今朝も、問題はございません
今朝の器にも、舌の奥に砂を噛むような後味が混ざっていた。
オリヴィアは銀の匙を口から離し、ほんの一瞬だけ目を閉じる。甘い蜜をかけた焼き林檎。その甘さの向こうに、金属を薄く舐めたときのえぐみが差していた。灰塵。七年、毎朝この後味と向き合ってきた舌が、それを取り違えることはない。
窓から差す朝の光は、まだ白く薄い。王太子の食卓には湯気が立ち、卵と焼きたてのパンの匂いが満ちていた。そのどれもが健やかで、罪のない香りだった。だからこそ、その下に沈むひとすじの金属臭は、誰の鼻にも届かない。
届くのは、オリヴィアの舌だけだった。
「毒見役。どうした」
上座から声が落ちる。王太子アルヴィスが、退屈そうに頬杖をついていた。輝く金の髪に、朝の光がよく似合う。整った顔立ちには、生まれてこのかた何かを疑ったことのない者の、澄んだ自信があった。
「いえ。……はい」
オリヴィアは匙を置いた。器の縁に指を添え、ほんのわずか、自分の側へ引き寄せる。皿の位置を直したように見える所作だった。誰も気に留めない。七年、誰にも気づかれなかった手つきだ。
「今朝は何が出た」
「焼き林檎に蜜を。それと、パンと茶にございます」
「毎朝、同じようなものだな」アルヴィスは欠伸をかみ殺した。「たまには珍しいものでも運ばせればいいものを」
「変わらぬ朝が、何よりと存じます」
「変わらぬ朝、か。お前らしい答えだ」
その言い方には、退屈と、わずかな棘があった。オリヴィアは頭を下げ、器の底へ視線を戻す。
「今朝も、お食事に問題はございませんでした」
声は乱れなかった。表情ひとつ、動かさずに。
嘘ではない、と自分に言い聞かせる。殿下の口に毒は入らない。それは事実だ。ただ、入らなかった毒がどこへ行ったのかを、この場の誰も問わないだけのこと。
「そう」
アルヴィスの視線は、もうオリヴィアを見ていなかった。
その目の先に、ひとりの令嬢がいた。
セリカ・ヴェスパー。
二年前に社交界へ現れた、蜂蜜色の巻き毛の令嬢だった。潤んだ琥珀の瞳で見上げられると、たいていの男は庇護欲をくすぐられる。今、王太子がそうであるように。
「殿下。今朝も毒見のお務め、ご苦労さまでございます」
セリカがオリヴィアに微笑みかけた。柔らかく、非の打ちどころのない笑みだった。
その笑みごと、かすかな香が鼻をかすめる。上等な花の香水だ。すみれと、白い花と——その甘さの底に、ほんの微量、冷たい金属の匂いが差していた。
オリヴィアは、まばたきを一つした。
いつものことだった。セリカの香水には、いつもこの匂いが混じっている。高価な香料には稀にそういうものもあると聞く。気に留めるほどのことではない。そう自分に言い聞かせて、オリヴィアはその違和感をいつも通り、舌の奥へ押しやった。
「……恐れ入ります」
「ねえ、殿下。毒見だなんて、ずいぶん物々しいお役目ですこと」
セリカは小首をかしげ、アルヴィスの袖にそっと指を添えた。
「殿下のお食事に、毒だなんて。そんな恐ろしいこと、この平和なお城で本当にあるのかしら」
「ないだろうな」
アルヴィスは笑った。屈託のない、明るい笑い方だった。
「先の代からの慣わしで毒見役を置いているだけだ。実際に何かが出たという話は、私の記憶にはない」
――出ています。毎朝。
オリヴィアは膝の上で、指をそっと重ねた。声には出さない。出せば、この七年が意味をなくす。
「セリカさまは、お優しいのですね」オリヴィアは頭を下げた。「毒見のような地味な役目にまで、お心を配ってくださって」
「あら。だって、気になりますもの」セリカは瞳を潤ませて微笑んだ。「あなた、いつも殿下のお食事をじっと見ていらっしゃるでしょう。何をそんなに見つめていらっしゃるのかしらと思って」
その問いに、オリヴィアの指先がわずかに止まった。
「毒見の作法にございます」オリヴィアは答えた。「万一を、見逃さぬように」
「まあ、こわい」セリカは口元に手を当てて笑った。「そんなに見つめられたら、身がすくんでしまいますわ。ねえ、殿下」
「大げさだな、セリカは」アルヴィスが苦笑した。「毒見役の目など飾りのようなものだと、さっき言ったばかりだろう」
「そうでした」セリカは、ほっとしたように笑みを深めた。「飾り、でしたわね」
その笑みの底で、金属の匂いがほんの一瞬だけ濃くなった気がした。オリヴィアは、それを気のせいとして舌の奥へ押しやる。押しやったその奥で、灰塵の後味がもう一度よみがえった。
オリヴィアは、床の一点を見つめていた。
飾り。その言葉を否定する言葉を、彼女は持たなかった。持っていても、口にすることは許されない。毒見役の務めとは、毒を見つけることではない。毒などなかったという顔で、朝を平らかに閉じることだった。
務めを終えて廊下へ出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
王城の回廊は長い。磨かれた石の床に、窓から差す光が細長く伸びている。侍女たちが会釈をして通り過ぎ、その足音が石の上で小さく響いた。
オリヴィアは、その足音が遠ざかるのを待った。ひとりになると、ようやく舌の上の後味に向き合うことができる。
灰塵は、すぐには効かない毒だ。ひと匙では人は死なない。ふた匙でも、み匙でも。ただ、毎日ほんの少しずつ、内臓の奥に降り積もる。降り積もって、ある日ふいに、その人を病に見せかけて奪っていく。急がない毒だった。急がないからこそ、誰も気づかない。
――誰も気づかないように、盛られている。
オリヴィアは回廊の窓辺で立ち止まり、指先を見た。薬草と毒を長く扱う手は、指先の皮が薄く荒れている。齢十九の娘の手には見えない、と侍女に言われたことがある。そのとき彼女は、ただ「そうですね」と答えた。
この手が何を守ってきたか。それを、この城の誰も知らない。
知られてはならなかった。毒を盛る者に、毒見役が毒に気づいていると知られれば、次に打たれる手が変わる。器のすり替えでは追いつかない、もっと確実な手が。だからオリヴィアは、七年、気づかないふりの名人であり続けた。毎朝、平らかな声で「問題はございません」と告げながら、その実、誰よりも深く問題を見ていた。
窓の外で、庭師が薔薇の枝を切っていた。初夏の薔薇が、朝日を受けて赤く濡れている。平和な、よく晴れた朝だった。
この平和が、自分の舌一枚の上に乗っていることを、誰も知らない。
自室に戻ると、オリヴィアは扉を閉め、小さな木箱を棚から下ろした。
中には、几帳面に並んだ小瓶がある。乾いた薬草。すり潰した炭の粉。琥珀色の液体。実家のレイヴンズクロフト家は、代々薬師を出してきた家だった。毒を知る者だけが、毒から人を守れる。祖母がそう言っていた。
彼女は炭の粉を匙に取り、水に溶いて、ひと息に飲み干した。喉の奥がざらりとした。今朝、器から自分の側へ引き寄せた分の灰塵を、体の中で受け止めるための備えだった。
もうひとつ、別の小瓶を手に取る。中には、ごく薄めた灰塵そのものが入っていた。
オリヴィアは、それをほんのひとしずく、舌の上に落とした。
苦い。舌の奥がわずかにしびれ、目の奥が熱くなる。けれど、倒れるほどではなかった。七年かけて、少しずつ量を増やしながら、体を毒に慣らしてきた。常人なら寝込む量が、今の彼女には「わずかに苦い」で済む。
――今日も、一日、務めを果たせますように。
それが、彼女の朝の祈りだった。誰かに聞かせる祈りではない。聞かせる相手も、いなかった。
ずっと昔、まだ幼かったころに、一度だけ願ったことがある。この毒に気づいてくれる人が、いつか一人でもいてくれたら、と。殿下でなくてもよかった。ただ誰かに、「よく気づいたね」と言ってもらえたら、それだけで足りたのに。
けれど、その願いは口にした瞬間に、毒よりも危ういものに変わる。幼い自分にも、それはわかっていた。だから飲み込んだ。喉の奥へ落ちていく灰塵と同じように、七年、飲み込み続けた。
小瓶に蓋をして、木箱を棚へ戻す。窓の外では、まだ薔薇が咲いていた。
その日の午後、侍女頭がオリヴィアの部屋を訪れた。
いつも穏やかなその人が、めずらしく言いよどんでいた。手にした書状を、渡すべきか迷うように胸元で握っている。
「オリヴィアさま。……殿下より、お言伝でございます」
「殿下から」
「はい。それと……差し出がましいことを、申し上げてもよろしいでしょうか」
侍女頭は声を落とした。廊下の気配をうかがうような、低い声だった。
「近ごろ、セリカさまが殿下のお側を離れられません。朝も、昼も。……オリヴィアさまのお立場が、わたくしは案じられてなりません」
「知っています」
「本当に、よろしいのですか」
「わたしがよいか悪いかを、殿下がお尋ねになることはありません」オリヴィアは答えた。「それは、七年前から変わらないことです」
「……オリヴィアさまは、いつもそうおっしゃいます」侍女頭の声が湿った。「ご自分のことは、いつも後回しで」
「そういう役目ですから」
「……その役目にあなたさまが磨り減っていくのを、わたくしは見ていられません」
侍女頭の声が、最後は掠れて消えた。オリヴィアは書状を受け取る。封蝋には、王家の紋。それを開く指は、いつも通り落ち着いていた。
書面は短かった。要件だけが、簡潔に記されていた。
――近く、婚約について改めて話がある。謁見の間に参られたし。
それだけだった。理由は、どこにも書かれていない。けれど、朝の食卓で王太子が向けた視線を、オリヴィアは思い出していた。自分ではなく、その隣の令嬢へと注がれていた、あの澄んだ目を。
「……かしこまりました、と。お伝えください」
声は、乱れなかった。
「オリヴィアさま」侍女頭が、去り際に振り返った。「どうか、お体を大切になさってください。あなたさまは、少し無理をなさりすぎます」
「……ありがとう」
その言葉に、どう応えればいいのか、本当のところ、オリヴィアには分からなかった。無理をしている自覚が、もう長いこと、なかったからだ。侍女頭は深く頭を下げ、音を立てずに部屋を出ていった。扉が閉まる音が、部屋の隅にゆっくりと降りた。
オリヴィアは書状を膝に置き、しばらく動かなかった。
もし、この城を去ることになったなら。
明日の朝、あの器の底の灰塵に、誰が気づくのだろう。
舌の奥には、今朝の後味がまだ残っていた。砂を噛むような、あの苦さ。七年、誰にも言えないまま、消えることのなかった味だった。
窓の外で、切り落とされた薔薇の枝が、庭師の籠の中で萎れはじめていた。




