↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/44

第31話: 生かしていた人

 炭の苦みが、上の歯の裏で乾いていた。


 水を含んでも動かない。舌の右半分は、何の味も返してこなかった。


 その苦みの上に、灰汁の匂いが重なって降りてきた。


 オリヴィアは目を開けた。


 板の天井が近い。麻布の山の影が壁を斜めに区切って、獣脂の灯りが一本、卓の上で細く立っている。桶を置くための部屋だった。夕方なのか夜なのかは、匂いでは分からない。


 舌の先へ意識を送った。


 針のような痺れは退いていた。前歯の裏の輪郭が戻り、頬の内側にも触られている感じがある。銀舌は退く毒だ。乳と卵白で立ち上がりを鈍らせ、吐いて、あとは時が抜いていく。


 舌の奥は、動かなかった。


 砂の錘がそこに置かれたまま、喉から胸へ、腹の底へ薄く広がっている。灰塵は退かない。溜まるほうへしか動かない毒だ。炭に吸わせて水で流して、あとは体が持っていくのを待つしかない。


 持っていく体が、もう七年ぶん削れている。


 オリヴィアは掌で麻を掴み、寝床の縁へ体を起こした。


 部屋が右へ傾いた。


 傾いたのは部屋ではない。目の奥のどこかで、水平が半拍遅れてついてくる。壁の輪郭が二重になり、それから一つに戻った。


 息を二つ数えて、動くのをやめた。


 戸が細く開いた。


「お目が、覚めましたか」


 侍女頭が湯の椀を両手で持って立っていた。


「はい」


「お起きになってはいけません」


「起きております」


「お顔の色が、朝より白うございます」侍女頭は椀を卓へ置いた。「三度、お吐きになりました」


「覚えておりません」


「二度目までは、わたくしが背を支えておりました」侍女頭は言った。「三度目は、ご自分で横を向かれました」


 オリヴィアは寝床の縁に座ったまま、袖の内側を確かめた。


 硬いものが二つ、腕の骨に当たっている。布に包んだままだった。


「袖から、黒い粉が出てまいりました」侍女頭が言った。「布に包んだのを、指で摘まんでお口に入れました。合っておりましたか」


「合っておりました」


「二度、お飲ませいたしました」


「よく、思いつかれました」


「思いつきではございません」侍女頭は言った。「あなたさまが十三の秋に廊下で倒れられたとき、お部屋で同じ黒い粉をお飲みでした」


 六年前だった。


 あのとき、この人は理由を訊かなかった。訊かないまま、粉の色を覚えていた。


「蝋が、二つございました」侍女頭は続けた。「布に包んで、袖の奥に」


「どうなさいましたか」


「袖へ戻しました」侍女頭は言った。「あなたさまが袖に入れておいでのものを、わたくしが出すわけにはまいりません」


「ありがとうございます」


 オリヴィアは湯の椀を取った。持ち上げた指が細かく震えて、湯の面に環が立った。


 口へ運ぶ。喉の内側が焼けた跡になっていて、湯がその上を滑っていく。


「今朝の盆は」オリヴィアは訊いた。


「下りてまいりませんでした」


「洗い場へは」


「一つも」侍女頭は言った。「殿下のお部屋の器は、いつも昼までに下りてまいります。今日は、まだ来ておりません」


 椀に、二つ残った。片方の底に膜が乾きかけていた。


 あれが下りてくれば、膜を採れる。乾いていても、湯で戻せば匙の背に付く。


 来ないと分かっていて、それでも数えていた。


「先生は」


「明け方に、お発ちになりました」


「書役様は」


「暇をいただかれました」侍女頭は言った。「三十年の労をねぎらう、と紙が回っております」


「棚の控えは」


「棚には、ございませんでした」侍女頭は答えた。「今朝わたくしが御用の間へ呼ばれたとき、棚の前まで行きました。綴じてあった場所が、空いておりました」


 上へ上げた一通と、棚の一通。


 残ったのは上へ行ったほうだけで、それは誰の手にあるのかも分からない。


「叱られてまいりました」侍女頭は言った。「員数は月ごとにまとめて書くもので、日ごとに並べるのは定めに反すると」


「書き直せと仰いましたか」


「明日までに、書き直して出すように」


 オリヴィアは湯の椀を膝の上へ下ろした。


 紙は止まった。書いた者は動かされた。思ったとおりの手だった。思ったとおりに動くなら、それでいい——そう申し上げたのは、まだ自分の足で立っていた昨日のことだ。


 今日は、立てない。


「オリヴィアさま」


「はい」


「わたくしは、洗い場の者でございます」侍女頭は言った。「今朝あなたさまがあの部屋で何をお召し上がりになったのかを、伺うつもりはございません」


「はい」


「ですが、殿下のお血の布が今朝も十二枚出ております」侍女頭は続けた。「あなたさまがお使いになった布が、三枚出ました」


「数えてくださいましたか」


「数えました」侍女頭は言った。「洗い場は、布を一枚も失いません」


 廊下の奥で、桶を引きずる音がした。それが遠ざかって、湯気の落ちる音だけが残った。


 鐘が、一つ鳴った。




 二度目に目を開けたとき、灯りの位置が変わっていた。


 卓の端に寄せてある。誰かが油を足したのだ。獣脂の煤の匂いが、灰汁の下に薄く混じっていた。


 石の廊下を、足音が近づいてきた。


 二人ではない。三人だ。そのうちの一つが、歩幅を揃えていない。半歩ぶん短くなって、また戻る。


 北棟の階を、その音が下りてきた。


 戸が開いた。


 開けたのは侍従だった。敷居の外で膝を折り、そのまま脇へ退く。


 その後ろから、王太子アルヴィスが入ってきた。


 寝衣の上に外套を羽織っただけの姿だった。裾が濡れている。洗い場の床は、いつも水が引かない。両側から侍従が腕を支えていて、その支えを振り払う力はもう出ないらしかった。


「お止めいたしました」戸を開けた侍従が、床に目を落としたまま言った。「お一人で下りると仰せになって、聞かれませんでした」


 頬の線が、朝よりさらに落ちている。目の下の窪みに影が溜まって、そこだけ骨の形が出ていた。


 オリヴィアは寝床の縁へ手をついた。


「殿下」


「動くな」


「お迎えの形が、ございません」


「形はいい」


 アルヴィスは部屋を見た。麻布の山、桶、獣脂の灯り。板の天井は、彼の背丈には低い。


「ここが、洗い場か」


「洗い場の脇でございます」


「布を置く部屋だな」


「桶を置く部屋でございます」


「どちらでも同じだろう」


「同じでございます」


 侍女頭が壁際で膝を折り、そこから動かなくなった。


 アルヴィスは右の手を差し出した。


 その手に、折られた紙が一枚あった。


 二つに折り、もう一度折った紙だ。端に、細い糸が結ばれている。獣脂の灯りの下では色が沈んで、朝の光で見たときの色ではなかった。


「これは何だ」


「薬の包みでございます」


「そんなことは分かる」アルヴィスは言った。「なぜ床にあった」


「落としました」


「落としたのか」


「落としました」


 アルヴィスは紙を下ろさなかった。


「私は寝台から下りて、これを拾った」アルヴィスは言った。「卓の脚のあいだにあった。誰も掃いていなかった」


「はい」


「拾ってから、しばらく持っていた」アルヴィスは続けた。「セリカが下げると言った。私は渡さなかった」


 オリヴィアは、その一言のところで息を止めた。


 止めたことを、顔に出さなかった。


「なぜでございましょう」


「知らん」アルヴィスは言った。「渡す気にならなかった」


 彼は紙を卓へ置こうとして、指が縁に当たった。紙が滑り、卓の上で半回転して止まった。


「開けたか」


「わたしが包みました」


「私が、だ」アルヴィスは言った。「開けた。中に粉が残っていた。舐めた」


 オリヴィアは顔を上げた。


「舐めてはなりません」


「舐めた」


「どれほどでございますか」


「爪の先だ」アルヴィスは言った。「指の先に付いたぶんを、口に入れた」


「お口を、すすがれましたか」


「すすいだ」


「何度でしょう」


「一度だ」


「三度なさってください」オリヴィアは言った。「水を含んで、飲まずに吐いてください」


「後にする」


「今でございます」


 アルヴィスはしばらく黙っていた。それから侍従のほうへ顎を向けた。侍従が水差しを取り、椀へ注いだ。


 彼は椀を受け取り、三度すすいで、三度桶へ吐いた。


 吐き終えて、椀を卓へ戻した。


「舌の先が、痺れた」アルヴィスは言った。「爪の先で、これだ」


「はい」


「今朝、お前が飲んだのは」


「匙一杯でございます」


 部屋の中で、誰も動かなかった。


 侍女頭の膝が、壁際で石を鳴らした。


「お前」アルヴィスは言った。「私は、五十七まで数えた」


「はい」


「何を数えていた」


「痺れが退くまでの数でございます」


「痺れ」


「舌に載せたものが痺れさせて、その痺れが退くまでを数えます」オリヴィアは言った。「二十五で退けば、二日前の器の量でございます」


「今朝は」


「退きませんでした」


「五十七まで数えたぞ」


「五十七まで、退きませんでした」


 アルヴィスの手が、外套の胸のあたりで止まった。


「では、あれは」


「目盛りでございます」


「私が、数えた」


「殿下がお数えくださいました」


「なぜ私だ」アルヴィスは言った。「侍女でも侍従でもよかろう」


「二つ、ございます」オリヴィアは答えた。「一つは、わたしの舌が数を落としますので」


「落とす」


「途中で分からなくなります」オリヴィアは言った。「数える者が要りました」


「もう一つは」


「殿下のお声でしたら、後まで覚えておいでになります」


 アルヴィスは何も言わなかった。


「わたしは、殿下を帳面に使いました」オリヴィアは言った。「お許しをいただいておりません」


 支えていた侍従の腕から、彼の肘が一度、外へ落ちた。


 落ちたところを侍従が掴み直した。




「殿下」


 壁際で、侍女頭が言った。


 声が、思っていたより高く出ていた。


「なんだ」


「お目にかけたいものが、ございます」


「そこの女は誰だ」


「洗い場を預かっております」侍女頭は言った。「お城の麻を、二十六年洗っております」


「名がある」


「ございます」


「言え」


 侍女頭が名を言った。


 アルヴィスはその名を繰り返さなかった。繰り返せなかったのだと、オリヴィアには分かった。二十六年、同じ城の同じ棟にいた者の名を、この人はいま初めて聞いている。


「見せてみろ」


「侍女頭」オリヴィアは言った。「今夜は、およしになってください」


「いいえ」


「あなたのお身が」


「オリヴィアさま」侍女頭は顔を上げた。「わたくしは、今朝あなたさまを運びました」


「はい」


「板の上でお顔が白くなっていくのを、湯を沸かしながら見ておりました」侍女頭は言った。「あれを、もう一度見るつもりはございません」


 侍女頭は壁際から立ち上がった。


 帳面は、卓の下の段に伏せて置いてあった。それを両手で取り上げ、卓の上へ置く。三年ぶんの三冊だった。どれも角が丸くなり、背の糸が二本ばかり切れている。


「殿下」侍女頭は言った。「この帳面には、毒の字を一字も書いておりません」


「毒」


「一字も」侍女頭は帳面を開いた。「洗ったものの数を書いております。麻の枚数と番の名と、殿下のお血の布の枚数でございます」


「私の血の布を、数えているのか」


「数えるのが役目でございます」


「何枚だ」


「今朝、十二枚でございます」


「昨日は」


「十二枚」侍女頭は指を上へ動かした。「その前が十一枚。九枚が二日続いて、その前が三枚でございます」


「三枚から九枚へ、増えたのか」


「四日目に増えました」


 アルヴィスは卓のほうへ体を寄せた。侍従が支えを詰めた。


「もっと前を見せろ」


 侍女頭は紙をめくった。


 右へ寄った欄が、白いままで下へ続いていく。日付があり、麻の数があり、番の名がある。殿下の欄だけが、何もない。


 めくる。白い。めくる。白い。


「これは」


「殿下の欄でございます」


「空いているぞ」


「一枚も出ておりません」


「いつからだ」


「紙で残っておりますのは、三年ぶんでございます」侍女頭は言った。「暮れに古いものを燃やす決まりでございますので」


「三年か」


「つけはじめて、七年になります」侍女頭は言った。「殿下の欄に書いたことは、一度もございませんでした」


 アルヴィスの喉から、息の音が出た。


「七年」


「七年でございます」


「一度も出たことがない」


 同じ言葉だった。


 謁見の間で聞いた。今朝も、寝台の上で聞いた。


 毒など出たことがない。だから毒はない。だから飾りの役は要らない。彼はそう言った。同じ言葉が、いま白い欄の側から返ってきている。


 アルヴィスは帳面を見下ろしていた。


「……同じことを、言っているのではないな」


「はい」


「同じ言葉で、逆のことを言っているな」


「はい」


「私は、出なかったから毒がないと言った」アルヴィスは言った。「この紙は、出なかったから」


 そこで切れた。


 声にしようとして、息だけが出た。


「殿下」侍女頭が言った。「もう一つ、伺わせてくださいませ」


「言え」


「この端の点でございます」


 侍女頭は行の端を指した。爪の先ほどの、丸くない点が下へ続いている。


「なんの印だ」


「オリヴィアさまのお召し替えが出た日に、わたくしが打っておりました」


「召し替え」


「毒見のあとに、お召し物が汚れる日がございます」侍女頭は言った。「その日に、一つずつ」


「幾つある」


「一昨年が三日でございます」侍女頭は帳面を替えた。「去年が五日。お発ちになるまでの半年が、九日でございます」


「三年で」


「十七日でございます」


 卓の上で、二つの数が向かい合った。


 零と、十七。


 昨日この人が言ったのと同じ並べ方だった。昨日は、それが自分に向いていた。今日は、殿下に向いている。


「殿下」侍女頭は言った。「わたくしは洗い場の者でございます。毒のことは分かりません」


「そうだろうな」


「ですが、零と十七は分かります」


 アルヴィスは帳面から目を離さなかった。


 それから、その目がゆっくりと寝床のほうへ動いた。


「お前に訊く」


「はい」


「七年、私の器に毒はあったか」


 オリヴィアは息を集めた。


 喉の奥の砂を押しのけて、そこへ空気を通す。


 七年、この問いを誰にも渡さなかった。渡す相手がいなかったからではない。渡せば器のやり方が変わり、変わったら見えなくなるからだった。


 いまは、この人が問いを持ってここに立っている。


「出ておりました」オリヴィアは言った。「毎朝。殿下の器の底に」


 灯りの芯が、じじ、と鳴った。


「毎朝」


「毎朝でございます」


「毎朝、私の器に毒が入っていて」アルヴィスは言った。「お前は、それを」


「すり替えて、いただきました」


「いただいた」


「わたしが飲みました」オリヴィアは言った。「毒見の作法でございます」


「七年」


「七年でございます」


「二千日を超えるぞ」


「数えておりません」


 アルヴィスの膝が、そこで折れた。


 侍従が両側から掴んだが、支えきれなかった。彼は洗い場の濡れた床へ膝をつき、片手を石の上へ落とした。


「殿下」


「触るな」


 水が、彼の掌の下で薄く広がった。


「私は、飾りだと言った」


「仰いました」


「毒など出ぬと言った」


「仰いました」


「何度も言ったな」


「何度も伺いました」


「言うたびに」アルヴィスは言った。「あの広間の者は、笑ったな」


「笑っておいででした」


 彼は掌を石から離さなかった。


「私が飾りだと言えば」アルヴィスは言った。「誰も器を見んだろう」


「はい」


「毒見の目など飾りのようなものだと、私は皆の前で言った」アルヴィスは言った。「言われたほうは、それを覚える。覚えたら、次から見ん」


「はい」


「七年、器を見ていたのは」


「わたし一人でございました」


「一人か」


「一人でございます」


 アルヴィスは顔を上げた。


 碧い目の中に、光の当たっている場所がなかった。


「その一人を」アルヴィスは言った。「私は、用済みと言ったのだ」


 オリヴィアは答えなかった。


 答える言葉を持っていなかった。持っていたとしても、それを言うのは自分の役目ではなかった。


「殿下」


「なぜ言わなかった」


 来た、と思った。


 この問いは、七年ぶん用意がある。


「申し上げれば、手が変わります」


「手」


「盛る手でございます」オリヴィアは言った。「気づいた者がいると知れた朝から、器は別のやり方になります」


「変わったら、どうなる」


「わたしに見えなくなります」


「見えなければ」


「殿下が召し上がります」


 アルヴィスは石の上の掌を、そこで初めて動かした。


「十二のときからか」


「城に上がって、数日でございました」


「十二だぞ」


「十二でございました」


「誰にも言わなかったのか」


「誰にも申しておりません」


「父にも母にもか」


「実家に申せば、家ごと巻きます」オリヴィアは言った。「レイヴンズクロフトは薬の家でございます。毒を知っていると言えば、盛ったのはそちらではないかという話になります」


「……そうか」


「はい」


「では、この七年」アルヴィスは言った。「お前は、独りで」


「独りでございます」


 濡れた石の上で、彼の指が一度だけ丸まった。


「私が、そうさせたのか」


「いいえ」オリヴィアは言った。「わたしが選びました」


「私が飾りだと言ったからだろう」


「殿下が仰らなくても、わたしは黙っておりました」


「なぜだ」


「気づいた者がいると知れた朝が、いちばん危うい朝でございます」オリヴィアは言った。「それは殿下のお言葉とは、関わりがございません」


 アルヴィスは、その答えを受け取れずにいるようだった。


 受け取ってしまえば、自分に残るものが変わるからだ。責めのほうが、たぶん楽なのだと思う。


「殿下」オリヴィアは言った。「殿下がなさったのは、別のことでございます」


「言え」


「七年のあいだ、器を見る者がわたし以外に現れませんでした」


 彼は、そこで動かなくなった。


「一人でもよろしかったのです」オリヴィアは続けた。「侍女でも侍従でも料理番でも構いません」


 声が掠れて、そこで一度切った。


「誰か一人が器の底を覗いてくだされば、わたしは二人になりました」


「……二人」


「二人なら、片方が倒れてももう片方が数えます」


 アルヴィスの口が動いた。音は出なかった。


「その一人が、七年出てまいりませんでした」オリヴィアは言った。「そして、去年の春に」


「言うな」


「毒見の女など、もう用済みだと仰いました」


 灰汁の匂いの上に、鉄に似た気配が薄く立った。彼の口のあたりから来ている。血の匂いだった。


「布を」オリヴィアは言った。


 侍女頭が白い布を差し出した。アルヴィスはそれを口へ当て、しばらく動かなかった。


 布を離したとき、白いところに点が二つついていた。


「殿下」オリヴィアは言った。「お戻りくださいませ」


「戻らん」


「ここは水が引きません」


「戻らん」


「お体が」


「お前は」アルヴィスは布を握ったまま言った。「今朝、私に何と言った」


「……」


「言え」


「今朝も、問題はございませんでした」


「それだ」アルヴィスは言った。「七年、毎朝それを聞いた」


「申し上げておりました」


「嘘だったのか」


「一度もございません」オリヴィアは言った。「殿下には、問題はございませんでした」


 布を握った手が、震えた。


「その手は、まだ荒れているのかと訊いた」アルヴィスは言った。「城の水が悪いのだろうと思っていた」


「はい」


「いつからそんなに細くなったと訊いた」アルヴィスは言った。「城の飯が悪いのだろうと言った」


「はい」


「城の水も、城の飯も」アルヴィスは言った。「関わりがなかったのだな」


「ございません」


 彼は布から手を離した。布は膝の脇の水の上に落ちて、端から色が変わっていった。


「私が気づけば」アルヴィスは言った。「済んだ話ではないか」


「殿下」


「私が一度でも器を覗けば、お前は飲まずに済んだ」アルヴィスは言った。「そうだろう。誰か一人でいいと、お前がいま言った」


「はい」


「その一人に、私がなればよかった」


「なってくださらなくても、よろしかったのです」


「なぜだ」アルヴィスは言った。「お前は、気づいてほしかったのだろう」


 オリヴィアは目を上げた。


 この人は、いま自分を責める材料を集めている。集めれば集まる。集めきったところで、たぶん楽になる。


 それは違う。


 違うことを、七年言わなかった。言わないと決めていたことのほとんどは、今日もう言ってしまった。


「気づいてほしかったわけではありません」オリヴィアは言った。「ただ、あなたに生きていてほしかっただけ」


 言い終えて、息が足りないことに気づいた。


 部屋の中の音が、一度なくなった。


 獣脂の芯の鳴る音も、桶へ落ちる滴の音も、そこだけ抜けていた。


 オリヴィアは口を閉じ、息を二つ吸った。二つでは戻らなかったので、三つ吸った。


「……失礼をいたしました」


 声は、いつもの高さに戻っていた。


「言い直しません」オリヴィアは言った。「聞き流してくださいませ」


 アルヴィスは、濡れた床に膝をついたまま動かなかった。


 その顔を、オリヴィアは見た。


 勝ったとは思わなかった。七年ぶんが返ってきたとも思わなかった。返ってくるようなものを、はじめから貸していない。


 ただ、細くなった頬の上に汗が走っているのを見て、この人はまだ生きているのだと思った。


 それだけが、七年やったことの答えだった。


「オリヴィア」


 名を呼ばれた。


 七年で、はじめてだった。


「はい」


 アルヴィスは、そのあとに続く言葉を探していた。


 唇の形が二度変わり、二度とも音にならなかった。


 彼は探し続けて、見つけられなかった。


 見つからなくてよかった。


 見つかる言葉があるのなら、それは七年のうちのどこかで言われるはずのものだった。今日それを受け取れば、七年のほうが軽くなる。


 名前だけで足りている。


 毒見の女。随員。レイヴンズクロフトの娘。この城で呼ばれてきたのは、ずっとそのどれかだった。


 水が桶の底へ三つ落ちるまで、誰も何も言わなかった。




 廊下を、足音が下りてきた。


 軽い。若い侍従の足だ。戸口で膝を折り、両手で紙を差し出した。


「御用の間より、触れが参りました」


「読め」


「北棟洗い場の綴じ帳を、明朝までに御用の間へ上げるように」侍従は読んだ。「以上でございます」


 侍女頭の指が、帳面の縁を掴んだ。


「誰が書いた」アルヴィスが言った。


「書役の名が、ございません」


「では、誰が持ってきた」


「知らぬ顔でございました」侍従は言った。「置いて、返事も待たずに戻りました」


「名を訊かなかったのか」


「紙を置く者に名を訊く決まりは、ございません」


 アルヴィスは、その答えを一度だけ繰り返した。


「決まりはない、か」


「ございません」


「止めろ」


「触れを止めるには、触れが要ります」


「では書け」


「書くのは、御用の間でございます」


「御用の間は誰が動かしている」


 侍従は答えなかった。


 膝の上の紙を、両手で持ち直しただけだった。


「言え」


「……お側の方のお勧めと、伺っております」


 石の廊下の奥で、水を運ぶ音が近づいて、また遠ざかった。


「お側の方」アルヴィスは言った。「誰のことだ」


「殿下のお側でございます」


「私の側に、私の触れを止める者がいるのか」


「触れは、殿下のお名で回っております」


 オリヴィアは、寝床の縁で指を麻へ押しつけた。


 三領域が、たどれば同じ一つの口へ戻る——御用の間で紙を並べた日に、そう見た。膳の采配も、廊下の人払いも、国交の口も、行き着くのは殿下の口だった。その口に何を言わせるかを決めている者がいる。


 いま、その口が自分の名で回った紙を止められずにいる。


「セリカを呼べ」アルヴィスが言った。


「殿下」オリヴィアは言った。「なりません」


「なぜだ」


「お呼びになれば、明日の朝の器が変わります」


 アルヴィスは膝の上で拳を握った。握れていなかった。指の先が、震えて閉じきらない。


「変わればよいだろう」アルヴィスは言った。「毒が入らなくなるなら」


「入り方が変わるだけでございます」オリヴィアは言った。「今の入り方は、分かっております」


「分かっていて、飲むのか」


「分かっているものは、測れます」


「測って、どうする」


「測ったものは、あとから作れません」


 アルヴィスは顔を上げた。


「では、私は何もするなということか」


「今夜は、なさらないでくださいませ」


「今夜だけか」


「今夜だけでございます」


 その先を、オリヴィアは言わなかった。


 袖の内側に、布に包んだ蝋が二つある。その勘定は頭の中にある。頭の中にあるうちは、誰にも止められない。


「殿下」侍女頭が言った。「綴じ帳のことを、伺わせてくださいませ」


「上げるな」


「触れが参っております」


「私が上げるなと言った」


「殿下の触れは、御用の間で書かれます」侍女頭は言った。「御用の間へ上げてしまえば、その帳面が明日どこにあるかは分かりません」


 アルヴィスは黙った。


 黙ったところに、侍女頭が続けた。


「一つ、お願いがございます」


「言え」


「今夜、この帳面をお持ちくださいませ」


 オリヴィアは侍女頭を見た。


 この人は、今朝御用の間で棚の空いた場所を見ている。上へ上げた紙が戻らないことを、その目で確かめてきた。


「私が持つのか」


「殿下のお手のものを、御用の間は取りに参りません」侍女頭は言った。「洗い場の棚のものは、参ります」


「……そうか」


「明日の朝、わたくしは書き直しの紙を出します」侍女頭は言った。「日ごとに並べたものを、月ごとにまとめて書き直します」


「書き直すのか」


「叱られましたので」侍女頭は言った。「叱られた日も、帳面には書いておきます」


「書いて、どうなる」


「どうにもなりません」侍女頭は言った。「ですが、洗ったものの数は残ります」


 アルヴィスは、侍従の腕を借りて立ち上がった。


 立ち上がるのに、鐘が鳴るほどの間がかかった。


 彼は卓の上の帳面へ手を伸ばし、掴んだ。掴んだ指が滑って、一度落としかけた。侍女頭が下から支え、彼の腕へ戻した。


「重いな」


「三年ぶんでございます」


「三年で、これか」


「七年ぶんは、ございません」侍女頭は言った。「暮れに燃やす決まりでございますので」


「燃やしたのか」


「決まりでございます」


 アルヴィスは帳面を胸のところで抱えた。


 寝衣の上に外套一枚の姿で、洗い場の綴じ帳を抱えた王太子が、板の低い天井の下に立っていた。


「オリヴィア」


「はい」


「明日の朝、器が来るな」


「参ります」


「お前は、来るな」


「番の紙に名がございますれば、参ります」


「名を消させる」


「消したのが誰か、また分からなくなります」


 アルヴィスは戸口で足を止めた。


 外套の裾から、水が石の上へ落ちていた。


「明日の朝は」アルヴィスは言った。「私が数える」


「何をお数えになりますか」


「知らん」アルヴィスは言った。「お前が言うまで、数える」


 答えを、オリヴィアは用意していなかった。


 用意していない問いをこの人から受けたのは、七年で二度目だった。一度目は、十二の年に匙を放られた日だ。


「かしこまりました」


 侍従が先に立ち、灯りを掲げた。


 三人の足音が階を上がっていく。半歩ぶん短くなって、また戻る音が、いちばん遅れて遠ざかった。




 戸が閉まって、灰汁の匂いが戻った。


 侍女頭は卓の前に立ったまま、しばらく動かなかった。帳面のあった場所に、四角い跡が薄く残っている。湯気で膨らんだ紙が、卓の面に付いていた跡だった。


「オリヴィアさま」


「はい」


「わたくしは、いま何をいたしました」


「帳面を、殿下にお渡しになりました」


「渡してしまいました」侍女頭は言った。「あれがなければ、明日から数を書く紙がございません」


「新しく綴じてください」


「新しい紙には、昨日までが入りません」


「今日から入ります」


 侍女頭は、卓の四角い跡へ手を置いた。


「今日のぶんを、書いておきます」


「何をお書きになりますか」


「麻が四十二枚」侍女頭は言った。「殿下のお血の布が十二枚。それと」


「それと」


「あなたさまがお使いになった布が、三枚でございます」


 オリヴィアは頷いた。


 今朝、あの部屋の床で白い布を握ったとき、これは洗い場へ来ると思った。殿下の血の布と一緒に数えられて、帳面の欄に一つ書かれる。書いた者は、自分が何を書いたのかを知らない——そう思って、それでいいと思った。


 書く人は、知っていた。


 知ったまま、書くと言っている。


「侍女頭」


「はい」


「以前、お願いをいたしました」


「焼かれそうになったら、水を掛けてでも」侍女頭は言った。「覚えております」


「もう一つ、足させてください」


「なんでございましょう」


「今夜からは、二冊お書きください」オリヴィアは言った。「同じ数を、二つの紙に」


「二冊」


「一冊は棚に。一冊は、棚でない場所に」


 侍女頭は少し笑った。この人が笑うところを、七年で数えるほどしか見ていない。今日で、一つ増えた。


「棚でない場所を、考えてまいります」


「お願いいたします」


「湯を、足してまいります」侍女頭は言った。「お起きになってはいけません」


「はい」


 戸が閉まった。


 オリヴィアは袖の口を開き、指を差し入れた。


 布の包みは、朝と同じ場所にある。ただ、指の腹が布の織りを拾わなかった。二つあることは、腕の骨に当たる硬さでしか分からなくなっていた。


 三日置けば、層の境目が出る。表と芯が別々の高さに沈む。生のまま舐めても分からないものが、蝋の中では形になる。


 その日を、頭の中で並べた。並べた数を、口には出さなかった。


 舌の奥の砂は、まだそこにあった。退かない毒だ。溜まるほうへしか動かない。


 オリヴィアは寝床の縁から、足を床へ下ろした。


 石が冷たかった。冷たさが、皮膚の一枚下まで届いた。


 朝より、一枚ぶん深い。


 卓の上に、折られた紙が一枚残っていた。


 端に結ばれた黄の糸が、獣脂の灯りの下では色を持たなかった。南の花にも、糸にも見えない。ただの細いものが、白い紙の端で結ばれているだけだった。


 誰も、それを片づけなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 王太子が知る回でした。二つ知ります。一つは、七年自分を生かしていたのが切り捨てた相手だったこと。もう一つは、自分が「毒など出たことがない」と言い続けたことです。


 誤解のないように書いておきます。彼の言葉が彼女を黙らせたのではありません。彼女が黙ったのは、告発すれば盛る手が変わり、変わったら見えなくなるからで、これは十二歳のときから一度も動いていません。彼がしたのは別のことです。飾りだと皆の前で言い続けた七年、器を覗く者が彼女以外に一人も現れませんでした。そして彼はその一人を用済みと呼びました。黙らせたのではなく、独りにしたのです。


 彼は謝りませんでした。言葉を探して、見つけられずに帰りました。侍女頭の帳面は彼が抱えて上がっていきます。医者は城下、書役は暇、紙は止まったままで、寵姫はまだ廊下を歩いています。何も好転していません。


 次話、彼女の袖の中の勘定が動きます。


 ☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、続きを書く大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。