第29話: 七年の答え合わせ
舌の奥の古釘が、正午を過ぎても退かなかった。
朝に匙の背から拭った滓は、いつもなら鐘が二つ鳴るあいだに薄れる。今日は三つ鳴っても、舌の付け根に錘のまま残っていた。
器へ落とされる量が、昨日よりまた増えている。
オリヴィアは水を含み、吐き出した。味は動かなかった。
窓の下の道に人影はない。東の門から馬車の音が消えて、半刻が経っていた。
戸が二度叩かれた。
開けると、帳面を抱えた侍従が立っている。今日は下男を連れていなかった。
「お部屋を、お引き渡し願います」侍従は言った。
「刻限は正午と伺っておりました」
「正午は過ぎております」
侍従は帳面を開かなかった。開く用がないのだと分かった。
「どちらへ参ればよろしいでしょう」
「伺っておりません」
「城の外でしょうか」
「そこまでは承っておりません」侍従は言った。「わたくしは、お部屋を空けていただくよう申しつかっただけでございます」
「では、空けます」
オリヴィアは部屋を見回した。持ち出すものは何もない。旅装も道具袋も履物の袋も、朝のうちに門へ運び出されている。袖の内に白い包みが一つあるだけだった。
「随員殿」侍従はそう言いかけて、言い直した。「……レイヴンズクロフト様」
呼び名が変わるのに、半日もかからなかった。
「城の中で、手の足りぬところはございますか」
侍従の筆が止まった。
「何と仰いました」
「働き手の足りぬ場所を伺っております」オリヴィアは言った。「薬を扱えます。洗い物もできます」
「……そのようなお尋ねを書く欄が、わたくしの帳面にはございません」
「では、書かずにお答えください」
侍従はしばらく黙っていた。それから廊下の先へ目を投げた。
「北棟の洗い場は、いつでも足りておりません」
「ありがとうございます」
オリヴィアは頭を下げ、戸を出た。
背後で戸が閉まり、鍵の落ちる音が続いた。七日のあいだ客だった部屋は、それで終わった。
灰汁の匂いは、階を下りきる前に届いた。
昼のこの時刻の洗い場は、朝より湯気が濃い。麻布の山が窓を塞ぎ、床の白さだけが手前まで伸びている。
侍女頭は桶の前に立っていた。オリヴィアの足音で振り返り、そのまま動かなくなった。
「お発ちになったと伺いました」
「乗りませんでした」
「……馬車は出たと」
「出ました」オリヴィアは言った。「わたしを乗せずに」
侍女頭は濡れた手を前掛けで拭いた。何度も拭いた。
「お部屋は」
「引き渡しました」
「お荷は」
「東の門から、国境へ向かっております」
侍女頭は湯気の向こうでオリヴィアの顔を見ていた。長く見ていた。
「手が足りぬと伺いました」オリヴィアは言った。「置いていただけませんか」
「あなたさまは、伯爵家のご息女でございます」
「婚約を解かれた娘です」オリヴィアは答えた。「この城で、それ以上の名を持っておりません」
侍女頭は答えず、棚から前掛けを一枚取ってきた。糊の落ちた、洗い場の者の前掛けだった。
「湯が熱うございます」侍女頭は言った。「手を、お気をつけくださいませ」
「はい」
オリヴィアは前掛けの紐を後ろで結んだ。手を上げて結ぶ形が、七年前に匙の帯を締めていた形と同じだった。
「一つ、お願いがございます」
「なんでございましょう」
「帳面を、見せてください」
侍女頭の指が前掛けの端を掴んだまま止まった。
「洗い場の、でございますか」
「三年ぶんと伺いました」
「あれは、洗い物の員数を書いているだけでございます」
「員数を伺いたいのです」
侍女頭は棚を見上げ、それから戸口へ回って戸を閉めた。閂まで下ろした。この人が昼に戸を閉めるのを、七年で一度も見たことがなかった。
卓の上に、綴じ帳が三冊置かれた。
どれも角が丸くなり、背の糸が二本ばかり切れている。湯気に晒され続けた紙は、めくると指に張りついてきた。
「年ごとに一冊でございます」侍女頭は言った。「暮れに新しいのを綴じます」
「開けてもよろしいですか」
「わたくしがめくります」侍女頭は椅子を引いた。「紙が弱っておりますので」
侍女頭は椅子に腰を下ろした。この人が座るところを見るのも、はじめてだった。
「まず、この七日を伺えますか」
いちばん上の一冊が開かれた。指が右の端を上から下へ辿っていく。
「使節の方々がお入りになった日から、でございますね」
「はい」
「初日、殿下、血の布三枚」侍女頭は読み上げた。「二日目、三枚。三日目、三枚」
「四日目は」
「九枚でございます」
オリヴィアは息を吸い、そのまま止めた。
「もう一度、伺わせてください」
「三日目まで三枚。四日目から九枚でございます」侍女頭は指を止めた。「五日目が九枚、六日目が十一枚。今朝は十二枚出ております」
舌の付け根で、朝の古釘がまた重くなった気がした。
三日目の夜、器から膜を採った。舌に載せて数を取り、十を数える前にしびれが退いた。六日目の朝の滓は二十五まで残った。
厚みが変わったことは分かった。いつ変わったかは、分からなかった。
自分が数を取ったのは三日目と六日目の二度きりだからだ。その間の四日目と五日目、器に何が置かれていたかを測る舌を、自分は持っていなかった。
紙のほうが、持っていた。
「四日目」オリヴィアは言った。
「四日目でございます」
「その日から、匙が深くなったのですね」
「匙……でございますか」
「量です」オリヴィアは言い直した。「殿下の器に落とされている量が、四日目から増えています」
侍女頭は帳面から目を上げなかった。
「昨日、宮廷医の先生に伺いました」オリヴィアは続けた。「二日前から朝の血が増えた、と仰いました」
「昨日の二日前は、四日目でございます」
「はい」
「同じ日でございますね」
「先生は日をお数えになっておりません」オリヴィアは言った。「二日ばかり前、と仰っただけです。日を持っているのは、この帳面のほうでございます」
侍女頭は帳面の四日目の行を指で押さえた。押さえたまま、動かさなかった。
「先生は、洗い場の数をご存じでしょうか」
「一度も、お尋ねになったことはございません」
「わたしは先生の見立てを、この帳面より先に伺っておりました」オリヴィアは言った。「けれど、日を突き止めたのは帳面のほうです」
「布の数は、嘘をつきませんので」
「今朝、そう伺いました」
侍女頭の指が、紙の上でわずかに震えた。
湯気が天井へ上がり、窓の桟に水滴が並んでいく。廊下の奥で誰かが桶を引きずる音がした。
「四日目に、何かございましたか」オリヴィアは尋ねた。「盆の番でも、厨房の采配でも構いません」
侍女頭は左の欄を辿った。
「番は、日ごとに替わっております」侍女頭は答えた。「三日目はミナ、四日目はロッテ、五日目がまたミナでございます」
「戻っております」
「四人を回しております」侍女頭は言った。「決まりはございません」
「では、盆の手ではありません」
運ぶ娘が替わっても匙の深さが変わらないのなら、深さを決めているのは運ぶ手ではない。番の紙のほうだ。紙は毎朝ひとつの部屋から出てくる。
オリヴィアは間を置き、次を頼んだ。
「三年、遡らせてください」
「殿下の血の布が、はじめて出た日を探します」
「探すまでもございません」侍女頭は言った。「わたくしは、その日を覚えております」
「それでも、紙で見せてください」
いちばん古い一冊が引き出され、卓の上で開かれた。
紙の上のほうに欄が並び、右へ寄ったところが白いままになっている。日付と、洗った麻の数と、番の名。殿下の欄だけが、下へ下へと空いて続いていた。
何枚めくっても、白かった。
「一年、一枚も出ておりません」
「その前の年も」
「一枚も」侍女頭は次の一冊へ移った。「紙で残っておりますのは、この三冊きりでございます」
「その前は」
「暮れに燃やす決まりでございます」侍女頭は答えた。「ですが、つけはじめて七年になります。殿下の欄に書いたことは一度もございません」
「紙は、ございませんね」
「わたくしの手が覚えております」
去年の一冊も、殿下の欄は空いたままだった。
三冊目が開かれた。今年の一冊だ。指が半ばまで下りたところで止まった。
白い欄が、そこで終わっていた。
「あなたさまがお発ちになった、翌朝でございます」侍女頭は数字を読んだ。「殿下、血の布二枚」
「次の日は」
「四枚。その次が五枚」侍女頭はめくった。「そこからは、切れておりません」
白紙の欄と、埋まった欄の境目に、指が置かれたまま動かなかった。
紙で辿れるのは三年ぶん。その前の四年は、この人の手が覚えているだけだ。
どちらにしても、白かった。
その七年、自分は毎朝あの部屋で膝をつき、器を持ち上げ、蓋の裏へ指を添えて匙を運んでいた。誰にも見せない手つきで中身を入れ替え、飲み下し、それから頭を下げた。
白い欄は、その手つきの跡だった。
自分は一度も書かなかった。書かないと決めていた。書かなかった七年ぶんを、この人が別の帳面に書いていた。
「オリヴィアさま」侍女頭が言った。「お尋ねしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「七年のあいだ殿下のお血が一枚も出なかったのは、なぜでございましょう」
湯の面が桶の中で小さく鳴った。
「わたしは毎朝、こう申し上げておりました」オリヴィアは言った。「今朝も、問題はございませんでした」
「存じております」
「ほんとうでございました」オリヴィアは続けた。「殿下には、問題はございませんでした」
侍女頭は口を開き、何も言わずに閉じた。
それから帳面の右の端へ、指を移した。
「では、こちらを伺わせてくださいませ」
指の先には、行の端に打たれた小さな点があった。
墨が薄い。爪の先ほどの、丸くない点だった。
「これは」
「わたくしが打っております」侍女頭は言った。「あなたさまのお召し替えが出た日に、一つずつ」
オリヴィアは点を見た。点は、下へ幾つか続いていた。
「なぜ、点を」
「気にかかったからでございます」侍女頭は答えた。「そのほかに、理由はございません」
「数えておいでですか」
「一昨年が三日でございます」侍女頭は帳面を替えた。「去年が五日。あなたさまがお発ちになるまでの半年が、九日でございます」
紙をめくる音のあいだに、頭の中で数が並んだ。
三、五、九。
「増えております」侍女頭は言った。「なぜでございましょう」
オリヴィアは答えなかった。答えを持っていた。
二年前の秋に、この城へひとり入ってきた。盆の番を日替わりに改め、ベルタを門の外へ出し、毒見役の目が何を見ているかを測った。
そして、匙を深くした。
三が五になり、五が九になった。器の底の膜は年ごとに厚くなり、それを毎朝すくい取っていた体が、年ごとに多く倒れていた。
自分では気づけなかった。毎日のことは、比べる相手がいない。昨日と今日はいつも同じに見える。
比べていた人が、ここにいた。
「三年で、十七日ございます」侍女頭は帳面を閉じずに言った。「殿下は、七年で零日でございます」
二つの数が、卓の上で向かい合った。
「オリヴィアさま」
「はい」
「わたくしは、洗い場の者でございます」侍女頭は言った。「毒のことは分かりません」
「はい」
「ですが、零と十七は分かります」
喉の奥が狭くなった。
七年、誰にも渡さなかったものが、この人の紙の上では二つの数字になっていた。
侍女頭は膝の上へ両手を戻し、そのまま動かなくなった。桶へ落ちる滴りの音だけが、間を埋めていた。
背筋はまっすぐに伸びたまま、肩だけが小さく上下していた。
「十三の秋に、廊下で倒れられたことがございました」侍女頭は言った。「毒見のあとはいつもこうだと、あなたさまは仰いました」
「申しました」
「あのとき、わたくしは信じました」
「信じてくださって、助かりました」
「助かったのは、わたくしのほうでございます」侍女頭の声が掠れた。「信じておけば、それ以上を考えずに済みますので」
オリヴィアは何も言わずに頭を下げた。
深く下げて、しばらくそのままでいた。
「この帳面がなければ、日は分かりませんでした」
「数えていただけでございます」
「数えていただけの紙が、いちばん強うございます」オリヴィアは頭を上げた。「作れませんので」
卓の上には、三冊の綴じ帳が並んでいる。
オリヴィアはその前に立ったまま、七日のあいだ繰り返してきた勘定をもう一度やり直した。
殿下は毒など出ぬと仰る。宮廷医の言葉は愚痴として扱われている。記録官は台帳を開かない。侍従は書く欄がないと言う。
誰にも耳がない。七日、そう思ってきた。
思い違いだった。
耳を探していたのが間違いだったのだ。この城に、話を聞く者はいない。だが、数を書く者ならどの部屋にもいる。洗い場は布を数え、調薬の間は壺を数え、御用の間は紙の届いた日を数えている。みな別々の用のために、別々の帳面へ、毎日ひとつずつ書いている。
書いた者は、自分が何を書いたのかを知らない。
一枚では何にもならない。二枚でも足りない。三枚が同じ日を指したとき、その一致は誰にも作れなくなる。
わたしの言葉なら、恨みごとになる。恨みごとにしないためには、わたしが何も言わなければいい。
「侍女頭」オリヴィアは言った。「洗い場から、御用の間へ紙を出したことはございますか」
「員数の届けを、月に一度」
「決まった書き方がございますか」
「五の日までに、前の月ぶんを書いて出しております」侍女頭は答えた。「布の数と、糊と灰汁の使いようを」
「日ごとの数は、書きますか」
「まとめて書いております」侍女頭は言った。「一月で何枚と」
「今月は、日ごとにお書きください」
侍女頭が顔を上げた。
「まだ十日も残っております」
「今日お出しください」オリヴィアは言った。「布が増えて灰汁が足りません、と」
「……それは、ほんとうでございます」
「ほんとうのことしか書きません」オリヴィアは言った。「灰汁がどれだけ足りぬかを書くには、日ごとの枚数を並べるしかございません」
侍女頭はしばらく帳面を見下ろしていた。
「三日目まで三枚、四日目から九枚」侍女頭は言った。「並べれば、目に入ります」
「はい」
「並べたことを、咎められましたら」
「灰汁の話でございます」オリヴィアは答えた。「洗い場の届けに、書いてはならぬ数はございません」
侍女頭は膝の上で手を握り直し、立ち上がった。
「わたくしの名で出します」
「お願いいたします」
「あなたさまのお名は」
「どこにも書きません」オリヴィアは言った。「一字も」
侍女頭は答えず、棚から新しい紙を下ろした。
干した根を砕いた粉の匂いが、蓋を持ち上げる前から漏れていた。
鼻の奥を苦みが刺す。埃じみた甘さが後を追ってこない。粉が古い。底のほうを掻いた分だけ、香りの軽い屑が上に浮いている。
調薬の間の棚は、三日前より隙間が増えていた。
「また来たのか」
宮廷医が卓の向こうに立っていた。外套の胸に、乾いた血の点が二つ落ちている。
「明日の朝の薬を、調えさせてください」オリヴィアは頭を下げた。
「隣国へ発ったのではないのか」
「発ちませんでした」
「馬車は出たと聞いた」
「乗らなかっただけでございます」
宮廷医は口を開きかけ、そのまま卓の椅子へ腰を落とした。
「わけは訊かん」宮廷医は言った。「訊いても、私にはどうにもできん」
「材料を、お分けいただけますか」
「棚のものは好きに使え」宮廷医は棚を顎で示した。「もっとも、残っておらんがな」
「足ります」オリヴィアは前掛けを掛け直した。「一包ぶんで結構です」
薬研を引き寄せ、根を割り、粉の粗さを指で確かめる。手が動いているあいだ、宮廷医は何も言わなかった。
「先生」オリヴィアは手を止めずに言った。「壺の補充は、どちらへ願い出られますか」
「御用の間だ」
「紙で」
「紙だ」宮廷医は肩をすくめた。「ここは、水を汲むのにも紙が要る」
「控えは、お手元に」
「控えは向こうが取る」宮廷医は言った。「こちらは書いて渡すだけだ」
「何度お出しになりました」
「今月か」宮廷医は指を折った。「四度だ」
「日を、覚えておいでですか」
「覚えておらん」宮廷医は言った。「だが向こうの帳面には日が入る。あれは日だけは律儀に書く」
薬研の音が止まった。
「四度でございますね」
「三度目までは通った」宮廷医は苦い顔をした。「四度目は、まだ返事がない」
「四度目は、いつでしょう」
「三日ばかり前だ」宮廷医は天井へ目をやった。「壺が二日で底を見た朝だ。あれで肝を潰して、その足で出した」
三日前。
洗い場の四日目と、同じ日だった。
器へ落とされる量が増えた朝、宮廷医の壺も同じだけ早く空になっている。あの棚から掬い出している手は、殿下の器に匙を入れている手と同じ速さで動いている。
「先生」オリヴィアは薬研から手を離した。「もう一度、お出しください」
「補充願をか」
「はい」
「出しても通らん」宮廷医は言った。「四度目が止まっているのに、五度目に何の意味がある」
「通らなくて構いません」
宮廷医が眉を上げた。
「出した日が残ります」オリヴィアは言った。「先生の言葉は愚痴として扱われております。ですが、先生がお出しになった紙は愚痴ではございません。日付がついております」
「……日付か」
「今月、四度お出しになりました。三度は通り、四度目から止まっております」オリヴィアは続けた。「止まった日が、量の増えた日と重なっております」
宮廷医は椅子の上で身じろぎをした。
「重なるとして、それが何になる」
「重なったという事実を、誰かが紙にしなければなりません」
「誰かとは」
「御用の間でございます」オリヴィアは言った。「向こうは、日だけは律儀に書くのでしょう」
宮廷医はしばらく黙っていた。それから乾いた声で笑った。
「私が四度断られたのは、器を検めよと書いたからだ」宮廷医は言った。「あれを書くと、紙は上がらん」
「今度は、お書きにならないでください」
「書くなと」
「壺が二日で底を見ます、とだけ」オリヴィアは言った。「あとは日を並べてくださいませ」
「毒の字を、一つも入れずにか」
「一つも」
宮廷医は外套の裾を握り、それを見下ろしていた。胸の血の点は、拭った跡が乾いて広がっている。
「三人がかりで、目安ひとつ立てられなかった」宮廷医は言った。「そう言ったのを、覚えているか」
「覚えております」
「目安を立てぬまま、患者が痩せていくのを毎朝見ている」宮廷医は立ち上がった。「筆なら、まだ持てる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」宮廷医は棚から紙を下ろした。「壺の話だ。医者が壺の話をするのに、礼は要らん」
オリヴィアは砕いた根を掌へ落とし、粗さを指の腹で確かめた。
粒は揃っていた。
御用の間は、廊下の突き当たりにあった。
紙と埃と、古い糊の匂いがする。棚に綴じ帳が背を並べ、窓は高いところに一つきりだった。
書役は卓の奥に座っていた。老いた男で、右の袖口だけが墨で黒い。
「員数の届けでございます」侍女頭が紙を置いた。
「五の日までのはずだが」書役は紙を引き寄せた。「早いな」
「灰汁が足りませんので」
「足りぬ話は月末に書け」書役は言いかけて、紙の下のほうへ目を落とした。「……これは、日ごとに書いてあるな」
「灰汁の要りようを申し上げるには、日を並べるしかございませんでした」
書役は紙を光へ寄せた。読む速さが、途中から落ちた。
「三枚、三枚、三枚」書役は数を追った。「九枚」
「四日目でございます」
書役は紙を卓へ戻し、こちらへ目を向けた。
「そちらは」
「薬壺の補充願でございます」宮廷医が紙を差し出した。「五度目だ」
「四度目の返事は、まだ上へ回っております」
「知っている」宮廷医は言った。「五度目を出しに来た」
「同じ願いを重ねて出されても、扱いは変わりませんが」
「変わらんでいい」宮廷医は言った。「日を書け」
書役は補充願を受け取り、日付の欄を確かめた。それから帳面を開き、筆に墨を含ませ、書き入れた。
その手が、途中で止まった。
書役は筆を持ったまま、卓の上の二枚を並べ直した。員数の届けを左に、補充願を右に。
「……同じ日だ」
部屋の中で、誰も動かなかった。
「洗い場の布が三枚から九枚になった日と」書役は左を指した。「壺が二日で底を見た日が、同じだ」
「さようでございますか」侍女頭が言った。
「さようでございますか、ではない」書役は紙から目を離さない。「洗い場と調薬の間は、帳面を突き合わせておらんだろう」
「一度も」侍女頭は答えた。
「先生は、洗い場の数をご存じでしたか」
「知らん」宮廷医は言った。「布の枚数など、聞いたこともない」
書役は筆を置いた。
オリヴィアは戸の内側に立ったまま、一言も口をきかなかった。
三人のうち、二人が紙を出した。自分は紙を持っていない。名も書いていない。
卓の上で並んだのは、洗い場の届けと薬壺の願いだけだった。
「もう一つ、伺わせてくださいませ」侍女頭が言った。
「なんだ」
「毒見の役を置かぬという触れが、こちらから回りました」侍女頭は言った。「あの触れは、いつ出たものでございましょう」
書役の手が、棚のほうへ動いた。
「なぜ、それを訊く」
「読み上げていただいたのが、わたくしどもでございますので」
書役は椅子を鳴らして立ち、棚から一冊を抜いた。埃が薄く舞った。
しばらく紙をめくる音だけが続いた。
「あった」書役は言った。「これだ」
「日は」
書役は日付を読み上げた。
そして、読み上げたまま黙った。
左の紙へ目を戻し、指で行を辿り、上へ戻って、また下りた。
「……三日だ」書役は言った。
「三日でございますか」
「殿下の血の布が出はじめて三日目に、この触れが出ている」書役は帳面を卓へ置いた。「そう並んでいる」
「はじめて出た日は、どちらに」
「洗い場の届けの端に、書き添えてある」書役は左の紙の下を指した。「日付だけな。綴じ帳は洗い場から出せぬそうだ」
「見に行かれますか」
「行く」書役は言った。「読んだと書く以上、紙は自分の目で見る」
書役はその三つを、卓の上で横一列に並べ替えた。
毒見役を置かぬという触れ。日ごとの血の布。二日で底を見る壺。
書かれた場所も、書いた者も、書いた用も、三つとも違う。
「城が殿下のお血を知ってから、三日で器を覗く役が消えております」オリヴィアは言った。
はじめて口をきいた。
書役が顔を上げた。
「そなたは」
「レイヴンズクロフトの娘でございます」
「随員殿ではないのか」
「名簿から落ちました」オリヴィアは答えた。「今は洗い場におります」
書役はオリヴィアの前掛けを見た。糊の落ちた麻の前掛けだった。
「洗い場の者が、なぜここに立っている」
「員数の届けを運んでまいりました」
「運ぶだけの者が、触れの日を数えるか」
「数えたのは、書役様でございます」
書役は口を閉じた。
窓の高いところから落ちる光が、卓の三枚を斜めに横切っていた。
「私は、紙を読むだけの者だ」書役は言った。
「存じております」
「触れを読み上げたのも私だ。名の書かれておらぬ紙を、そのまま読んだ」書役は帳面の端を押さえた。「書いてあるとおりに読むのが、私の役目だからな」
「はい」
「三十年、そうしてきた」書役は言った。「順序が悪い紙を、はじめて見た」
「悪うございます」
「悪い」書役は繰り返した。「これは、順序が悪い」
書役は三枚を揃え、綴じ紐の端を指で撫でた。それから墨壺の蓋を開け、筆を取った。
「上へ上げる」
「通りますでしょうか」
「通らんだろうな」書役は書きながら言った。「四度目も止まっている」
「では、なぜ」
「読んでしまったものを、読まなかったことにはできん」書役は筆を止めずに言った。「私にできるのは、読んだと書くことだけだ」
筆が紙の上を走った。日付が入り、届け出た者の名が入り、突き合わせた旨が短く添えられた。
その一行が、この七日で最初に城が残した形だった。
「一つだけ、お願いがございます」オリヴィアは言った。
「なんだ」
「控えを、二通お作りください」
書役の筆が浮いた。
「一通は上へ。もう一通は、この部屋の棚に」オリヴィアは言った。「上へ行った紙は、戻ってこないことがございます」
書役はしばらくオリヴィアを見ていた。
「洗い場の者が言うことか」
「洗い場は、布を一枚も失いません」オリヴィアは答えた。「数えたものを失うのは、いつも上でございます」
書役は笑わなかった。ただ、新しい紙を一枚引き寄せた。
「二通、作る」
廊下に出ると、光の向きが変わっていた。
午後が傾いている。石の壁が昼のあいだ吸った熱を、足元から返していた。
侍女頭は洗い場へ、宮廷医は居室へ戻っていった。オリヴィアは一人で北棟へ折れた。
角を曲がったところで、甘い香が来た。
花より前に、冷たい一本が立っている。今朝より濃い。
セリカは廊下の中ほどに立っていた。手に紙を一枚持ち、それを読みながら歩いてきたところで足を止めている。
笑みは作られていなかった。
作る必要を、もう認めていない顔だった。
「三通ね」セリカは言った。
「はい」
「洗い場の員数と、薬壺の願いと、御用の間の突き合わせ」セリカは紙から目を上げなかった。「上がってきたのが早いこと」
「まだ半刻も経っておりません」
「この城の紙は、みなわたくしの部屋を通るの」セリカは言った。「二年前からね」
「存じております」
セリカは紙を下ろし、はじめてこちらを見た。
琥珀の目に、潤みはない。中庭の光を受けても濡れないたちの目だった。
「あなたの名が、どこにもないわ」
「書く欄がございませんでしたので」
セリカの喉から、笑い声にならない息が短く落ちた。
「上手なこと」セリカは言った。「洗い場の女と、老いた医者と、紙しか読まない年寄り。誰が読んでも、恨みごとには見えないわね」
「三人とも、ご自分の用を書いただけでございます」
「ええ」セリカは言った。「そこが厄介なの」
廊下の先で、水を運ぶ足音が近づいて、また遠ざかった。
「止めることは、おできになります」オリヴィアは言った。「四度目のように」
「止めるわ」セリカは即座に答えた。「明日には止まるでしょうね」
「はい」
「あなた、それを承知で出したの」
「承知しております」
「止められると分かっていて、なぜ出すの」
「止まった紙にも、日付がございます」オリヴィアは言った。「出た日と、止まった日と、止めたあとで何が起きたか。それだけは、あとから作れません」
セリカは黙った。
紙を持つ指が、縁のところで一度だけ丸まった。
「あなた、七年もこの城にいたのね」セリカは言った。「それだけの手を持っていて、一度も使わなかった」
「使う相手がおりませんでした」
「今はいるの」
「作りました」
セリカの視線が、はじめて足元から上がった。
「言い方が変わったのね」
「はい」
セリカは廊下の窓のほうへ体を向けた。ドレスの裾が石の上で乾いた音を立てる。
「明日の朝、殿下がお会いになるわ」
オリヴィアは動かなかった。
「どなたのお決めでしょう」
「殿下がご自分でお決めになったの」セリカは言った。「わたくしは何も申し上げておりません」
今朝と同じ言い方だった。同じ言い方を、同じ間合いで置いてくる。
「お薬をお持ちいたします」オリヴィアは言った。
「お持ちなさい」セリカは歩き出した。「ご自分でお作りになったのでしょう」
「はい」
「よろしいこと」セリカはすれ違いざまに言った。「その薬を、いちばんにお試しになるのはどなたかしら」
足音が遠ざかった。
香は廊下に残った。花も蜜も薄れ、金気だけが石の壁に貼りついている。
嗅ぎ慣れた匂いのはずだった。今日は、鼻の奥ではなく喉に落ちてきた。
夜、洗い場の脇の小部屋に、寝床が一つ用意された。
麻布を積み上げた棚の下の、桶を置くための部屋だった。窓はない。灯りは獣脂の一本きりで、燃やせば灰汁の匂いに脂の匂いが混じる。
オリヴィアは寝床の縁に腰を下ろし、明日の朝の薬包を膝の上に置いた。
封の蝋は落としてある。運ぶまでに、もう一度自分で検める。
戸が細く開いた。
「オリヴィアさま」
侍女頭が湯の椀を持って立っていた。
「先生が、城下へ移られるそうでございます」
オリヴィアは顔を上げた。
「いつでしょう」
「明後日でございます」侍女頭は椀を卓へ置いた。「療養所の手が足りぬので、しばらく詰めていただきたいと」
「どなたのお指図で」
「触れが回りました」侍女頭は言った。「名は書かれておりません」
「先生は、なんと」
「よい歳の取り方だと仰って、笑っておいででした」
二日ある。明日の朝と、明後日の朝。
その二つを過ぎれば、この城で壺の減りを数える者はいなくなる。
「わたくしも、御用の間へ呼ばれました」侍女頭は続けた。「明日の朝でございます」
「なんの御用でしょう」
「員数の書き方について、伺いたいことがあると」
紙は止まる。書いた者は動かされる。
思ったとおりの手だった。思ったとおりに動いてくれるなら、それでいい。動いた手は、動いた形をそのまま残していく。
「行ってください」オリヴィアは言った。「呼ばれたら、行ってくださいませ」
「叱られてまいります」
「叱られた日も、帳面にお書きください」
侍女頭は少し笑った。この人が笑うところを、七年で数えるほどしか見ていない。
「湯を、お飲みくださいませ」
「いただきます」
侍女頭は戸口で立ち止まり、それから振り返った。
「もう一つ、届いております」
差し出されたのは、指二本ぶんの幅の紙だった。
「明日の盆の番でございます」侍女頭は言った。「いつもは朝いちばんに参ります。今夜のうちに届きました」
オリヴィアは紙を受け取った。
薄い。透かせば向こうの灯りが見える紙だった。
いつもなら、四人ぶんの名が並んでいる。厨房から居室までの受け渡しを、幾人にも分けるための紙だ。
今夜の紙には、一つしか書かれていなかった。
オリヴィア・レイヴンズクロフト。
姓まで書いてある。この城で自分の姓が紙に書かれたのは、婚約を解かれた日の沙汰書きが最後だった。
「……これは」侍女頭が紙を覗き込んだ。「あなたさまが、お一人で」
「厨房から、殿下のお部屋まで」
「途中で下ろしてはならぬ決まりでございます」侍女頭は言った。「立ち止まってもなりません」
「存じております」
「では明日の朝、殿下のお膳に触れる手は」
「わたし一人でございます」
紙を持つ指の先が、少し冷たくなっていた。
毒見の役は置かれていない。役はないまま、器を運ぶ手だけが戻された。
運んだ手が一つなら、器に何が入っていても、入れた者は一人しかいないことになる。
紙は、そう書いてあった。
「お断りになれませんか」侍女頭が言った。
「断る先がございません」オリヴィアは紙を膝へ置いた。「名を書いた方の名が、書いてございませんので」
侍女頭は何か言いかけて、湯の椀を卓の中央へ押した。
「お休みくださいませ」
戸が閉まった。
オリヴィアは獣脂の火に紙を近づけ、もう一度見た。
筆の運びは丁寧で、迷いがない。姓の頭のところで一度だけ、墨が濃く溜まっている。書き出しに力を入れる癖だった。
袖から白い包みを出し、結び目を解く。黄の糸が一本、布の折り目に横たわっていた。
糸を紙の上に置いてみる。
南でしか咲かない花の色が、自分の名の上に細く伸びた。
この糸を刺していた指が、この名を書いた。
明日の朝、その二つが同じ器の前で出会う。
オリヴィアは糸を布へ戻し、包みを袖へ落とした。
薬包を膝から卓へ移し、灯りを消す。
闇の中で、紙は膝の上に残っていた。
薄い紙に、名が一つきり書かれていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
証拠が揃っても、受け取る手がなければ何も動きません。オリヴィアが七日かけて突き当たったのはそこでした。彼女が出した答えは、聞く耳を探すのをやめることです。この城の誰も話を聞きませんが、数を書く者はどの部屋にもいます。洗い場は布を数え、調薬の間は壺を数え、御用の間は日付を書く。三つが同じ日を指した瞬間、その一致は誰にも作れなくなります。
彼女は自分の名を一字も書きませんでした。書けば恨みごとになるからです。だから紙を出したのは洗い場と医者で、突き合わせたのは紙しか読まない書役でした。
七年ぶんの答え合わせは、侍女頭の帳面の端に打たれた点でした。理由も知らずに七年つけられていた小さな印が、零と十七という数字になって返ってきます。彼女が黙って引き受けたものは、別の人の手で、ずっと数えられていました。
紙は明日止まります。それは織り込み済みです。ただ、盆の番の紙に名が一つしか書かれていないことまでは、彼女も読み切っていませんでした。次話、器が来ます。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、続きを書く大きな励みになります。




