第31話: 生かしていた人
炭の苦みが、上の歯の裏で乾いていた。
水を含んでも動かない。舌の右半分は、何の味も返してこなかった。
その苦みの上に、灰汁の匂いが重なって降りてきた。
オリヴィアは目を開けた。
板の天井が近い。麻布の山の影が壁を斜めに区切って、獣脂の灯りが一本、卓の上で細く立っている。桶を置くための部屋だった。夕方なのか夜なのかは、匂いでは分からない。
舌の先へ意識を送った。
針のような痺れは退いていた。前歯の裏の輪郭が戻り、頬の内側にも触られている感じがある。銀舌は退く毒だ。乳と卵白で立ち上がりを鈍らせ、吐いて、あとは時が抜いていく。
舌の奥は、動かなかった。
砂の錘がそこに置かれたまま、喉から胸へ、腹の底へ薄く広がっている。灰塵は退かない。溜まるほうへしか動かない毒だ。炭に吸わせて水で流して、あとは体が持っていくのを待つしかない。
持っていく体が、もう七年ぶん削れている。
オリヴィアは掌で麻を掴み、寝床の縁へ体を起こした。
部屋が右へ傾いた。
傾いたのは部屋ではない。目の奥のどこかで、水平が半拍遅れてついてくる。壁の輪郭が二重になり、それから一つに戻った。
息を二つ数えて、動くのをやめた。
戸が細く開いた。
「お目が、覚めましたか」
侍女頭が湯の椀を両手で持って立っていた。
「はい」
「お起きになってはいけません」
「起きております」
「お顔の色が、朝より白うございます」侍女頭は椀を卓へ置いた。「三度、お吐きになりました」
「覚えておりません」
「二度目までは、わたくしが背を支えておりました」侍女頭は言った。「三度目は、ご自分で横を向かれました」
オリヴィアは寝床の縁に座ったまま、袖の内側を確かめた。
硬いものが二つ、腕の骨に当たっている。布に包んだままだった。
「袖から、黒い粉が出てまいりました」侍女頭が言った。「布に包んだのを、指で摘まんでお口に入れました。合っておりましたか」
「合っておりました」
「二度、お飲ませいたしました」
「よく、思いつかれました」
「思いつきではございません」侍女頭は言った。「あなたさまが十三の秋に廊下で倒れられたとき、お部屋で同じ黒い粉をお飲みでした」
六年前だった。
あのとき、この人は理由を訊かなかった。訊かないまま、粉の色を覚えていた。
「蝋が、二つございました」侍女頭は続けた。「布に包んで、袖の奥に」
「どうなさいましたか」
「袖へ戻しました」侍女頭は言った。「あなたさまが袖に入れておいでのものを、わたくしが出すわけにはまいりません」
「ありがとうございます」
オリヴィアは湯の椀を取った。持ち上げた指が細かく震えて、湯の面に環が立った。
口へ運ぶ。喉の内側が焼けた跡になっていて、湯がその上を滑っていく。
「今朝の盆は」オリヴィアは訊いた。
「下りてまいりませんでした」
「洗い場へは」
「一つも」侍女頭は言った。「殿下のお部屋の器は、いつも昼までに下りてまいります。今日は、まだ来ておりません」
椀に、二つ残った。片方の底に膜が乾きかけていた。
あれが下りてくれば、膜を採れる。乾いていても、湯で戻せば匙の背に付く。
来ないと分かっていて、それでも数えていた。
「先生は」
「明け方に、お発ちになりました」
「書役様は」
「暇をいただかれました」侍女頭は言った。「三十年の労をねぎらう、と紙が回っております」
「棚の控えは」
「棚には、ございませんでした」侍女頭は答えた。「今朝わたくしが御用の間へ呼ばれたとき、棚の前まで行きました。綴じてあった場所が、空いておりました」
上へ上げた一通と、棚の一通。
残ったのは上へ行ったほうだけで、それは誰の手にあるのかも分からない。
「叱られてまいりました」侍女頭は言った。「員数は月ごとにまとめて書くもので、日ごとに並べるのは定めに反すると」
「書き直せと仰いましたか」
「明日までに、書き直して出すように」
オリヴィアは湯の椀を膝の上へ下ろした。
紙は止まった。書いた者は動かされた。思ったとおりの手だった。思ったとおりに動くなら、それでいい——そう申し上げたのは、まだ自分の足で立っていた昨日のことだ。
今日は、立てない。
「オリヴィアさま」
「はい」
「わたくしは、洗い場の者でございます」侍女頭は言った。「今朝あなたさまがあの部屋で何をお召し上がりになったのかを、伺うつもりはございません」
「はい」
「ですが、殿下のお血の布が今朝も十二枚出ております」侍女頭は続けた。「あなたさまがお使いになった布が、三枚出ました」
「数えてくださいましたか」
「数えました」侍女頭は言った。「洗い場は、布を一枚も失いません」
廊下の奥で、桶を引きずる音がした。それが遠ざかって、湯気の落ちる音だけが残った。
鐘が、一つ鳴った。
二度目に目を開けたとき、灯りの位置が変わっていた。
卓の端に寄せてある。誰かが油を足したのだ。獣脂の煤の匂いが、灰汁の下に薄く混じっていた。
石の廊下を、足音が近づいてきた。
二人ではない。三人だ。そのうちの一つが、歩幅を揃えていない。半歩ぶん短くなって、また戻る。
北棟の階を、その音が下りてきた。
戸が開いた。
開けたのは侍従だった。敷居の外で膝を折り、そのまま脇へ退く。
その後ろから、王太子アルヴィスが入ってきた。
寝衣の上に外套を羽織っただけの姿だった。裾が濡れている。洗い場の床は、いつも水が引かない。両側から侍従が腕を支えていて、その支えを振り払う力はもう出ないらしかった。
「お止めいたしました」戸を開けた侍従が、床に目を落としたまま言った。「お一人で下りると仰せになって、聞かれませんでした」
頬の線が、朝よりさらに落ちている。目の下の窪みに影が溜まって、そこだけ骨の形が出ていた。
オリヴィアは寝床の縁へ手をついた。
「殿下」
「動くな」
「お迎えの形が、ございません」
「形はいい」
アルヴィスは部屋を見た。麻布の山、桶、獣脂の灯り。板の天井は、彼の背丈には低い。
「ここが、洗い場か」
「洗い場の脇でございます」
「布を置く部屋だな」
「桶を置く部屋でございます」
「どちらでも同じだろう」
「同じでございます」
侍女頭が壁際で膝を折り、そこから動かなくなった。
アルヴィスは右の手を差し出した。
その手に、折られた紙が一枚あった。
二つに折り、もう一度折った紙だ。端に、細い糸が結ばれている。獣脂の灯りの下では色が沈んで、朝の光で見たときの色ではなかった。
「これは何だ」
「薬の包みでございます」
「そんなことは分かる」アルヴィスは言った。「なぜ床にあった」
「落としました」
「落としたのか」
「落としました」
アルヴィスは紙を下ろさなかった。
「私は寝台から下りて、これを拾った」アルヴィスは言った。「卓の脚のあいだにあった。誰も掃いていなかった」
「はい」
「拾ってから、しばらく持っていた」アルヴィスは続けた。「セリカが下げると言った。私は渡さなかった」
オリヴィアは、その一言のところで息を止めた。
止めたことを、顔に出さなかった。
「なぜでございましょう」
「知らん」アルヴィスは言った。「渡す気にならなかった」
彼は紙を卓へ置こうとして、指が縁に当たった。紙が滑り、卓の上で半回転して止まった。
「開けたか」
「わたしが包みました」
「私が、だ」アルヴィスは言った。「開けた。中に粉が残っていた。舐めた」
オリヴィアは顔を上げた。
「舐めてはなりません」
「舐めた」
「どれほどでございますか」
「爪の先だ」アルヴィスは言った。「指の先に付いたぶんを、口に入れた」
「お口を、すすがれましたか」
「すすいだ」
「何度でしょう」
「一度だ」
「三度なさってください」オリヴィアは言った。「水を含んで、飲まずに吐いてください」
「後にする」
「今でございます」
アルヴィスはしばらく黙っていた。それから侍従のほうへ顎を向けた。侍従が水差しを取り、椀へ注いだ。
彼は椀を受け取り、三度すすいで、三度桶へ吐いた。
吐き終えて、椀を卓へ戻した。
「舌の先が、痺れた」アルヴィスは言った。「爪の先で、これだ」
「はい」
「今朝、お前が飲んだのは」
「匙一杯でございます」
部屋の中で、誰も動かなかった。
侍女頭の膝が、壁際で石を鳴らした。
「お前」アルヴィスは言った。「私は、五十七まで数えた」
「はい」
「何を数えていた」
「痺れが退くまでの数でございます」
「痺れ」
「舌に載せたものが痺れさせて、その痺れが退くまでを数えます」オリヴィアは言った。「二十五で退けば、二日前の器の量でございます」
「今朝は」
「退きませんでした」
「五十七まで数えたぞ」
「五十七まで、退きませんでした」
アルヴィスの手が、外套の胸のあたりで止まった。
「では、あれは」
「目盛りでございます」
「私が、数えた」
「殿下がお数えくださいました」
「なぜ私だ」アルヴィスは言った。「侍女でも侍従でもよかろう」
「二つ、ございます」オリヴィアは答えた。「一つは、わたしの舌が数を落としますので」
「落とす」
「途中で分からなくなります」オリヴィアは言った。「数える者が要りました」
「もう一つは」
「殿下のお声でしたら、後まで覚えておいでになります」
アルヴィスは何も言わなかった。
「わたしは、殿下を帳面に使いました」オリヴィアは言った。「お許しをいただいておりません」
支えていた侍従の腕から、彼の肘が一度、外へ落ちた。
落ちたところを侍従が掴み直した。
「殿下」
壁際で、侍女頭が言った。
声が、思っていたより高く出ていた。
「なんだ」
「お目にかけたいものが、ございます」
「そこの女は誰だ」
「洗い場を預かっております」侍女頭は言った。「お城の麻を、二十六年洗っております」
「名がある」
「ございます」
「言え」
侍女頭が名を言った。
アルヴィスはその名を繰り返さなかった。繰り返せなかったのだと、オリヴィアには分かった。二十六年、同じ城の同じ棟にいた者の名を、この人はいま初めて聞いている。
「見せてみろ」
「侍女頭」オリヴィアは言った。「今夜は、およしになってください」
「いいえ」
「あなたのお身が」
「オリヴィアさま」侍女頭は顔を上げた。「わたくしは、今朝あなたさまを運びました」
「はい」
「板の上でお顔が白くなっていくのを、湯を沸かしながら見ておりました」侍女頭は言った。「あれを、もう一度見るつもりはございません」
侍女頭は壁際から立ち上がった。
帳面は、卓の下の段に伏せて置いてあった。それを両手で取り上げ、卓の上へ置く。三年ぶんの三冊だった。どれも角が丸くなり、背の糸が二本ばかり切れている。
「殿下」侍女頭は言った。「この帳面には、毒の字を一字も書いておりません」
「毒」
「一字も」侍女頭は帳面を開いた。「洗ったものの数を書いております。麻の枚数と番の名と、殿下のお血の布の枚数でございます」
「私の血の布を、数えているのか」
「数えるのが役目でございます」
「何枚だ」
「今朝、十二枚でございます」
「昨日は」
「十二枚」侍女頭は指を上へ動かした。「その前が十一枚。九枚が二日続いて、その前が三枚でございます」
「三枚から九枚へ、増えたのか」
「四日目に増えました」
アルヴィスは卓のほうへ体を寄せた。侍従が支えを詰めた。
「もっと前を見せろ」
侍女頭は紙をめくった。
右へ寄った欄が、白いままで下へ続いていく。日付があり、麻の数があり、番の名がある。殿下の欄だけが、何もない。
めくる。白い。めくる。白い。
「これは」
「殿下の欄でございます」
「空いているぞ」
「一枚も出ておりません」
「いつからだ」
「紙で残っておりますのは、三年ぶんでございます」侍女頭は言った。「暮れに古いものを燃やす決まりでございますので」
「三年か」
「つけはじめて、七年になります」侍女頭は言った。「殿下の欄に書いたことは、一度もございませんでした」
アルヴィスの喉から、息の音が出た。
「七年」
「七年でございます」
「一度も出たことがない」
同じ言葉だった。
謁見の間で聞いた。今朝も、寝台の上で聞いた。
毒など出たことがない。だから毒はない。だから飾りの役は要らない。彼はそう言った。同じ言葉が、いま白い欄の側から返ってきている。
アルヴィスは帳面を見下ろしていた。
「……同じことを、言っているのではないな」
「はい」
「同じ言葉で、逆のことを言っているな」
「はい」
「私は、出なかったから毒がないと言った」アルヴィスは言った。「この紙は、出なかったから」
そこで切れた。
声にしようとして、息だけが出た。
「殿下」侍女頭が言った。「もう一つ、伺わせてくださいませ」
「言え」
「この端の点でございます」
侍女頭は行の端を指した。爪の先ほどの、丸くない点が下へ続いている。
「なんの印だ」
「オリヴィアさまのお召し替えが出た日に、わたくしが打っておりました」
「召し替え」
「毒見のあとに、お召し物が汚れる日がございます」侍女頭は言った。「その日に、一つずつ」
「幾つある」
「一昨年が三日でございます」侍女頭は帳面を替えた。「去年が五日。お発ちになるまでの半年が、九日でございます」
「三年で」
「十七日でございます」
卓の上で、二つの数が向かい合った。
零と、十七。
昨日この人が言ったのと同じ並べ方だった。昨日は、それが自分に向いていた。今日は、殿下に向いている。
「殿下」侍女頭は言った。「わたくしは洗い場の者でございます。毒のことは分かりません」
「そうだろうな」
「ですが、零と十七は分かります」
アルヴィスは帳面から目を離さなかった。
それから、その目がゆっくりと寝床のほうへ動いた。
「お前に訊く」
「はい」
「七年、私の器に毒はあったか」
オリヴィアは息を集めた。
喉の奥の砂を押しのけて、そこへ空気を通す。
七年、この問いを誰にも渡さなかった。渡す相手がいなかったからではない。渡せば器のやり方が変わり、変わったら見えなくなるからだった。
いまは、この人が問いを持ってここに立っている。
「出ておりました」オリヴィアは言った。「毎朝。殿下の器の底に」
灯りの芯が、じじ、と鳴った。
「毎朝」
「毎朝でございます」
「毎朝、私の器に毒が入っていて」アルヴィスは言った。「お前は、それを」
「すり替えて、いただきました」
「いただいた」
「わたしが飲みました」オリヴィアは言った。「毒見の作法でございます」
「七年」
「七年でございます」
「二千日を超えるぞ」
「数えておりません」
アルヴィスの膝が、そこで折れた。
侍従が両側から掴んだが、支えきれなかった。彼は洗い場の濡れた床へ膝をつき、片手を石の上へ落とした。
「殿下」
「触るな」
水が、彼の掌の下で薄く広がった。
「私は、飾りだと言った」
「仰いました」
「毒など出ぬと言った」
「仰いました」
「何度も言ったな」
「何度も伺いました」
「言うたびに」アルヴィスは言った。「あの広間の者は、笑ったな」
「笑っておいででした」
彼は掌を石から離さなかった。
「私が飾りだと言えば」アルヴィスは言った。「誰も器を見んだろう」
「はい」
「毒見の目など飾りのようなものだと、私は皆の前で言った」アルヴィスは言った。「言われたほうは、それを覚える。覚えたら、次から見ん」
「はい」
「七年、器を見ていたのは」
「わたし一人でございました」
「一人か」
「一人でございます」
アルヴィスは顔を上げた。
碧い目の中に、光の当たっている場所がなかった。
「その一人を」アルヴィスは言った。「私は、用済みと言ったのだ」
オリヴィアは答えなかった。
答える言葉を持っていなかった。持っていたとしても、それを言うのは自分の役目ではなかった。
「殿下」
「なぜ言わなかった」
来た、と思った。
この問いは、七年ぶん用意がある。
「申し上げれば、手が変わります」
「手」
「盛る手でございます」オリヴィアは言った。「気づいた者がいると知れた朝から、器は別のやり方になります」
「変わったら、どうなる」
「わたしに見えなくなります」
「見えなければ」
「殿下が召し上がります」
アルヴィスは石の上の掌を、そこで初めて動かした。
「十二のときからか」
「城に上がって、数日でございました」
「十二だぞ」
「十二でございました」
「誰にも言わなかったのか」
「誰にも申しておりません」
「父にも母にもか」
「実家に申せば、家ごと巻きます」オリヴィアは言った。「レイヴンズクロフトは薬の家でございます。毒を知っていると言えば、盛ったのはそちらではないかという話になります」
「……そうか」
「はい」
「では、この七年」アルヴィスは言った。「お前は、独りで」
「独りでございます」
濡れた石の上で、彼の指が一度だけ丸まった。
「私が、そうさせたのか」
「いいえ」オリヴィアは言った。「わたしが選びました」
「私が飾りだと言ったからだろう」
「殿下が仰らなくても、わたしは黙っておりました」
「なぜだ」
「気づいた者がいると知れた朝が、いちばん危うい朝でございます」オリヴィアは言った。「それは殿下のお言葉とは、関わりがございません」
アルヴィスは、その答えを受け取れずにいるようだった。
受け取ってしまえば、自分に残るものが変わるからだ。責めのほうが、たぶん楽なのだと思う。
「殿下」オリヴィアは言った。「殿下がなさったのは、別のことでございます」
「言え」
「七年のあいだ、器を見る者がわたし以外に現れませんでした」
彼は、そこで動かなくなった。
「一人でもよろしかったのです」オリヴィアは続けた。「侍女でも侍従でも料理番でも構いません」
声が掠れて、そこで一度切った。
「誰か一人が器の底を覗いてくだされば、わたしは二人になりました」
「……二人」
「二人なら、片方が倒れてももう片方が数えます」
アルヴィスの口が動いた。音は出なかった。
「その一人が、七年出てまいりませんでした」オリヴィアは言った。「そして、去年の春に」
「言うな」
「毒見の女など、もう用済みだと仰いました」
灰汁の匂いの上に、鉄に似た気配が薄く立った。彼の口のあたりから来ている。血の匂いだった。
「布を」オリヴィアは言った。
侍女頭が白い布を差し出した。アルヴィスはそれを口へ当て、しばらく動かなかった。
布を離したとき、白いところに点が二つついていた。
「殿下」オリヴィアは言った。「お戻りくださいませ」
「戻らん」
「ここは水が引きません」
「戻らん」
「お体が」
「お前は」アルヴィスは布を握ったまま言った。「今朝、私に何と言った」
「……」
「言え」
「今朝も、問題はございませんでした」
「それだ」アルヴィスは言った。「七年、毎朝それを聞いた」
「申し上げておりました」
「嘘だったのか」
「一度もございません」オリヴィアは言った。「殿下には、問題はございませんでした」
布を握った手が、震えた。
「その手は、まだ荒れているのかと訊いた」アルヴィスは言った。「城の水が悪いのだろうと思っていた」
「はい」
「いつからそんなに細くなったと訊いた」アルヴィスは言った。「城の飯が悪いのだろうと言った」
「はい」
「城の水も、城の飯も」アルヴィスは言った。「関わりがなかったのだな」
「ございません」
彼は布から手を離した。布は膝の脇の水の上に落ちて、端から色が変わっていった。
「私が気づけば」アルヴィスは言った。「済んだ話ではないか」
「殿下」
「私が一度でも器を覗けば、お前は飲まずに済んだ」アルヴィスは言った。「そうだろう。誰か一人でいいと、お前がいま言った」
「はい」
「その一人に、私がなればよかった」
「なってくださらなくても、よろしかったのです」
「なぜだ」アルヴィスは言った。「お前は、気づいてほしかったのだろう」
オリヴィアは目を上げた。
この人は、いま自分を責める材料を集めている。集めれば集まる。集めきったところで、たぶん楽になる。
それは違う。
違うことを、七年言わなかった。言わないと決めていたことのほとんどは、今日もう言ってしまった。
「気づいてほしかったわけではありません」オリヴィアは言った。「ただ、あなたに生きていてほしかっただけ」
言い終えて、息が足りないことに気づいた。
部屋の中の音が、一度なくなった。
獣脂の芯の鳴る音も、桶へ落ちる滴の音も、そこだけ抜けていた。
オリヴィアは口を閉じ、息を二つ吸った。二つでは戻らなかったので、三つ吸った。
「……失礼をいたしました」
声は、いつもの高さに戻っていた。
「言い直しません」オリヴィアは言った。「聞き流してくださいませ」
アルヴィスは、濡れた床に膝をついたまま動かなかった。
その顔を、オリヴィアは見た。
勝ったとは思わなかった。七年ぶんが返ってきたとも思わなかった。返ってくるようなものを、はじめから貸していない。
ただ、細くなった頬の上に汗が走っているのを見て、この人はまだ生きているのだと思った。
それだけが、七年やったことの答えだった。
「オリヴィア」
名を呼ばれた。
七年で、はじめてだった。
「はい」
アルヴィスは、そのあとに続く言葉を探していた。
唇の形が二度変わり、二度とも音にならなかった。
彼は探し続けて、見つけられなかった。
見つからなくてよかった。
見つかる言葉があるのなら、それは七年のうちのどこかで言われるはずのものだった。今日それを受け取れば、七年のほうが軽くなる。
名前だけで足りている。
毒見の女。随員。レイヴンズクロフトの娘。この城で呼ばれてきたのは、ずっとそのどれかだった。
水が桶の底へ三つ落ちるまで、誰も何も言わなかった。
廊下を、足音が下りてきた。
軽い。若い侍従の足だ。戸口で膝を折り、両手で紙を差し出した。
「御用の間より、触れが参りました」
「読め」
「北棟洗い場の綴じ帳を、明朝までに御用の間へ上げるように」侍従は読んだ。「以上でございます」
侍女頭の指が、帳面の縁を掴んだ。
「誰が書いた」アルヴィスが言った。
「書役の名が、ございません」
「では、誰が持ってきた」
「知らぬ顔でございました」侍従は言った。「置いて、返事も待たずに戻りました」
「名を訊かなかったのか」
「紙を置く者に名を訊く決まりは、ございません」
アルヴィスは、その答えを一度だけ繰り返した。
「決まりはない、か」
「ございません」
「止めろ」
「触れを止めるには、触れが要ります」
「では書け」
「書くのは、御用の間でございます」
「御用の間は誰が動かしている」
侍従は答えなかった。
膝の上の紙を、両手で持ち直しただけだった。
「言え」
「……お側の方のお勧めと、伺っております」
石の廊下の奥で、水を運ぶ音が近づいて、また遠ざかった。
「お側の方」アルヴィスは言った。「誰のことだ」
「殿下のお側でございます」
「私の側に、私の触れを止める者がいるのか」
「触れは、殿下のお名で回っております」
オリヴィアは、寝床の縁で指を麻へ押しつけた。
三領域が、たどれば同じ一つの口へ戻る——御用の間で紙を並べた日に、そう見た。膳の采配も、廊下の人払いも、国交の口も、行き着くのは殿下の口だった。その口に何を言わせるかを決めている者がいる。
いま、その口が自分の名で回った紙を止められずにいる。
「セリカを呼べ」アルヴィスが言った。
「殿下」オリヴィアは言った。「なりません」
「なぜだ」
「お呼びになれば、明日の朝の器が変わります」
アルヴィスは膝の上で拳を握った。握れていなかった。指の先が、震えて閉じきらない。
「変わればよいだろう」アルヴィスは言った。「毒が入らなくなるなら」
「入り方が変わるだけでございます」オリヴィアは言った。「今の入り方は、分かっております」
「分かっていて、飲むのか」
「分かっているものは、測れます」
「測って、どうする」
「測ったものは、あとから作れません」
アルヴィスは顔を上げた。
「では、私は何もするなということか」
「今夜は、なさらないでくださいませ」
「今夜だけか」
「今夜だけでございます」
その先を、オリヴィアは言わなかった。
袖の内側に、布に包んだ蝋が二つある。その勘定は頭の中にある。頭の中にあるうちは、誰にも止められない。
「殿下」侍女頭が言った。「綴じ帳のことを、伺わせてくださいませ」
「上げるな」
「触れが参っております」
「私が上げるなと言った」
「殿下の触れは、御用の間で書かれます」侍女頭は言った。「御用の間へ上げてしまえば、その帳面が明日どこにあるかは分かりません」
アルヴィスは黙った。
黙ったところに、侍女頭が続けた。
「一つ、お願いがございます」
「言え」
「今夜、この帳面をお持ちくださいませ」
オリヴィアは侍女頭を見た。
この人は、今朝御用の間で棚の空いた場所を見ている。上へ上げた紙が戻らないことを、その目で確かめてきた。
「私が持つのか」
「殿下のお手のものを、御用の間は取りに参りません」侍女頭は言った。「洗い場の棚のものは、参ります」
「……そうか」
「明日の朝、わたくしは書き直しの紙を出します」侍女頭は言った。「日ごとに並べたものを、月ごとにまとめて書き直します」
「書き直すのか」
「叱られましたので」侍女頭は言った。「叱られた日も、帳面には書いておきます」
「書いて、どうなる」
「どうにもなりません」侍女頭は言った。「ですが、洗ったものの数は残ります」
アルヴィスは、侍従の腕を借りて立ち上がった。
立ち上がるのに、鐘が鳴るほどの間がかかった。
彼は卓の上の帳面へ手を伸ばし、掴んだ。掴んだ指が滑って、一度落としかけた。侍女頭が下から支え、彼の腕へ戻した。
「重いな」
「三年ぶんでございます」
「三年で、これか」
「七年ぶんは、ございません」侍女頭は言った。「暮れに燃やす決まりでございますので」
「燃やしたのか」
「決まりでございます」
アルヴィスは帳面を胸のところで抱えた。
寝衣の上に外套一枚の姿で、洗い場の綴じ帳を抱えた王太子が、板の低い天井の下に立っていた。
「オリヴィア」
「はい」
「明日の朝、器が来るな」
「参ります」
「お前は、来るな」
「番の紙に名がございますれば、参ります」
「名を消させる」
「消したのが誰か、また分からなくなります」
アルヴィスは戸口で足を止めた。
外套の裾から、水が石の上へ落ちていた。
「明日の朝は」アルヴィスは言った。「私が数える」
「何をお数えになりますか」
「知らん」アルヴィスは言った。「お前が言うまで、数える」
答えを、オリヴィアは用意していなかった。
用意していない問いをこの人から受けたのは、七年で二度目だった。一度目は、十二の年に匙を放られた日だ。
「かしこまりました」
侍従が先に立ち、灯りを掲げた。
三人の足音が階を上がっていく。半歩ぶん短くなって、また戻る音が、いちばん遅れて遠ざかった。
戸が閉まって、灰汁の匂いが戻った。
侍女頭は卓の前に立ったまま、しばらく動かなかった。帳面のあった場所に、四角い跡が薄く残っている。湯気で膨らんだ紙が、卓の面に付いていた跡だった。
「オリヴィアさま」
「はい」
「わたくしは、いま何をいたしました」
「帳面を、殿下にお渡しになりました」
「渡してしまいました」侍女頭は言った。「あれがなければ、明日から数を書く紙がございません」
「新しく綴じてください」
「新しい紙には、昨日までが入りません」
「今日から入ります」
侍女頭は、卓の四角い跡へ手を置いた。
「今日のぶんを、書いておきます」
「何をお書きになりますか」
「麻が四十二枚」侍女頭は言った。「殿下のお血の布が十二枚。それと」
「それと」
「あなたさまがお使いになった布が、三枚でございます」
オリヴィアは頷いた。
今朝、あの部屋の床で白い布を握ったとき、これは洗い場へ来ると思った。殿下の血の布と一緒に数えられて、帳面の欄に一つ書かれる。書いた者は、自分が何を書いたのかを知らない——そう思って、それでいいと思った。
書く人は、知っていた。
知ったまま、書くと言っている。
「侍女頭」
「はい」
「以前、お願いをいたしました」
「焼かれそうになったら、水を掛けてでも」侍女頭は言った。「覚えております」
「もう一つ、足させてください」
「なんでございましょう」
「今夜からは、二冊お書きください」オリヴィアは言った。「同じ数を、二つの紙に」
「二冊」
「一冊は棚に。一冊は、棚でない場所に」
侍女頭は少し笑った。この人が笑うところを、七年で数えるほどしか見ていない。今日で、一つ増えた。
「棚でない場所を、考えてまいります」
「お願いいたします」
「湯を、足してまいります」侍女頭は言った。「お起きになってはいけません」
「はい」
戸が閉まった。
オリヴィアは袖の口を開き、指を差し入れた。
布の包みは、朝と同じ場所にある。ただ、指の腹が布の織りを拾わなかった。二つあることは、腕の骨に当たる硬さでしか分からなくなっていた。
三日置けば、層の境目が出る。表と芯が別々の高さに沈む。生のまま舐めても分からないものが、蝋の中では形になる。
その日を、頭の中で並べた。並べた数を、口には出さなかった。
舌の奥の砂は、まだそこにあった。退かない毒だ。溜まるほうへしか動かない。
オリヴィアは寝床の縁から、足を床へ下ろした。
石が冷たかった。冷たさが、皮膚の一枚下まで届いた。
朝より、一枚ぶん深い。
卓の上に、折られた紙が一枚残っていた。
端に結ばれた黄の糸が、獣脂の灯りの下では色を持たなかった。南の花にも、糸にも見えない。ただの細いものが、白い紙の端で結ばれているだけだった。
誰も、それを片づけなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
王太子が知る回でした。二つ知ります。一つは、七年自分を生かしていたのが切り捨てた相手だったこと。もう一つは、自分が「毒など出たことがない」と言い続けたことです。
誤解のないように書いておきます。彼の言葉が彼女を黙らせたのではありません。彼女が黙ったのは、告発すれば盛る手が変わり、変わったら見えなくなるからで、これは十二歳のときから一度も動いていません。彼がしたのは別のことです。飾りだと皆の前で言い続けた七年、器を覗く者が彼女以外に一人も現れませんでした。そして彼はその一人を用済みと呼びました。黙らせたのではなく、独りにしたのです。
彼は謝りませんでした。言葉を探して、見つけられずに帰りました。侍女頭の帳面は彼が抱えて上がっていきます。医者は城下、書役は暇、紙は止まったままで、寵姫はまだ廊下を歩いています。何も好転していません。
次話、彼女の袖の中の勘定が動きます。
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