薬師の娘
道端の草いきれに、乾いた苦みが混じっていた。
オリヴィアは足を止め、匂いのもとへ目をやった。轍の脇に、誰かが束ねかけて放り出した薬草が萎れている。ヨモギに似た葉だ。舌の奥が、覚えのある苦さに勝手に反応した。
もう毒見の要らない舌なのに、体だけがまだ、その癖を手放していない。
初夏の陽が、街道の白い土を焼いていた。宿を発って、まる一日が過ぎている。行く先は、まだ決めていなかった。足だけが、東へ東へと向いていた。
肩にかけた荷の紐が、汗ばんだ首筋に食いこむ。荷の底には、炭の粉の瓶と、薄めた灰塵の小瓶。それから、革の小さな巾着がひとつ。
巾着の口紐を、指の腹でなぞる。中身は、もう半分に満たない。
街道沿いの木陰に、朽ちかけた道標が立っていた。近づいて見ると、消えかけた字で幾つかの町の名が刻まれている。いちばん下、苔に半ば埋もれた一行に、見慣れない綴りがあった。
メリディア国境。矢印は、この道の延びる先を指していた。
その字を、オリヴィアはしばらく見つめた。行くと決めたわけではない。ただ、その字が示す方角へ、足の裏がわずかに引かれた気がした。
道標を離れると、街道の先で荷車の軋む音がした。振り向くと、荷を高く積んだ行商人がひとり、ろばを引いて歩いてくる。
「お嬢さん、こんな道を一人歩きかね」
行商人は、日に焼けた顔をオリヴィアに向けた。人懐こい声だった。
「はい」オリヴィアは頭を下げた。「少し先まで参ります」
「物騒だよ、この時世は」行商人は荷の陰から水袋を取り出した。「よかったら、ひと口どうだい」
「お気遣いなく」
「遠慮しなさんな」行商人は水袋を差し出した。「ただの水だ。毒なんぞ入っちゃいない」
オリヴィアは、危うく小さく笑いそうになった。この街道で、水に毒が仕込まれているかを言い当てられる者がいるとすれば、それはきっと、差し出される側のこの自分だけだろう。
オリヴィアは薄く頭を下げ、水袋を受け取った。今度は、ためらわなかった。誰の毒見も経ずに水を飲むのは、思えば七年ぶりのことだった。
「あんたの荷、薬草の匂いがするね」行商人は鼻を鳴らした。「薬師の一族かい」
「……昔は」
「昔は、かい」行商人はろばの手綱を引きなおした。「まあ、いいさ。詮索は野暮ってもんだ」
「けど、あんたは薬売りにも旅慣れた娘にも見えないねえ」行商人は目を細めた。「どこぞのいいとこのお嬢さんが、わけありで発ってきた。そんな顔だ」
「……そう見えますか」
「長く商売してりゃ、人の来し方くらい荷の匂いでわかるのさ」行商人は肩をすくめた。「もっとも、詮索はしないよ。ときに、道標は見たかね」
「はい」
「この道をずっと行けば、メリディアの国境さ」行商人は荷を揺すり上げた。「あたしゃ、そこまでは行かないがね」
「あなたは、どちらへ」
「西の町さ。あんたとは逆向きだ」行商人は笑った。「けど、あんたの足はさっきから東ばかり向いてるね」
「……分かりません」オリヴィアは水袋に口をつけた。「ただ、行ってみたい気だけはします」
水袋を返すと、行商人はろばとともに西へ去っていった。荷の軋む音が、やがて草いきれに紛れて消える。
薬師の一族。その呼び名が、まだ胸の奥に居座っている。もう、そう呼ばれる家からも離れて久しいのに。
——それは、十二の年の、まだ冬の名残りが残る時分のことだった。
レイヴンズクロフト伯爵領は、丘の連なる痩せた土地だった。麦より薬草がよく育つ土で、代々の当主は、剣より乳鉢を握って生きてきた。
その年の冬、隣村の小作人の娘が、粥に当たって高熱を出した。父親が館の裏口まで駆けこんできたのを、オリヴィアは覚えている。
「先生……先生はおいでか。娘が、娘が動かなくなって」
祖母は、手にした薬研を置いて立ち上がった。返事より先に、もう体が動いていた。
「案内をおし」
オリヴィアも、薬箱を提げて後をついていった。粗末な小屋に着くと、娘は土色の顔で横たわり、唇の端に泡を浮かべていた。息が浅く、喉の奥で細い音が鳴っていた。
「灯りを、もっと近く」祖母が短く言った。
オリヴィアは灯を寄せた。祖母は娘の口をこじ開け、指を喉の奥まで入れた。娘が激しく吐いた。それから、鍋で煮出した炭の粉の汁を、匙で少しずつ流しこんだ。
「息は戻る。案じなさんな」祖母は母親へ、ほとんど命じるように言った。「泣くひまがあるなら、湯を沸かしておやり」
母親は転げるように立ち、竈へ走った。
オリヴィアは灯りを支え、祖母の指の動きを、瞬きも惜しんで見つめていた。迷いのない手だった。恐れは、そこには見当たらなかった。
「悪い実が、粥に混じったんだろう」祖母は乾いた声で言った。「毒は、出す。それだけのことだ」
夜が明けるころ、娘の顔に赤みが戻った。父親は祖母の手を両手で握り、何度も頭を下げた。
「先生、先生のおかげで」
「礼はいらん」祖母は手を引き抜いた。「次は、実の見分け方を子らに教えておくがいい」
「へえ、へえ」父親は何度もうなずいた。「このご恩は、村じゅうに言い触らしますで」
「それだけは、およし」祖母は背を向けた。「言い触らされて、良かったためしがない」
その夜のことを、オリヴィアは誇らしく思っていた。祖母の手が、確かに人ひとりを生かしたのを見た。
帰り道、まだ暗い畑の畦を歩きながら、胸の奥があたたかかったのを覚えている。
だが、村に広まった話は、それとは違う形をしていた。
「あの家は毒にも詳しいそうだ」
「詳しいどころか、盛るのも仕込むのもお手のものだろうよ」
「娘が急に苦しみ出したのは、あの家の誰かが近くをうろついていたからだとか」
「よくもまあ、恩着せがましく助けてみせたもんだ。自分で毒を盛って、自分の薬で救う。芝居のようなものさ」
根も葉もない噂だった。それでも、噂は事実より速く村を巡った。祖母を訪ねる足は、その冬を境に目に見えて減った。
門前で、村の女たちがひそひそと囁くのを、オリヴィアは何度も聞いた。
「毒に詳しい家の薬なんぞ、怖くて飲めやしないよ」
「先生の腕は確かだけどねえ。腕が立つのと信じられるのは、また別の話さ」
一度など、子の熱で薬をもらいに来た父親が、祖母の差し出した薬包を前に手を止めたことがあった。
「先生。これは、ただの熱冷ましなんで」
「ほかに何があるというんだね」
「いや……その、妙なものは入っていないかと」
「入れてほしいのかい」祖母は薬包を引っこめかけた。「疑うなら、持って帰らずともいい」
父親は慌てて薬包をつかんだ。それでも、館を出ていく背には、隠しきれない怯えがあった。頼りに来てなお、その手を恐れている。
市場でも、館の名は影を落とした。
一度、オリヴィアは祖母の名代で、乾かした薬草を売りに出たことがある。筵に束を並べていると、恰幅のいい女が足を止めた。
「それは、どこの薬草だい」
「レイヴンズクロフトの畑のものです」オリヴィアは答えた。「熱冷ましによく効きます」
女の手が、伸ばしかけたところで止まった。
「ああ、あの家の」女は薬草から手を引いた。「よしておくよ。効きすぎるのも考えものだからねえ」
「効きすぎる、とは」
「わからないのかい」女は声をひそめた。「効かせるのも盛るのもできる腕なんだろう。そういう薬草は口に入れるのが怖いのさ」
「祖母の薬で、助かった人もいます」
思わず、口をついて出た。けれど女は、鼻で笑っただけだった。
「助かった、ねえ。それを見た者が、どこにいるんだい」
まわりの数人が、聞こえよがしに笑った。買わないだけなら、まだよかった。誰も、その薬草に指を触れようとすらしない。まるで、触れれば毒が移るとでもいうように。
その日、オリヴィアは一束も売らずに筵を畳んだ。代金を投げるように置いていく者がいた日より、その日の帰り道のほうが、ずっと遠かった。
筵を抱えて館へ戻ると、祖母は一目でそれと察したようだった。
「売れなかったか」
「はい」オリヴィアはうつむいた。「わたしが、うまく言えなかったせいです」
「お前のせいじゃないよ」祖母は薬草を受け取り、棚へ戻した。「あの者たちは薬を買わないんじゃない。買わずにいられる自分に、安心したいだけさ」
「それでも、薬は挽くのですか」
「挽くさ」祖母は乳鉢に向き直った。「買う者がいなくなっても、要る者は必ず出てくる。そのとき棚が空では、薬師の名がすたる」
人ひとりを生かしても、この家に返ってくるのは礼ではなく、疑いだった。オリヴィアは、その理屈がどうしても飲みこめなかった。
「おばあさま」ある晩、オリヴィアは薬草棚の前で祖母に訊いた。「あんなに、娘さんを助けたのに」
「助けたことなど、誰も見ていないのさ」祖母は乾いた葉を選り分けながら答えた。「見ていたのは、苦しむ姿だけだ」
「悔しくは、ないのですか」
「悔しいさ」祖母は手を止めなかった。「だが、悔しさで薬研は挽けん」
その横顔は、石を刻んだように動かなかった。オリヴィアは、それ以上は何も訊けなかった。
雪解けの近づくころ、館へ王家の使者が訪れた。
馬車の紋章を見た瞬間、家じゅうの空気が張った。使者は書記官らしい細身の男で、応接の間の椅子に浅く腰を下ろし、書付を広げた。
「レイヴンズクロフト卿」使者は書付から目を上げずに言った。「王太子殿下の毒見役を、貴家より一名お出し願いたい」
「毒見役、ですと」祖母の声が低くなった。
「近ごろ、宮廷では不審な病が絶えぬ。毒に通じた者が入り用でしてな」使者はようやく顔を上げた。「貴家の評判は、この王都にも届いておりますよ。毒にも薬にも、誰より詳しい家だと」
「詳しい、とは」祖母は使者を見据えた。「どなたが、そう申しました」
「村の者が、口々に」使者はうっすらと笑った。「火のないところに煙は立たぬと申しますでな」
「煙を立てたのは、火を見たことのない者たちです」
その言い方に、オリヴィアは背筋が冷えた。村で疑われ、遠ざけられたその評判が、王都では別の値をつけられている。
「うちの娘は、薬師の見習いにございます。毒見役には向きませぬ」祖母は言った。
「向くかどうかは、こちらで決めます」使者は書付を軽く叩いた。「それに、失礼ながら貴家は近ごろ村での評判が芳しくないと聞き及ぶ。娘御を王太子殿下の御側に上げれば、家の名は洗われましょう」
「名を洗うために、娘を差し出せと」
「人聞きの悪いことを」使者は書付を巻いた。「これは、栄誉ある御用命にございますよ」
「栄誉」祖母は短く繰り返した。「その言葉を、村の者たちにも聞かせてやりたいものです」
「村の噂と、王家の御用は別のこと」使者は腰を上げた。「よき返事を、お待ちしておりますよ」
名が洗われる。裏を返せば、断れば洗われぬままだ、という意味だった。
「娘は、まだ十二です」祖母の声が、初めて揺れた。
「十二であれば、ちょうどよろしい」使者は事務的に言った。「幼くして役目に馴染めば、長く御用に立てる。ゆくゆくは殿下の婚約者として御側に置き、毒見を兼ねさせる。名も、身分も申し分ない。それに——」
使者は、書付の端でオリヴィアを指した。
「毒に通じた家の娘であれば、なにか起きても惜しむ者は少のうございましょう」
祖母の手が、膝の上で固く握られた。無礼な、という言葉が、喉のあたりまで上がってきたのが、傍らのオリヴィアにも分かった。
だが祖母は、それを飲みくだした。ここで抗えば、娘の身がどうなるか知れない。そう分かっている握りこぶしだった。
その一言を、オリヴィアは今も忘れていない。惜しむ者が少ない家だから、選ばれた。褒められぬ家であることが、そのまま値打ちにされた。
窓の外では、供の従者たちが退屈そうに馬を休ませていた。彼らの目に、この館はどう映っているのだろう。
薬草の匂いのする、うすら寒い家。そんなふうに見えているに違いなかった。
部屋の隅で、オリヴィアは膝のこぶしを握っていた。心の臓が、耳のあたりでうるさく鳴っている。
城がどんな場所かも、毒見役が何をするのかも知らない。ただ、このままでは祖母が連れていかれる。それだけが、はっきりしていた。
息を、ひとつ吸う。震えを腹の底へ押しこめた。
「参ります」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
祖母が、はじかれたようにこちらを見た。
「わたしが、参ります」オリヴィアは繰り返した。声が震えないよう、腹に力を込めた。「おばあさまの代わりに、家の名を守ります」
「オリヴィア」
「決めました」
「では、追って正式な沙汰を届けさせましょう」使者は満足げに書付へ何か書きつけ、腰を上げた。「支度の日取りも、そのおりに」
馬車が去ると、応接の間に、しばらく誰も口を開かなかった。窓の外で、蹄の音が遠ざかっていく。
旅支度の整った、出立の前夜。祖母は薬草棚の抽斗から、小さな革の巾着を取り出した。年季の入った巾着だった。中には、乾いた葉と根が、幾種か詰まっていた。
祖母は台のうえに葉を並べ直し、ひとつずつ数えるように詰めなおしていった。手つきに、いつもより時がかかっていた。
「持っておゆき」祖母は巾着の口を固く結びなおした。「具合の悪いときは、使い方を体が覚えているはずだ」
「はい」
「おばあさま」オリヴィアは巾着を見つめた。「わたしが行けば、家の名は洗われるでしょうか」
「さあ、どうだかね」祖母は結び目をもう一度確かめた。「洗われるかどうかは向こうの気分次第だ。あてにするものじゃない」
「では、なぜ受けるのですか」
「お前が、行くと言ったからだ」祖母はオリヴィアを見た。「わたしは、お前が決めたことを止めないよ」
「……はい」
「ひとつだけ」祖母は、初めてオリヴィアの頬に手を触れた。硬い、薬草の匂いのする手だった。「向こうで何があっても、体だけは大事におし。お前は、すぐ無理をするから」
巾着を受け取ったとき、掌の中でそれは驚くほど軽かった。この軽さで、家をひとつ背負っていくのだと、十二のオリヴィアは思った。
戸口まで見送りに出た祖母の前で、オリヴィアは深く頭を下げた。
「参ります。ご迷惑は、おかけいたしません」
声は、ちゃんと出ていたはずだった。だが背を向けた瞬間、喉の奥から、堪えていたものがひとつだけこぼれた。
「……怖い、です」
振り返らずに、それだけ言った。応えは、なかった。ただ、背中に長く注がれている視線だけを感じた。
馬車が丘を下るあいだ、祖母の姿はいつまでも戸口に立っていた。小さくなっていくその輪郭を、オリヴィアは窓に額をつけて見送った。
草いきれが、また鼻先に戻ってくる。
オリヴィアは、荷の底から革の巾着を取り出した。七年の間に、幾度も詰め替え、幾度も口紐を結びなおした巾着だった。もとの形はもう、ほとんど残っていない。
城にいたころは、ここに灰塵で荒れた喉や胃をなだめる薬草を詰めていた。毒そのものは炭の粉と時が引き受け、薬草は、そのあとに残る痛みを鎮めるためのものだった。
今はもう、道中の傷薬と、乾いた葉が数枚あるだけだ。
あの日、祖母がくれた軽さを、オリヴィアは今も覚えている。あのときの軽さと、今の軽さは、同じではなかった。
褒められぬ家だった。人を生かしても、疑われる家だった。それでも、あの家は誰かを生かすことをやめなかった。
惜しむ者が少ないから選ばれた娘は、そうやって育った家の分だけ、七年、誰にも気づかれずに誰かを生かし続けた。
その代償は、いまも体の奥に残っている。巾着の紐を結ぶ指が、意志とは関わりなく、細かく震えていた。
七年ぶんの毒は、体のどこかへ深く沈んで、もう抜けてはくれない。灰塵をやめても、この震えだけは、たぶん一生ついてくる。
いや——やめれば済む、という話でもなかった。七年浸しつづけた体から、いざ毒が抜けていくとき、何が起きるのか。
祖母から受け継いだ知識にも、そこから先は書かれていない。荷の底の小瓶で、灰塵が尽きる日が、静かに近づいていた。
日が傾きはじめ、街道の土が橙に染まっていく。前方に、次の町らしい灯がぽつぽつと見えてきた。今夜の宿も、まだ決めていない。
巾着の口紐を、もう一度きつく結びなおす。
街道は、丘を越えてなお東へ延びていた。歩けば、いずれメリディアへ着くという。働きを、飾りと呼ばない国。
その方角へ、日はまだ低い位置から橙の光を投げていた。軽くなった巾着を荷の底へ戻し、紐をかけなおす。掌に残ったその軽さが、まだ消えないうちに、オリヴィアは足を踏み出した。
日の落ちるまでに、次の町へ着けるだろうか。橙の光を追うように、その足は東へ、また一歩ずつ進んでいった。振り返らなかった。もう、振り返る家もない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、オリヴィアが城へ差し出された「経緯」そのものを書きました。祖母の教えは前話ですでに語っているので、今回はあえて台詞を繰り返さず、事件の側から家の孤立を描くことにこだわりました。人を助けても疑われる家、そしてその疑われる評判が「惜しんでもらえないから、ちょうどいい」という理由で王家に利用される——理不尽の連鎖が、オリヴィアという人の芯を作ったのだと思います。
十二歳の彼女が一度だけ漏らした「怖い、です」は、七年後に城で漏らした「どうか、ご無事で」とは違う種類の弱さです。同じ人が同じように弱さを隠す癖を、幼い日からずっと続けてきたのだと感じていただけたら嬉しいです。
祖母がくれた巾着は、これからも彼女の荷の底で旅を共にします。次話では、七年間の「毎晩の一滴」——耐性づくりの代償を、もっとも重く描く予定です。
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