第30話: 毒の淑女
粗塩の粒が、舌の右で溶けても味にならなかった。
左へ転がすと、塩気が戻ってくる。
三日前は、両方で戻った。
オリヴィアは口をすすぎ、水を桶へ吐いた。獣脂の灯りが揺れて、麻布の山の影が壁の上で伸び縮みする。窓のない部屋なので、夜が明けたかどうかは音でしか分からない。
まだ厨房の火は起きていない。
舌の右半分が鈍っている。七年、毎晩わずかずつ入れてきた灰塵は、王都に戻ってから一度も足していない。減っていくのは耐性のほうだけで、蝕まれたぶんは減らない。
入れれば体が縮む。入れなければ守りが薄くなる。どちらへ倒しても、行き着く先は同じだった。
そのことを、この七年、はじめて数字で見せられたのが昨日だった。
三、五、九。
オリヴィアは指の先を灯りへ近づけた。爪の際に細かい震えがある。押さえれば止まるたぐいの震えだった。押さえていられるうちは、まだ手が使える。
卓の上に、薬包が一つ。
昨夜のうちに封の蝋は落としてある。運ぶ前にもう一度自分で検めると決めていた。
紙を開いた。
白に近い薄茶の粉が、指の腹ほどの高さで盛られている。昨日、調薬の間で自分の手で割り、自分の手で薬研にかけた粉だ。粗さも、色も、盛り方の癖も覚えている。
匂いを取った。
干した根の、埃じみた甘さが先に来る。その下に、鼻の奥を刺す苦みがある。ここまでは昨日と同じだった。
指先で粉をひとつまみ取り、舌の先へ置いた。
——遅れて、来た。
苦みが引きかけたところで、舌の先が痺れた。針を当てられたような細い痺れが、先端から縁へ回り、それから前歯の裏へ広がっていく。
オリヴィアは動かずに数を取った。
十。まだ退かない。二十。まだある。
二十五を数えたところで、痺れは引きはじめた。
水を含み、吐いた。三度繰り返して、口の中を空にする。
銀舌。
速効。少量。舌と指先を痺れさせる。量を誤れば、検めた者のほうが先に倒れる。
昨日この粉を包んだとき、そんなものは入っていなかった。
夜のうちに、この部屋へ人が入っている。
オリヴィアは戸を見た。閂はない。桶を置くための部屋に、鍵をかける決まりはなかった。昨夜、侍女頭が湯の椀を置いていったあと、自分は灯りを消して横になった。眠りは浅かったはずだ。それでも、戸の開く音は覚えていない。
卓の上の椀には、湯が半分残ったままだった。
紙を光へかざす。粉の粒が、二種類の細かさで混じっている。
自分が挽いた根は、指で押すと角の立つ粗さだった。混じっているほうは、それより細かい。細かいほうを分けようとすれば、水に溶いて沈め、上澄みを捨て、乾かすことになる。乾くまでに半日はかかる。
厨房の火が起きるまで、あと一刻もない。
オリヴィアは紙を閉じ、折り目を元に戻した。
包みを懐へ滑らせ、襟元を指で押さえて位置を確かめた。
昨夜、灯りを消す前に膝の上にあった薄い紙は、いま卓の中央に置いてある。
オリヴィア・レイヴンズクロフト。
名は、一つきりだった。
調薬の間の戸は、開いていた。
開いてはいたが、匂いが薄い。
三日前は、戸口に立っただけで根の甘さと硫黄の刺すような気配が鼻へ届いた。いまは、埃と冷えた石の匂いしかしない。
オリヴィアは灯りを掲げて棚を見た。
壺が並んでいる。並んでいるだけだった。蓋を三つ持ち上げて、三つとも底が見えた。
昨日、粗い根を掴み出した壺も空になっている。底に薄く粉が残っているが、掻き集めても一包には足りない。
卓の上に、紙が一枚置かれていた。
城の触れの紙だ。書役の手ではない、丸みのある字で、調薬の間の在庫は当分のあいだ御用の間へ引き上げる旨が書いてある。日付は昨日。名は、書かれていない。
オリヴィアは紙を裏返した。裏も白かった。
この城の紙は、いつもこうやって回ってくる。誰も命じておらず、誰も咎められず、ただ棚だけが空になる。
宮廷医の外套は、掛け釘にかかっていなかった。
明後日と伺っていた。
繰り上がったのだと分かった。
オリヴィアは灯りを卓に置き、棚のいちばん下の段を開けた。
炭を焼いて挽いた粉の壺が、奥にひとつ転がっている。誰も持ち出さないものだ。毒を吸うために使うと知っている者が、この城に一人しかいないからだ。
蓋を開けると、指三本ぶんの深さで黒い粉が残っていた。
これは要る。
オリヴィアは布へ移し、袖の内側へ落とした。
棚のそばの棚板に、封蝋の欠片が幾つか散っていた。使い残しを誰も片づけない場所だ。親指の先ほどのものを二つ拾い、それも布へ包んだ。
薬を作り直す道は、これで消えた。
残っているのは、既に銀舌の混じった一包だけになる。
持っていかなければ、殿下の朝の薬は今日から絶える。隣国の薬はもう要らぬと言った口が、それを引き取ってくれるとは思えない。薬が絶えて容態が落ちれば、絶ったのは自分だということになる。
持っていけば、殿下の口へ銀舌が入る。
どちらでも同じ側に落ちる仕組みだった。
仕組みを作った人は、こちらがどちらを選ぶかまで見ている。
オリヴィアは灯りを持ち上げた。
選ぶ道は、もう一つあった。七年やってきた道だ。
器に毒がある朝に、先に口をつける者を一人置く。
それだけのことだった。
厨房の入り口で、湯気が顔に当たった。
粥の甘い匂い、焦げた油、洗い立ての木桶。その底に、いつもの古釘の気配がすでに立っている。
まだ器も出ていないのに、匂いのほうが先に届いていた。量が増えれば、隠しきれない。
料理番が竈の前で鍋を掻いていた。振り向いて、手を止めた。
「洗い場の者が、こちらへ何の用だ」
「盆の番でございます」
オリヴィアは薄い紙を差し出した。
料理番は濡れた手を腰の布で拭い、紙を受け取って、上から下まで読んだ。読み終えて、もう一度上へ戻った。
「一人か」
「一人でございます」
「四人だろう、いつもは」
「今朝はこう書かれております」
料理番は紙を返さなかった。竈の火に近づけて、透かした。
「名が一つしかない」
「はい」
「こんな紙は、二年見ておらん」
「伺わせてください」オリヴィアは言った。「この紙は、いつ届きましたか」
「昨日の夕方だ」料理番は言った。「いつもは朝いちばんに来る」
「どなたが」
「知らん顔だった」料理番は言った。「置いて、返事も待たずに帰った」
「お名は」
「訊いておらん」料理番は言った。「紙を置く者に名を訊く決まりはない」
オリヴィアは黙っていた。
料理番は紙を卓の隅へ置き、鍋のほうへ戻った。掻き回す手つきが、さっきより雑になっている。
「あんたが、隣国から来た人か」
「隣国から来て、名簿から落ちました」
「洗い場だと聞いた」
「洗い場でございます」
「洗い場の者が殿下の盆を運ぶのを、俺は聞いたことがない」料理番は言った。「書いてあるからには、そうなんだろうがな」
「決まりを、伺わせてください」
「決まり」
「厨房から殿下のお部屋までの決まりでございます」
料理番は玉杓子を鍋の縁に掛けた。
「下ろすな」料理番は言った。「途中で盆を床にも卓にも置くな」
「はい」
「立ち止まるな。人に呼ばれても止まるな」
「止まってはならぬのですね」
「止まったら、そのあいだに何があったか分からんだろうが」料理番は言った。「そういう決まりだ」
「厨房の内では、検めてもよろしいですか」
「検める」
「蓋を開けて、匂いを取ります」
料理番はしばらくこちらを見ていた。
「毒見の役は、置いておらんはずだ」
「役はございません」オリヴィアは答えた。「わたしが確かめたいだけでございます」
「好きにしろ」料理番は肩を上げた。「厨房を出るまでは、ここは俺の場所だ」
盆が卓に出された。
白木の盆に、器が三つ。粥の椀、湯の碗、それに薬を溶くための空の椀。蓋はどれも木で、縁に指をかける切り込みがある。
オリヴィアは前掛けの上で手を拭き、粥の蓋を持ち上げた。
湯気が立った。米の甘さの中に、遅れて古釘が浮く。鼻を近づけるまでもなかった。
匙の背でひと掬い、舌の上へ置く。
砂を噛むざらつきが、舌の奥へ沈んでいく。三日目の夜に採った滓とは、重さが違った。
数を取る。
十。二十。二十五。三十。
三十を過ぎても、奥の錘は動かなかった。
昨日の朝より、また深い。
オリヴィアは椀の底へ匙を差し入れ、縁に沿って一周させた。匙の背に、透き通らない膜が薄く付いてくる。
拾った封蝋の欠片を灯りの近くで温め、指で潰して柔らかくした。膜をその面へ移し、もう一つの欠片で挟んで押す。指の腹で縁を寄せて、蝋の中へ閉じ込めた。
三日置けば、層の境目が現れる。生のまま舐めれば二つの毒は渾然と混ざって分からないが、蝋の中で寝かせれば、表と芯が別々の高さに沈む。
ハルダ先生に教わったのは、そういう手だった。
「何をしとる」料理番が背中で言った。
「蝋を、少しいただきました」
「蝋なら好きに持っていけ」料理番は振り向かなかった。「使い残しは捨てるだけだ」
「ありがとうございます」
オリヴィアは蝋を布へ包み、袖の奥へ落とした。
それから、竈の脇の甕を指した。
「乳を、一椀いただけますか」
「今朝のはまだ届いておらん」料理番は甕の蓋を持ち上げた。「昨日のが半分ある」
「結構です」
「腹でも壊すぞ」
「壊しません」
冷えた乳を椀に受けて、立ったまま飲み干した。舌に膜が張り、粥の残りの砂が少し遠くなる。
「卵を、一つ」
「食う気か」
「白身だけいただきます」
料理番は籠から卵を一つ寄越した。オリヴィアは縁で割り、黄身を殻から殻へ移して落とし、白身だけを椀へ流して飲んだ。
喉の奥に、ぬるい重さが降りていく。
乳と卵白は、銀舌を捕まえる。捕まえるだけで消しはしない。効きの立ち上がりを鈍らせ、体が受け取る量をいくらか減らす。それだけのものだ。
それだけでも、無いよりはいい。
最後に、炭の粉を指でひとすくい掬い、水で流し込んだ。舌の上に黒い苦みが残る。
準備と呼べるものは、これで終わりだった。
「あんた」料理番が言った。「顔が白いぞ」
「洗い場は涼しいので」
「厨房は暑い」料理番は言った。「暑いところで白くなるのは、涼しいせいじゃない」
オリヴィアは答えずに、袖から薬包を出した。
紙を開かず、盆の隅へ置く。それから袖の内側の白い包みを解き、黄の糸を一本つまみ出した。
南でしか咲かない花の色をした糸だ。
薬包の紙の端を細く折り、そこへ糸を回して、一重に結んだ。
「なんだそれは」
「印でございます」
「薬の印か」
「わたしの印です」オリヴィアは言った。「取り違えぬように」
料理番はそれ以上訊かなかった。
オリヴィアは盆の三つの蓋を戻し、両手を盆の縁の下へ差し入れた。
白木の重みが、手首から肘へ乗ってくる。
七年、この重さを毎朝受け取っていた。受け取ったあと、いつも誰かが一歩下がって待っていた。名を尋ねなかった娘の顔が、そこにあった。
今朝は、後ろに誰もいない。
「行くのか」
「はい」
「途中で下ろすなよ」料理番は言った。「決まりだからな」
「存じております」
オリヴィアは厨房の敷居をまたいだ。
背中で、鍋を掻く音が戻った。
石の廊下は、朝の冷えを底に溜めていた。
北棟の階を上がり、渡りを抜け、居室のある東の棟へ折れる。七年、毎朝歩いた道だ。歩数まで体が覚えている。
盆は、思ったより早く重くなった。
肘のあたりが張り、指の付け根が痺れはじめる。この痺れは銀舌ではない。ただ腕が持たないだけだ。舐めた量の痺れは、まだ舌の先に薄く残っている程度だった。
渡りの手前に、男が一人立っていた。
昨日までいなかった顔の、あの男だった。壁から背を離し、こちらを見て、道を空けた。
空けはしたが、下がらなかった。
「ずいぶん重そうだ」男が言った。
オリヴィアは足を止めなかった。
「一度、その台に置かれたらいい」男は渡りの隅の物置台を顎で示した。「腕を休めてから行かれては」
置けば、決まりを破ったことになる。
破った盆は運び直しになり、運び直しは厨房からになり、厨房から出るときには誰の手が加わっているか分からない。
あるいは、置いたという一事だけで足りる。器に何かが入っていたとき、途中で下ろした者が入れたことになる。
「ご厚意、ありがとうございます」オリヴィアは歩きながら答えた。
男は追ってこなかった。
角を曲がる。
次の直線の途中にも、人が立っていた。今度は二人だった。二人とも壁際に寄って、こちらの歩みを見ている。
誰も止めようとはしない。
止めなくていいのだ。この城の決まりが、代わりに手を伸ばしている。
オリヴィアは息を細く長く吐いた。
腕を痛めるのは肩に力を入れるからだ。肘を体の側へ落とし、盆の重みを腰へ移す。七年前に覚えた持ち方だった。
東の棟へ入る大扉をくぐったところで、鼻の奥を刺すものが来た。
甘さは後ろに退いている。隠すはずのものが、隠すものより先に立っていた。
セリカは、廊下の中ほどの窓辺にいた。
朝の光が高い窓から斜めに落ちて、蜂蜜色の巻き毛の縁だけを白く抜いている。手には何も持っていない。掛け金に指をかけて、窓を細く開けたところだった。
その指が離れ、体がこちらへ向いた。
「おはよう」
オリヴィアは歩き続けた。
セリカは動かなかった。廊下の真ん中には出てこない。窓辺に立ったまま、通り過ぎるのを待つ形をとっている。
「重そうね」
「重うございます」
「下ろしてもよろしいのよ」セリカは言った。「わたくしが許すと言えば、それで通るでしょう」
「決まりと伺っております」
「決まりを作ったのは、わたくしですけれど」
オリヴィアは歩幅を変えなかった。
窓辺の横を通り過ぎる。すれ違ってから、後ろで裾を捌く音がした。
足音がついてきた。同じ速さだった。
「洗い場の届けは、昨夜のうちに戻されたわ」セリカは背後で言った。「書き方が定めと違うのですって」
「さようでございますか」
「員数は月ごとにまとめて書くものよ。日ごとに並べるのは決まりに反するの」セリカの声は柔らかいままだった。「あの人には、正しい書き方を教えて差し上げているところ」
「今朝、御用の間に呼ばれると伺いました」
「呼ばれているわ。長くかかるでしょうね」
廊下の右手に、朝の光を受けた柱が等間隔で並んでいる。柱の影を一つ、また一つと跨いでいく。
「宮廷医の先生も、発たれました」セリカは続けた。「療養所の手が足りぬそうよ。夜のうちに馬を出して差し上げたの」
「明後日と伺っておりました」
「早いほうが、あちらもお困りにならないでしょう」
「ご親切なことでございます」
「書役の年寄りは、暇をいただいたわ」セリカは言った。「三十年の労をねぎらって、お国からご褒美が出るそうよ」
柱の影が一つ増えた。
「棚の控えも、片づけました」セリカは言った。「古い紙は湿気を呼ぶのですって」
「二通ございました」
「一通は上へ行ったわ。上へ行った紙のことは、わたくしにも分かりません」
嘘ではないだろう、と思った。この人は上を持っていない。上を持っている誰かへ、紙が届く前に消せるものを消しているだけだ。
「三人とも、いなくなりました」セリカは言った。「あなたが動かした人ばかりね」
「動いたのは、あの方たちでございます」
「同じことよ」
「同じではございません」オリヴィアは前を向いたまま言った。「わたしが動かしたのなら、わたしを止めれば止まります」
後ろの足音が、半歩ぶん遅れた。
それから、また追いついた。
「まあ、口の減らないこと」
甘さは残っていた。ただ語尾の伸びが、いつもの半分の長さで切れている。
「あなた、その盆をどうなさるつもり」
「殿下のお部屋へお運びいたします」
「運んで、それから」
「お薬をお溶きいたします」
「お薬」セリカは繰り返した。「ご自分でお作りになったのでしょう」
「はい」
「ご自分の手で作って、ご自分の手でお運びになる」セリカは言った。「そしてご自分の手でお溶きになるのね。途中で誰にも触らせずに」
その言い方の意味を、オリヴィアは正確に受け取った。
器に何が入っていても、触れた手は一つしかない。紙にそう書いてある。
「決まりでございますので」
「よくできた決まりだこと」
柱の影を、また一つ跨いだ。
「あなた、なぜ残ったの」セリカが言った。「お帰りになれば、顧問の椅子があったでしょう」
「椅子は逃げません」
「殿下がお好きなのね」
「今朝の器の話をしております」
「同じことよ」セリカは言った。「あなたは七年、器の話しかしないの」
「七年、器しか任されておりませんでしたので」
東の棟の突き当たりが見えてきた。殿下の居室の扉だ。両脇に侍従が二人立っている。
「伺ってもよろしいですか」オリヴィアは言った。
「なあに」
「二年前の秋に、盆の番を日替りに改めたのはなぜでしょう」
「一人に負わせては気の毒だからよ」
「ベルタは、なぜ暇に出されたのでしょう」
後ろの足音が止まった。
オリヴィアは止まらなかった。止まれない。盆を持って立ち止まってはならないと、決まりに書いてある。
だから背中で聞いた。
「……知らない名ね」
「五年、毎朝この廊下を歩いた方でございます」
「そう」セリカの声が、少し遠くなった。「覚えていられる名の数には限りがあるの」
「わたしも、七年尋ねませんでした」
扉が近づく。
後ろから、また足音が追ってきた。今度は速い。
すれ違いざま、セリカが先に立った。侍従が扉を引く。裾が石の上を鳴らして、香が室内へ吸い込まれていく。
戸口で、セリカは半身だけ振り返った。
笑みは、きれいに作られていた。
「殿下がお待ちよ」
扉の内側は、鉄を舐めたあとのような空気だった。
薬の苦みも汗も、その味の下に沈んで出てこない。
寝台のアルヴィスは、枕を四つ重ねて背を預けていた。昨日は三つだった。頬の線がまた細くなり、目の下の落ち窪みに影が溜まっている。
卓の上には、水差しと、白い布が積んである。布は畳んだままではなく、二枚が崩れて広がっていた。
「盆でございます」
オリヴィアは膝をつき、卓の低いところへ盆を下ろした。
下ろしてから、指を伸ばしたままにした。腕がひとりでに震えて、盆の縁が卓を小さく鳴らしたからだ。鳴りが止まるまで、指を離さなかった。
「お前か」アルヴィスが枕から首を起こした。「発ったのではなかったか」
「乗りませんでした」
「馬車は出たと聞いた」
「わたしを乗せずに出ました」
「なぜ乗らん」
「殿下のお薬が、途中でございましたので」
「薬か」アルヴィスは言った。「そんなもののために残ったのか」
「はい」
「医者に任せればよいだろう」
「先生は、城下へ発たれました」
「発った」
「療養所の手が足りぬそうでございます」セリカが言った。「殿下がお許しくださったでしょう」
「……そうだったか」
「昨日、そう仰いましたわ」
「隣国へ行けばよかったのだ」アルヴィスは言った。「顧問だと聞いた」
「伺っております」
「では、なぜ行かん」
「今朝の器がございましたので」
「随員様は、七年お器の番をなさったのですもの」セリカは言った。「お癖でございましょう」
「癖か」
「癖でございます」
アルヴィスは口を開き、何も言わずに閉じた。
セリカが窓のほうへ回り、掛布の裾を直した。
「随員様は、洗い場においでですのよ」セリカは甘く言った。「殿下のお盆を、今朝はご自分でお運びくださったの」
「洗い場」アルヴィスは眉のあいだに皺を寄せた。「レイヴンズクロフトの娘が、洗い場か」
「名簿から落ちました」オリヴィアは答えた。「城に置いていただくには、手を動かす場所が要ります」
「誰がそんなことを決めた」
「どなたも」オリヴィアは言った。「わたしが願い出ました」
「殿下がお心を痛められることではありませんわ」セリカが言った。「随員様が、ご自分でお選びになったのですもの」
「洗い場は、水がお冷たいでしょう」
声の高さは変わらなかった。向けた先だけが変わった。
「指の先が痺れると伺いました」
「痺れは、慣れます」
「慣れるものなのね」
「殿下」オリヴィアは言った。「今朝の盆の番の紙には、名が一つきりでございました」
「一つ」
「厨房からこのお部屋まで、わたし一人で運びました」
「番は日ごとに替わりますの」セリカが言った。「今朝はたまたま、随員様がお一人でお持ちくださっただけ」
「そのほうが行き違いがない。よい決まりだ」
「よくできた決まりでございます」
「伺わせてください」オリヴィアは言った。「朝のお血は、いつから増えました」
「知らん。布を数えているのは私ではない」
「四日前でございます」
「よく知っているな」
「洗い場におりますので」
「殿下」セリカが言った。「朝からそのようなお話は、お体に障りますわ」
「障るか」
「布の数のお話でございますもの」
「はい」オリヴィアは言った。「布の数でございます」
アルヴィスはしばらく黙っていた。それから寝台の柵を掴んで、体を少し起こした。
「薬は」
「これに」
オリヴィアは盆の隅の薬包を取り、卓の上へ置いた。
紙の端に結んだ黄の糸が、白い卓布の上で一本の線になった。
「その糸はなんだ」
「印でございます」
「薬に印をつけるのか」
「取り違えぬためでございます」
「随員様は、用心がお深いこと」セリカが言った。「厨房からここまで、どなたの手も入れずに運ばれたのね」
「触れずに置き違えることは、ございます」
セリカは糸を見ていた。次の言葉が一拍遅れた。
「きれいな色ね」セリカは言った。「南のお花のよう」
「南でしか咲かぬ花でございます」
「では、この城では咲かないのね」
「咲きません」オリヴィアは言った。「一度、見ておりますが」
セリカは答えなかった。
「糸は糸でございますわ」セリカは言った。「殿下、お薬をお待ちでしょう」
湯の碗を引き寄せ、空の椀へ半分注ぐ。紙を開き、粉を落とす。指の腹で紙の内側を撫でて、残りまで落とした。
匙で溶く。
薄茶の濁りが立ち、根の甘さが湯気に乗って上がってくる。その下に、匂いのない一層があるはずだった。匂いのないものは、匂いでは見つからない。
オリヴィアは椀を持ち上げなかった。
膝をついたまま、盆の粥の蓋に手をかけた。
「殿下」
「なんだ」
「毒見の作法にございます」
部屋の中の空気が、一度そこで止まった。
アルヴィスの手が柵から離れた。
「役は置いておらん」
「役はございません」オリヴィアは蓋を持ち上げた。「作法だけが残っております」
「毒見など飾りだと、私は言ったはずだ」アルヴィスは言った。「七年、一度も出たことがない」
「殿下は、七年ご無事でございました」
「そうだ。私はいつも無事だった」
「まあ」セリカが窓辺から言った。「随員様、それはお戯れが過ぎますわ」
「戯れではございません」
「お役目のない方が器に手をおつけになっては、厨房の者が困るでしょう」セリカは言った。「盆はもうお運びくださったのですもの。あとは下がってお休みになって」
「下がる前に、一口だけいただきます」
「殿下のお召し上がり物ですのよ」
「殿下が召し上がる前でございます」オリヴィアは言った。「あとからでは、作法になりません」
セリカは口を閉じた。
止めれば、止める理由が要る。理由を言えば、器に何かがある前提の話になる。
この人は、それを承知している。
だから止めない。
「……お好きになさって」
声には甘さが半分だけ残っていた。
「殿下」セリカは言った。「随員様のお心づくしでございますわ」
「心づくし」
「お先にお口をつけてくださるのですもの」セリカは言った。「作法と仰るなら、器はどれも同じでございましょう」
「粥も湯も薬もか」
「随員様が、そう仰いましたわ」
「粥はやる」アルヴィスは言った。「作法だと言うのだから仕方あるまい」
オリヴィアは匙を取り、粥をひと掬いした。
舌へ載せる。
砂の重さが、待っていたように奥へ沈んだ。米の甘さが遠のき、古釘が前へ出てくる。厨房で舐めたときと同じ深さだ。厨房で舐めた量は、指の先ほどだった。
いまは、匙一杯ある。
飲み下した。
二口目を取り、それも下した。
三口目を掬ったところで、椀を自分の膝の側へ寄せた。
「殿下」オリヴィアは言った。「今朝のお粥は、わたしがいただきます」
「なぜだ」
「冷めております」オリヴィアは言った。「冷めたものは、お腹に障ります」
「冷めた粥を、お前が食うのか」
「粥は、冷めても粥でございます」
アルヴィスの目が、椀から卓の縁へ逃げた。
セリカは窓辺から寄ってこなかった。袖の下に腕を入れたまま、こちらを見ている。
「殿下は、いつもよくお召し上がりになりますのよ」セリカが言った。「毎朝、わたくしがお匙をお持ちしております」
「この者は、朝も夜もついていてくれる」アルヴィスは言った。「お前が去ってから、ずっとだ」
「ありがたいことでございます」
オリヴィアは椀を空にした。
舌の奥に、砂が積もっていく。喉の内側がざらつき、水を含んでも動かない。七年、この味を毎朝飲み下してきた。飲み下したあとに部屋を出て、廊下の途中で壁に手をつく朝もあった。
この量では、壁では足りない。
残るのは、椀だ。
オリヴィアは椀を伏せずに卓へ戻した。底に膜が残る。伏せれば、膜は卓布に取られる。
「薬でございます」
薄茶の椀を両手で持ち上げた。
「それは、私のだろう」
「毒見の作法にございます」
「殿下」セリカが言った。「お作法だそうでございます」
「作法」
「随員様がご自分でお作りになって、ご自分でお運びになったお薬でございます」セリカは言った。「いちばんにお試しになるのが、筋なのでしょう」
「お一滴も残されませんように」セリカはこちらへ言った。「殿下のお口に入るものでございますから」
アルヴィスの喉だけが、一度上下した。
喉の途中まで、言葉が上がってきた。
この椀に銀舌が入っております——言えば、この人は口をつけない。
つけなければ、明日は別の手が来る。
オリヴィアは、それを喉で止めた。
「殿下」
「なんだ」
「お薬は、今朝は少し苦うございます」
「薬は苦いものだ」
「はい」
オリヴィアは椀の縁に唇をつけた。
傾ける。
喉を通っていく。
半分まで飲んで、一度息をした。それから残りを飲み干した。
椀を卓へ置く。底に指を入れて、内側を一周させ、指の腹を舐めた。
残さない。残せば、殿下が飲む。
「殿下」オリヴィアは言った。「一つ、お願いがございます」
「言え」
「数を、お数えいただけますか」
「数」
「一から順に」オリヴィアは言った。「わたしが申し上げるまで、ただ数をお数えください」
「何のためだ」
「毒見の作法にございます」
アルヴィスは寝台の上で身じろぎをした。
「お前は、さっきから同じことしか言わん」
「同じことでございますので」
「お前」アルヴィスは言った。「いつからそんなに細くなった」
「七年でございます」
「城の飯が悪いのだろう」
「……はい」
セリカが窓辺から一歩、部屋の中へ出た。
「殿下」セリカは言った。「お疲れになりますわ」
「数を数えるくらいで疲れるものか」アルヴィスは言った。「一。二。三」
声は掠れていたが、間隔は正確だった。
オリヴィアは膝の上で両手を重ね、舌の先へ意識を移した。
「これで何が分かる」アルヴィスは言った。
「分かることがございます」
「言え」
「申し上げるまで、お数えください」
四。五。六。
まだ来ない。
「殿下」セリカが言った。「お声が掠れておいでですわ。わたくしが代わりに数えます」
「殿下がお数えください」オリヴィアは言った。
「なぜ私だ」
「殿下のお声で伺いたいのでございます」
セリカは数えなかった。
七。八。九。
舌の先に、細い針が触れた。
十。
痺れが、先端から縁へ回っていく。前歯の裏がぼやけ、そこから頬の内側へ広がっていった。
銀舌が先だ。
「殿下。間を空けずにお数えください」
「口を挟むな」アルヴィスは言った。「数が飛ぶ」
十五。
指の付け根が痺れはじめた。盆を持って重かった痺れとは違う。骨のほうから来る痺れだった。
「随員様」セリカが言った。「お薬のお味は、いかがでございました」
「苦うございました」
「それはよろしゅうございました」
「セリカさま」
「なあに」
「昨夜、番の紙を厨房へ届けたのはどなたでしょう」
「存じませんわ」
「夕方に届いたと伺いました」
「朝のものが夕方に届くこともございましょう」
「紙を置く者に名を訊く決まりはないと、厨房で伺いました」
「決まりは決まりでございますもの」
二十。
まだ退かない。今朝ひとつまみ舐めたときは、二十五で退いた。
二十五。
退かない。
「お前」アルヴィスは言った。「声が変わった」
「変わっておりません」
「変わった」
「殿下」
「なんだ」
「お数えを」
「数えている」
「……お願いいたします」
声の高さを変える力が、もう残っていなかった。
三十。
舌の先の感覚が、なくなった。
オリヴィアは膝の上で指を握り直した。握ったつもりだったが、握れているかどうかが分からない。目で確かめると、指は曲がっていた。
「殿下」セリカが言った。「お数えはもうお止めになって。随員様もお下がりになりたいでしょう」
「この者がまだ申し上げておらん」
「人をお呼びしましょうか」セリカが言った。
「呼べ」
「どなたを」
「医者だ」
「先生は城下でございます」
「……そうだったな」
「侍女頭をお呼びいたしますか」
「呼べ」
「洗い場は北棟でございます」セリカは言った。「行って戻るのに、鐘が一つ鳴りますわ」
「では誰か走らせろ。廊下に人が立っているだろう」
アルヴィスが上体を起こした。掛布が膝から落ちて、床へ滑った。
「殿下。お起きになってはいけません」
「離せ」
「お体に障ります」セリカはその肩へ手を置いた。「随員様は座っておいでですわ。ご覧になって」
オリヴィアは座っていた。座っている形を、まだ保っていた。
「……座っているな」
「座っておいでです」
「鐘が鳴るまでに、この者はどうなる」
「お休みになるだけでございますわ」
「三十一。三十二」アルヴィスの声は続いている。「おい。まだか」
「もう少しでございます」
「もう少しとは、どれだけだ」
「あと、五つ」
「三十三。三十四」
三十五を過ぎたところで、砂が来た。
舌の奥に、錘が置かれる。喉から胸へ、そこから腹へ落ちていく。銀舌の痺れの下に、灰塵の重さが敷かれた。
痺れが先。重さが後。
順序は、七年変わっていない。
同じ手だ。
——三年前なら、これで倒れなかった。
二十五を数えるあいだ舌の先が痺れて、それで済んだ。廊下へ出て、壁に手をついて、鐘が二つ鳴るころには足が戻った。
同じ量だ。同じ順序だ。
変わったのは、器のほうではない。
三、五、九。侍女頭の帳面の端に打たれた、あの小さな点。あれは、耐える体が年ごとに削れていく速さを、七年ぶんそのまま写した数だった。
削れたぶんは戻らない。戻らないところへ、また入れた。
七年、耐えるために飲んできた。飲み続けたから耐えられた。飲み続けたから、耐えられなくなった。
どちらも、同じ一つのことだった。
「四十」アルヴィスが言った。「四十一。四十二」
「お前」アルヴィスの声が途切れた。「汗をかいているぞ」
「厨房が、暑う、ございました」
「厨房を出て、鐘が鳴ったろう」
「盆がお重かったのでございましょう」セリカが言った。「随員様はお細くていらっしゃるから」
問いは、そこで止まった。
視界の端が、白く滲みはじめた。
見えなくなるのではない。白いものが、外側から内へ寄ってくる。
「もうよい」アルヴィスは言った。「数はやめる」
「お数えください」
「もう十分だろう」
「数がなければ、測れません」
「何を測る」
「……作法でございます」
数が、また始まった。
オリヴィアは卓に手を伸ばした。
薬包の紙を掴む。指が上手く閉じなかったので、掌で押さえて引き寄せた。折る。もう一度折る。端に結んだ黄の糸が、指の先に引っかかった。
袖に入れれば、必ず取り上げられる。
床にあるものは、掃かれるまで残る。
オリヴィアは折った紙を卓の縁から落とした。
紙は、卓の脚のあいだへ滑り込んだ。
「四十五。四十六」
セリカが動いた。
裾が石を鳴らして、卓のこちら側へ回ってくる。手袋をはめた手が、伏せていない椀のほうへ伸びた。
「お下げいたしますわ」
「そのままで」オリヴィアは言った。
声が、思ったより小さく出た。
「お粥の椀もでございます」セリカは言った。「随員様がお召し上がりになったものを、殿下のお目の前に置いておくものではありません」
「人を呼べ」アルヴィスは言った。
「侍従は皆、御用の間でございます」セリカは言った。
扉の両脇に二人立っていたのを、この部屋へ入る前に見ている。
この人は、また一人ずつ人をいないことにする。ベルタのときも、そうやって減らした。
「では、お前が行け」
「殿下をお一人にはできませんわ」
セリカは戸口へ行かなかった。
「五十」アルヴィスが数えた。「五十一。おい。もういいだろう」
「まだでございます」
オリヴィアは椀の縁へ指を伸ばした。届かなかった。腕が、思った場所へ行かない。
セリカの手が、二つの椀を盆へ戻した。
膜が、卓布に触れた音がした。
「五十五」
「まだか」アルヴィスが言った。
「まだ」
「聞こえん」
言い直す息がなかった。
オリヴィアは膝で体を支えた。支えているつもりで、上体が前へ落ちた。
卓の脚に肩が当たる。木の角が骨に触れて、その痛みだけが遠くで鳴った。
「おい」
寝台のほうで布の擦れる音がした。
「五十六だ。おい、まだ数えるのか」
「はい」
オリヴィアは顔を上げようとした。
上がらなかった。首の後ろに、重いものが載っている。
喉の奥から、酸いものが押し上がってきた。
乳と卵白が、上がってこようとしている。捕まえたものを連れて、外へ出ようとしている。
止めなかった。
オリヴィアは横を向き、口を開いた。
卓の脇の白い布の上へ、吐いた。
二度、三度。喉が焼けた。息の吸い方を体が忘れて、しばらく空気が入らなかった。
入ってきたとき、鉄と灰汁の匂いがした。
「誰か」アルヴィスの声が高くなった。「誰か来い」
「殿下、お動きになってはいけません」セリカが言った。「お体に障ります」
「あの女が倒れているだろうが」
「お薬が合わなかったのでしょう」セリカの声は落ち着いていた。「隣国の薬でございます」
「作法だと言ったぞ」アルヴィスは言った。「作法で人が倒れるか」
「お体が弱っておいでなのでしょう」
オリヴィアは石の床に頬をつけていた。
冷たさが、皮膚の一枚下までしか届かない。その先が痺れている。
白い布を、指で探した。指は動いた。動いているという感覚はなかったが、布の端が掌の内側に来た。
握った。
この布は、洗い場へ行く。
殿下の血の布と一緒に数えられて、あの帳面の欄に一つ書かれる。数えるのは、御用の間から戻ってきた人だ。
書いた者は、自分が何を書いたのかを知らない。
それでいい。
「五十七」
数える声が、まだ続いていた。
止めるのを忘れているのだ。
オリヴィアは唇を動かした。
声が出るかどうか、確かめる余裕はなかった。
「殿下」
「なんだ。おい、しっかりしろ」
息を集める。喉の奥の砂を押しのけて、そこへ空気を通す。
「今朝も」オリヴィアは言った。「問題は、ございませんでした」
七年、毎朝そう申し上げてきた。
嘘を言ったことは、一度もない。
視界の白いものが、内側まで来た。
最後に見えたのは、卓の脚のあいだだった。
折られた紙が一枚、床の上に落ちている。
端に結ばれた黄の糸が、朝の光を受けて、南の花の色をしていた。
持ち上げられた。
肩と膝の下に人の腕がある。歩幅が二つぶん、噛み合っていない。
顔が戸口のほうを向いたとき、部屋の中が一度だけ見えた。
卓の上に白木の盆が戻っている。伏せられていない椀が二つ。片方の底に、膜が乾きかけたまま残っていた。
戸が閉まって、それも消えた。
匂いが変わった。
薬と汗と血の匂いが薄れて、灰汁が来た。それから、洗い上がりの麻。
北棟へ下りている。
舌の奥の砂は、まだ重くなり続けていた。銀舌は退けば退く。灰塵は退かない。溜まるほうへしか動かない。
誰かが名を呼んでいる。呼んでいるが、どこから来る声か分からない。
「オリヴィアさま」
その声は知っていた。声だけが先に届いて、顔は追いついてこない。
「聞こえておいでですか」
答えたつもりだった。喉は動かなかった。
「桶を、そちらへ」
「湯は」
「熱いのを」
命じている声だった。この人が人に命じるのを、七年で一度も聞いていない。
袖の内側に、硬いものが当たっていた。
布に包んだ蝋の欠片が、二つ。
三日、と数えようとした。
三日置けば、層の境目が出る。十一日目だ。
本国から紙が戻るのは、十二日目。
一日、早い。
一日ぶんだけ、こちらが先に立つ。
その勘定が、頭の中で最後まで並んだ。
並んだところで、揺れが遠くなった。
灰汁の匂いが薄れていく。
袖の内側では、布に包まれた蝋の欠片が二つ、腕の骨に当たったままだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
盆の番の紙に名が一つしかないというのは、運ぶ手を一人にするということです。運ぶ手が一人なら、器に何が入っていても入れた者は一人になります。オリヴィアはそれを分かったうえで厨房へ行きました。分かっていても、行かなければ薬が届きません。
セリカは体だけを狙いませんでした。洗い場の届けは書き方を直され、宮廷医は繰り上げて城下へ送られ、書役は労をねぎらわれて暇になります。誰も罰されていないのに、紙だけが消えます。
彼女が飲んだ量は、三年前なら耐えられた量でした。七年、耐えるために毒を飲み続けた体が、その七年ぶんだけ削れています。侍女頭の帳面の三、五、九はそれを数えたものでした。
王太子は数を数えました。何を数えていたのかを、彼はまだ知りません。次話、彼が知ります。
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