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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第8話 開けないものを、守る順番

 布の下で、少女が息をした。


 ひゅ、と細く吸って、途中でこらえる。泣くのをやめた子どもの息ではなかった。泣けば見つかると覚えた者の息だった。


 リーゼは膝をついたまま、その音だけを聞いていた。


 低い扉は、まだ開いていない。


 外部封の紙は戸口の上で眠るように貼りつき、床の薄い記録片も、布をかけられた少女も、兵の靴音も、すべてが一つの寒い部屋の中に残されている。


 少女の肩が小さく震えた。


「寒いですか」


 リーゼが問うと、布の下の顔が、ほんの少しだけ動いた。


「……少し」


 答えは、それだけだった。


 名前ではない。


 番号でもない。


 どこから来たのかでも、誰に返されるべきなのかでもない。


 ただ、今ここにいる身体が寒いという返事だった。


 リーゼはその返事を、記録片の文字よりも先に受け取った。


「毛布を」


 兵の一人が動きかけた瞬間、カイルの声が床を押さえた。


「扉には近づくな。床の影を踏むな。毛布は壁沿いに回せ」


 兵は一瞬止まり、低い扉の前を避けて遠回りした。


 カイルは剣を抜いていない。だが、その声には、抜かれた刃よりも動きにくい硬さがあった。


「全員、位置を言え。戸口、床、壁、記録片。誰がどこを見ているかを先に固定する」


 書記が顔を上げた。


「尋問より先ですか」


「先だ」


 カイルはリーゼを見なかった。


「質問は後にする。動いた物が何か分からなくなれば、答えだけが残る」


 それは、リーゼを許した言葉ではない。


 だが、前の部屋でリーゼが言ったことを、命令の順番に変えた言葉だった。


 リーゼは指先を膝の上で握った。


 痛みはまだあった。王女リーゼ、教育番号七、奥の所在保全請求者。さっき記録された札は、胸の内側に冷たい釘のように残っている。守るためにも使える。罪にするためにも使える。誰かに使わせれば、もっと悪くもなる。


 だからこそ、今、使い方を決めなければならなかった。


「分けてください」


 リーゼは言った。


 カイルの視線が、そこで初めてこちらへ落ちた。


「何を」


「読めるもの、動かせるもの、保存だけすべきものです」


 部屋の空気がさらに冷えた。


 リーゼは低い扉を見ないようにした。見れば、開けたいと思ってしまう。中に誰がいるのか。何が残っているのか。自分の番号の奥で、誰が待っているのか。


 知りたいことは、いつも、守るべきものの形をして近づいてくる。


「読めるものは、触れずに読めるものだけです。床の影、外部封の表、薄い記録片の表面。動かせるものは、移動しなければ消えるものだけ。少女の身体、灯り、必要な水。それも証人の前で、位置を残してから」


 書記が慌てて筆を持ち直した。


「保存だけすべきものは」


 カイルが問う。


 リーゼは短く息を吸った。


「低い扉。扉の前の床。壁の封。少女の名前。番号。正体。薄い記録片の裏。今は、全部です」


 少女の布がわずかに揺れた。


 言いたいことがあったのかもしれない。


 助けを呼ぶ名かもしれない。


 自分を閉じ込めた者の手がかりかもしれない。


 けれど、今それを言わせれば、名は証拠になる前に鎖になる。


 カイルは沈黙した。


 書記の筆だけが、乾いた音を立てる。


「分類として記録する」


 やがてカイルが言った。


「一、読めるもの。接触なし。二、動かせるもの。証人封の後。三、保存のみ。開封、裏返し、名の聴取、番号照合を禁ずる」


 リーゼの喉が、ほんの少しだけ詰まった。


 信じられたわけではない。


 けれど、採用された。


 リーゼの言葉が、部屋の動きを変えた。


「書記。まず物の位置だ。人の供述は最後に回せ」


「リーゼ様への質問も、ですか」


 書記は言ってから、しまったという顔をした。様、と呼ぶこと自体が、別の記録になってしまう。


 カイルは表情を変えなかった。


「最後だ。今この者を先に動かせば、七が返ったことにされる」


 リーゼは黙ってうなずいた。


 七が返ったことにされる。


 たったそれだけで、少女の返却も、扉の開封も、所在の確定も、後から誰かの都合で並べ替えられる。リーゼの歩いた位置が、リーゼの請求に変わる。リーゼの止めた手が、リーゼの命令に変わる。


 嘘を使って人を守ってきた。


 今度は、自分の名を嘘に使われないよう守らなければならない。


「灯りを低く」


 カイルが命じた。


 灯台が床へ下ろされる。炎が薄い記録片の上を横からなでた。紙とも布ともつかないその片は、低い扉の隙間から半分だけ出たまま、床に張りついている。


 兵の影が伸びた。


「踏むな」


 カイルが言う前に、リーゼは小さく手を上げていた。


 兵が足を戻す。


 その足先のすぐ前で、床の影が細く割れていた。隙間ではない。けれど、影の濃さがそこだけ違う。低い扉から出たものなのか、床の傷なのか、紙の端が作ったものなのかは、分からない。


「読める範囲だけを」


 カイルが言った。


 書記が身を低くする。もう一人の兵が灯りを少しずつ動かす。


 文字が浮いた。


 完全ではない。


 欠けている。


 けれど、前に見えたものと同じ骨があった。


「譛ェ霑泌唆」


 書記が読む。


「謇€蝨ィ谺縺疏」


 リーゼは息を止めた。


 未返却。


 所在欠け。


 言葉が正しく読めなくても、その機能は分かる。返っていない。場所がない。あるいは、場所を書けない。


 書記はさらに目を凝らした。


「螂・縲∫ャャ莠形」


 奥、第二。


 少女が布の下で、短く息を吸った。


 リーゼはすぐに顔を向けた。


「大丈夫です。答えなくていい」


 少女の指が布をつかむ。


 言葉が出かけた。


 リーゼは穏やかに遮った。


「寒さは、増えましたか」


 少しの間があった。


「……手が」


「痛いですか」


「冷たい、だけ」


「水は飲めますか」


「少し」


 それ以上は聞かなかった。


 少女は名前を言わなかった。


 番号も言わなかった。


 奥第二が何であるかも言わなかった。


 それでいい、とリーゼは思った。


 返事が少ないほど、その子はまだ誰かの札にされずに済む。


 カイルが横目で兵に指示した。


「水。器は新しいものを使え。布越しに渡せ。触れる者は二人、記録者一人。少女の名は空欄だ」


 それから、書記へ向き直る。


「続けろ」


 書記は喉を鳴らした。


「荳・・蠢懃ュ泌セ・■」


 七の応答待ち。


 声には出されなかったが、部屋の者たちは同じものを思ったはずだった。


 七。


 リーゼ。


 今ここにいる偽の王女。


 教育番号七。


 奥の所在保全請求者。


 リーゼは両手を膝の上で重ねた。爪が手袋越しに食い込む。


 自分が答えれば、誰かが戻されるのか。


 自分が黙れば、誰かが消えるのか。


 だが、答えるとは何を意味するのか。


 開けることか。


 返すことか。


 その子を名乗らせることか。


 記録を正しくすることか。


 どれも違う、とリーゼは自分に言い聞かせた。今できる応答は、開けないことを決める応答だ。


「その行は、私の応答ではありません」


 リーゼは言った。


 カイルの目が鋭くなる。


「どういう意味だ」


「私がこの部屋で求めたのは、返却ではなく保全です。奥にあるものを出せとも、奥第二を返せとも、言っていません。もし七の応答待ちが私を指すとしても、私が出せる応答は一つです」


 リーゼは低い扉の方を向いた。


 開けてはいけない、と部屋の全員に分かるように。


「動かさないでください」


 書記の筆が止まった。


 リーゼは続けた。


「王女の権限ではありません。教育番号七の所有でもありません。奥の所在を、今この場の都合で決めないための請求です。私の名は、動かす理由ではなく、動かさない理由として記録してください」


 痛みが、言葉になった。


 自分の名を、守るために使う。


 けれど、その名は本当のものではない。


 本当ではない名が記録に残るたび、リーゼの罪は濃くなる。王女でない者が王女の名で止めた。七であった者が七として止めた。誰かはそれを、あとでいくらでも切り取れる。


 それでも、今動かせば消えるものがある。


 リーゼは消えるものの前で、自分の清白を先に守ることができなかった。


 カイルは長く黙った。


 その沈黙の間に、兵が水を運び、少女へ渡した。少女は布の下で少しだけ身を起こし、両手で器を受けた。指が震えて、水面が薄く揺れる。


 飲み込む音が、小さくした。


 生きている音だった。


 その音が部屋の奥へ吸い込まれないように、リーゼは耳で支えた。


「記録しろ」


 カイルが言った。


 書記が顔を上げる。


「請求者リーゼ。王女権限未確定。教育番号七該当未確定。奥所在保全請求者として、低い扉、床影、外部封、記録片、少女名、番号、正体の移動および確定を停止する」


 未確定。


 その言葉が入ったことで、リーゼは少しだけ息を吸えた。


 確定されなかった。


 王女にも、七にも、犯人にも、権限者にも。


 まだ危ういまま、停止として残った。


「外部封を三つに分ける」


 カイルは続けた。


「扉。床。壁。それぞれ別に封じる。同じ印で閉じるな。誰かが一つを破っても、残り二つが破られていないことを証明できるようにしろ」


 兵たちが動き出す。


 もう、低い扉へ手を伸ばす者はいない。


 開けないための作業が、開けるための作業よりも忙しく始まった。


 床の影の四隅に小さな印が置かれる。壁の封には、既存の外部封を覆わない位置で新しい紙が添えられる。低い扉には触れず、扉の前の空間そのものを囲むように糸が張られた。


 細い糸。


 白い紙。


 乾いた筆の音。


 何も開いていないのに、何かが得られていく。


 リーゼはそれを見ていた。


 守るとは、強く抱えることだけではない。


 触れないこと。


 名を聞かないこと。


 答えを急がないこと。


 そういう形もあるのだと、ようやく手で覚えた気がした。


「記録片の写しは」


 書記が尋ねる。


「取る。ただし、浮かんだ形だけだ。読解は別紙に分けろ」


 カイルが答える。


「形と意味を同じ紙に置くな」


 リーゼは顔を上げた。


 それは、さっきまでリーゼが言葉にできていなかった危険だった。


 形を写すことと、意味を決めることは違う。


 同じ紙にしてしまえば、読んだ者の都合が最初から記録の顔をしてしまう。


 カイルはリーゼを見ない。


 けれど、その命令はリーゼの分類をさらに細かく使っていた。


「薄い記録片、表面。複数行残存。直接接触なし。灯り角度による写し」


 書記が読み上げながら書く。


「第一行、譛ェ霑泌唆。第二行、謇€蝨ィ谺縺疏。第三行、螂・縲∫ャャ莠形。第四行、荳・・蠢懃ュ泌セ・■。下部に残存線あり」


 灯りがわずかに揺れた。


 そのとき、下部の残存線が、違う形に見えた。


 リーゼは思わず身を乗り出しかけ、すぐ止めた。


「何か」


 カイルが聞く。


「今の角度で、下の線が」


 リーゼは言葉を選んだ。


 知っていると言えば、知っていたことにされる。


 読めると言えば、読める責任を負わされる。


「菫晏ュ・にも、霑泌唆にも見えました。保存、または返却。どちらかに決めないでください」


「未判読とする」


 カイルは即座に言った。


「保存にも返却にも採るな」


 リーゼは小さくうなずいた。


 決めないことが、また一つ守りになった。


 廊下の向こうで、靴音が近づいた。


 兵が槍を立てる。


 カイルの手が剣の柄へ落ちた。


「伝令です」


 外の声がした。


 速い。


 迷いはない。


 けれど、その速さが誰のものかは分からなかった。宰相府からとも言える。礼装経路からとも言える。女官の歩き方を真似た者とも言える。あるいは、誰のものでもないただの伝令かもしれない。


 カイルは扉の外へ近づかず、入口の兵へ顎を振った。


「中へ入れるな。用件だけを言わせろ」


「内奥教育室の確認中止について、続きの書付けがございます」


 中止。


 その言葉に、少女の器が小さく鳴った。


 リーゼは少女を見た。


 少女は布の下で顔を伏せている。名前を言う気配はない。番号を言う気配もない。ただ、水を持つ手がまた震え始めていた。


「少女を先に移す」


 カイルが言った。


 書記が驚く。


「書付けの確認より先に、ですか」


「先だ。外から来た紙を読む前に、中で寒がっている者を出す。ただし別室。保護室は白二部とは別。内奥教育室とも別。誰の分類にも入れるな」


 リーゼは目を伏せた。


 胸の奥が、痛みと一緒に温かくなる。


 信頼ではない。


 優しさと呼ぶには硬すぎる。


 けれど順番が変わった。


 記録より先に、少女の身体が置かれた。


「質問は」


「止める」


 カイルは短く答えた。


「寒さ、痛み、水、歩けるか。それだけだ。名、番号、正体、見た者、聞いた命令は後に回す。今出た言葉は全部、保護前発言として扱われる。使うな」


 少女の布の下で、息が震えた。


 今度は、少しだけほどける震えだった。


 リーゼは立ち上がろうとして、膝が少しふらついた。カイルの兵が一歩出かけたが、カイルが手で止める。


 助けられない。


 捕らえない。


 今は、どちらにも決めない。


 リーゼは自分で立った。


「歩けますか」


 少女に問う。


「……少し」


「痛みは」


「ない、です」


「寒さは」


「まだ」


「では、毛布をもう一枚」


 兵が毛布を重ねる。


 少女は布に包まれ、名前のないまま、番号のないまま、二人の兵と一人の書記に囲まれて運ばれていく。顔は見えない。声も、もう出さない。


 出口へ向かう直前、少女の足が一度止まった。


 低い扉の方へ振り返りかけたのだと、リーゼには分かった。


 だが、少女は振り返らなかった。


 リーゼも呼び止めなかった。


 返らないものを、今、返ったことにしてはいけない。


 少女が廊下へ出る。


 その小さな背が見えなくなってから、カイルは伝令の書付けを受け取った。


 封は小さい。


 兵の手のひらに隠れるほどだった。


 黒ではない。


 白でもない。


 薄く灰を混ぜたような紙で、端に細い糸が一本だけついている。喪の糸にも、礼の糸にも、ただの補修糸にも見える。


 決めてはいけない。


 リーゼは自分に言った。


 まだ、誰の経路とも決めてはいけない。


「差出は」


 カイルが問う。


「外部連絡口で受けました。差出人名はありません。経路印は、擦れております」


 擦れている。


 便利な欠け方だった。


 カイルは封を開けずに、まず書記へ見せた。


「外面だけ写せ」


 書記がうなずく。


 リーゼはその間に、もう一度低い扉の前へ目を戻した。


 床の糸。


 封じられた影。


 薄い記録片。


 螂・縲∫ャャ莠形。


 奥、第二。


 それは低い扉を指しているように見えた。けれど、床へ伸びた影と、記録片の端の向きが、わずかにずれている。


 扉の奥。


 あるいは、扉の前。


 棚かもしれない。


 箱かもしれない。


 第二という名の部屋ではなく、二番目に戻す場所のことかもしれない。


 リーゼは声に出さなかった。


 今のそれは気づきではなく、疑いだ。疑いを命令にしてはいけない。


 けれど、忘れてもいけない。


「何を見た」


 カイルが低く聞いた。


 リーゼは答えた。


「奥第二が、扉だけを指しているとは限らないかもしれません」


「確定するな」


「はい。未確定の疑いとして、私の質問前に残してください」


 カイルは書記へ言った。


「記録しろ。奥第二、低い扉との対応未確定。棚、箱、手順、位置の可能性あり。読解は保留」


 読解は保留。


 その言葉は、鍵に似ていた。


 開けるためではなく、開けずに守るための鍵だった。


 封の写しが終わる。


 カイルはようやく小封を開いた。


 紙は一枚しか入っていなかった。


 短い。


 命令の形をしている。


 書記が読み上げようとして、声を詰まらせた。


 カイルが奪うように受け取り、自分で読んだ。


 その眉が、わずかに動く。


「声に出せ」


 リーゼは言った。


 カイルの目がこちらへ向く。


「私の名を使った紙なら、私が聞かなければ、あとで私が承知したことになります」


 カイルは否定しなかった。


 ただ、紙を持つ手を少しだけ高くした。


「七の請求により、奥第二を返却せよ」


 部屋が止まった。


 低い扉は、開いていない。


 少女は、もう別室へ向かった。


 記録片は、動かしていない。


 リーゼは、返却など請求していない。


 なのに、紙の中ではもう、七が命じていた。


 奥第二を返せ、と。


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