
オリヴィアは紙を引き寄せた。
麻の数が月の総計で一行。番の名が一行。殿下の血の布が、月の総計で一行。日ごとに並んでいた四十いくつの行が、三行になっていた。
四日目に三枚から九枚へ増えた段が、どこにもない。
「よく書けております」
「よくはございません」
「仰せのとおりに書き直せ、と言われたのでございましょう」
「言われました」
「では、そのとおりでございます」オリヴィアは紙を戻した。「一つだけ、足していただけますか」
「なんでございましょう」
「端に、書き直しを仰せつかった日をお書きくださいませ」
侍女頭は紙を見下ろした。
「叱られた日を、でございますか」
「叱られた日と、書き直した日を」
「それは、書いてよいものでございましょうか」
「洗い場の帳面は、洗い場の用で書くものでございます」オリヴィアは言った。「書き直しに二日かかったのなら、その二日は洗い場の日でございます」
侍女頭はしばらく紙を見ていた。それから前掛けの紐に手をやり、結び目を締め直した。
「書いてまいります」
「二冊目は」
「昨夜のうちに、書きはじめました」侍女頭は言った。「同じ数を、二つの紙に」
「置き場所は」
「灰の甕の下でございます」侍女頭は言った。「洗い場の灰は、月に一度しか出しません。持ち上げるのは、わたくしかもう一人きりでございます」
灰の下。
オリヴィアはその言葉を一度だけ胸のうちで転がして、口には出さなかった。
「よい場所でございます」
「あの」侍女頭は言った。「綴じ帳のことでございますが」
「うかがいます」
「明朝までに御用の間へ上げるようにと、昨夜の触れに」
「今朝でございます」
「今朝でございます」侍女頭は繰り返した。「殿下がお持ちでございます」
「頂戴してまいります」
「頂戴して、いかがなさいます」
「上げます」
侍女頭の指が、紙の端で止まった。
「上げるのでございますか」
「上げます」
「上げてしまえば、返っては参りません」侍女頭は言った。「棚の控えのように、無くなります」
「返らなくてよろしゅうございます」
「よろしいのですか」
「返らぬものは、上がったことになります」オリヴィアは言った。「上がったものには、受け取った者がございます」
侍女頭は口を開き、そのままにしていた。
「あの方は、紙をお止めになります」オリヴィアは続けた。「お上手でございます。八日のうちに、三つ止められました」
侍女頭は頷いた。
「止めるには、止めよと書かねばなりません」
「……はい」
「止めよと書いた紙を、止める紙はございません」
湯気の落ちる音が、桶の底で二つ鳴った。
侍女頭は卓の縁へ手をつき、そのまま少し体を寄せた。
「もう一度、伺わせてくださいませ」
「どうぞ」
「あの方が人をお消しになるたびに、消せと書いた紙が一枚ずつ増えるということでございますか」
「増えます」オリヴィアは言った。「御用の間は、回した触れを綴じます。捨てる決まりがございません」
「では」
「わたしは、毒の紙を集めておりません」オリヴィアは言った。「消した紙を集めております」
侍女頭はしばらく黙っていた。
それから、卓の上の書き直した紙を両手で取り上げ、墨の乾いたところを確かめて、袖の内へ入れた。
「お供いたします」
「北棟から東の棟まで、階が二つございます」
「存じております」侍女頭は言った。「昨日、あなたさまを二つとも運びました」
階は、思っていたより高かった。
七年、毎朝この道を盆を持って上がっていた。歩数まで体が覚えている。覚えているものと、いま上がれるものが噛み合わない。
十二段目で、壁に手をついた。
「お休みくださいませ」
「参ります」
「休んでから、参ればよろしゅうございます」
オリヴィアは壁の石を掌で押して、体を立て直した。
耳の奥で低い音が一度鳴って、消えた。柱の縦の線が二本に見え、それから一本に戻った。
「侍女頭」
「なんでございましょう」
「わたしの声が途中で細くなりましたら、代わってくださいますか」
「代わります」
「言葉は、少なくてよろしゅうございます」オリヴィアは言った。「洗い場の者として、お尋ねになるだけで足ります」
「わたくしは、洗い場の者でございます」
オリヴィアは頷いた。
「そのようにしか、しゃべれません」
渡りを抜けた。
東の棟の窓は高く、朝の光が斜めに落ちて、柱の影を等間隔に置いている。九日目の光だった。昨日ここを盆を持って歩いた。歩いた先で倒れた。
突き当たりの扉の両脇に、侍従が二人立っていた。
昨日は、いないことになっていた二人だった。
扉の内側は、鉄と薬の匂いが層になっていた。
匂いはまだ拾える。鼻のほうが、舌よりいくらか長く保つ。
アルヴィスは枕を四つ重ねて背を預けていた。膝の上に洗い場の綴じ帳が三冊、積んだまま置いてある。掛布の外へ出た手の甲に、青い筋が浮いていた。
「来たか」
「おはようございます」
「座れ」
「立っております」
「立っていられんだろう」アルヴィスは言った。「昨日、床にいたのを見た」
オリヴィアは膝をついた。
ついてから、それが座れという意味ではなかったことに気づいたが、立ち直す気力のほうを惜しんだ。
「殿下」
「待て」アルヴィスは言った。「先に言う」
「……はい」
「今朝、番の紙が来た」
「名は」
「四つあった」アルヴィスは言った。「いつもの数だ、と侍従が言った」
戻したのだ、とオリヴィアは思った。
昨日の紙は、名が一つきりだった。あの紙は殿下の目の前で床へ落ち、殿下の手で拾われた。同じ形の紙をもう一度回せば、拾われた紙と並ぶ。並べば読める。
だから、四つに戻した。
直したのではない。読まれない形に戻しただけだった。
「盆は、誰が」
「知らん顔が運んできた」アルヴィスは言った。「四人で運ぶ決まりだそうだ。四人のうち三人は、扉の外で待つのだと」
オリヴィアは黙って聞いていた。
「私は、粥を食わなかった」
「殿下」
「食っていない」アルヴィスは繰り返した。「椀は、そこにある」
卓の上に、白木の盆が置いてあった。
椀が三つ。どれも伏せられていない。
オリヴィアは膝で寄って、粥の椀を覗いた。表に膜が張りかけている。指を入れずに、縁を回して底を見た。
「お召し上がりになりませんでしたか」
「食わん」
「食ってくださいませ」
「毒が入っているのだろう」
「入っております」オリヴィアは言った。「入っているものを召し上がらないでいると、召し上がらないことが分かります」
アルヴィスの手が、綴じ帳の上で動いた。
「……何が分かる」
「殿下が器を疑っておいでだと、あちらに分かります」オリヴィアは言った。「分かれば、明日から入り方が変わります」
「では、どうしろと」
「今日は、召し上がってくださいませ」
「毒をか」
「三口だけ」オリヴィアは言った。「三口の灰塵で、殿下が今日倒れることはございません。七年、そうしてまいりました」
アルヴィスは椀を見ていた。
「お前が飲んでいた量は、それの何倍だ」
「量の話は、あとにさせてくださいませ」
「答えろ」
「一杯でございます」オリヴィアは言った。「殿下のお椀を、まるごと」
部屋の中で、侍女頭の膝が板を鳴らした。
アルヴィスは椀へ手を伸ばし、匙を取った。三口すくって、三口とも飲み下した。それから匙を盆へ戻した。
「砂の味がする」
「はい」
「七年、これか」
「七年、それでございます」
「私は、うまいと言ったな」
「仰いました」
彼は口の中のものを飲み込むのに、少し時間をかけた。
「昨日の椀を、置いてある」アルヴィスは掛布の脇を指した。「セリカが下げると言った。渡さなかった」
枕の脇に、椀が一つ伏せずに置かれていた。底に膜が乾いている。
オリヴィアはそれを見て、目を伏せずに言った。
「これは、使えません」
「なぜだ」
「昨日の朝からこの椀は、殿下のお手のうちにございました」オリヴィアは言った。「殿下のお部屋にあった椀の中身は、殿下がお入れになったのでないと誰にも申せません」
「私が入れたと言う者がいるのか」
「言えます」オリヴィアは言った。「言えることは、いずれ言われます」
アルヴィスは椀から手を引いた。
引いた手が、掛布の上で一度だけ強く閉じた。閉じきってはいなかった。
「では、私がしたことは無駄か」
「無駄ではございません」
「無駄だろう」
「殿下は、椀をお渡しになりませんでした」オリヴィアは言った。「渡さなかったという話は、この部屋にいた者の数だけ残ります」
アルヴィスは枕へ後頭部を押しつけた。
「昨夜のことだが」彼は言った。「私は、お前に」
「殿下」
「言わせろ」
「筆は、お持ちでございますか」
言葉が、そこで途切れた。
「……筆」
「殿下がご自分でお使いになる筆でございます」オリヴィアは言った。「墨と、紙も」
「あるだろう。侍従に持たせている」
「今日から、お書きくださいませ」
「何を書く」
「日付と、召し上がったものと召し上がらなかったものを」オリヴィアは言った。「それだけで足ります」
アルヴィスは、しばらく答えなかった。
「そんなものを書いて、どうなる」
「どうにもなりません」
「では」
「ですが殿下のお手で書いた紙は、御用の間が取りに参りません」オリヴィアは言った。「昨夜、そこにいる者がそう申しました」
侍女頭が壁際で頭を下げた。
「この城の紙は、みな一つの部屋を通ります」オリヴィアは続けた。「通らない紙が一つだけございます」
「私の手か」
「殿下のお手でございます」
「毎日か」
「毎日でございます」アルヴィスの目が動いたので、オリヴィアは付け足した。「お書きになれない日は、書けなかったとお書きくださいませ」
「書けなかったと書くのか」
「書けなかった日も、日でございます」
アルヴィスは膝の上の綴じ帳へ手を置いた。
三冊とも、角が丸くなっている。彼はその角を親指で押さえて、押さえたまま言った。
「これを取りに来たのだろう」
「取りに参りました」
「渡さん」
「殿下」
「昨夜、上げるなと言った」アルヴィスは言った。「上げれば消える。あの棚のようになる」
「消えます」
「では、なぜ来た」
「上げに参りました」
アルヴィスは顔を上げた。
碧い目の下に、昨日より深い影が落ちている。それでも、その目はこちらへまっすぐ来た。
「消えると分かっていて、上げるのか」
「分かっております」
「なぜだ」
「殿下がお守りになった帳面は、誰も読みません」オリヴィアは言った。「上げた帳面には、受け取った者の名がつきます」
「名」
「この八日、この城で回った紙に名がございません」オリヴィアは言った。「触れにも番の紙にも、調薬の間の紙にも。名を書かぬのが、あの手の作りでございます」
「では」
「一枚でよろしいのです」オリヴィアは言った。「名の書かれた紙が一枚あれば、そこから上へ辿れます」
アルヴィスは綴じ帳を見下ろした。
「これを渡せば、その一枚が出るのか」
「出させます」
「どうやってだ」
「洗い場の者が、預りをいただきます」オリヴィアは言った。「帳面をお取り上げになるのなら、預かったと書いてくださいませと申します。書いていただかねば、無くなったとき洗い場が叱られますので」
アルヴィスの喉から、息とも声ともつかないものが短く出た。
「叱られる、か」
「叱られます」
「そんなことで、書くか」
「書きます」オリヴィアは言った。「御用の間の役目は、書くことでございます。書かずに預かれば、その者が叱られます」
アルヴィスは、三冊を膝の上で揃えた。
揃えるのに、思ったより長くかかった。指が滑って、いちばん上の一冊が横へずれる。彼はそれを二度直した。
「持っていけ」
「ありがとうございます」
「オリヴィア」
「はい」
「私は、何もしていない」
「筆をお持ちくださいませ」オリヴィアは言った。「それが今日の殿下のお役目でございます」
彼は答えなかった。
オリヴィアが綴じ帳を受け取ろうとしたとき、腕が思った高さまで上がらなかった。侍女頭が横から両手を差し入れて、三冊を抱えた。
「重うございます」侍女頭が言った。
「三年ぶんだ」アルヴィスは言った。
「はい」
「三年で、それだけ書いたのだな」
「書きました」
扉が閉まる前に、後ろで紙の音がした。
侍従が墨壺を運んでくる音だった。
御用の間は、廊下の突き当たりにあった。
紙と埃と、古い糊の匂いがする。前に来たのは二日前だった。棚の並びは同じで、綴じ帳の背が同じ高さで揃っている。
卓の奥に座っているのが、別の人だった。
若い。二十を少し過ぎたくらいで、袖口に墨がついていない。筆の持ち方が正しすぎる持ち方だった。
「洗い場でございます」侍女頭が卓の前へ進み出た。「綴じ帳を、お持ちいたしました」
若い書役は立ち上がりかけ、途中で座り直した。
「……触れの、綴じ帳か」
「北棟洗い場の綴じ帳を、明朝までに上げよとの触れでございました」
「今朝までだな」
「今朝でございます」
若い書役は卓の上を空けた。侍女頭が三冊を置いた。卓の面が、その重さで一度きしんだ。
「三冊ある」
「三年ぶんでございます」
「一冊ではないのか」
「触れには、冊数がございませんでした」侍女頭は言った。「洗い場にあるものを、みなお持ちいたしました」
若い書役は三冊の背を順に見た。それから帳面を開き、筆を墨に浸けた。
オリヴィアは戸の内側に立ったまま、口をきかなかった。
紙を持たない者が先に口をきくと、話がその者のものになる。二日前、この部屋で覚えたことだった。
「あの」侍女頭が言った。「一つ、お願いがございます」
「なんだ」
「預りを、いただけますでしょうか」
若い書役の筆が止まった。
「預り」
「洗い場の帳面でございます」侍女頭は言った。「洗い場の棚から出ましたものは、いつ出てどこへ行ったかを書いておきます。書いておきませんと、無くなりましたときにわたくしが叱られます」
「無くならんだろう」
「棚の控えが、一昨日無くなりました」
部屋の中で、埃の匂いだけが動いた。
「……それは、私の前の者のことだ」
「はい」侍女頭は言った。「ですから、お書きいただきとうございます」
若い書役はしばらく筆を持ったままでいた。それから新しい紙を一枚引き寄せた。
「三冊、受け取ったと書く」
「日付も」
「日付は書く。当たり前だ」
「お名も」
筆が、また止まった。
「名」
「どなたがお受け取りになったかを書いていただきませんと、預りになりません」侍女頭は言った。「洗い場の届けにも、受け取った者の名を書く欄がございます」
「洗い場に、そんな欄があるのか」
「ございます」侍女頭は言った。「布を渡すときは、必ず書きます。布は無くなるものでございますから」
若い書役は筆の先を紙の上で少し浮かせていた。
彼が何を計っているのかは、見ていれば分かった。名を書いて叱られる筋道と、書かずに帳面が消えて叱られる筋道の、どちらが太いか。
新しく座った者は、いつでも後ろのほうを太いと見る。
筆が下りた。
日付が入り、綴じ帳三冊と入り、洗い場と入り、いちばん下に名が入った。
墨の薄い字だった。
「これでよいか」
「ありがとうございます」侍女頭は紙を両手で受け取った。
オリヴィアは、そこで一歩前へ出た。
「もう二つ、お預けしたいものがございます」
「そちらは」
「洗い場の者でございます」
若い書役は前掛けを見た。糊の落ちた麻の前掛けだった。二日前、同じところを老いた書役が見た。
「洗い場が、御用の間に何を預ける」
「一つは、紙でございます」
オリヴィアは袖から折られた紙を出し、卓へ置いた。
二つに折り、もう一度折った紙だった。端に細い糸が結んである。獣脂の灯りの下では色を持たなかったものが、高い窓の光の下では持っていた。
「盆の番の紙でございます」
「番の紙を、なぜここへ」
「拾いましたので」オリヴィアは言った。「拾ったものは、どこかへ預けます」
「どこで拾った」
「殿下のお部屋の、卓の脚のあいだでございます」
若い書役は紙を開いた。
開いて、目を上げた。
「名が、一つしかない」
「一つでございます」
「番は四人だろう」
「昨日は一人でございました」
彼はもう一度紙を見た。それから紙の余白へ目を動かし、裏へ返し、また表へ戻した。
「書いた者の名が、ない」
オリヴィアは何も言わなかった。
言えば、この人の見つけたものが、こちらの言ったことになる。
「……書いておく」若い書役は言った。「盆の番の紙一枚。八日目のもの。名は一つ。書いた者の名はなし。端に糸あり」
「ありがとうございます」
「もう一つは」
オリヴィアは左の袖の口を光のほうへ向けた。
中を覗いてから、右手を差し入れた。指の腹が布の織りを拾わない。数えるのに、目のほうを使った。
布の包みを卓の上へ置き、結び目を解く。
蜜蝋の欠片が二つ。合わせ目が指の跡で潰れて、縁が白く濁っている。
「蝋でございます」
「蝋は紙ではない」
「はい」
「御用の間は紙を綴じるところだ」
「では、紙にしていただきとうございます」オリヴィアは言った。「中身をお書きくださいませ。書けば、紙になります」
若い書役は蝋を見て、それから筆へ目を戻した。
「中身は何だ」
「殿下のお椀の底から採った膜でございます」オリヴィアは言った。「八日目の朝に厨房で採って、その場で蝋に挟みました」
「膜」
「器の底に残るものでございます」
「それを、預けてどうする」
「十一日目に開けます」オリヴィアは言った。「開けるときに、預けた者を立ち会わせていただきとうございます」
「なぜ十一日目だ」
「三日置かねば、分かれません」
「何が分かれる」
オリヴィアは一度、口を閉じた。
喉の途中にあるものが引くのを待ってから、声を出した。
「二つの層が出ます」
「層」
「表に一つ、芯に一つ」オリヴィアは言った。「生のまま舐めれば、二つは混ざって一つに見えます。蝋の中で三日寝かせますと、重さの違う順に沈んで境目が出ます」
「そんなものが出るのか」
「出ます」
「出なかったら」
「出なければ、わたしの見立てが違っておりました」オリヴィアは言った。「違っておりましたことも、お書きくださいませ」
若い書役は筆の柄を指で回した。
「なぜ、そんなことまで書かせる」
「取り違えぬためでございます」オリヴィアは言った。「棚には、似た包みが幾つも入りましょう。中身の見分けがつくように書いておきませんと、開けたときに別のものになります」
彼は、その言い方に得心したらしかった。
得心してよいものではなかったが、この部屋の役目からすれば正しかった。書役は、書いてあるとおりに読む。書いてあるとおりに書く。
筆が下りた。
「蜜蝋の欠片二つ。あいだに、八日目の朝に殿下の椀より採ったという膜を挟む」若い書役は書きながら読み上げた。「預けた者の申すところによれば、三日を経て開けば層が二つ出る。表に一つ、芯に一つ。開くのは十一日目。開くときは、預けた者立会いのこと」
「ありがとうございます」
「控えは」
オリヴィアは顔を上げた。
「控えを、お作りになりますか」
「決まりだ」若い書役は言った。「預りは二通作る。一通は預けた者へ渡し、一通はこちらで綴じる」
「上へは」
「上げる紙ではない」彼は言った。「預りは、部屋の外へ出さん」
高い窓から落ちた光が、卓の上を斜めに横切っていた。
その帯の中に、蝋の包みと、番の紙と、三冊の綴じ帳が並んでいる。
「一つ、伺わせてくださいませ」オリヴィアは言った。
「なんだ」
「この部屋に回ってまいりました触れは、みな綴じておいでですか」
「綴じる」
「捨てることは」
「ない」若い書役は言った。「読んで、綴じる。それだけの部屋だ」
「ここ三日ぶんを、読んでいただけますでしょうか」
「なぜ」
「洗い場に関わるものが、幾つございましたか知りたいのでございます」オリヴィアは言った。「叱られませんように」
若い書役は棚から一冊を抜き、卓へ広げた。
紙をめくる音が、しばらく続いた。
「調薬の間の在庫を御用の間へ引き上げること」彼は読んだ。「宮廷医の出立を繰り上げること。書役の暇のこと。洗い場の届けの書き直しのこと。北棟洗い場の綴じ帳を上げること」
彼は指を止めた。
「五つある」
「三日で五つでございますか」
「三日で五つだ」
「多うございますか」
「……多い」若い書役は言った。「私が入る前の三月ぶんを見たが、洗い場に関わるものは一つもなかった」
オリヴィアは頷いた。
それ以上は訊かなかった。
訊けば、この人が数えたことが、こちらの数えたことになる。
「書いた者のお名は」
若い書役は紙の上を目で辿った。
辿り終えて、一度顔を上げ、もう一度辿った。
「……五つとも、ない」
部屋の中で、糊の匂いだけが動いていた。
「そのままお綴じくださいませ」オリヴィアは言った。
「そのままとは」
「読んだとお書きになって、綴じてくださいませ」オリヴィアは言った。「それが、この部屋のお役目でございます」
声が、そこで細くなった。
息を継ごうとして、喉の砂に当たった。
「失礼をいたしました」侍女頭が前へ出た。「この者は、昨日から熱がございます」
「洗い場は帰ってよい」若い書役は言った。「預りは渡した」
「ありがとうございます」
オリヴィアは礼をして、戸口へ向かった。
振り返ると、若い書役は五つの触れの並んだ頁を、まだ見ていた。
廊下へ出て三本目の柱のところで、甘い香が来た。
花の香だった。すみれと、白い花。いつもより濃い。
オリヴィアは足を止めた。
止めたのは、香が濃かったからではない。
底に据わっているはずのものが、無かった。
七年、この香を嗅ぐたびに拾ってきた。花の下に、古釘に似たものが一本きり立っている。それが今日は無い。濃くした花が、何も隠していない。
隠すものを、今日はこの人が触っていない。
セリカは廊下の中ほどに立っていた。手に紙を一枚持っている。二日前と同じ立ち方で、同じ場所だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いのね」セリカは言った。「昨日は運ばれておいでだったのに」
「運んでいただきました」
「歩けるようになったのなら、なによりだわ」
「歩けております」
セリカの目が、侍女頭の抱えているものへ動いた。
もう抱えていない。三冊は御用の間の卓に置いてきた。侍女頭の手にあるのは、預りの紙が二枚きりだった。
「綴じ帳は」
「上げてまいりました」
セリカは、そこで一拍置いた。
「上げたの」
「触れがございましたので」
「まあ」セリカの声が、そこで柔らかくなった。「素直なこと」
「洗い場は、触れに従います」
「殿下がお持ちだと伺っていたけれど」
「頂戴してまいりました」
「殿下から」
「はい」
セリカは紙を持ち替えた。
持ち替えるのに、指の位置を二度直した。
「あなた、何をなさったの」
「頂戴して、上げただけでございます」
「あの方は、お渡しにならないと仰っていたわ」
「わたしが、上げてくださいませと申し上げました」
「上げれば、無くなるわ」
「無くなります」
「無くなってよいの」
「よろしゅうございます」オリヴィアは言った。「無くなれば、無くなったことが分かります」
セリカの琥珀が、一度だけ止まった。
止まってから、また動いた。
「相変わらず、言葉の遊びがお上手ね」
「遊んでおりません」
「棚の控えのように消えるのよ。あなた、それを見たでしょう」
「見ておりません」オリヴィアは言った。「見たのは、そこにいる者でございます」
侍女頭が二人のあいだへ半歩出た。
「棚の前まで参りました」侍女頭は言った。「綴じてございました場所が、空いておりました」
「掃除をしただけよ」
「さようでございますか」
「古い紙は湿気を呼ぶの」セリカは言った。「二度も申し上げたはずだけれど」
「はい」侍女頭は言った。「二度伺いました」
セリカの語尾が、そこで短くなった。
「洗い場の者は下がってちょうだい」
「下がりません」
石の廊下で、その声はよく通った。
セリカが侍女頭を見た。見た顔から、作った笑みが半分落ちた。
「なんですって」
「この者は、熱がございます」侍女頭は言った。「一人で歩かせては、また階から落ちます」
セリカはしばらく黙っていた。
それから、こちらへ体を向け直した。
「随員様」
「洗い場でございます」
「洗い場の方」セリカは言い直した。「一つ、伺ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「あなた、御用の間に何をお預けになったの」
オリヴィアは、そこで初めて相手の目を正面から受けた。
この人は、もう半刻のうちに預りの控えを見ている。この城の紙は、みな一つの部屋を通る。二日前にそう言ったのは、この人自身だった。
見ていて、それでも訊いている。
訊いたということは、書いてあるものの意味が読めなかったということだった。
「蝋を二つ、お預けいたしました」
「蝋」
「殿下のお椀の底から採った膜を、蝋に挟んでございます」オリヴィアは言った。「八日目の朝のものでございます」
「八日目」
「昨日でございます」
「……あの朝、あなたは倒れたわ」
「倒れました」オリヴィアは言った。「倒れる前に、厨房で採りました」
セリカの親指が、紙の角を折った。
「それを、預けてどうなさるの」
「十一日目に開けます」
「十一日目」
「三日置かねば、層が分かれませんので」
「層」
「表と、芯でございます」オリヴィアは言った。「表の痺れが先に来て、芯の重さが後に来ます。順序は、量を増やしても入れ替わりません」
廊下の先で、水を運ぶ足音が近づいて、遠ざかった。
セリカは動かなかった。動かないことが、この人にとっては動くことよりも珍しかった。
「あなた、それをわたくしに仰るの」
「申し上げております」
「なぜ」
「お預けした場所と開ける日を、あなたさまに知っておいていただきたいからでございます」
「……」
「無くなれば、無くなったことが答えになります」オリヴィアは言った。「開けば、開いたものが答えになります」
セリカの手から、紙が半分だけ滑った。
落ちる前に押さえた。押さえた指が、紙の面を強く擦った。
「脅していらっしゃるのね」
「脅しておりません」
「脅しよ」
「脅しでしたら、何をするかを申し上げます」オリヴィアは言った。「わたしは、何もいたしません。十一日目に、蝋が開くだけでございます」
セリカは笑おうとした。
笑みの形は出た。声が乗らなかった。
「あなた、何がほしいの」
「日付です」
敬語が、そこで一度抜けた。
抜けたことに気づいたのは、たぶんこちらだけだった。
「日付」
「出た日と止まった日と、止めたあとで何が起きたか」オリヴィアは言った。「それだけは、あとから作れません」
「作れるわ」セリカは言った。「紙なんて、いくらでも書き直せるのよ」
「書き直した紙には、書き直した日がつきます」
セリカの喉が動いた。
「……あなた」
「はい」
「今日中なら、馬を出して差し上げてよ」
オリヴィアは相手を見た。
「東の門から、夕方までに一台出るの」セリカは早口になっていた。「メリディアまで四日。顧問の椅子がまだ空いているのでしょう。あなたのお体では、この城の冬は越せないわ」
「冬までおりません」
「なら、なぜ残るの」
「残ると申しておりません」オリヴィアは言った。「まだ発たないと申しております」
「同じことよ」
「同じではございません」
セリカは一歩、廊下の中央へ出た。
出てから、出たことを自分で持て余したように見えた。この人が人へ向かって歩くのを、七年で数えるほどしか見ていない。いつもは向こうから来させる。
「あなたが何をしたいのか、わたくしには分からないの」セリカは言った。声から甘さが落ちていた。「殿下はもう長くないわ。あなたが何を並べたところで、あの方は治らない」
「治りません」
「では、何のために」
「わたしは、あなたさまを罰しに参ったのではございません」オリヴィアは言った。「数えに参りました」
「数えて」
「数えます」
「数えて、何になるの」
「わたしが数えたものは、わたしが死んでも残ります」オリヴィアは言った。「あなたさまが消したものは、消したという紙になって残ります」
セリカの顔から、表情が一度、全部落ちた。
琥珀の目に潤みはなかった。潤みを作る手間も、もう惜しんでいる顔だった。
「忌々しい女」
声が低くなった。語尾が伸びなかった。
オリヴィアは膝を折った。
「失礼いたします」
背を向けて、三歩歩いた。
四歩目で、後ろから声が来た。
「あなたが持っている蝋は、二つね」
オリヴィアは足を止めなかった。
止めずに、廊下の突き当たりまで歩いた。
二つだと、書付には書いてある。書いてあるものを読んだのなら、訊く必要はない。
訊いたのは、確かめたかったからではない。
数を口に出すことでしか、この人はもう手の内を掴めなくなっている。
北棟へ下りると、灰汁の匂いが薄く戻っていた。
鼻がまた拾ったのか、洗い場の湯が濃いのかは分からない。分からないほうが、たぶんよかった。
オリヴィアは卓の前に立ったまま、腕を持ち上げた。
軽い。硬いものが腕の骨に当たらない。指の腹はもう何も拾わないので、腕の重さのほうで確かめた。
「オリヴィアさま」
「はい」
「よろしかったのでございますか」侍女頭が卓の前に立った。「あの蝋は、あなたさまが命がけでお採りになったものでございましょう」
「命がけではございません」
「昨日、板の上で運びました」
「あれは、飲んだからでございます」オリヴィアは言った。「蝋は、そのついでに採りました」
侍女頭は預りの紙を二枚、卓の上へ並べた。
綴じ帳の預りと、蝋の預り。どちらも同じ手で書かれていて、どちらの下にも同じ名がある。
「あの部屋に置いておいて、無事でございましょうか」
「無事ではないかもしれません」
「では」
「袖に入れておいても、無事ではございません」オリヴィアは言った。「わたしの部屋には閂がございません。薬包は、それで替えられました」
「はい」
「どちらにいても危ういのでしたら」オリヴィアは言った。「書いてある場所のほうが、まだよろしゅうございます」
侍女頭は預りの紙の端を、指でなぞっていた。
「書いてありますと、どう違うのでございましょう」
「無くなったときに、無くなったと言えます」
「……」
「袖から無くなりましたものは、はじめから無かったことになります」
侍女頭は卓の脇の腰掛へ、そのまま座った。この人が人前で座るのを、七年で見た覚えがない。
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「なぜ十一日目なのでございましょう」侍女頭は言った。「三日置くのは分かりました。ですが、隣国から紙が戻るのは十二日目と伺いました。一日、待てばよいではございませんか」
「待ちません」
「なぜ」
「待って、それから同じことを申しますと」オリヴィアは言った。「あちらの紙を読んで、その通りに言ったことになります」
侍女頭が顔を上げた。
「先に申します」オリヴィアは言った。「十一日目に、こちらの蝋が層を出します。十二日目に、あちらの紙が同じ層のことを書いて戻ります。書いた場所も書いた者も、書いた用も違います」
「……一日、こちらが先でございますか」
「一日でございます」
「たった一日で、何が変わるのでございましょう」
「先か後かが変わります」オリヴィアは言った。「後から申せば、あちらの紙を読んで言ったことになります」
「先に申せば」
「あちらの紙が、こちらを裏づける側に回ります」
「……」
「では、あの若い書役様が今日お書きになった紙は」
「その一日を、動かせなくするための紙でございます」オリヴィアは言った。「今日の日付が入っております」
侍女頭は預りの紙の日付のところへ指を近づけ、触れずに止めた。
「……そういうことでございましたか」
「はい」
「わたくしは、帳面を取り上げられたと思っておりました」
「取り上げられました」オリヴィアは言った。「取り上げられたと、書かせました」
侍女頭は少し笑った。
昨夜で一つ増えて、今日でもう一つ増えた。
「湯を、沸かしてまいります」
「お願いいたします」
「灰の甕は、動かしておりません」侍女頭は戸口で言った。「今日のぶんも、あとで二つ書きます」
戸が閉まった。
オリヴィアは卓の上の預りの紙を、片方だけ手前へ引いた。
蝋の預りのほうだった。
中身の説明が、四行ある。その四行を書かせたことのほうが、蝋そのものより重い。三日後に開くものの中身が、開く前に紙になっている。開けて中身が違えば、こちらが恥をかく。恥をかく側が先に書いた紙は、あとから作れない。
舌の右は、まだ戻っていなかった。
水を含んでも、右は水と変わらない。十一日目に、自分の舌で層を確かめられるかどうかは分からなかった。
確かめられなくてもよいように、四行書かせてある。
日が落ちてから、侍女頭が戻った。
湯の椀を置き、それから戸のほうを一度振り返った。
「廊下で、伺ってしまいました」
「何を」
「あの方が、御用の間へおいでになりました」侍女頭は言った。「日が傾いてから、お一人で」
オリヴィアは湯気の匂いを吸った。
「紙を一枚お持ちで、若い書役様にお尋ねでございました」
オリヴィアは湯の椀に手をかけた。かけただけで、まだ持ち上げなかった。
「何とお尋ねになりましたか」
「これは誰が書いたのか、と」
湯気が、椀の上でまっすぐに立っていた。
「書役様は」
「紙を置く者に名を訊く決まりはございません、とお答えになりました」
オリヴィアは椀を持ち上げた。
持ち上げて、口をつけずに戻した。
「その紙は、どこから参ったのでしょう」
「存じません」侍女頭は言った。「ですが、あの方がお持ちの紙のことをあの方がお尋ねになりました」
「はい」
「あの方のお部屋を通らずに来た紙が、この城にあるということでございましょうか」
「あるようでございます」オリヴィアは答えた。
侍女頭は口を閉じた。
この人はもう、それがどういう意味かを半分まで分かっている。分かっていて、最後の半分を口に出さない。洗い場の者はそういう分かり方をする。
「オリヴィアさま」
「はい」
「明日は、何をいたしましょう」
「洗ってくださいませ」オリヴィアは言った。「布を数えて、二冊に書いてくださいませ」
「それだけでございますか」
「それだけでございます」
「十一日目までは」
「十一日目までは、日が過ぎればよろしゅうございます」オリヴィアは言った。「日が過ぎるのは、こちらが何もしなくても過ぎます」
侍女頭は椀の位置を直し、戸を閉めた。
獣脂の灯りが一本、卓の上で細く立っている。
卓の上に、紙が一枚あった。
昨日そこにあった折られた紙は、もうない。端に黄の糸を結んだあの紙は、今日の昼に御用の間の棚へ入り、書いた者の名がないと書き足されて、綴じられた。
代わりに置いてあるのは、預りの紙だった。
日付がある。預けたものが書いてある。開ける日が書いてある。
いちばん下に、墨の薄い字で、名が一つ書いてある。
この九日のあいだにこの城で回った紙のうち、書いた者の名があるのは、それ一枚きりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
彼女が打つ回でした。打ち方は、抗わないことです。綴じ帳を上げよと言われたので上げました。ただし、上げたと書かせました。相手は紙を止めるのが上手い人ですが、止めるには止めよと書かねばなりません。書けば日付がつきます。消した数だけ、消したという紙が増えます。
蝋を敵の部屋の棚へ預けたのは、守れないからです。袖から消えたものははじめから無かったことになりますが、書いてあるものは無くなれば無くなったと言えます。中身を先に四行書かせたのも同じ理由で、外れれば恥をかくのは彼女のほうです。恥をかく側が先に書いた紙は、あとから作れません。
隣国の紙が戻るのは十二日目で、蝋が開くのはその前日です。一日待てば楽ですが、後から同じことを言えば写したことになります。先に言っておけば、あちらの紙はこちらを裏づける側に回ります。その一日を、今日の日付で留めました。
次話、蝋より先に別のものが動きます。
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