第28話: 用済みにされた理由
えぐみが先に来て、そのあとから冷えた甘さが残った。
北の土の味だった。二日前、市の幕の内で舐めたときと順序まで同じだ。
オリヴィアは薬研の柄を止めた。舌が味を追いかけているあいだに、耳のほうが別のものを拾っていた。
あの老商人の言葉を、自分は半分しか持ち帰っていない。
「——表沙汰にならぬお子の話はどの家にもございますが」
声は、そこから続いていた。
「お披露目までされたご令嬢のお名を、私が知らぬはずはございません」
二日のあいだ、後ろの一句だけを覚えに書き写していた。北方ヴェスパー男爵領に、セリカという令嬢は存在しない。それで確かになったことにして、先へ進んだ。
前の一句を、卓の上に置き忘れていた。
窓はまだ暗い。使節が王都に入って七日目の、夜明け前だった。
オリヴィアは灯りを引き寄せ、覚えの紙を広げた。
あの人は、二つのことを分けて答えている。帳面に載る子のことは知っている。載らない子のことは知らない。三十年通った家の内でも、そこだけは覗けない。
——セリカという令嬢は存在しない。
この一行は、セリカという人間があの家にいない、とは言っていない。
令嬢に数えられなかった子は、はじめから数の外にいる。
喉の奥が乾いた。水を含んでも、渇きは動かない。
覚えの上から順に、指でなぞる。突然の登場。急死した後見人。二年の音信不通。登録のない紋。北を騙る南の花。
五つとも「偽りの名」という一点へ向けて並べてあった。並べ直せば、別の一点へも同じだけ揃う。
文が来ないのは、書く実家がないからではない。書いてよい子だと、あの家が一度も認めなかったからだ。
紋が辿れないのは、家がないからではない。もらえなかったからだ。
後見人が急死したというのは、名を保証する口がひとつ消えたということで、同時に、保証を頼める先がその一人しかなかったということでもある。
二つの読み方が、同じ紙の上で並んだ。
選ばせたのは、襟の柑橘だった。
名を一から拵えるなら、生まれた土地は好きに選べる。選べるなら、自分の育った土地を選ぶ。訛りも、草の名も、季節の話も、そうすれば何ひとつ嘘をつかずに済む。人を欺く手を仕込まれた者が、わざわざ自分の肌と食い違う土地を名乗る道理はない。
あの令嬢は北を名乗った。そして、南でしか咲かない花を襟に留めていた。
土地のほうが、あとから選ばれている。
先にあったのは名だ。名が先にあって、生まれの話は名に合わせて後から作られた。だから合わせ損ねが襟に残った。
都合で借りた名を、人はそこまで抱え込まない。
オリヴィアは覚えの端を押さえた。指の下で紙が浅く波打つ。
あの人は、名を騙っていない。
取り返しに来ている。
それでも、繋がったのは家の話までだった。帳面に載らなかった子が、その帳面を憎むのは分かる。憎む先は正妻の子であって、王太子の器ではない。
卓の隅には、白い布の包みが置いてある。二つの蝋の欠片と、匙から拭った滓の布。
橋は、まだ架かっていなかった。
灰汁と洗い上がりの麻の匂いが、部屋いっぱいにこもっていた。
城の北棟の、洗い場に続く低い部屋である。積み上がった麻布の山が窓の光を遮って、床の高さだけが白い。
侍女頭は、卓の前で布を畳んでいた。オリヴィアが戸口に立っても、手は止まらなかった。
「今日でございますね」侍女頭は畳んだ一枚を山へ重ねた。
「正午に発ちます」オリヴィアは戸を閉めずに残した。「四つだけ、伺わせてください」
「手は動かしたままで、よろしゅうございますか」
「そのままで」
麻の角が合わされ、また合わされる。話し声より布の音のほうが大きい部屋だった。
「盆の番を書いた紙は、どなたから届きますか」
「セリカ様のお部屋付きの方が、朝いちばんに持ってまいります」
「ずっとそうですか」
「二年前の秋からでございます」
布の音が、二度続いた。
「それより前は」
「決まった二人が運んでおりました」侍女頭は次の一枚を広げた。「五年、同じ二人でございました」
「そのお二人は、今も城に」
「一人は嫁ぎました」侍女頭は答えた。「もう一人は、暇を出されました」
「いつでしょう」
「二年前の秋でございます」
「日替わりに改まったのは、どういう話でしたか」
「厨房の采配が改まった折にと伺いました」侍女頭は答えた。「一人に負わせては気の毒だから、と」
気の毒だから。
毎朝ちがう娘が盆を持つほうが、殿下の身は安くなる。誰が触れたか分からなくなるからだ。安くなるのを承知で改めた者がいる。しかも、この城の誰ひとり毒を疑っていなかった年に。
オリヴィアは戸口から一歩、卓のほうへ入った。
「先ほどの、暇を出されたという方は」
「ベルタでございます」侍女頭は言った。「ベルタと申しました」
名を聞いた途端に、顔のほうが先に戻ってきた。
毒見の盆を運んできて、いつも一歩下がって待っていた娘だ。五年のあいだ、毎朝すれ違っていた。
名を、一度も尋ねなかった。
「どのような方でしたか」
「不器用な子でございました」侍女頭は袖口を肘まで押し上げた。「盆を持つ手だけは、誰より真っ直ぐでございましたけれど」
「熱を出した朝も、自分で運ぶと申しまして」侍女頭は続けた。「聞かぬ子でございました」
「暇は、どのように」
「朝でございます」侍女頭は答えた。「その日の盆を運んでから、御用の間へ呼ばれました」
「理由は」
「伺っておりません」
「ご本人にも」
「一度も」侍女頭は言った。「あの子は、自分が何をしくじったのか分からぬまま門を出ました」
灰汁の匂いが、急に濃くなった。
「今は、どちらに」
「はじめの冬は、下町の洗い場にいると聞きました」侍女頭は湯気の立つ桶へ布を沈めた。「春に訪ねましたら、もうおりませんでした」
「お探しになったのですか」
「休みをいただいて、二度」侍女頭は言った。「二度目には、洗い場の者もあの子の名を覚えておりませんでした」
「ベルタは、字が書けません」侍女頭は続けた。「便りの来ようがございません」
「……さようですか」
「あの子のことを、二年のあいだ誰にも訊かれませんでした」
湯の面が、沈めた手のまわりで小さく揺れていた。
「わたくしは、名を呼ぶ相手がいなくなっただけでございます」
侍女頭は桶から手を抜き、麻布の山へ戻った。部屋の音が、水の滴りだけになった。
二年前の秋、盆を運ぶ決まった手が一つ消えた。消えたその秋から、日替わりの紙が回りはじめた。
そして、器を覗く目が消えた。
どちらも理由は告げられていない。どちらも、人が消えたあとに仕組みだけが残った。
あの秋、自分はまだこの城にいた。廊下から一つ顔が減ったことに、気づきもしなかった。
自分は最初ではなかった。
同じ手が、二度やっている。
「もう一つ」オリヴィアは言った。「毒見の役は、どなたが継がれましたか」
麻布の角が、はじめて揃わなかった。
「……どなたも」
「置かれなかったのですか」
「置かぬことになりましたと、御用の間から触れがまわりました」侍女頭は布を広げ直した。「あなたさまがお発ちになった、三日あとでございます」
「どなたのお指図で」
「お側の方のお勧めと、そう伺っております」侍女頭は続けた。「名までは、触れに書かれておりませんでした」
「触れは、どなたが読み上げましたか」
「御用の間の書役でございます」侍女頭は答えた。「紙を読んだだけの方でございます」
「その紙も、どこかから届いたのですね」
「この城の紙は、みなどこかから届きます」
三日。喪の明ける間もない速さだった。
妬んだ女なら、女を除ければ足りる。役まで消す必要はない。
むしろ次の毒見役が立てば、寵を争う相手は消えたまま、殿下の身は守られる。除きたいのが女なら、それがいちばん都合がよい。
役ごと消して得をする者は、この城に一人しかいない。
「オリヴィアさま」侍女頭が布の山を組み替えた。「顔の色が、朝より白うございます」
「ここは涼しいので」
「四つと仰いました」侍女頭は言った。「まだ二つ残っております」
「朝の血の布は、どちらで洗われますか」
布を持つ手が、そこで止まった。
「わたくしどもでございます」
「量は」
「先の月の、三倍でございます」侍女頭は棚の上へ目を向けた。「洗い場の帳面につけております。日ごとに、何枚出たかを」
「数えておいででしたか」
「布の数は、嘘をつきませんので」侍女頭は棚から古い綴じ帳を取り、また戻した。「殿下のお加減を、わたくしどもはこれでしか計れません」
「日にちは、どこまで遡れますか」
「三年ぶんは棚に残っております」侍女頭は答えた。「それより前は、暮れに燃やす決まりでございます」
「三年あれば足ります」
三倍。二日前から増えたという宮廷医の言葉と、洗い場の帳面が同じ向きを指している。
「その帳面を、捨てないでいてください」オリヴィアは言った。「焼かれそうになったら、水を掛けてでも残してください」
「……何のためにでしょう」
「日にちが書いてあるものは、あとから作れません」
侍女頭は答えず、麻布を一枚取り上げた。手つきは、さっきより速い。
廊下の奥で、水を汲む音がした。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」侍女頭が布から目を上げずに言った。「五つ目でございます」
「どうぞ」
「あなたさまがおいでの朝は、血の布が出ませんでした」侍女頭は言った。「七年、一枚もでございます」
部屋の温度が、ひとつ下がった気がした。
「そういう年もございます」
「わたくしは、洗い場の者でございますから」侍女頭は麻布の角を合わせた。「布のことしか、申し上げられません」
「帳面は、三年ぶんと伺いました」
「それより前は、この手が覚えております」
この人は、七年ぶんの記録を洗い桶の底で持っていた。誰にも読み方を教わらないまま。
「よく数えてくださいました」オリヴィアは頭を下げた。
「お発ちの前に、もう一度おいでくださいませ」
その言葉に返事をせずに、オリヴィアは部屋を出た。
北棟の階を上がりきったところで、壁際に人が立っていた。
昨日までは、いなかった顔だ。
「随員殿」男は言った。「どちらへ」
「殿下のお部屋へ、お薬を」
「お一人で」
「七年、そのようにいたしておりました」
男は道を空けたが、下がりはしなかった。廊下を折れるまで、背中の後ろで距離は変わらなかった。
洗い場で誰と何を話したかは、鐘が鳴る前に上へ届く。
届いてかまわない。今日で終わる。
血の匂いが、昨日より前に出ていた。
鼻ではなく、戸を開けた途端に喉の奥へ触ってくる。薬と汗の匂いは、その下へ押しやられていた。
寝台のアルヴィスは、枕を三つ重ねて背を預けていた。腕を布団の上に投げ出したまま、指だけがときどき動く。
「最後の薬包をお持ちいたしました」オリヴィアは膝をつき、卓へ椀を置いた。
「もう、それで終いか」
「本国から送らせます」オリヴィアは答えた。「関所を越えるのに六日かかります」
「六日」アルヴィスは天井へ目を向けた。「長いな」
椀を差し出すと、両手が出てきた。指の震えが昨日より大きい。オリヴィアは椀の底へ手を添えた。
添えた手を、彼は払わなかった。
二度に分けて飲み下すあいだ、薬の匂いに古釘の後味が混じった。器の底に、今朝も置かれている。
「妙なものだ」アルヴィスは椀を離した。「お前が城にいた頃は、こんなことは一度もなかった」
「……さようでございますか」
「一度もだ」アルヴィスは息を継いだ。「出ていった朝から始まった」
「お心当たりは」
「偶然だろう」アルヴィスは短く咳をした。「毒など出ぬのだから、ほかに言いようがない」
この人は答えを口にして、それを答えだと思っていない。七年、ずっとそうだった。
「毒見の役は、あれきり置いておらん」アルヴィスが言った。「聞いているか」
「侍女頭から伺いました」
「置かぬと決めた覚えはない」アルヴィスは掛布の縁を指で探った。「気がついたら、そうなっていた」
「お困りにはなりませんでしたか」
「困るものか。あんなものは飾りだ」
「もうお一人、お据えくださいませ。どなたでも構いません」
「なぜだ」
「先の代からの慣わしと伺っております」
「慣わしで人が助かるか」
アルヴィスは笑おうとして、息だけが出た。
助かっていた、とは言えなかった。言えば、明日から手口が変わる。
オリヴィアは椀を盆へ戻し、布で縁を拭いた。
「隣国は、お前を何と呼ぶ」
「顧問と」
「顧問」アルヴィスは繰り返した。「毒見ではないのだな」
毒見でございます、という答えは、口の中で止めた。
「薬を調える役でございます」
「そうか」
「顧問を置いたのは、宰相か」
「はい」
「メリディアの宰相は、人手が足りぬと見える。毒見の女に、国の薬を任せるとは」
「わたしのほかにも、薬師はおります」
「ならば、なぜお前だ」
「……分かりかねます」
「変わった男だ。私なら置かん」
その七年ぶんを、この人は数に入れていない。
「隣国は、遠いか」
「馬車で六日でございます」
「薬と同じだけ遠いのだな。暮らしよいか」
「よくしていただいております」
「その手は、まだ荒れているのか」
「変わりません」
「城の水が悪いのだろうと思っていた」
水ではなかった。水のままにしておいた。
「七年、よく勤めた。退屈だっただろう」
「退屈だと思ったことは、ございません」
「よく言う」アルヴィスの声が少し戻った。「私なら三日ももたん」
「殿下は、召し上がる側でございますから」
「違いない。お前は、私を恨んでいるだろうな」
「いいえ」
「嘘をつけ」
「恨んでおりましたら、六日かかる薬の話はいたしません」
「律儀な女だ。お前は変わらん」
「恐れ入ります」
「あの沙汰は、間違ってはおらん。お前は隣国で役を得た。私は選んだ相手といる」
「はい」
「式は、体が戻ってからだ。知らせは、隣国まで届くだろう」
「お祝いを、今のうちに申し上げます」
「気が早いな」
それきり彼は黙り、しばらくして、また口を開いた。
「セリカが、隣国の薬はもう要らぬと言っていた」
「どのようにでしょう」
「体に合わぬ物を重ねるのはよくないと」アルヴィスは目を閉じた。「あれは、よく気がつく」
「はい」オリヴィアは答えた。「よく気のつく方でございます」
よく気がつく。
そのとおりだ、と思った。この城で、いちばん先に気づき、いちばん早く手を打つ人だ。
「お薬は、日を空けずにお続けください」オリヴィアは言った。「途中でやめれば、効いていたものまで戻ります」
「戻る」アルヴィスは目を閉じたまま言った。「戻るものが、まだあるのか」
「ございます」オリヴィアは答えた。「まだ間に合います」
「お前は昔からそう言う」アルヴィスの口の端がわずかに動いた。「異常はございません、とな」
「……はい」
返す言葉を選んでいるうちに、彼の息が長くなった。
オリヴィアは盆を持って立ち上がった。戸口で一度だけ振り返る。
枕に沈んだ横顔は、七年前より頬の線が細い。この人を七年生かしていたものが何だったのかを、この部屋の誰も知らない。
本人が、いちばん知らない。
客間に戻り、戸を閉めた。
卓の上には何も出ていない。灯りだけを引き寄せ、オリヴィアは椅子に腰を下ろした。
並べるものは、もう頭の中にしかなかった。
七年前、この城の器に灰塵が置かれ始めた。同じ年、隣国では同じ型の毒で人が死んでいる。書庫の記録が示していたことだ。
あの令嬢が社交界に出たのは二年前。七年前の器に匙を入れたのは、あの人ではない。
それでも型は同じだった。表に銀舌、芯に灰塵。舌が覚えているのは、先に来て退く痺れと、そのあとから奥へ溜まる砂の重さだ。厚みも、境目の高さも、濁りの入る場所も。
型は、思いつくものではない。教わるものだ。
教える者と、教わる者がいる。
そこまでは隣国で辿り着いていた。辿り着いて、それきりだった。
オリヴィアは息を吐き、次の問いへ移った。
——七年、効かなかった。
毒を盛る側にとって、七年は長すぎる。効かなければ、毒を替えるか、量を増やすか、やめるかの三つのうちどれかを必ずする。
この手は、三つともしていない。
層の重ね方は七年ひとつも変わらず、量が変わったのはこの三日だけだ。
替えも増やしもせずに七年続けられる者がいるとすれば、それは効かない理由が毒の側にないと知っていた者だけだ。
いや、順序が違う。
知っていたのではない。調べに来たのだ。
廊下の先で、戸が一つ閉まった。
舌の奥には、まだ北の土の味が残っている。
二年前、この城に人がひとり入ってきた。
入ってきて、何をしたか。
盆の番を日替わりに改めた。誰ひとり毒を疑っていない年に、膳へ触れる手が辿れなくなる仕組みを据えた。疑いのない場所に隠れ場所を作る者は、これから隠れる用のある者だけだ。
もう一つした。
——何をそんなに見つめていらっしゃるのかしら。
——あなたはこの七年、殿下の器のなかに何を探していらしたの。
恋敵の嫌味だと思っていた。七年、そう聞き流してきた。
あれは、毒見役が何を見ているのかを測る問いだった。目の位置を確かめ、気づいているかを試し、答え方の癖まで写し取っていた。
膳の隠れ場所と、毒見役の目の検分。二年前に来た人が最初に手をつけたのは、その二つだった。
寵ではない。器だ。
そして、排除が来た。
オリヴィアは卓の縁へ指を置いた。木の冷たさが、指の腹から手首まで昇ってくる。
除かれたのは、自分だけではなかった。
毒見の役そのものが、三日後に消えている。
妬みなら、女を除けば足りる。むしろ次の毒見役を立てたほうが妬んだ側には都合がよい。争う相手は消えたまま、殿下の身は守られ、誰にも咎められない。
役を消すのは、次に器を覗く目が現れては困る者だけだ。
——毒見の女など、もう用済みだ。
用済み。使い道が済んだ、という言い方だ。
使い道があったと認めている言葉を、あの人は侮りのつもりで口にした。誰の言葉を借りたのかも知らずに。
用済みにされたのは、女ではなかった。役だった。
そして翌朝、血が出た。
その朝、毒は替わっていない。量も増えていない。変わったのは、器を覗く目が一つ消えたことだけだ。
目が一つ消えて、翌朝から血が出るなら、七年その目が塞いでいたものが何であったかは、それだけで足りる。
オリヴィアは目を閉じた。
——七年、毎朝ご覧になっていて……一度も『毒がある』と仰らなかったのね。
あの問いには、まだ返す言葉がない。今日も持っていない。
持てたものが、一つだけあった。
効いていた。
声にはしなかった。喉の奥で、それは長いあいだ動かずにいた。
あの人たちは七年、効かない理由が分からなかった。探し当てて、それを外した。外した翌朝に結果が出た。
自分を外すという判断が正しかったことを、殿下の血が毎朝証明している。
あれは切り捨てではない。処置だった。
目を開けると、灯芯が短くなっていた。
戸が二度叩かれた。
オリヴィアは椅子を引いて立った。戸を開けると、帳面を抱えた侍従が立っている。後ろに下男が二人いた。
「お荷を、東の門までお運びいたします」侍従は言った。
「朝のうちにと伺っておりました」
「朝のうちでございます」侍従は帳面を開いた。「鐘が十一を打つ前にと、申しつかりました」
下男が壁際の旅装へ寄っていく。オリヴィアは戸を押さえたまま、その背を見ていた。
「一つ、取り出させてください」
「お荷は、そのままお預かりせよとの仰せです」
「薬包でございます」オリヴィアは言った。「道中で使います」
侍従が帳面から目を上げた。この城で、薬の話にだけは誰も逆らわない。
「……お早く」
「旅装と、道具袋と」侍従は下男へ数を告げた。「二つでございますね」
「三つでございます」オリヴィアは言った。「寝台の下に、履物の袋がございます」
「伺っておりません」
「昨夜、しまいました」
「帳面には二つと書いてまいりました」侍従は筆を持ち直した。「書き足しますので、しばらくお待ちを」
下男の一人が寝台のほうへ回っていく。
オリヴィアは旅装の口を開き、奥へ手を入れた。指の先が、布の折り目に触れる。
薬包を三つ掴み、そのあいだへ白い包みを挟んで引き出した。七年、人の目の前で匙を運んできた手だった。
袖の内へ落とすまで、息を継がなかった。
「以上でございます」
下男が旅装を担ぎ上げ、道具袋と履物の袋がそのあとに続いた。
「随員殿」侍従は帳面を閉じた。「馬車は、東の門に付いております」
「刻限まで、この部屋におります」
「お出になるときは、お声がけくださいませ」侍従は言った。「お一人にはせぬようにと、承っております」
「承知しました」
戸が閉まり、足音が三つぶん、廊下の奥へ遠ざかっていった。
オリヴィアは椅子へ戻った。
どこまで考えていたか。器を覗く目が一つ消えて、その翌朝から血が出た——そこまでだ。
オリヴィアは灯りを直し、ここ七日を日ごとに並べ直した。
二日目、調薬の間と厨房と居室を検めた。壺を持ち上げ、器を覗き、料理番に番の話まで訊いた。毒の側を、丸一日かけて歩いた。
何も起きなかった。
三日目、記録の間へ行った。台帳は開かれなかった。夜のうちに、ヴェスパーの名を覚えへ書いた。
四日目、廊下に人が増えた。出入りの刻限が帳面に書かれ、侍女頭は控えの間へ呼ばれ、オリヴィアと何を話したかを訊かれた。
厨房を嗅ぎ回った日には、誰も動かなかった。名を尋ねた翌日に、城が閉じた。
器より、名のほうが痛い。
五日目、旅装の奥の包みが解かれ、結び直されていた。黄の糸が一本入っているだけの包みだ。
六日目、出立が十日から七日に縮められ、器の匙が深くなった。
窓の下を、桶が一つ運ばれていった。今日の朝の布も、あの部屋で洗われている。
オリヴィアは卓の上で、その三つを頭の中に並べた。
荷を検めた者にとって、糸くず一本は何の意味も持たない。書きとめる値打ちもない。それでも報告は届いている。翌日に日取りが動き、匙が深くなったのだから、届いた先で意味が読まれている。
黄の糸を見て、それが自分の刺繍布から抜けたものだと色だけで分かる人間は、この城に一人しかいない。
その一人の部屋から、盆の番を書いた紙が毎朝出ていく。誰の手が器に触れるかは、その紙が決めている。
廊下に人が立ったとき、侍従は仰せですとしか言わなかった。出立の日が縮まったときも、同じ言い方だった。
殿下は、命じたことを覚えてすらいないだろう。隣国の薬はもう要らぬという言葉も、もとは自分のものではなかった。
膳と、廊下と、国と国の約束。触れる場所も筋道もまるで違う三つが、たどれば同じ一つの口へ戻る。
その口に何を言わせるかを決めている人が、この城に一人いる。
背筋の産毛が立った。
橋が、架かった。
名を偽った令嬢と、器に匙を入れる手は、同じ人だった。
オリヴィアは椅子の背に体を預け、しばらく天井を見ていた。
まだ足りないものが一つある。
二年前に来たあの人は、七年前の器には届かない。届かないのに同じ型を使う。
——一年ばかり前に、お一人。ご令嬢のお名を、やはりお尋ねになりました。
根はひと束も買わずに帰ったという。
薬種の幕をくぐって薬種を買わない者は、客ではない。
名を疑う者なら、疑ったなりに動く。城へ持ち込むか、噂に流すか、誰かへ売るかする。一年経っても何も起きなかった。
老商人は、今も市に立っている。
訊きに来た者は、答えを聞いて安心して帰ったのだ。
あの家に、そのお名の方はおいでになりません——その答えは、名を暴く答えではない。名を守る答えだ。存在しない令嬢を誰も見つけられないなら、その名はまだ持つ。
検分だった。
身元を確かめる者がつくのは、一人で企てる者ではない。
しかも、確かめられたのは名のほうだった。名が破れないかどうかを、上の者が案じていた。案じるということは、その名を選んだのが自分たちではなかったということだ。
安全な名なら、いくらでも用意できたはずの人たちが、危ない名を抱えたまま二年を過ごしている。
抱えているのではない。抱えさせられている。
名を渡さなかったのは、あの令嬢だ。
組織が用意した衣を着て、名だけは自分のものを通した。載らなかった名を帳面のいちばん上へ書かせるために。
オリヴィアは灯りへ手をかざした。指の影が、卓の板の上で細く伸びた。
では、この人たちは何が欲しいのか。
殺すつもりなら、七年はかけない。
七年かけて衰えさせる毒は、死なせるためのものではない。立てなくするためのものだ。政務に立てない王太子は、王位を継げない。
継げなくなった王座は、誰かへ渡る。
渡した先の傍らに、名を取り返した女が立つ。
そこまでで、オリヴィアは考えるのをやめた。渡す先の顔は、まだどこにもない。
城の鐘が、十一を打った。
卓の上には何も出ていない。それでも、置くべきものは全部揃っていた。
揃ったところで、この城に受け取る手がない。
殿下は毒など出ぬと仰る。宮廷医の言葉は愚痴として扱われる。記録官は台帳を開かない。侍従は、書く欄がないと言う。
正午に馬車が出る。
オリヴィアは立ち上がった。
受け取る手がないなら、動かすしかない。動いた手は、必ず形を残す。
「本国へ、これを」
ドナル卿は差し出された布包みを受け取り、卓の上で開いた。
二つの蝋の欠片と、滓の染みた布。その下に、夜のうちに書き写した覚えが二枚。
「これは何だ」
「殿下の器から採ったものと、隣国の薬院から持ってきたものです」オリヴィアは答えた。「並べ方は、二枚目に書いてあります」
「宰相閣下に、そのまま渡せばよいか」
「はい」オリヴィアは言った。「閣下なら、二枚目だけで足ります」
ドナル卿は覚えの一枚目に目を落とし、途中で顔を上げた。
「これは、告発文だな」
「事実の並びです」
「同じことだ」ドナル卿は紙を置いた。「顧問殿。馬車は正午に出る」
「わたしは、残ります」
部屋の中の音が消えた。窓の外で、荷を積む男たちの声だけが続いている。
「聞き違いにしておきたいところだ」
「聞き違いではありません」
「随員の名簿から名が落ちれば、お前はただの人になる」ドナル卿は言った。「この国では、婚約を解かれた娘だ」
「存じております」
「メリディアはお前を守れん」ドナル卿は指で卓を一度叩いた。「城で何が起きても、こちらから手は出せん。それが国と国の約束だ」
「はい」
「残って、誰に示す」ドナル卿は言った。「この城に、お前の話を聞く者がいるのか」
「今は、おりません」
「今は」
「作ります」
ドナル卿は卓の木目を見下ろし、それから長く息を吐いた。
「宰相閣下に、何と申し上げればいい」
オリヴィアは、しばらく答えなかった。
「明日の朝、薬を持っていく者がおりません」
ドナル卿は口を開き、そのまま閉じた。
「六日で戻ると仰るなら、六日待ちます」オリヴィアは続けた。「ですが殿下の器は、六日待ちません」
「……宰相閣下は、確かめてこいと仰った」ドナル卿は覚えを布へ包み直した。「残ってこいとは仰っていない」
「確かめました」オリヴィアは言った。「確かめたものを置いて帰る方法を、思いつきませんでした」
ドナル卿は包みを胸の内へ収め、革の帯をきつく締めた。
「五日で届ける」ドナル卿は言った。「馬を替えて走る」
「宿駅は、途中に幾つございますか」
「三つだ」ドナル卿は答えた。「二つ潰す気で行く」
「無理はなさらないでください」
「無理をするなという顔で言うな」ドナル卿は立ち上がった。「お前の荷は、もう東の門だ」
「構いません」
「一つ答えろ」ドナル卿は戸口で足を止めた。「勝てるのか」
「勝ち負けの話ではありません」オリヴィアは頭を下げた。「明日の朝の話です」
ドナル卿は何も言わずに出ていった。
廊下を遠ざかる足音は、来たときより速かった。
甘い香の下から、冷たい一本が先に来た。
二日前は逆だった。蜜の重さに埋もれて、近づくほど見失う細さだったものが、今日は花より前に立っている。
量が増えれば、香は隠しきれない。
通されたのは、中庭に面した明るい間だった。卓に茶器が二つ。窓からの光が卓布の白を痛いほどに照り返している。
セリカは長椅子ではなく、卓の向こうに立っていた。手には薄い革の手袋をはめている。
「随員様」セリカは笑みを作った。「お発ちの前に、わざわざ」
「ご挨拶に参りました」オリヴィアは礼をした。「七日、お世話になりました」
「まあ、ご丁寧なこと」セリカは手袋の指先を一本ずつ引いた。「お茶を差し上げたいところですけれど、もうお刻限でしょう」
「七日、お邪魔をいたしました」
「七日で何かお分かりになって?」セリカは茶器のほうへ手を伸ばした。「この城は、外の方には分かりにくいでしょう」
「分かりにくうございました」オリヴィアは答えた。「どなたに伺っても、紙が回ってくるとだけ仰います」
「紙は、便利なものですものね」
「一つだけ、お伝えしてまいります」
「なにかしら」
「殿下は、痺れが先に来ると仰います」オリヴィアは言った。「重さは、そのあとから来るそうです」
手袋を引く指が、そのまま動いた。
「お体のことは、宮廷医の先生方に」
「その順は、七年変わっておりません」
窓の外で、中庭の砂利を踏む音がした。
「量だけが、この三日で変わりました」オリヴィアは続けた。「舌で数えました。はじめに採った滓は十を数える前に退きました。昨日の朝のものは二十五まで残りました」
「舌で」セリカは片方の手袋を卓に置いた。「随員様は、面白いことを仰るのね」
「毒見の作法にございます」
「作法」セリカは繰り返した。「随員様は、殿下の器のことばかりね」
「薬を調える役でございます」
「お薬」セリカは笑った。「隣国のお薬は、この三日でずいぶん効かなくなったそうよ」
「効きが落ちたのではありません」オリヴィアは言った。「向こうが増えただけです」
卓の上で、置かれた手袋の指が内側へ曲がったまま止まっていた。
「隣国の書架に、古い毒物図譜がございました」オリヴィアは言った。「欄外に、後の代の手で一行だけ書き足されておりました」
「本のお話が、お好きなのね」
「灰を匙で量る者ら、と」
部屋の白さが、そのまま動かなくなった。
「灰の匙」オリヴィアは名を置いた。「ハルダ先生は、昔話だと笑っておいででした」
セリカは、もう一方の手袋を引かなかった。
笑みは残っていた。頬の形も、口の端の角度も、さっきと同じ場所にある。ただ、そこに息が通っていない。
七年見てきた顔だ。この人が本当に笑うところを、一度も見たことがなかった。
「七年黙っていた人が、最後の日になってよく舌が回るのね」
甘さが落ちていた。語尾の伸びが、きれいに切れている。
「黙っていたのは、見ていられたからです」
「見て、どうなさったの」セリカは卓を回ってきた。「殿下に申し上げた? 宮廷医に? 記録の間に?」
「いいえ」
「一度も」セリカは言った。「七年、一度も」
「はい」
「そうでしょうね」セリカは足を止めた。「あなたを下がらせたのは殿下よ」
その一言を、オリヴィアは口の中で二度なぞった。
「わたくしは何も命じておりません」セリカは言った。「殿下がご自分でお決めになったの。用済みだと、あの方が仰ったわ」
「存じております」オリヴィアは答えた。「その場におりました」
「それに、あなたは七年一度も毒があると仰らなかった」セリカは首を傾けた。「今さら何を仰っても、恨みごとにしか聞こえないの」
二日前と同じ問いだった。あのときは、返す言葉が一つもなかった。
今日は、一つだけある。
「毒は盛る者より、気づかぬふりをする者の方が罪深いのです」
セリカの視線が、はじめて卓の手袋のほうへ落ちた。
「……殿下のことを仰っているのかしら」
オリヴィアは答えなかった。
答えないという答えは、この城で七日のあいだ、いちばん多く受け取ったものだった。
「随員様」セリカは笑みを作り直した。作り直すのに、さっきより時間がかかっていた。「正午に馬車が出るわ。あなたはまた何も言わずに出ていくのね」
城の鐘が鳴りはじめた。
中庭の壁に反って、音は二度ずつ重なって届く。
一つ。二つ。三つ。
オリヴィアは鐘を数え終えるまで待った。
最後の一つが消えたところで、口を開いた。
「今日は、乗らない」
敬語が落ちていた。落としたつもりもなかった。
セリカの顔から、笑みの形そのものが消えた。琥珀の目が、まっすぐこちらを捉えている。愛らしく潤んだところが、どこにもない目だった。
「……なんですって」
「随員の名簿から、わたしの名は落ちました」オリヴィアは言った。「もう客ではありません」
「この城に、あなたの居場所はないわ」
「はい」
「守る国も返る家も、渡す紙もないのに」セリカの声が低くなった。「何になさるおつもり」
「明日の朝、殿下にお薬をお持ちします」
「殿下が、お会いになると思って?」
「お会いにならなければ、お部屋の外に置いて帰ります」
「置いたものを、誰が運ぶのかしら」セリカは言った。「盆の番を決めるのは、わたくしですけれど」
「存じております」オリヴィアは答えた。「二年前の秋からと伺いました」
セリカは長いあいだ黙っていた。
それから、卓の手袋を取り上げ、しなやかに指へ通し直した。手首の縁を整える手つきに、迷いは一つもない。
「お好きになさって」
声には、甘さが半分だけ戻っていた。
「随員でなくなった方を、この城で誰が守るのかしら」セリカは微笑んだ。「お体を、大切にね」
オリヴィアは礼をして、戸口へ向かった。
背に、香が追ってきた。
部屋を出て回廊の光の下に立つと、花も蜜も鼻から抜けていた。
残っていたのは、冷たい一本だけだった。
客間には、もう何も残っていなかった。
旅装も道具袋も履物の袋も、朝のうちに東の門へ運び出されている。寝台の布は剥がされ、卓の上には灯りの脂だけが薄く残っていた。
窓を開けると、東の門のほうから車輪の音が上がった。
石畳を噛む音が四度、五度と続き、それから遠くなっていく。轡の鈴が三つ鳴って、聞こえなくなった。
メリディアの使節が、王都を出た。
オリヴィアは窓を閉め、卓の前に立った。
この部屋は、正午をもって自分のものではない。次に戸を叩く者が、出ていけと言いに来るのか、それとも別の用で来るのかは分からない。
袖から、白い布の包みを一つ取り出した。
ドナル卿へ渡さなかった、ただ一つのものだった。蝋も、覚えも、国境を越えていった。これだけは越えさせなかった。
包みを開くと、黄の糸が一本、布の折り目に沿って横たわっている。
南でしか咲かない花の色だ。
オリヴィアは糸を布へ戻し、端を合わせ、結んだ。
一重に結んだ。
卓の中央に置く。
包みは白いまま、灯りのない部屋で、一重の結び目を上に向けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話の橋は、新しい証人でも自白でもなく、これまでに出た材料の読み違いを直すところから架かりました。「あのお家にセリカという令嬢はおりません」という証言は、その人があの家の人間でないことを意味しません。薬種商は「表沙汰にならぬお子は知らない」と最初に断っていました。オリヴィアは三日、その前半を置き忘れていました。
もう一つの柱は、毒見役の後任が置かれなかったことです。妬んだ女なら、女を除ければ足ります。むしろ次の毒見役を立てたほうが得です。役ごと消して得をする者は一人しかいません。用済みにされたのは女ではなく役だった、という一点に婚約破棄の動機が畳まれています。
そして、外されたことそのものが、七年効いていた証拠になります。彼女はそれを声にしませんでした。
証は揃いました。ですが、この城に受け取る手がありません。馬車は出て、彼女は残りました。次話、七年ぶんの答え合わせが始まります。
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