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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第7話 低い扉は、名前を返さない

 返却棚より低い小扉の隙間から、消えたはずの番号札が覗いていた。


 逆さに揺れた札の裏には、焦げ残った文字がある。


 ――内教育室、奥。


 リーゼは息を吸うより先に言った。


「触れないでください。まず位置を記録してください」


 兵の一人が伸ばしかけた手を止めた。


 小扉は床に近かった。大人が開けるには膝をつかなければならないほど低く、返却棚の脚の陰に半分沈んでいる。表面には古い油の筋があり、鍵穴らしきものはない。ただ、扉と床の間に、紙一枚ぶんの細い影があった。


 その影の奥で、何かが擦れた。


 カイルの剣の音が短く鳴る。


「棚から離れろ。保全箱に一人、内側の者に二人、出入口に二人。扉にはまだ触るな」


 さっきまでリーゼを囲んでいた兵の輪が、形を変えた。


 リーゼを許したのではない。


 信じたのでもない。


 けれど、誰を捕らえるかより先に、何を消させないかが命令になった。


 書記が、震える声で読む。


「返却棚右端、七番棚の隣。逆さ札一。表記、下向きのため判読不能。所在欄らしき残字、内教育室、奥。判読未確定」


「未確定を二度書け」


 カイルが言った。


 書記の筆が走る。


 リーゼは小扉の影から目を離さなかった。隙間の奥にあるものは、人かもしれない。記録かもしれない。誰かを戻すための目録かもしれない。あるいは、もう戻らない者を、戻ったことにするための場所かもしれない。


 どれでも、今ここで決めれば消える。


「開けますか」


 書記が小さく聞いた。


 答えたのはリーゼだった。


「開けません」


 カイルの視線が刺さる。


「なぜ分かる」


「開けた者の記録ではなく、開けさせた者の記録が残るかもしれません。ここで兵が開ければ、命じた者が消えます。私が開けさせれば、私が鍵になります」


「都合よく逃げる言い方だな」


「はい」


 リーゼは否定しなかった。


「逃げられるなら、今すぐ逃げています」


 カイルの目が細くなった。


 そのとき、保全箱のそばで布を被せられていた少女が、かすかに身じろぎした。顔は見えない。名も、番号も、正体も、まだ空欄のままだ。


 少女の声が、布の下で揺れた。


「低いほうは……返さないと」


 兵が一歩近づく。


「何をだ。誰を返す」


「聞かないでください」


 リーゼが遮った。


 兵の肩が強張る。カイルの剣先がわずかにリーゼへ向いた。


「また止めるか」


「今、名を言わせれば、その名が返却対象になります。誰を返すかではなく、何を見た順に残すかだけを聞いてください」


「少女を庇っているのか。自分を庇っているのか」


「どちらでも、手順は同じです」


 カイルは少女を見ず、兵へ命じた。


「質問は記録から。内側の者へは、見た位置、触れた物、聞いた手続き語だけを問え。名、番号、誰に言われたかは後回しだ。今は口にさせるな」


 少女の肩が小さく落ちた。


 リーゼはその小さな動きを見て、胸の奥を押さえられたように感じた。


 答えられないことを許されるだけで、人は少し生き返る。


 書記が筆を構えた。


「見た位置を」


 少女はすぐには答えなかった。布の下で唇を濡らす音がした。


「返却棚の、右。七番の隣。低い扉の前」


「触れた物を」


「保全箱。白い紐。焦げた札。逆さの札は……触っていません」


「聞いた手続き語を」


 少女の指が膝の上で縮んだ。


「奥は、名前を返さない」


 部屋の空気が冷えた。


 名前を返さない。


 それは脅しにも、規則にも、祈りにも聞こえた。


 兵の一人が思わず小扉を見た。小扉の隙間は、答えるように暗いままだった。


 リーゼは言った。


「そのまま記録してください。意味は確定しないで」


 書記が書く。


「手続き語らしき発言。奥は、名前を返さない。意味未確定」


 カイルが低く問う。


「では奥にあるものは、名簿か」


「分かりません」


「人か」


「分かりません」


「死体か」


「分かりません」


「分からないのに止めるのか」


「分からないから止めます」


 リーゼは小扉を見た。


 七番と呼ばれて答えたときも、何が守れるか分からなかった。ただ、答えなければ少女が消えると分かった。今も同じだ。奥にあるものが人であれ、記録であれ、所在の空欄であれ、誰かが急いで閉じようとしているなら、まだ消し終わっていない。


 廊下の外から、足音が近づいた。


 速い。迷いがない。


 カイルが顎を動かすと、出入口の兵が槍を交差させた。


「誰だ」


「伝達です」


 外の声が答えた。若い男の声だった。息が上がっている。


「内教育室の確認は中止。奥の小扉は封鎖解除せず、返却棚は旧位置へ戻すように、と」


 リーゼは背筋が冷えるのを感じた。


 中止。


 戻す。


 速すぎる。


 まだこの場から正式な報告は出ていない。少女は護送されていない。保全箱も封じ切っていない。なのに、閉じる命令だけが届いた。


 カイルは扉の外へ近づかなかった。


「差出は」


「内礼廊経由の臨時札です。宰相府の控え印もあります。受け渡し役は、黒い喪布を持った女官と聞きましたが、札には――」


「聞いた名を言うな」


 カイルが遮った。


 リーゼはわずかに目を上げた。


 今の命令は、少女を守るためだけではなかった。誰かの名を早く結びつけることを避けるための命令だった。


「札は外で止めろ。中へ入れるな。差出経路、紙型、控え印、匂い、受け渡し位置だけを別紙に写せ。人物名は空欄。ハルベルト卿の略印に似ていても書くな。エルヴィア殿下の名があっても読むな。マルタの保管札と同じ紙でも決めるな。宰相府と断定するな」


 兵が息を飲んだ。


 カイルは続けた。


「目的だけを書け。早く閉じる方向の伝達、と」


 リーゼはその横顔を見た。


 優しい顔ではない。


 むしろ、誰も信じない者の顔だった。


 けれどその不信が、今だけは人を守る形をしている。


 廊下の伝令は戸惑った。


「では、命令は」


「保留だ。発行者を確定するまで中で読むな。外封だけ別封にしろ」


 出入口の兵が動く。槍は交差したまま、伝令の札だけが受け取られ、戸口の外側で封じられる。紙が擦れる音がした。そこにも、かすかな喪の香が混じっていた。


 リーゼは喉の奥が苦くなった。


 黒い喪服の女官。


 宰相府の控え印。


 内礼廊経由。


 ハルベルトの名に似た略印。


 エルヴィアの名が入った命令。


 マルタの保管紙と似た紙。


 どれも、誰かを指せる。どれも、誰かを間違えて殺せる。


 だから、今は一つにもできない。


 小扉の下で、紙がまた擦れた。


 兵が身構える。


 リーゼは手を上げた。


「近づかないでください。小扉が内側から動いているのか、空気で札が動いたのかを分けてください」


 カイルが即座に言った。


「灯りを低く。扉には触れるな。床の影を見ろ」


 兵が燭台を床へ下ろす。


 小扉の下の影が、細く伸びた。そこに挟まっていた番号札の縁が、少しだけ見えた。


 札は完全ではなかった。


 上部は焼け、下部は裂け、留め糸は片側だけ残っている。数字らしき線はある。けれど七ではない。二でもない。十かもしれない。十二かもしれない。あるいは、数字ではなく、棚の段を示す傷かもしれない。


 リーゼは言った。


「別番号断片。判読未確定。消失痕あり。上部焼損、横傷、留め糸片側欠け。所在欄らしき残字、内教育室、奥。数字断定禁止」


 書記が必死に写す。


 カイルが問う。


「七番の隣なら、隣の番号ではないのか」


「隣に置かれたから、隣の番号とは限りません。誰かが急いで隠したなら、棚の位置に意味はありません」


「お前は、そう教えられたのか」


「そう消されるのを見ました」


 答えてから、リーゼは唇を噛んだ。


 見た。


 それは余計だった。


 カイルの目が冷える。書記の筆が、一瞬止まる。


「今のも書け」


 カイルが言った。


「教育番号七、消去手順を見た経験を示唆。詳細未聴取」


 書記が書く。


 リーゼは逃げ道が、また一つ紙の上で塞がる音を聞いた。


 少女が布の下で小さく言った。


「七番、止めて」


 誰を。


 何を。


 聞きたい言葉が喉まで来た。


 けれどリーゼは飲み込んだ。


「何を見たかだけを言ってください」


「扉の下。薄い紙。黒い糸。返さない札」


「誰が置いたかは」


 カイルが聞きかけた。


 少女の体がこわばる。


 リーゼが遮るより先に、カイル自身が舌打ちした。


「今の質問は取り消し。書記、記録するな」


 書記が慌てて筆を浮かせる。


 カイルは兵へ命じた。


「質問順を変える。少女への質問はこれ以上しない。次は棚、箱、扉、伝達札の順に物を読む。リーゼには最後に聞く」


 リーゼの名は、硬く呼ばれた。


 王女でも、七番でもない。


 まだどちらでも裁けない名として。


「最後でいいのですか」


 リーゼは言った。


「私が嘘を合わせるかもしれません」


「だから最後だ」


 カイルは答えた。


「先に物を固定する。お前の言葉は、そのあとで汚れとして扱う」


 痛みはあった。


 けれど、リーゼは頷いた。


 汚れとして扱われるなら、物を汚さずに済む。


 保全箱がまず封じられた。


 白い紐の結び目をそのままに、焦げた部分へ薄い紙をかぶせ、カイルの封蝋ではなく、仮封の無地蝋で止める。誰の権限かを早く決めないためだった。


 次に返却棚。


 棚は動かさない。七番棚、隣の逆さ札、右端の隙間、床の煤、落ちた糸の位置を別々に写し、棚全体へ布をかける。布の上に封が押されるたび、書記が声に出して読む。


「返却棚、現位置保存。移動禁止。七番棚、隣札、右端煤、別々に記録」


 次に小扉。


 兵が膝をつきかけた。


「開けるな」


 カイルの声が飛んだ。


 兵は止まる。


 リーゼは、そこで初めて小扉の違いを短く言った。


「返却棚は所在を置く場所です。保全箱は、棚から外した記録を一時的に守る箱です。保全記録は、誰が外へ出させたかを残す行です。でも小扉は、その三つより奥にあります。今開ければ、所在そのものを動かしたことになります」


「つまり」


「開けるより先に、開けない責任を記録しなければなりません」


 書記が顔を上げた。


「開けない責任、ですか」


「はい」


 リーゼは小扉を見たまま言った。


「王女リーゼとして、教育番号七として、奥の所在保全を請求します。小扉は開けず、位置、隙間、残字、滑落物、外側の封だけを保全してください」


 部屋が静まり返った。


 王女リーゼ。


 教育番号七。


 また二つが並ぶ。


 しかも今度は、奥の所在保全請求者として。


 それは王女の権限を使ったようにも見える。影の番号を使ったようにも見える。小扉を動かした本人のようにも見える。開けなかった責任を引き受けた者のようにも見える。


 どれで裁かれても、逃げられない。


 カイルはしばらくリーゼを見ていた。


 やがて、書記へ言った。


「そのまま書け。ただし、正当な権限とは書くな。請求者として記録しろ。王女リーゼ、教育番号七、奥の所在保全請求者」


 書記の筆が紙を削る。


 リーゼは、その音を聞いていた。


 自分の嘘が、人を守る形でまた深くなる。


 少女が布の下で、泣くでもなく、笑うでもなく、息を吐いた。


 カイルが命じる。


「護送順を変える。保護対象が先。次に保全箱。返却棚の外側記録。小扉の封印記録。最後にリーゼ」


「私を先に拘束しないのですか」


 リーゼが問うと、カイルは短く答えた。


「お前を先に動かせば、七番が返ったことにされる」


 その言葉に、リーゼは何も返せなかった。


 カイルは続ける。


「お前は情報源ではない。今は消去を止めた当事者だ。だから最後に動かす。逃げれば、その場で斬る」


「はい」


 褒められてはいない。


 守られてもいない。


 だが、順番が変わった。


 少女の椅子が持ち上げられる。兵は肩にも腕にも触れない。椅子の脚だけを持ち、布で顔を隠したまま、ゆっくりと出入口へ向かう。


 少女は、名を言わなかった。


 番号も言わなかった。


 ただ、通り過ぎる瞬間、布の下からかすかな声を落とした。


「低い扉は、待っている」


 リーゼは答えなかった。


 答えれば、何かを返したことになる気がした。


 少女が廊下へ出る。すぐに別室護送の封が読まれた。


「内教育室保護対象。証人名空欄。白二号保護室とは別。接触禁止。質問停止」


 白二号とは分けられる。


 灰四号とも分けられる。


 違うものが、違うまま残る。


 その小さなことが、今は勝利だった。


 保全箱が続く。封蝋の上に、カイルの名ではなく、立会いの数だけが刻まれた。


「保全箱、内側記録含む可能性あり。開封禁止。王女リーゼ、教育番号七の請求により外側保全」


 返却棚は動かない。棚そのものに布が巻かれ、封が三箇所に置かれた。七番棚、隣札、右端煤。どれも一つにされない。


 最後に、小扉へ薄い封紙が渡された。


 兵が封紙を貼ろうと膝をつく。


 その瞬間、小扉の下から、何かが滑り出た。


 紙ではない。


 布でもない。


 薄い記録片だった。紙に見えるほど薄く、布に見えるほど柔らかい。端に黒い糸が一本ついている。焦げてはいない。ただ、古すぎるために、指で触れれば崩れそうだった。


 兵が反射的につまもうとした。


「触らないでください」


 リーゼの声が鋭くなった。


 カイルも同時に言った。


「手を退けろ」


 兵の指が止まる。


 記録片は、小扉の隙間から半分だけ出たまま、床に張りついていた。燭台の灯りが低く差す。


 書記が顔を近づける。


「読めるか」


 カイルが問う。


 書記は喉を鳴らした。


「文字があります。欠けています」


「読むな。まず形だ」


 カイルの命令に、書記は慌てて姿勢を戻した。


「薄い記録片一。黒糸一。小扉下より滑落。直接接触なし。表面、複数行。判読前」


 リーゼは息を抑えた。


 複数行。


 複数。


 それだけで、奥に一人だけではない何かがある。


 カイルがリーゼを見た。


「お前は読むな」


「読みません」


 読めば、知っていることになる。


 知っていることになれば、また誰かの所在がリーゼの罪にされる。あるいは、リーゼの言葉で消される。


 書記が灯りを少しずらした。


 記録片の文字が、欠けた形で浮かぶ。


 ――未返却、所在欠け。


 ――奥、第二。


 ――七の応答待ち。


 ――三名、返却せず。


 最後の行は、黒糸に隠れていた。


 書記の声が震える。


「三名……と読めます」


「断定するな」


 リーゼが言った。


 カイルの目がこちらへ向く。


 リーゼは続けた。


「三名か、三行か、三棚か分かりません。奥、第二も、部屋か棚か手順か分かりません。七の応答待ちも、私とは限りません」


「それでも七とある」


「はい」


 リーゼは逃げなかった。


「だから、私の疑いも記録してください。ですが、奥に複数の未返却所在がある可能性も、同じ行に残してください」


 書記が筆を持ち直す。


「記録します。小扉下滑落記録片。未返却、所在欠け。奥、第二。七の応答待ち。三名または三行らしき残字。判読未確定。複数未返却所在の可能性あり」


 カイルはしばらく黙っていた。


 それから命じた。


「小扉、封印。記録片は動かすな。床ごと外側封をかける」


「床ごとですか」


「剥がせば崩れる。崩れれば、誰かが都合よく読める」


 兵が封紙を広げる。


 小扉には触れず、扉の枠、床、壁の三点にまたがる形で紙が渡された。低い扉は、開かないまま封じられる。記録片も、半分出たまま、透明な薄紙の下へ固定された。


 リーゼはその様子を見ていた。


 奥はまだ暗い。


 そこに人がいるのか、記録だけが眠っているのか、誰かの所在が番号で縛られているのか、まだ分からない。


 分からないまま、消されなかった。


 それが、今できる最大だった。


 カイルが最後に書記へ言った。


「封印対象を読み上げろ」


 書記が紙を持ち、声を整える。


「一、内教育室保護対象。名を問わず別室護送。質問停止」


 廊下の向こうで、椅子の脚が遠ざかる音がした。


「一、保全箱。白紐、焦げ痕、内側記録含む可能性。別封」


 兵が箱を抱える。


「一、返却棚。七番棚、隣札、右端煤、逆さ札。現位置保存。別封」


 布の下で棚が沈黙する。


「一、小扉。返却棚より低い扉。開扉なし。外側封。小扉下滑落記録片、床ごと保全」


 低い扉は、名前を返さないまま、封じられる。


「一、別番号断片。判読未確定。消失痕あり。所在欄らしき残字、内教育室、奥。数字断定禁止」


 書記はそこで、一度息を吸った。


「一、請求者。王女リーゼ。教育番号七。奥の所在保全請求者。権限未確定。責任保留。疑い継続」


 疑い継続。


 その言葉は、冷たい鎖のようにリーゼの胸へ落ちた。


 けれど、鎖が落ちた場所の向こうで、誰かが消えずに済んだ。


 カイルがリーゼへ向き直る。


「お前は最後だ」


「はい」


「歩く位置は中央。前後に兵。手は縛らない」


 兵が驚いた顔をした。


 リーゼも、少しだけ目を上げた。


 カイルは表情を変えない。


「手を縛れば、七番が護送されたことになる。今は請求者として歩かせる。逃げれば斬る」


「はい」


 リーゼはもう一度、低い小扉を見た。


 封紙の下で、滑落した記録片の文字がかすかに見える。


 未返却。


 所在欠け。


 奥、第二。


 七の応答待ち。


 そして、複数を示すかもしれない残字。


 一人守れた。


 一つの箱を守れた。


 一つの棚を、戻されずに済ませた。


 けれどこれは、終わりではなかった。


 返却棚より低い扉は、まだ奥の入口でしかなかった。


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