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『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


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第28話: 用済みにされた理由

 えぐみが先に来て、そのあとから冷えた甘さが残った。


 北の土の味だった。二日前、市の幕の内で舐めたときと順序まで同じだ。


 オリヴィアは薬研の柄を止めた。舌が味を追いかけているあいだに、耳のほうが別のものを拾っていた。


 あの老商人の言葉を、自分は半分しか持ち帰っていない。


「——表沙汰にならぬお子の話はどの家にもございますが」


 声は、そこから続いていた。


「お披露目までされたご令嬢のお名を、私が知らぬはずはございません」


 二日のあいだ、後ろの一句だけを覚えに書き写していた。北方ヴェスパー男爵領に、セリカという令嬢は存在しない。それで確かになったことにして、先へ進んだ。


 前の一句を、卓の上に置き忘れていた。


 窓はまだ暗い。使節が王都に入って七日目の、夜明け前だった。


 オリヴィアは灯りを引き寄せ、覚えの紙を広げた。


 あの人は、二つのことを分けて答えている。帳面に載る子のことは知っている。載らない子のことは知らない。三十年通った家の内でも、そこだけは覗けない。


 ——セリカという令嬢は存在しない。


 この一行は、セリカという人間があの家にいない、とは言っていない。


 令嬢に数えられなかった子は、はじめから数の外にいる。


 喉の奥が乾いた。水を含んでも、渇きは動かない。


 覚えの上から順に、指でなぞる。突然の登場。急死した後見人。二年の音信不通。登録のない紋。北を騙る南の花。


 五つとも「偽りの名」という一点へ向けて並べてあった。並べ直せば、別の一点へも同じだけ揃う。


 文が来ないのは、書く実家がないからではない。書いてよい子だと、あの家が一度も認めなかったからだ。


 紋が辿れないのは、家がないからではない。もらえなかったからだ。


 後見人が急死したというのは、名を保証する口がひとつ消えたということで、同時に、保証を頼める先がその一人しかなかったということでもある。


 二つの読み方が、同じ紙の上で並んだ。


 選ばせたのは、襟の柑橘だった。


 名を一から拵えるなら、生まれた土地は好きに選べる。選べるなら、自分の育った土地を選ぶ。訛りも、草の名も、季節の話も、そうすれば何ひとつ嘘をつかずに済む。人を欺く手を仕込まれた者が、わざわざ自分の肌と食い違う土地を名乗る道理はない。


 あの令嬢は北を名乗った。そして、南でしか咲かない花を襟に留めていた。


 土地のほうが、あとから選ばれている。


 先にあったのは名だ。名が先にあって、生まれの話は名に合わせて後から作られた。だから合わせ損ねが襟に残った。


 都合で借りた名を、人はそこまで抱え込まない。


 オリヴィアは覚えの端を押さえた。指の下で紙が浅く波打つ。


 あの人は、名を騙っていない。


 取り返しに来ている。


 それでも、繋がったのは家の話までだった。帳面に載らなかった子が、その帳面を憎むのは分かる。憎む先は正妻の子であって、王太子の器ではない。


 卓の隅には、白い布の包みが置いてある。二つの蝋の欠片と、匙から拭った滓の布。


 橋は、まだ架かっていなかった。




 灰汁と洗い上がりの麻の匂いが、部屋いっぱいにこもっていた。


 城の北棟の、洗い場に続く低い部屋である。積み上がった麻布の山が窓の光を遮って、床の高さだけが白い。


 侍女頭は、卓の前で布を畳んでいた。オリヴィアが戸口に立っても、手は止まらなかった。


「今日でございますね」侍女頭は畳んだ一枚を山へ重ねた。


「正午に発ちます」オリヴィアは戸を閉めずに残した。「四つだけ、伺わせてください」


「手は動かしたままで、よろしゅうございますか」


「そのままで」


 麻の角が合わされ、また合わされる。話し声より布の音のほうが大きい部屋だった。


「盆の番を書いた紙は、どなたから届きますか」


「セリカ様のお部屋付きの方が、朝いちばんに持ってまいります」


「ずっとそうですか」


「二年前の秋からでございます」


 布の音が、二度続いた。


「それより前は」


「決まった二人が運んでおりました」侍女頭は次の一枚を広げた。「五年、同じ二人でございました」


「そのお二人は、今も城に」


「一人は嫁ぎました」侍女頭は答えた。「もう一人は、暇を出されました」


「いつでしょう」


「二年前の秋でございます」


「日替わりに改まったのは、どういう話でしたか」


「厨房の采配が改まった折にと伺いました」侍女頭は答えた。「一人に負わせては気の毒だから、と」


 気の毒だから。


 毎朝ちがう娘が盆を持つほうが、殿下の身は安くなる。誰が触れたか分からなくなるからだ。安くなるのを承知で改めた者がいる。しかも、この城の誰ひとり毒を疑っていなかった年に。


 オリヴィアは戸口から一歩、卓のほうへ入った。


「先ほどの、暇を出されたという方は」


「ベルタでございます」侍女頭は言った。「ベルタと申しました」


 名を聞いた途端に、顔のほうが先に戻ってきた。


 毒見の盆を運んできて、いつも一歩下がって待っていた娘だ。五年のあいだ、毎朝すれ違っていた。


 名を、一度も尋ねなかった。


「どのような方でしたか」


「不器用な子でございました」侍女頭は袖口を肘まで押し上げた。「盆を持つ手だけは、誰より真っ直ぐでございましたけれど」


「熱を出した朝も、自分で運ぶと申しまして」侍女頭は続けた。「聞かぬ子でございました」


「暇は、どのように」


「朝でございます」侍女頭は答えた。「その日の盆を運んでから、御用の間へ呼ばれました」


「理由は」


「伺っておりません」


「ご本人にも」


「一度も」侍女頭は言った。「あの子は、自分が何をしくじったのか分からぬまま門を出ました」


 灰汁の匂いが、急に濃くなった。


「今は、どちらに」


「はじめの冬は、下町の洗い場にいると聞きました」侍女頭は湯気の立つ桶へ布を沈めた。「春に訪ねましたら、もうおりませんでした」


「お探しになったのですか」


「休みをいただいて、二度」侍女頭は言った。「二度目には、洗い場の者もあの子の名を覚えておりませんでした」


「ベルタは、字が書けません」侍女頭は続けた。「便りの来ようがございません」


「……さようですか」


「あの子のことを、二年のあいだ誰にも訊かれませんでした」


 湯の面が、沈めた手のまわりで小さく揺れていた。


「わたくしは、名を呼ぶ相手がいなくなっただけでございます」


 侍女頭は桶から手を抜き、麻布の山へ戻った。部屋の音が、水の滴りだけになった。


 二年前の秋、盆を運ぶ決まった手が一つ消えた。消えたその秋から、日替わりの紙が回りはじめた。


 そして、器を覗く目が消えた。


 どちらも理由は告げられていない。どちらも、人が消えたあとに仕組みだけが残った。


 あの秋、自分はまだこの城にいた。廊下から一つ顔が減ったことに、気づきもしなかった。


 自分は最初ではなかった。


 同じ手が、二度やっている。


「もう一つ」オリヴィアは言った。「毒見の役は、どなたが継がれましたか」


 麻布の角が、はじめて揃わなかった。


「……どなたも」


「置かれなかったのですか」


「置かぬことになりましたと、御用の間から触れがまわりました」侍女頭は布を広げ直した。「あなたさまがお発ちになった、三日あとでございます」


「どなたのお指図で」


「お側の方のお勧めと、そう伺っております」侍女頭は続けた。「名までは、触れに書かれておりませんでした」


「触れは、どなたが読み上げましたか」


「御用の間の書役でございます」侍女頭は答えた。「紙を読んだだけの方でございます」


「その紙も、どこかから届いたのですね」


「この城の紙は、みなどこかから届きます」


 三日。喪の明ける間もない速さだった。


 妬んだ女なら、女を除ければ足りる。役まで消す必要はない。


 むしろ次の毒見役が立てば、寵を争う相手は消えたまま、殿下の身は守られる。除きたいのが女なら、それがいちばん都合がよい。


 役ごと消して得をする者は、この城に一人しかいない。


「オリヴィアさま」侍女頭が布の山を組み替えた。「顔の色が、朝より白うございます」


「ここは涼しいので」


「四つと仰いました」侍女頭は言った。「まだ二つ残っております」


「朝の血の布は、どちらで洗われますか」


 布を持つ手が、そこで止まった。


「わたくしどもでございます」


「量は」


「先の月の、三倍でございます」侍女頭は棚の上へ目を向けた。「洗い場の帳面につけております。日ごとに、何枚出たかを」


「数えておいででしたか」


「布の数は、嘘をつきませんので」侍女頭は棚から古い綴じ帳を取り、また戻した。「殿下のお加減を、わたくしどもはこれでしか計れません」


「日にちは、どこまで遡れますか」


「三年ぶんは棚に残っております」侍女頭は答えた。「それより前は、暮れに燃やす決まりでございます」


「三年あれば足ります」


 三倍。二日前から増えたという宮廷医の言葉と、洗い場の帳面が同じ向きを指している。


「その帳面を、捨てないでいてください」オリヴィアは言った。「焼かれそうになったら、水を掛けてでも残してください」


「……何のためにでしょう」


「日にちが書いてあるものは、あとから作れません」


 侍女頭は答えず、麻布を一枚取り上げた。手つきは、さっきより速い。


 廊下の奥で、水を汲む音がした。


「もう一つ、伺ってもよろしいですか」侍女頭が布から目を上げずに言った。「五つ目でございます」


「どうぞ」


「あなたさまがおいでの朝は、血の布が出ませんでした」侍女頭は言った。「七年、一枚もでございます」


 部屋の温度が、ひとつ下がった気がした。


「そういう年もございます」


「わたくしは、洗い場の者でございますから」侍女頭は麻布の角を合わせた。「布のことしか、申し上げられません」


「帳面は、三年ぶんと伺いました」


「それより前は、この手が覚えております」


 この人は、七年ぶんの記録を洗い桶の底で持っていた。誰にも読み方を教わらないまま。


「よく数えてくださいました」オリヴィアは頭を下げた。


「お発ちの前に、もう一度おいでくださいませ」


 その言葉に返事をせずに、オリヴィアは部屋を出た。




 北棟の階を上がりきったところで、壁際に人が立っていた。


 昨日までは、いなかった顔だ。


「随員殿」男は言った。「どちらへ」


「殿下のお部屋へ、お薬を」


「お一人で」


「七年、そのようにいたしておりました」


 男は道を空けたが、下がりはしなかった。廊下を折れるまで、背中の後ろで距離は変わらなかった。


 洗い場で誰と何を話したかは、鐘が鳴る前に上へ届く。


 届いてかまわない。今日で終わる。




 血の匂いが、昨日より前に出ていた。


 鼻ではなく、戸を開けた途端に喉の奥へ触ってくる。薬と汗の匂いは、その下へ押しやられていた。


 寝台のアルヴィスは、枕を三つ重ねて背を預けていた。腕を布団の上に投げ出したまま、指だけがときどき動く。


「最後の薬包をお持ちいたしました」オリヴィアは膝をつき、卓へ椀を置いた。


「もう、それで終いか」


「本国から送らせます」オリヴィアは答えた。「関所を越えるのに六日かかります」


「六日」アルヴィスは天井へ目を向けた。「長いな」


 椀を差し出すと、両手が出てきた。指の震えが昨日より大きい。オリヴィアは椀の底へ手を添えた。


 添えた手を、彼は払わなかった。


 二度に分けて飲み下すあいだ、薬の匂いに古釘の後味が混じった。器の底に、今朝も置かれている。


「妙なものだ」アルヴィスは椀を離した。「お前が城にいた頃は、こんなことは一度もなかった」


「……さようでございますか」


「一度もだ」アルヴィスは息を継いだ。「出ていった朝から始まった」


「お心当たりは」


「偶然だろう」アルヴィスは短く咳をした。「毒など出ぬのだから、ほかに言いようがない」


 この人は答えを口にして、それを答えだと思っていない。七年、ずっとそうだった。


「毒見の役は、あれきり置いておらん」アルヴィスが言った。「聞いているか」


「侍女頭から伺いました」


「置かぬと決めた覚えはない」アルヴィスは掛布の縁を指で探った。「気がついたら、そうなっていた」


「お困りにはなりませんでしたか」


「困るものか。あんなものは飾りだ」


「もうお一人、お据えくださいませ。どなたでも構いません」


「なぜだ」


「先の代からの慣わしと伺っております」


「慣わしで人が助かるか」


 アルヴィスは笑おうとして、息だけが出た。


 助かっていた、とは言えなかった。言えば、明日から手口が変わる。


 オリヴィアは椀を盆へ戻し、布で縁を拭いた。


「隣国は、お前を何と呼ぶ」


「顧問と」


「顧問」アルヴィスは繰り返した。「毒見ではないのだな」


 毒見でございます、という答えは、口の中で止めた。


「薬を調える役でございます」


「そうか」


「顧問を置いたのは、宰相か」


「はい」


「メリディアの宰相は、人手が足りぬと見える。毒見の女に、国の薬を任せるとは」


「わたしのほかにも、薬師はおります」


「ならば、なぜお前だ」


「……分かりかねます」


「変わった男だ。私なら置かん」


 その七年ぶんを、この人は数に入れていない。


「隣国は、遠いか」


「馬車で六日でございます」


「薬と同じだけ遠いのだな。暮らしよいか」


「よくしていただいております」


「その手は、まだ荒れているのか」


「変わりません」


「城の水が悪いのだろうと思っていた」


 水ではなかった。水のままにしておいた。


「七年、よく勤めた。退屈だっただろう」


「退屈だと思ったことは、ございません」


「よく言う」アルヴィスの声が少し戻った。「私なら三日ももたん」


「殿下は、召し上がる側でございますから」


「違いない。お前は、私を恨んでいるだろうな」


「いいえ」


「嘘をつけ」


「恨んでおりましたら、六日かかる薬の話はいたしません」


「律儀な女だ。お前は変わらん」


「恐れ入ります」


「あの沙汰は、間違ってはおらん。お前は隣国で役を得た。私は選んだ相手といる」


「はい」


「式は、体が戻ってからだ。知らせは、隣国まで届くだろう」


「お祝いを、今のうちに申し上げます」


「気が早いな」


 それきり彼は黙り、しばらくして、また口を開いた。


「セリカが、隣国の薬はもう要らぬと言っていた」


「どのようにでしょう」


「体に合わぬ物を重ねるのはよくないと」アルヴィスは目を閉じた。「あれは、よく気がつく」


「はい」オリヴィアは答えた。「よく気のつく方でございます」


 よく気がつく。


 そのとおりだ、と思った。この城で、いちばん先に気づき、いちばん早く手を打つ人だ。


「お薬は、日を空けずにお続けください」オリヴィアは言った。「途中でやめれば、効いていたものまで戻ります」


「戻る」アルヴィスは目を閉じたまま言った。「戻るものが、まだあるのか」


「ございます」オリヴィアは答えた。「まだ間に合います」


「お前は昔からそう言う」アルヴィスの口の端がわずかに動いた。「異常はございません、とな」


「……はい」


 返す言葉を選んでいるうちに、彼の息が長くなった。


 オリヴィアは盆を持って立ち上がった。戸口で一度だけ振り返る。


 枕に沈んだ横顔は、七年前より頬の線が細い。この人を七年生かしていたものが何だったのかを、この部屋の誰も知らない。


 本人が、いちばん知らない。




 客間に戻り、戸を閉めた。


 卓の上には何も出ていない。灯りだけを引き寄せ、オリヴィアは椅子に腰を下ろした。


 並べるものは、もう頭の中にしかなかった。


 七年前、この城の器に灰塵が置かれ始めた。同じ年、隣国では同じ型の毒で人が死んでいる。書庫の記録が示していたことだ。


 あの令嬢が社交界に出たのは二年前。七年前の器に匙を入れたのは、あの人ではない。


 それでも型は同じだった。表に銀舌、芯に灰塵。舌が覚えているのは、先に来て退く痺れと、そのあとから奥へ溜まる砂の重さだ。厚みも、境目の高さも、濁りの入る場所も。


 型は、思いつくものではない。教わるものだ。


 教える者と、教わる者がいる。


 そこまでは隣国で辿り着いていた。辿り着いて、それきりだった。


 オリヴィアは息を吐き、次の問いへ移った。


 ——七年、効かなかった。


 毒を盛る側にとって、七年は長すぎる。効かなければ、毒を替えるか、量を増やすか、やめるかの三つのうちどれかを必ずする。


 この手は、三つともしていない。


 層の重ね方は七年ひとつも変わらず、量が変わったのはこの三日だけだ。


 替えも増やしもせずに七年続けられる者がいるとすれば、それは効かない理由が毒の側にないと知っていた者だけだ。


 いや、順序が違う。


 知っていたのではない。調べに来たのだ。


 廊下の先で、戸が一つ閉まった。


 舌の奥には、まだ北の土の味が残っている。


 二年前、この城に人がひとり入ってきた。


 入ってきて、何をしたか。


 盆の番を日替わりに改めた。誰ひとり毒を疑っていない年に、膳へ触れる手が辿れなくなる仕組みを据えた。疑いのない場所に隠れ場所を作る者は、これから隠れる用のある者だけだ。


 もう一つした。


 ——何をそんなに見つめていらっしゃるのかしら。


 ——あなたはこの七年、殿下の器のなかに何を探していらしたの。


 恋敵の嫌味だと思っていた。七年、そう聞き流してきた。


 あれは、毒見役が何を見ているのかを測る問いだった。目の位置を確かめ、気づいているかを試し、答え方の癖まで写し取っていた。


 膳の隠れ場所と、毒見役の目の検分。二年前に来た人が最初に手をつけたのは、その二つだった。


 寵ではない。器だ。


 そして、排除が来た。


 オリヴィアは卓の縁へ指を置いた。木の冷たさが、指の腹から手首まで昇ってくる。


 除かれたのは、自分だけではなかった。


 毒見の役そのものが、三日後に消えている。


 妬みなら、女を除けば足りる。むしろ次の毒見役を立てたほうが妬んだ側には都合がよい。争う相手は消えたまま、殿下の身は守られ、誰にも咎められない。


 役を消すのは、次に器を覗く目が現れては困る者だけだ。


 ——毒見の女など、もう用済みだ。


 用済み。使い道が済んだ、という言い方だ。


 使い道があったと認めている言葉を、あの人は侮りのつもりで口にした。誰の言葉を借りたのかも知らずに。


 用済みにされたのは、女ではなかった。役だった。


 そして翌朝、血が出た。


 その朝、毒は替わっていない。量も増えていない。変わったのは、器を覗く目が一つ消えたことだけだ。


 目が一つ消えて、翌朝から血が出るなら、七年その目が塞いでいたものが何であったかは、それだけで足りる。


 オリヴィアは目を閉じた。


 ——七年、毎朝ご覧になっていて……一度も『毒がある』と仰らなかったのね。


 あの問いには、まだ返す言葉がない。今日も持っていない。


 持てたものが、一つだけあった。


 効いていた。


 声にはしなかった。喉の奥で、それは長いあいだ動かずにいた。


 あの人たちは七年、効かない理由が分からなかった。探し当てて、それを外した。外した翌朝に結果が出た。


 自分を外すという判断が正しかったことを、殿下の血が毎朝証明している。


 あれは切り捨てではない。処置だった。


 目を開けると、灯芯が短くなっていた。


 戸が二度叩かれた。


 オリヴィアは椅子を引いて立った。戸を開けると、帳面を抱えた侍従が立っている。後ろに下男が二人いた。


「お荷を、東の門までお運びいたします」侍従は言った。


「朝のうちにと伺っておりました」


「朝のうちでございます」侍従は帳面を開いた。「鐘が十一を打つ前にと、申しつかりました」


 下男が壁際の旅装へ寄っていく。オリヴィアは戸を押さえたまま、その背を見ていた。


「一つ、取り出させてください」


「お荷は、そのままお預かりせよとの仰せです」


「薬包でございます」オリヴィアは言った。「道中で使います」


 侍従が帳面から目を上げた。この城で、薬の話にだけは誰も逆らわない。


「……お早く」


「旅装と、道具袋と」侍従は下男へ数を告げた。「二つでございますね」


「三つでございます」オリヴィアは言った。「寝台の下に、履物の袋がございます」


「伺っておりません」


「昨夜、しまいました」


「帳面には二つと書いてまいりました」侍従は筆を持ち直した。「書き足しますので、しばらくお待ちを」


 下男の一人が寝台のほうへ回っていく。


 オリヴィアは旅装の口を開き、奥へ手を入れた。指の先が、布の折り目に触れる。


 薬包を三つ掴み、そのあいだへ白い包みを挟んで引き出した。七年、人の目の前で匙を運んできた手だった。


 袖の内へ落とすまで、息を継がなかった。


「以上でございます」


 下男が旅装を担ぎ上げ、道具袋と履物の袋がそのあとに続いた。


「随員殿」侍従は帳面を閉じた。「馬車は、東の門に付いております」


「刻限まで、この部屋におります」


「お出になるときは、お声がけくださいませ」侍従は言った。「お一人にはせぬようにと、承っております」


「承知しました」


 戸が閉まり、足音が三つぶん、廊下の奥へ遠ざかっていった。


 オリヴィアは椅子へ戻った。


 どこまで考えていたか。器を覗く目が一つ消えて、その翌朝から血が出た——そこまでだ。


 オリヴィアは灯りを直し、ここ七日を日ごとに並べ直した。


 二日目、調薬の間と厨房と居室を検めた。壺を持ち上げ、器を覗き、料理番に番の話まで訊いた。毒の側を、丸一日かけて歩いた。


 何も起きなかった。


 三日目、記録の間へ行った。台帳は開かれなかった。夜のうちに、ヴェスパーの名を覚えへ書いた。


 四日目、廊下に人が増えた。出入りの刻限が帳面に書かれ、侍女頭は控えの間へ呼ばれ、オリヴィアと何を話したかを訊かれた。


 厨房を嗅ぎ回った日には、誰も動かなかった。名を尋ねた翌日に、城が閉じた。


 器より、名のほうが痛い。


 五日目、旅装の奥の包みが解かれ、結び直されていた。黄の糸が一本入っているだけの包みだ。


 六日目、出立が十日から七日に縮められ、器の匙が深くなった。


 窓の下を、桶が一つ運ばれていった。今日の朝の布も、あの部屋で洗われている。


 オリヴィアは卓の上で、その三つを頭の中に並べた。


 荷を検めた者にとって、糸くず一本は何の意味も持たない。書きとめる値打ちもない。それでも報告は届いている。翌日に日取りが動き、匙が深くなったのだから、届いた先で意味が読まれている。


 黄の糸を見て、それが自分の刺繍布から抜けたものだと色だけで分かる人間は、この城に一人しかいない。


 その一人の部屋から、盆の番を書いた紙が毎朝出ていく。誰の手が器に触れるかは、その紙が決めている。


 廊下に人が立ったとき、侍従は仰せですとしか言わなかった。出立の日が縮まったときも、同じ言い方だった。


 殿下は、命じたことを覚えてすらいないだろう。隣国の薬はもう要らぬという言葉も、もとは自分のものではなかった。


 膳と、廊下と、国と国の約束。触れる場所も筋道もまるで違う三つが、たどれば同じ一つの口へ戻る。


 その口に何を言わせるかを決めている人が、この城に一人いる。


 背筋の産毛が立った。


 橋が、架かった。


 名を偽った令嬢と、器に匙を入れる手は、同じ人だった。


 オリヴィアは椅子の背に体を預け、しばらく天井を見ていた。


 まだ足りないものが一つある。


 二年前に来たあの人は、七年前の器には届かない。届かないのに同じ型を使う。


 ——一年ばかり前に、お一人。ご令嬢のお名を、やはりお尋ねになりました。


 根はひと束も買わずに帰ったという。


 薬種の幕をくぐって薬種を買わない者は、客ではない。


 名を疑う者なら、疑ったなりに動く。城へ持ち込むか、噂に流すか、誰かへ売るかする。一年経っても何も起きなかった。


 老商人は、今も市に立っている。


 訊きに来た者は、答えを聞いて安心して帰ったのだ。


 あの家に、そのお名の方はおいでになりません——その答えは、名を暴く答えではない。名を守る答えだ。存在しない令嬢を誰も見つけられないなら、その名はまだ持つ。


 検分だった。


 身元を確かめる者がつくのは、一人で企てる者ではない。


 しかも、確かめられたのは名のほうだった。名が破れないかどうかを、上の者が案じていた。案じるということは、その名を選んだのが自分たちではなかったということだ。


 安全な名なら、いくらでも用意できたはずの人たちが、危ない名を抱えたまま二年を過ごしている。


 抱えているのではない。抱えさせられている。


 名を渡さなかったのは、あの令嬢だ。


 組織が用意した衣を着て、名だけは自分のものを通した。載らなかった名を帳面のいちばん上へ書かせるために。


 オリヴィアは灯りへ手をかざした。指の影が、卓の板の上で細く伸びた。


 では、この人たちは何が欲しいのか。


 殺すつもりなら、七年はかけない。


 七年かけて衰えさせる毒は、死なせるためのものではない。立てなくするためのものだ。政務に立てない王太子は、王位を継げない。


 継げなくなった王座は、誰かへ渡る。


 渡した先の傍らに、名を取り返した女が立つ。


 そこまでで、オリヴィアは考えるのをやめた。渡す先の顔は、まだどこにもない。


 城の鐘が、十一を打った。


 卓の上には何も出ていない。それでも、置くべきものは全部揃っていた。


 揃ったところで、この城に受け取る手がない。


 殿下は毒など出ぬと仰る。宮廷医の言葉は愚痴として扱われる。記録官は台帳を開かない。侍従は、書く欄がないと言う。


 正午に馬車が出る。


 オリヴィアは立ち上がった。


 受け取る手がないなら、動かすしかない。動いた手は、必ず形を残す。




「本国へ、これを」


 ドナル卿は差し出された布包みを受け取り、卓の上で開いた。


 二つの蝋の欠片と、滓の染みた布。その下に、夜のうちに書き写した覚えが二枚。


「これは何だ」


「殿下の器から採ったものと、隣国の薬院から持ってきたものです」オリヴィアは答えた。「並べ方は、二枚目に書いてあります」


「宰相閣下に、そのまま渡せばよいか」


「はい」オリヴィアは言った。「閣下なら、二枚目だけで足ります」


 ドナル卿は覚えの一枚目に目を落とし、途中で顔を上げた。


「これは、告発文だな」


「事実の並びです」


「同じことだ」ドナル卿は紙を置いた。「顧問殿。馬車は正午に出る」


「わたしは、残ります」


 部屋の中の音が消えた。窓の外で、荷を積む男たちの声だけが続いている。


「聞き違いにしておきたいところだ」


「聞き違いではありません」


「随員の名簿から名が落ちれば、お前はただの人になる」ドナル卿は言った。「この国では、婚約を解かれた娘だ」


「存じております」


「メリディアはお前を守れん」ドナル卿は指で卓を一度叩いた。「城で何が起きても、こちらから手は出せん。それが国と国の約束だ」


「はい」


「残って、誰に示す」ドナル卿は言った。「この城に、お前の話を聞く者がいるのか」


「今は、おりません」


「今は」


「作ります」


 ドナル卿は卓の木目を見下ろし、それから長く息を吐いた。


「宰相閣下に、何と申し上げればいい」


 オリヴィアは、しばらく答えなかった。


「明日の朝、薬を持っていく者がおりません」


 ドナル卿は口を開き、そのまま閉じた。


「六日で戻ると仰るなら、六日待ちます」オリヴィアは続けた。「ですが殿下の器は、六日待ちません」


「……宰相閣下は、確かめてこいと仰った」ドナル卿は覚えを布へ包み直した。「残ってこいとは仰っていない」


「確かめました」オリヴィアは言った。「確かめたものを置いて帰る方法を、思いつきませんでした」


 ドナル卿は包みを胸の内へ収め、革の帯をきつく締めた。


「五日で届ける」ドナル卿は言った。「馬を替えて走る」


「宿駅は、途中に幾つございますか」


「三つだ」ドナル卿は答えた。「二つ潰す気で行く」


「無理はなさらないでください」


「無理をするなという顔で言うな」ドナル卿は立ち上がった。「お前の荷は、もう東の門だ」


「構いません」


「一つ答えろ」ドナル卿は戸口で足を止めた。「勝てるのか」


「勝ち負けの話ではありません」オリヴィアは頭を下げた。「明日の朝の話です」


 ドナル卿は何も言わずに出ていった。


 廊下を遠ざかる足音は、来たときより速かった。




 甘い香の下から、冷たい一本が先に来た。


 二日前は逆だった。蜜の重さに埋もれて、近づくほど見失う細さだったものが、今日は花より前に立っている。


 量が増えれば、香は隠しきれない。


 通されたのは、中庭に面した明るい間だった。卓に茶器が二つ。窓からの光が卓布の白を痛いほどに照り返している。


 セリカは長椅子ではなく、卓の向こうに立っていた。手には薄い革の手袋をはめている。


「随員様」セリカは笑みを作った。「お発ちの前に、わざわざ」


「ご挨拶に参りました」オリヴィアは礼をした。「七日、お世話になりました」


「まあ、ご丁寧なこと」セリカは手袋の指先を一本ずつ引いた。「お茶を差し上げたいところですけれど、もうお刻限でしょう」


「七日、お邪魔をいたしました」


「七日で何かお分かりになって?」セリカは茶器のほうへ手を伸ばした。「この城は、外の方には分かりにくいでしょう」


「分かりにくうございました」オリヴィアは答えた。「どなたに伺っても、紙が回ってくるとだけ仰います」


「紙は、便利なものですものね」


「一つだけ、お伝えしてまいります」


「なにかしら」


「殿下は、痺れが先に来ると仰います」オリヴィアは言った。「重さは、そのあとから来るそうです」


 手袋を引く指が、そのまま動いた。


「お体のことは、宮廷医の先生方に」


「その順は、七年変わっておりません」


 窓の外で、中庭の砂利を踏む音がした。


「量だけが、この三日で変わりました」オリヴィアは続けた。「舌で数えました。はじめに採った滓は十を数える前に退きました。昨日の朝のものは二十五まで残りました」


「舌で」セリカは片方の手袋を卓に置いた。「随員様は、面白いことを仰るのね」


「毒見の作法にございます」


「作法」セリカは繰り返した。「随員様は、殿下の器のことばかりね」


「薬を調える役でございます」


「お薬」セリカは笑った。「隣国のお薬は、この三日でずいぶん効かなくなったそうよ」


「効きが落ちたのではありません」オリヴィアは言った。「向こうが増えただけです」


 卓の上で、置かれた手袋の指が内側へ曲がったまま止まっていた。


「隣国の書架に、古い毒物図譜がございました」オリヴィアは言った。「欄外に、後の代の手で一行だけ書き足されておりました」


「本のお話が、お好きなのね」


「灰を匙で量る者ら、と」


 部屋の白さが、そのまま動かなくなった。


「灰の匙」オリヴィアは名を置いた。「ハルダ先生は、昔話だと笑っておいででした」


 セリカは、もう一方の手袋を引かなかった。


 笑みは残っていた。頬の形も、口の端の角度も、さっきと同じ場所にある。ただ、そこに息が通っていない。


 七年見てきた顔だ。この人が本当に笑うところを、一度も見たことがなかった。


「七年黙っていた人が、最後の日になってよく舌が回るのね」


 甘さが落ちていた。語尾の伸びが、きれいに切れている。


「黙っていたのは、見ていられたからです」


「見て、どうなさったの」セリカは卓を回ってきた。「殿下に申し上げた? 宮廷医に? 記録の間に?」


「いいえ」


「一度も」セリカは言った。「七年、一度も」


「はい」


「そうでしょうね」セリカは足を止めた。「あなたを下がらせたのは殿下よ」


 その一言を、オリヴィアは口の中で二度なぞった。


「わたくしは何も命じておりません」セリカは言った。「殿下がご自分でお決めになったの。用済みだと、あの方が仰ったわ」


「存じております」オリヴィアは答えた。「その場におりました」


「それに、あなたは七年一度も毒があると仰らなかった」セリカは首を傾けた。「今さら何を仰っても、恨みごとにしか聞こえないの」


 二日前と同じ問いだった。あのときは、返す言葉が一つもなかった。


 今日は、一つだけある。


「毒は盛る者より、気づかぬふりをする者の方が罪深いのです」


 セリカの視線が、はじめて卓の手袋のほうへ落ちた。


「……殿下のことを仰っているのかしら」


 オリヴィアは答えなかった。


 答えないという答えは、この城で七日のあいだ、いちばん多く受け取ったものだった。


「随員様」セリカは笑みを作り直した。作り直すのに、さっきより時間がかかっていた。「正午に馬車が出るわ。あなたはまた何も言わずに出ていくのね」


 城の鐘が鳴りはじめた。


 中庭の壁に反って、音は二度ずつ重なって届く。


 一つ。二つ。三つ。


 オリヴィアは鐘を数え終えるまで待った。


 最後の一つが消えたところで、口を開いた。


「今日は、乗らない」


 敬語が落ちていた。落としたつもりもなかった。


 セリカの顔から、笑みの形そのものが消えた。琥珀の目が、まっすぐこちらを捉えている。愛らしく潤んだところが、どこにもない目だった。


「……なんですって」


「随員の名簿から、わたしの名は落ちました」オリヴィアは言った。「もう客ではありません」


「この城に、あなたの居場所はないわ」


「はい」


「守る国も返る家も、渡す紙もないのに」セリカの声が低くなった。「何になさるおつもり」


「明日の朝、殿下にお薬をお持ちします」


「殿下が、お会いになると思って?」


「お会いにならなければ、お部屋の外に置いて帰ります」


「置いたものを、誰が運ぶのかしら」セリカは言った。「盆の番を決めるのは、わたくしですけれど」


「存じております」オリヴィアは答えた。「二年前の秋からと伺いました」


 セリカは長いあいだ黙っていた。


 それから、卓の手袋を取り上げ、しなやかに指へ通し直した。手首の縁を整える手つきに、迷いは一つもない。


「お好きになさって」


 声には、甘さが半分だけ戻っていた。


「随員でなくなった方を、この城で誰が守るのかしら」セリカは微笑んだ。「お体を、大切にね」


 オリヴィアは礼をして、戸口へ向かった。


 背に、香が追ってきた。


 部屋を出て回廊の光の下に立つと、花も蜜も鼻から抜けていた。


 残っていたのは、冷たい一本だけだった。




 客間には、もう何も残っていなかった。


 旅装も道具袋も履物の袋も、朝のうちに東の門へ運び出されている。寝台の布は剥がされ、卓の上には灯りの脂だけが薄く残っていた。


 窓を開けると、東の門のほうから車輪の音が上がった。


 石畳を噛む音が四度、五度と続き、それから遠くなっていく。轡の鈴が三つ鳴って、聞こえなくなった。


 メリディアの使節が、王都を出た。


 オリヴィアは窓を閉め、卓の前に立った。


 この部屋は、正午をもって自分のものではない。次に戸を叩く者が、出ていけと言いに来るのか、それとも別の用で来るのかは分からない。


 袖から、白い布の包みを一つ取り出した。


 ドナル卿へ渡さなかった、ただ一つのものだった。蝋も、覚えも、国境を越えていった。これだけは越えさせなかった。


 包みを開くと、黄の糸が一本、布の折り目に沿って横たわっている。


 南でしか咲かない花の色だ。


 オリヴィアは糸を布へ戻し、端を合わせ、結んだ。


 一重に結んだ。


 卓の中央に置く。


 包みは白いまま、灯りのない部屋で、一重の結び目を上に向けていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話の橋は、新しい証人でも自白でもなく、これまでに出た材料の読み違いを直すところから架かりました。「あのお家にセリカという令嬢はおりません」という証言は、その人があの家の人間でないことを意味しません。薬種商は「表沙汰にならぬお子は知らない」と最初に断っていました。オリヴィアは三日、その前半を置き忘れていました。


 もう一つの柱は、毒見役の後任が置かれなかったことです。妬んだ女なら、女を除ければ足ります。むしろ次の毒見役を立てたほうが得です。役ごと消して得をする者は一人しかいません。用済みにされたのは女ではなく役だった、という一点に婚約破棄の動機が畳まれています。


 そして、外されたことそのものが、七年効いていた証拠になります。彼女はそれを声にしませんでした。


 証は揃いました。ですが、この城に受け取る手がありません。馬車は出て、彼女は残りました。次話、七年ぶんの答え合わせが始まります。


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