用済み
謁見の間は、香りで満ちていた。
焚きしめた白檀の衣、蜜蝋の燃える甘い煙、卓に生けた白百合の青い匂い。着飾った貴族たちの体温が、それらを高い天井へ押し上げていく。
オリヴィアは敷居をまたいだその瞬間に、香りの層を鼻の奥で数えはじめた。毒見役の鼻は、こういう場でも休まない。
——ひとすじ、混じっている。
甘さの底に、冷たい金属の匂いが差していた。すみれと、白い花。覚えのある残り香だった。
セリカさまの香水だ、とオリヴィアは思う。今朝も、昨日も嗅いだ。七年もこの鼻で嗅ぎ分けてきたのだ、今さら騒ぎ立てるほどのものではない。いつもの違和感を、ひとつ呼吸に紛らせて胸の奥へ沈めた。
上段の椅子に、王太子アルヴィスが浅く腰かけていた。金の髪に、高窓から落ちる光がよく似合っている。
その斜め後ろに、蜂蜜色の巻き毛の令嬢が控えていた。潤んだ琥珀の瞳が、入り口に立ったオリヴィアを認めて、柔らかくたわむ。
広間の左右で、扇の陰の囁きが低く行き交っている。オリヴィアには、その囁きの味まで届いた。甘い蜜の裏にある、あの渋み。人が誰かを見下すときの声には、いつも同じ後味がある。
「毒見の女が参ったぞ」
誰かが低く言った。忍び笑いが、広間の隅から隅へ伝っていく。
「あの目で見られると、値踏みされているようで嫌ですわ」
「膳のあら探しが習い性なのでしょう。おおかた、わたくしたちの皿まで」
扇の陰の声が、また低く笑った。皮肉のつもりだろう。この広間で、器の底の毒に本当に気づける目は、たったひとつきりだということを、誰も知らない。
「レイヴンズクロフト伯爵家、オリヴィアさま。御前へ」
侍従の声が上がった。この口上に導かれて上段の前に立つのも、今日が最後になる。
オリヴィアは中央まで進み、裾をつまんで礼をした。背筋は、いつも通り伸びていた。
「殿下。お召しにより、参上いたしました」
「よく来た」
アルヴィスの声には、退屈と、それを押し隠す気負いが混じっていた。彼は膝の上で指を組み、組んだそばからほどく。落ち着かない手つきだった。
「単刀直入に言おう」アルヴィスは言った。
広間の空気が、ふっと張った。あちこちで扇の動きが止まり、幾人かが息を詰める。蜜蝋の炎が、誰かの吐いた息にわずかに傾いだ。その一拍の静けさが、次に来る言葉の重さを、居並ぶ者みなに告げていた。
「お前との婚約を、今日をもって解く」
広間の囁きが、やんだ。
誰も、驚いてはいなかった。貴族たちの顔にあるのは意外さではなく、来るべきものがやっと来た、という納得の色だった。
地味な毒見役が、華やかな令嬢に取って代わられる。その筋書きは、とうに広間じゅうが知っていた。
知らなかったのは、その毒見役が七年、何を飲み下してきたかだけだ。
——それは、この場の誰も、知らない。
召状の封蝋には、王家の紋があった。殿下おひとりの気まぐれではない——上つ方の了承を経た決めごとを庇う者は、この広間にひとりもいなかった。
セリカが、アルヴィスの椅子の背にそっと手をかけた。公の謁見で、正妃でも公式の婚約者でもない令嬢の触れてよい椅子ではない。
広間の端で、扇の陰の声がひとつ、その振る舞いをとがめるように低くなった。だがアルヴィスが目もとをゆるめると、その声もすぐに寵愛の前で息をひそめた。
「殿下。……よろしいのですか、本当に」
案じるような声だった。けれど、その語尾は、望みの叶う直前の甘さでわずかに揺れていた。
「かまわん」アルヴィスはセリカを見上げ、目もとをゆるめた。「もう決めたことだ」
それから彼は、オリヴィアに向き直った。碧い目に、ためらいはなかった。
「毒見の女など、もう用済みだ」
その言葉は、広間の高い天井によく響いた。
用済み。その一言が、舌の上で錆びた鉄の味に変わる。膝の裏がひやりと強張り、指先の温度が一段引いた。息を、ひとつ。
オリヴィアの鼻から、白檀も百合も一瞬だけ遠のいた。香りの層がふっと退いて、あとにはあの金属臭だけが、細く、まっすぐに残った。
「先の代からの慣わしで置いていた役目にすぎん。実際に毒など、七年で一度も出たことはない。飾りの役を、いつまでも隣に据えておく理由はない」
——出ています。毎朝。あなたの器の底に。
オリヴィアは、その言葉を喉の奥で受け止めた。声にすれば、この七年が意味をなくす。飲み下してきた灰塵と同じだった。苦さごと、体の奥へ落とす。
「セリカがいれば、私の食卓は華やぐ」アルヴィスは続けた。「陰気な目で膳を睨む女など、もう要らん」
「殿下ったら」セリカが口もとに手を当てて笑った。「そんな言い方、この方がお可哀想ですわ」
「事実を言ったまでだ」
「お優しくないのね、殿下は」
「では、優しくしてやろう」アルヴィスは鷹揚に笑った。「毒見の女。長年の勤め、大儀であった」
その労いに、悪気はないように聞こえた。だからこそ、いちばん応えた。
「殿下は本当にお優しいわ」セリカがくすりと笑った。「ねえ、あなたもそう思うでしょう」
水を向けられて、オリヴィアは顔を上げた。
「殿下のご寛大は、七年身にしみて存じております」
「まあ、身にしみてだなんて」セリカが袖で口もとを覆った。「七年も、よく我慢なさったこと。わたくしなら、とても続きませんわ。毎朝、他人の召し上がるものを黙って見ているだけなんて」
「我慢とは、思っておりません」
「あら。では、なんとお思いに」
「役目、と」オリヴィアは静かに答えた。「務めを果たすのに、我慢もなにもございません」
「まあ、健気」セリカの笑みは、目のところで止まっていた。「そういう物言いが、殿下にはお重かったのかもしれませんわね」
「もうよせ、セリカ」アルヴィスが軽く手を振った。「勝った者が、去る者をいたぶるものではない」
「いたぶってなど。ねえ?」
セリカは睫毛を伏せ、それからオリヴィアを見た。甘い言葉のあとで、その琥珀の瞳の奥は、笑っていなかった。
瞳の温度が、一度だけ下がる。愛らしい潤みの底で、勝ち定まった獲物を検分するような、乾いた光がよぎった。オリヴィアはそれを見た。見て、いつものように舌の奥へ流した。
「ねえ、あなた」セリカが、はじめてオリヴィアに顔を向けた。「悪く思わないでね。殿下は、明るい食卓がお好きなだけなの」
その声は、蜜のように甘かった。
「あなたのお役目は立派でしたわ。ただ、もう要らなくなっただけ」
「もったいないお言葉にございます」
オリヴィアは頭を下げた。指先だけが、微かに強張った。
「セリカさまが殿下のお側にいらっしゃること、なによりと存じます」
「ねえ、最後にひとつだけ教えて」セリカが小首をかしげ、一歩ぶん間を詰めた。「あなたはこの七年、殿下の器のなかに何を探していらしたの」
昨日も、同じことを訊かれた。あのときは朝の食卓での、通りすがりのような問いだった。今日のこれは、違う。踏み込んでくる爪先が、答えの奥までのぞこうとしている。
その問いに、オリヴィアの指先が、ほんのわずか止まった。
「探しものなど、ございません」オリヴィアは答えた。「毒見役の目は、ただ膳を見るだけにございます」
「ふふ、そう」セリカは睫毛を伏せた。「見るだけ。それなら、もう見なくていいのね」
「はい。もう、見る役目はございません」
「もうよい、セリカ」アルヴィスが手を振った。「その女に構うだけ、時が惜しい」
殿下の隣に、誰かがいる。その誰かが、いつか器に目を向ける日が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでも、もう自分の手を離れることだった。
「話は済んだな」アルヴィスが退屈そうに言った。「下がってよい」
オリヴィアは、顔を上げた。
「かしこまりました」
表情ひとつ、動かさずに。
「七年、殿下の毒見役を務めさせていただきました。身に余る、お役目にございました」
礼をして、下がろうとした。裾が、ひと足ぶん、後ろへ流れる。
そのとき、喉の奥が一度つまった。指先が、帯をきつく握っていた。意志ではなかった。七年こらえてきた何かが、体のほうから先にほどけた。
「……どうか、ご無事で」
敬語の指のあいだから、素の願いがひとつだけこぼれ落ちた。膳を睨む、と誰かが言ったその目で、オリヴィアはそれを置いた。誰にも、その意味は届かない。届かないから、言えた。
「無事も何も」アルヴィスは笑った。子どものように屈託のない笑みだった。「毒など出ぬのだから、私はいつも無事だ」
その言葉に、オリヴィアは何も返さなかった。もう一度だけ礼をして、上段に背を向けた。
「お元気でね」セリカの声が、背に届いた。「あなたのぶんまで、殿下をお守りするわ」
守るということが、どれほどの苦さを飲み下すことか。この令嬢は、たぶん知らない。知らないままでいてくれたほうがよい。そう思って、歩き出した。
広間を横切るあいだ、無数の視線が背に刺さった。憐れみと、好奇と、わずかな嘲り。そのどれも、七年のあいだに慣れたものだった。
扇の陰で、囁きがまた戻ってくる。声を落としているつもりの囁きだった。けれど、鋭くなりすぎた耳には、それが届いてしまう。
「やっと切られたのねえ、あの陰気な人」
「毒見なんて、誰にでもできましょうに」
「あら、次はどなたがお勤めになるのかしら」
「さあ。どなたもなさりたがらないでしょうけど」
「わたくし、少しだけお気の毒に思いますわ」
「およしなさいな」別の声が、扇の陰でそれをたしなめた。「同情など、あの日陰の花には却って酷というもの」
「でも、七年よ。七年も同じお役目を、文句ひとつなく」
「だからこそ、飽きられたのでしょう。殿方は、変わらぬものにこそ倦むのですって」
「まあ、こわいこと」
「ほんとうのことよ。あなたも、せいぜいお気をつけあそばせ」
「ずっと日陰の花だったのよ。日向は、あの方には眩しすぎたの」
その囁きの主のひとりを、オリヴィアは覚えていた。二年前、宴の席で顔を青くして倒れかけた老貴族だ。膳に紛れた悪い茸を、オリヴィアがそっと下げさせた。
あのとき礼を言った同じ口が、いま扇の陰で笑っている。覚えているのは、たぶん自分だけだった。
「七年もお勤めして、お気の毒に。でも殿下のご寵愛は移ろうものですもの」
誰にでもできる。オリヴィアは、その言葉を胸のうちで転がした。渋くも、甘くもない。ただ、埃を舐めたような味だけが残った。
誰にでもできる役目を、誰も代わろうとはしなかった。七年のあいだ、ただの一度も。
いちど、幼いころに願ったことがある。よく気づいたね、と。たったそれだけの言葉を、誰かひとりに言ってほしかった。願いは口にする前に喉で溶けて、今日まで、味だけが残っている。
謁見の間の扉が、背後で閉じた。
廊下は、広間の熱を知らぬげに冷えていた。オリヴィアは歩きながら、舌の上の後味に向き合った。今朝の器の、砂を噛むような苦さが、まだ残っている。七年、消えなかった味だった。
明日の朝から、あの器を見る者はいない。
その事実が、廊下の冷気と一緒に、胸の底へ降りてきた。
——明日から、誰が気づくのだろう。
誰も、気づかない。気づく舌は、今日、この城を出ていく。
回廊の途中で、侍女頭が待っていた。目もとが、赤く腫れている。
「オリヴィアさま」
「お世話になりました」オリヴィアは頭を下げた。「あなたには、ずいぶん助けられました」
「……なぜ、何もおっしゃらないのですか」侍女頭の声が震えた。「あなたさまは、あんなに尽くしてこられたのに」
「尽くした覚えは、ありません」オリヴィアは答えた。「わたしは、務めを果たしただけです」
「務め、などと」侍女頭は首を振った。「あなたさまのは、務めなどという軽いものではございませんでした」
侍女頭の視線が、オリヴィアの手もとに落ちた。薬草と毒に荒れた、血色の薄い指先だった。
この人は知っている。毎朝この指がどれだけ冷たいか、朝餉のあとにどれだけ震えているか、七年、すぐそばで見てきた人だった。
「あの朝のことを、わたくしは忘れません」侍女頭の声が掠れた。「毒見のあと盥の縁を握って、動けずにおいででした。お顔が真っ白で」
「もう、覚えておいででしたか」
「背をさすることしか、できませんでした。あのとき、なぜとは訊きませんでした。訊いてはいけない気が、して」
震えが引くまで、この人はそばにいてくれた。何も知らずに、それでも案じてくれる手が、この城にひとつだけあった。
「これを」侍女頭が、袂から小さな包みを取り出した。「道中の乾いた葡萄と……気付けの薬を、少しだけ。あなたさまが、いつもご自分でお作りになっていたものです」
「いただけません」オリヴィアは、やわらかく押し返した。「あなたのお給金でしょう」
「わたくしのぶんなど、どうということも」侍女頭は、なかば無理やりオリヴィアの手に握らせた。「せめて、これくらいは。あなたさまはいつも、ご自分にだけは何もお遺しにならないから」
「その指で」侍女頭は続けた。「あなたさまは、いつもご自分を後回しになさる」
「そういう性分なのです」オリヴィアは薄く笑った。「もう、直りません」
「せめて、行く先だけでも」侍女頭がすがるように言った。「お聞かせ願えませんか」
「決めておりません」オリヴィアは首を振った。「決めていないほうが、あなたのためです」
「わたくしの、ため」
「訊かれて、答えられないほうが。あなたを困らせずに済みます」
侍女頭は唇を噛んだ。何かを察して、それ以上は問わなかった。
「あなたは、よく気づく人ですね」
ふと、オリヴィアはそう言った。侍女頭が、驚いたように顔を上げる。
「わたしの指の震えにも、いちばん先に気づいてくださった。この七年、あなただけが」
「そのようなこと……わたくしは、ただおそばで見ていただけにございます」
「その、見ていてくださることが」オリヴィアは薄く笑った。「どれほどの救いか。わたしは、知っています。だから、あなたにだけは言っておきたかったのです」
侍女頭の目から、堪えていたものがひとつ、こぼれ落ちた。
「どうか殿下のお食事に、気をつけて差し上げてください」
侍女頭には、その意味は分からなかったろう。ただの去り際の挨拶に聞こえたはずだ。
それでよかった。分からないまま、けれど誰かが器に目を向けてくれたら、と願う。願いを託せる相手は、もう、この人しか残っていなかった。
「……どうか、お達者で」
侍女頭は、深く頭を下げた。オリヴィアはその横を通り、回廊の光の中へ出た。
城門には、迎えの馬車の一台も寄越されていなかった。伯爵家の令嬢が城を下がるというのに、随員も、荷を運ぶ者もない。ただ徒歩で、門をくぐるだけだった。
遠くで、門番の低い私語と、馬のいなないた声がした。その音のどれもが、自分とは関わりなく続いていく。見捨てられるとは、こういう静けさのことなのだと、オリヴィアははじめて知った。
詰所で、彼女は腰の帯から、銀の匙をひとつ外した。毒見役の証だった。七年、毎朝この匙で、器の底をさらってきた。
匙は、手のひらでほのかに温い。握りしめていたぶんの、自分の体温だった。柄には、七年ぶんの指の跡が薄くなじんでいる。
親指でその窪みを一度だけなぞった。この窪みができるまでに、何度この匙で毒をすくい取ったか、もう数えられない。
それを、詰所の盆に置く。
金属が木の盆に触れて、小さく鳴った。あとは、音もなかった。
匙は、朝の膳の湯気も灰塵の後味も知らぬ顔で、盆の上に横たわっていた。門の外へ出るまで、誰も、それを手に取らなかった。
——明日の朝、あの器に匙を入れる手は、もう、この匙の重さを知らない。
振り返らずに、オリヴィアは門を出た。背に負った城の輪郭が、朝日のなかで少しずつ遠ざかっていく。
その高い塔のどこかで、明日も、湯気の立つ膳が運ばれるだろう。殿下は毒見も待たず、いつものように匙を取る。誰も止める者のいない食卓で、無防備に、その口へ運ぶ。灰塵の後味に、ひとりも気づかぬまま。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話でいちばん悩んだのは、オリヴィアに「何を言わせないか」でした。七年の秘密を叫べば、彼女はこの場を全部ひっくり返せる。でも、叫ばない。叫んだ瞬間に、守ってきたものが崩れてしまうからです。だから台詞はぜんぶ敬語のまま、たった一度だけ「どうか、ご無事で」で素がこぼれる。そこだけ書けたら、この話は成立すると思っていました。
去り際に返す銀の匙の、柄の窪みは、七年ぶんの時間そのものです。あの窪みに、彼女が飲み下してきたものの重さを込めたつもりです。
王太子の「毒など出たことがない」という言葉が、これからどんなふうに彼へ返っていくのか。次話、誰も知らなかった「すり替え」の真実を、読者のあなただけに開きます。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、続きを書く大きな励みになります。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。




