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誰も知らない朝

 粥の湯気に、毒の匂いはなかった。


 オリヴィアは椀を鼻先へ寄せ、立ちのぼる湯気の奥を嗅いだ。麦と、塩と、刻んだ葱。あの冷たい金属の匂いは、どこにも差していない。灰塵かいじんの、灰を噛むようなえぐみもない。ただの、貧しい宿の朝粥だった。


 それでも舌は、椀の縁で一度ためらった。七年、そうしてきた舌だ。毒のない椀を前にして、何を探せばいいのか、体のほうが忘れられずにいる。


 窓の外は、白く薄い朝だった。板戸を細く開けた隙間から、初夏の朝がぬるく流れこむ。


 王都のはずれの安宿は、壁が薄い。隣室の咳も、階下の竈の音も筒抜けに届く。表の通りでは、荷車の輪が石畳を鳴らし、物売りの声が遠くを行き交っていた。


 湿った藁と、煤の匂い。焼きたてのパンと蜜で満ちていた城の朝とは、匂いも音も、何もかもが違った。


 宿の女将が、盆を提げて戻ってきた。


「お客さん、口に合わないかね」


「いえ」オリヴィアは椀を置いた。「あたたかいうちに、いただきます」


「無理においしがらなくていいんだよ」女将は笑った。「口に合わなきゃ、麦湯でも持ってこようかね」


「いいえ。……じゅうぶんです」


「そうかい」女将は盆を小脇に抱えた。「せかせか食べるお客が多いなかで、あんたはずいぶん静かに食べるねえ。まるで、ひと匙ずつ味を検分してるみたいだ」


「……昔の、癖です」


「へえ。行儀のいい癖だこと」


 女将はうなずきかけて、ふと手もとに目を落とした。


「その手、ずいぶん荒れているねえ」


「薬草を、少し」


「へえ。薬師さんかい」


「いいえ」オリヴィアは手を膝へ引いた。「もう、何者でもありません」


 女将は、それ以上は訊かなかった。腑に落ちない顔で、荒れた指のあたりをもう一度だけ見た。それから、自分の左手を開いて閉じた。薬指が途中で強張って、うまく曲がらない手だった。


「あたしの亭主もね」女将はその手を前掛けで拭いた。「薬をしくじる医者にかかってねえ。治す手が、逆に人を減らすこともあるのさ」


「そうですか」


「腕がいいって評判の先生だったよ。それでも、うちの人は帰ってこなかった」女将は空の椀を見た。「だからね、荒れた手を見ると放っておけないんだよ。よけいなお世話だけどねえ」


「いいえ」オリヴィアは首を振った。「よけいなお世話だなんて」


「あんた、なんだか昔のあたしに似てるよ」女将はしみじみと言った。「なんでも独りで抱えて、平気な顔をする。そういう人ほど、いちばん無理をしているのさ」


「……そんなことは」


「隠したってわかるよ。伊達に、宿屋のおかみを三十年やっちゃいない」


 治す手が、人を減らす。この女将は知らずに、いちばん近いところをかすめていく。


「顔色もねえ。ずいぶん白いよ」女将は眉を寄せた。「ゆうべも、ろくに眠ってなかったろう」


「旅の疲れです」


「旅の疲れなら、いいんだけどねえ」女将は湯呑みに麦湯を注ぎ足した。「あんたの手、さっきから小刻みに震えてるだろ。疲れだけの震えには、見えないんだよ」


「……昔からの、ものです」


「そうかい。ならいいけどさ」女将は、それ以上は言わなかった。


「どこか、遠くへお行きかい」


「……まだ、決めていません」


「あてもなく、かい」女将は目をまるくした。「若い娘さんが、ひとりで。ご実家は」


「……帰れる家では、ないのです」


 実家の伯爵位は、王家の決めごとに逆らえない血筋だった。城を出た娘を迎えれば、その家ごと睨まれる。帰らないのではない。帰れば、育ての家を巻き添えにする。


「そうかい。……つらいことを訊いたねえ」女将は少し声を落とした。「なに、うちみたいな宿にもわけありのお客はいくらでも来るよ。誰も、来し方なんか訊きゃしない。ゆっくりおしよ」


「ご親切に」


「親切なもんかね。商売さ」女将は照れたように笑った。「まあ、たんとお食べ。うちの粥は、毒にも薬にもならないけどね」


 毒にも、薬にも。


 その何気ない言い回しが、オリヴィアの舌の奥で、思いがけず苦かった。


「……ありがとうございます」


 女将が奥へ引っこむと、部屋には麦の匂いだけが残った。


 誰の膳も、毒見しなくていい朝だった。七年で、初めての。


 そう思ってなお、指は椀の縁を離れなかった。守る者のいない手が、守り方だけを覚えている。




 ——あれは、まだ十二の春のこと。


 伯爵領を発つ前の夜、祖母は薬草棚の前で、乾いた葉を指で潰していた。


「いいかい、オリヴィア。毒は、誰も褒めない」


「どうして、褒められない毒を覚えるの」


「褒められない仕事のほうが、人をよほど生かすからさ」祖母は葉の粉を紙に落とした。


「毒を知る者はね」祖母は続けた。「その毒を、少しずつ身の内に容れる。そうして、毒に負けぬ体を作るのさ」


「痛くは、ないの」


「痛いさ。痛みを引き受けた手だけが、誰かを守れる」


 その言葉の意味を、十二のオリヴィアはまだ知らなかった。知ったのは、城に上がって幾日もしないうちだった。


 王太子の膳を毒見した、ある朝。焼いた魚の身の裏で、舌の奥に古釘のような味が差した。灰塵。殿下の器の底に、それは薄く沈んでいた。


 誰に言えばいい——喉まで出かかって、その手前で止まった。毒を盛った者は、この城にいる。告発すれば、手口を変えられる。気づいた者がいると知れた時が、いちばん危うい。十二の子どもにも、それだけは分かった。


 だから、黙って匙を動かした。毒の落ちたひと匙ぶんを、皿の位置を直すほどの手つきで自分の椀へ移す。心の臓が、喉のあたりで鳴っていた。


 移してしまえば、もう後戻りはできない。それでも、指は止まらなかった。あとは、飲み下すだけだった。


 その晩から、薄めた灰塵をほんのひとしずくずつ舌に落とすようになった。夜、灯を消す前も、朝の務めのあとも、日に一度は欠かさずに。


 毒に慣れた体だけが、毎朝の毒に倒れずにいられる。祖母が授けてくれた、たったひとつの守り方だった。


 毒が体に牙を剥いたのは、まだ十三の秋だった。


 務めを終えて廊下へ出た途端、床が足の下で傾いだ。視界の端が、外から墨を差したように狭まっていく。


 耳の奥で細い音が鳴りつづけ、侍女たちの足音が、水を隔てたように遠い。手のひらは冷たく湿っているのに、背だけが妙に熱かった。額に浮いた汗が、こめかみを伝って落ちる。


 柱にすがって、爪を見た。薔薇色をしているはずの爪が、根もとから薄い青に沈んでいた。


「オリヴィアさま」侍女頭が駆け寄った。「お加減が、お悪いのですか」


「……いいえ」オリヴィアは柱から手を離そうとして、離せなかった。「少し、立ちくらみを」


「お顔の色が、まるでございません。唇まで、青うございます」


「毒見のあとは、いつもこうなのです」オリヴィアは笑ってみせた。「じきに慣れます」


「慣れる、などと」侍女頭の声が湿った。「そのようなお体で、なにを」


「大丈夫です。ほんとうに」


「せめて、お部屋までは」


「いいえ」オリヴィアは壁を伝って歩き出した。「ひとりで、戻れます」


 それでも侍女頭は、離れなかった。数歩うしろから付いてきて、自室でたらいの縁を握って震えるオリヴィアの背を、ただ黙ってさすってくれた。なぜとは、ひとことも訊かずに。


 嘘ではなかった。慣れる、と決めていた。ただ、ほんとうの理由だけを言わずにおいた。


 話せば、この人も抱えることになる。抱えれば、顔に出る。顔に出れば、盛る者に気取られる。だから灰塵と一緒に、その言葉も喉の奥へ落とした。


 あの日から、人前では決して倒れないと決めた。血の気の失せた頬には、朝ごとに薄く白粉をはたいた。震える指は、袖の下でこぶしに握った。倒れるなら、誰の目もない自室でと。


 七年、そうやって、体の異変を城の目から隠しとおしてきた。宮廷医の前でだけは、指の先まで気を張った。


 柱の冷たさに額をつけたとき、ほんの一瞬、思ってしまった。——なぜ、わたしだけが。誰にも数えられない砂を、なぜわたしだけが、毎朝ひとりきりで数えているのか。


 思ってすぐ、その問いに蓋をした。数えられる舌が、この城にひとつしかないのなら、それはもう、答えのない問いだった。


 殿下は、覚えておいでだろうか。まだ二人が、幼かったころのこと。


 ある朝、毒見を終えたオリヴィアに、少年のアルヴィスが退屈そうに頬杖をついた。


「なあ。お前の役目は、いつも同じことばかりだな」


「はい」


「毒なんて、出たことがあるのか」


「いいえ、殿下」オリヴィアは頭を下げた。「ひとたびも、ございません」


「つまらない役目だ」少年は膳の匙を鳴らした。「毒も出ないのに、毎朝おれの飯を睨んで。何が面白い」


「面白くは、ございません」


「だろうな」少年は匙を放った。器の縁で、それが乾いた音を立てた。「おれがお前なら、とうに逃げ出している」


「殿下は、お逃げになりますか」


「おれは王になる身だ。逃げる先などない」少年は笑った。「お前とは違う」


「では、もし毒が出たら」


「出るものか」少年はまた匙を鳴らした。「お前が毎朝そうやって睨んでいるのが、その証だろう」


 睨んでいるから毒が出ない、と少年は思う。数えているから毒が届かないのだ、とは逆さまにも気づかない。彼は、自分が何から守られているのかを、生涯知らずにいるのだろう。


 逃げ出せたら、どんなにか。舌の奥で、その朝も灰塵がざらりと粉を噛んでいた。睨んでいたのではない。数えていたのだ、降り積もる砂の粒を。けれど、それを言うことは許されなかった。


 あの日、退屈まぎれに匙を放ったその手つきで、七年ののち、彼はわたしという役目を放った。飾りの女だと、用済みだと。少年のころから何ひとつ気づかず、そして何ひとつ、変わらぬままに。


 七年が過ぎた。指の皮は薄く荒れ、血色は失せ、朝ごとに手の先が震えるようになった。それでも、殿下の口には毒のひと粒も入らなかった。


 誰も知らず、感謝もされない。それでよかった。守るとは、そういうことだった。


 ——麦の匂いが、鼻の奥に戻ってくる。




 椀の粥は、まだ半分残っていた。


 オリヴィアは匙を取り、ひと口すくった。塩の味しかしない粥だった。毒のない食事が、こんなにも味気ないものだと、七年、忘れていた。


 膝の上には、旅の荷がある。オリヴィアは布をほどき、几帳面に並んだ小瓶のひとつを取り出した。炭の粉の瓶。そして、薄めた灰塵の小瓶。


 板戸から差す朝の光に、その小瓶を透かしてみる。琥珀色の液が、底のほうでわずかに揺れた。指の腹で、残りの嵩をなぞる。舌に落とせるのは、もう、あと十日ぶんもない。


 栓にかけた指先が、小さく震えた。震えを噛みころして、蝋の封をもう一度確かめる。城を出た今、これが尽きれば、二度と手には入らない。


 けれど、飲むのをやめても、この体はもとには戻らない。七年ぶんの灰塵は抜けきらず、蝕みだけが芯に棲みついている。朝ごとに指先が震えるのは、もう毒のせいだけではないのだろう。


 守るべき膳を城へ置いてきても、内側の毒だけは、彼女を離さなかった。


 ——今朝、あの器の底を、誰が見ただろう。


 誰も、見ていない。見る舌は、この宿にいる。


 けれど、その器をあらためる者は、もうあの城には残っていない。


 その一点だけが、胸の底で、消えない染みのように残っていた。


 女将が、空いた盆を下げに戻ってきた。


「そういえば、聞いたかい」女将は声をひそめた。「隣国の宰相さまの一行が、王都に入ったそうだよ」


「宰相さま」


「メリディアの、若い宰相さまでね」女将は盆を拭いた。「身分でなく、働きで人を選ぶお方だとか」


「……働きで」


「平民から成り上がったって話さ。この国じゃ、生まれがすべてだのにねえ」


「その国では」オリヴィアは椀を見たまま訊いた。「働きは、飾りと呼ばれずに済むのでしょうか」


「はて。あたしにゃ縁のない話だけどねえ」女将は肩をすくめた。「そういう国が一つくらいあったって、罰は当たらないさ」


「メリディアは」オリヴィアは訊いた。「ここから、遠いのでしょうか」


「さあねえ。歩けば、ひと月はかかるって聞くよ」


「ひと月」


「あんた、まさか行くつもりかい」女将は目をまるくした。「よしときな。女の一人旅で、そんな遠くまで」


「……ただ、遠さを知りたかっただけです」


「その宰相さまは、なぜ王都へ」


「なんでも、腕のいい薬師を探しているとか」女将は声を落とした。「あちらの宮廷で、物騒な毒沙汰があったって話でね」


「……毒沙汰」


「物騒な話だろう」女将は身を乗り出した。「なんでも、宴の席でお偉方が何人も倒れたとか。毒だってんで、あちらは大騒ぎらしいよ」


「……お亡くなりに」


「さあ、そこまでは知らないよ。盛った下手人がまだ捕まらないってんで、それで腕のいい薬師をねえ」


「あんたも薬草をいじるんだろ。縁があるかもしれないねえ」女将は笑った。「まあ、噂は噂さ」


「その宰相さまは」オリヴィアは、思わず訊いていた。「どちらに、逗留していらっしゃるのでしょう」


「はて。宮の客館じゃないかねえ」女将は首をかしげた。「おや。あんた、急に食いつくじゃないか」


「……いえ。ただ、遠い国の話がめずらしくて」


 その言葉を聞いたとき、喉の奥が小さく鳴った。


 働きで、人を選ぶ。


 ——飾り。七年働いて、この城が返してよこしたのは、その一言きりだった。殿下も、広間の誰もが、同じ言葉で笑った。


 遠い国の噂は、喉の奥にかすかな熱を残して落ちていった。まだ名前もつかない、初めての熱だった。


 あるとして、と思う。自分がそこへ辿り着くころ、この手はまだ、震えずにいられるだろうか。


「お客さん」女将が、下げかけた椀に目をやった。「ずいぶん行儀よく食べるねえ。まるで、毒でも入ってやしないか確かめるみたいに」


 オリヴィアの匙が、ほんの一瞬、止まった。


「……癖なのです」


「へんな癖だこと」女将は笑った。


 毒でも入っていないか。戯れに言ったのだろう。けれど、その一言だけが、この宿でただひとつ、真実をかすめていた。


 何も知らないまま、正しいことを口にする人がいる。それがおかしくて、指を握る力が、わずかにほどけた。


 女将は、噂話に気を取られて、椀を下げるのを忘れて出ていった。


 行く当ては、なかった。けれど、足の向く先が、ほんの少しだけ遠くを向いた気がした。


 オリヴィアは匙を置き、板戸の隙間の白い朝を見た。


 同じ朝の光が、いまごろ城の高い窓にも差しているだろう。あの食卓では今朝も、殿下が毒のことなど思いもせず、匙を口へ運んでいるにちがいない。守る舌を失った膳の上で、なにひとつ知らずに。


 今日か、明日か。積もった毒が牙を剥く朝は、そう遠くない。


 それを思うと、胸の底の染みが、ひとつ、疼いた。けれど、もう自分の手を離れたことだった。


 卓に残された椀の粥は、いつのまにか湯気を失っていた。表面にうっすらと膜が張り、匙ですくった跡だけが、白く固まって残っている。


 誰にも毒見される必要のないまま、それは、ただ冷えていった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話は、劇中の誰ひとり真実を知らないまま明けていく一夜として書きました。オリヴィアが七年、何を飲み下してきたのか——それを知るのは、読者のあなただけです。


 宿の女将には、名前をつけませんでした。名もない人が、何も知らないまま、いちばん近くで真実をかすめていく。そんな一夜にしたかったのです。


 次話は、彼女を育てた薬師の家——レイヴンズクロフト家のこと。そして、王城に残された器が、いつ牙を剥くのか。どうか、もう少しだけお付き合いください。


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