表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/22

第9話 保存は返還ではない

「返還ではありません」


リーゼの声は、低い扉の前で薄く響いた。


誰も動かなかった。


兵の靴裏も、書記の筆先も、布に包まれた少女の小さな息も、その一言で止まったように見えた。


封紙には、たしかにリーゼの名があった。


王女リーゼ。


教育番号七。


奥、第二を返還せよ。


その三つが並んでいるだけなら、部屋の誰もが命令だと思ったはずだった。外から来た封。形は整っている。急がせるための言葉もある。受け取った兵は、疑うより先に従うよう訓練されている。


けれどリーゼは、胸の奥が冷えていくのを感じながら、もう一度言った。


「わたしが求めたのは、保存です。いまあるものを、いまの場所で動かさないこと。低い扉も、床の影も、外封も、薄い記録片も、あの子も。返すことではありません」


カイルが封紙を持つ兵の前に立った。


剣は抜かなかった。


ただ、敷居を越えさせなかった。


「封紙をこちらへ」


兵は一瞬だけためらった。外から来た命令を、内側の疑義で止める。その一瞬が、どれほど重いかを知っている顔だった。


カイルは封紙を受け取ると、開ききらずに書記へ示した。


「読むな。分けろ」


書記が息をのむ。


「読解ではなく、分解だ。請求者。動作。対象語。経路印。この四つに分けて写せ。意味はつけるな」


筆が紙を擦った。


請求者、王女リーゼ、教育番号七。


動作、返還。


対象語、奥、第二。


経路印、外部連絡口。継続扱い。差出人名、空白。


その空白を見た瞬間、部屋の温度が変わった。


誰かが名乗らずに、リーゼの名を使った。


それは、リーゼが偽物であるという問題とは違っていた。もっと狭く、もっと危うい。偽物の名だからこそ、都合よく動かせる。王女の名だからこそ、止める前に動いてしまう。


「保存請求の写しを」


リーゼは言った。


カイルの目がこちらへ動く。


「先に犯人を探さないでください。わたしの名で動かせるのなら、わたしの否認で止められなければなりません」


書記の筆が止まった。


それは、自分を守る言葉ではなかった。


自分をさらに記録の中へ差し出す言葉だった。


「それを記録してください。王女リーゼ、教育番号七は、返還を請求していない。保存を請求した。動作語に異議あり、と」


カイルは長く黙った。


信じたわけではない。


許したわけでもない。


ただ、止めるために必要な形を見つけた顔をしていた。


「三面照合」


短く命じる。


「第一、先ほどの保存請求。第二、この返還通知。第三、外部連絡口の受領控え。照合点は名ではない。保存が返還に変わった箇所だ」


兵が走った。


低い扉は、まだ閉じていた。


床の影は、まだ動かされていない。


薄い記録片は、灯の角度だけで読める位置にあり、誰の指も届いていなかった。


そのことを確認してから、リーゼは布をかけられた少女の方を見た。


少女は名前を持たないまま、壁際の別の席にいた。水の器は近くに置かれている。問い詰められてはいない。番号を言わされてもいない。


その少女のそばにいた若い兵が、封紙の「奥、第二」という文字を見て、かすかに視線を動かした。


リーゼはそれを逃さなかった。


「その子に、その語を貼らないでください」


声が、思ったより強く出た。


若い兵の肩が跳ねる。


「奥、第二が人なのか、場所なのか、箱なのか、部屋なのか、わたしにはわかりません。だから、わからないまま保存してください。わからないものを、怖いから誰かに結びつけるのは、返還より先にその子を消します」


少女の指が、布の下でほんの少し丸まった。


礼ではない。


信頼でもない。


けれど、震えが逃げ場を見つけたように見えた。


カイルは少女を見ずに言った。


「護送記録を補強しろ。対象語との同一視禁止。氏名、番号、役割の聴取禁止。水と布の提供は継続。移動は別室保護のみ」


書記がそのまま写す。


リーゼは胸の奥で息を落とした。


助かった、と言うには早すぎる。


ただ、いま貼られなかった。


それだけで、ひとつ守れた。


やがて、受領控えが戻ってきた。


紙の端には、外部連絡口の乾いた印があった。差出人名はない。経路印は、官房にも、礼装経路にも、ただの写し残りにも見える半端な形で、断定できるほど濃くはなかった。


「継続扱いで来ています」


兵が報告した。


「新規命令ではなく、前の請求に対する続きとして処理されています。差出人名は見えません。受領係は、内側の保存記録とつながっていると思った、と」


「思った、では動かせない」


カイルの声は冷たかった。


けれど、その冷たさはリーゼへ向けたものではなかった。


「保存記録を見た者。写しを取れる者。外部連絡口へ継続として出せる者。その間だけを地図にしろ。名はまだ要らない。経路窓だけでよい」


地図。


リーゼはその言葉を心の中で繰り返した。


犯人の顔ではない。


責任の断罪でもない。


保存が返還に変わり得た窓。


それなら、いまここでできる。


「もう一つ、お願いします」


リーゼは言った。


カイルがこちらを見る。


「七に関わる請求は、動作が確認されるまで未確定扱いにしてください。保存、返還、開封、移動、聴取。どれも同じ請求者名で処理しないでください。請求者と動作と対象を、別々の証人で見るまで」


書記が、今度はカイルを見る前に筆を構えた。


その小さな変化を、リーゼは見た。


信じられたのではない。


けれど、リーゼの言葉が、失わせないための手順として必要になった。


カイルはしばらく黙り、封紙を卓に置いた。


「仮隔離規則として記録する」


部屋の中で、誰かが小さく息を吸った。


「教育番号七に紐づく請求は、請求者、動作、対象語、経路印を分離確認するまで、未確定動作として隔離。返還、開封、移動、聴取、合流を禁ずる。例外は私の面前、または同格以上の証人二名の前でのみ記録する」


「わたしの否認も」


リーゼは言った。


喉が痛かった。


「入れてください」


カイルの眉がわずかに動いた。


「入れれば、お前はこの紙の中心に残る」


「入れなければ、あとで誰かが、わたしが黙認したと言えます」


その言葉を言うのは怖かった。


王女ではない者が、王女の名で否認する。


保存のために使った嘘が、また一枚、裁きの紙になる。


それでも、少女の布が壁際でわずかに揺れていた。


低い扉の前の床の影は、まだそのままだった。


リーゼはそこから目を逸らさなかった。


「わたしをあとで裁ける形で構いません。いま動かさない形にしてください」


カイルは何も褒めなかった。


ただ、書記へ命じた。


「記録しろ。王女リーゼ、教育番号七、自称ではなく請求記録上の名として。返還請求を否認。保存請求への訂正を求める。本人の身柄、後日尋問対象」


本人。


その言葉だけが、胸に刺さった。


王女でもなく、影でもなく、番号でもなく、ただ本人。


優しい言葉ではない。


逃げられないという意味だった。


それでも、リーゼはうなずいた。


仮隔離の印が押された。


返還通知は、命令ではなく、争いのある証拠として封じ直された。


低い扉は開かなかった。


少女は名を呼ばれなかった。


薄い記録片は、写しだけが別紙に移され、元の場所に残された。


そのすべてが終わったとき、外部連絡口から二枚目の紙が届いた。


急ぎの薄紙だった。


カイルが広げ、目だけで読んだ。


その横顔が、わずかに硬くなる。


「訂正受理には、次の正式引き渡し前の確認が必要だ」


「正式引き渡しは」


リーゼは尋ねた。


「次の鐘だ」


部屋の奥で、誰かが息を止めた。


カイルは紙を伏せた。


「それまでに保存と返還を正式に分けられなければ、七の請求に結びつくものは、返還可能なものとして扱われる」


返還可能。


その言葉が、低い扉の前に落ちた。


まだ開いていない扉。


まだ名を持たない少女。


まだ触れられていない紙片。


それらが、たった一つの動作語で動かされる。


リーゼは封じ直された返還通知を見た。


自分の名が、そこにあった。


救うために使った名。


誰かに使われた名。


次の鐘までに、その名を止めなければならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ