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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第6話 七番は、扉の向こうを選ぶ

 内教育室の扉が、低く鳴った。


 隙間から漏れた空気は、古い紙と乾いた油の匂いを連れていた。喪の香が、まだ細く混じっている。


 その奥から、声がした。


「七番?」


 リーゼは息を止めた。


 名を呼ばれたのではない。王女を呼ばれたのでもない。


 番号を、確かめられた。


 背後でカイルの剣がわずかに鞘を擦った。兵たちの足音が止まり、書記の筆先も宙で止まる。開いた副簿箱の中には、七番の貸出と未返却の行が残っていた。白二号は別室へ保護されている。黒い片手袋は封じられ、喪の香はまだ証拠でしかない。通路印の順は、影教育室から内礼廊を抜け、宰相府へ向かう形を示していた。そこに、抹消された別番号の痕と、内教育室未返却行が並んでいる。


 それだけで、誰かを犯人にできるものは一つもなかった。


 けれど、扉の向こうにあるものを消すには、十分すぎるものばかりだった。


「下がれ」


 カイルが短く命じた。


 兵がリーゼの前へ出ようとする。彼らの目は扉ではなく、リーゼの首筋と手元を測っていた。七番と呼ばれた人間を、鍵として、危険物として、あるいは嘘の王女として。


 リーゼは動かなかった。


「下がれば、内側の人か記録が失われます」


 カイルの視線が冷える。


「お前がそうさせる手順を知っているからか」


「はい」


 認めた瞬間、書記の筆が震えた。


 リーゼはそれを見た。自分の言葉が、また罪になるのを見た。それでも、扉の隙間から聞こえる呼吸が、紙の擦れる音が、待っている。


「これは犯人の部屋ではありません。未返却先の照合です。捕縛を先にすれば、返却棚の順序が崩れます。棚を開ければ、保全箱の封が死にます。名前を聞けば、内側の人はもう証人ではなく、消すべき対象になります」


「誰から聞いた」


「教えられました。七番として」


 カイルは一歩近づいた。声は低い。


「王女の言葉か。影の言葉か」


 リーゼは喉を鳴らした。


 その二つを分けて答えられるなら、どれほど楽だっただろう。


「守るために必要な言葉です」


 扉の奥で、何かがこつんと当たった。


「七番……?」


 二度目の声は、もっと細かった。幼いとも、疲れきった女のものとも聞こえた。声の主はリーゼを見ていない。ただ、番号が返るかどうかだけを待っている。


 カイルが兵へ顎を振った。


「押さえろ。中の者を確保する」


「待ってください」


「命令だ」


「確保ではなく、保全です」


 リーゼは自分の手を開いた。何も持っていないと見せるためではない。自分が今、触れないと決めたことを、全員に見せるためだった。


「扉の前に兵を置いてください。誰も棚に触れない。誰も内側の人の名を聞かない。書記は、今からの順序を声に出して記録してください。副簿箱は開いたまま。黒い片手袋と喪の香の封は別扱い。宰相府を含む通路印順序は、犯人名ではなく移動経路としてのみ記録。抹消された別番号は、欠けたまま写す。内教育室未返却行は、七番の返答があるまで返却済みにしない」


「お前が裁くな」


「裁きません。残します」


 カイルの顔に、怒りに似たものが走った。


 リーゼは、それを受けた。褒められたいわけではない。信じられたいわけでもない。ただ、今だけは、間違った手順で誰かを殺したくなかった。


「七番と呼ばれたのは私です。私が答えれば、私の罪が増えます。答えなければ、中にいるものが消えます」


 カイルは数拍、黙った。


 それから剣の柄から指を離し、兵の配置を変えた。


「棚には触れるな。出入口を塞げ。書記、今の女の言葉を記録しろ。ただし、発言者は王女リーゼ、教育番号七、両方で書け」


 書記が息を飲んだ。


 リーゼの胸の奥で、何かが沈んだ。


 王女リーゼ。


 教育番号七。


 二つの名が、同じ行に縫いつけられる。どちらも彼女を救わないかもしれない。どちらも彼女を殺す証拠になるかもしれない。


 それでも、行が残る。


 カイルはリーゼを見た。


「答えろ。少しでも余計なことをすれば、その場で止める」


「はい」


 リーゼは扉の隙間へ向き直った。


 奥は暗い。壁際に細い棚が並び、その一つに返却棚と刻まれた札が下がっている。棚の前には、小さな保全箱があった。箱の上には白い紐がかかり、紐の結び目だけが黒く汚れている。燃やそうとした痕だ。けれど、燃えきっていない。


 棚と箱の間に、膝を抱えた影がいた。


 子どもではない。けれど大人でもない。薄い教育衣を着た、痩せた少女だった。顔は見えない。髪の間からのぞく頬は紙のように白く、両手で箱を押さえている。


 リーゼが一歩踏み出そうとすると、少女の肩が跳ねた。


 カイルの声が飛ぶ。


「止まれ」


 リーゼはその場で止まった。


「近づきません」


「七番?」


 少女がまた言った。


 その声には、期待ではなく規則があった。誰かに何度も言い含められた声。間違えれば終わると知っている声。


 リーゼは膝をつかなかった。相手より上に立つことも、近づくことも、怖がらせることも、今はすべて手順を壊す。


「教育番号七。未返却先の照合を請求します」


 少女の指が、箱の紐を強く握った。


「返却語を」


 リーゼの背に冷たい汗が伝った。


 返却語。


 そんなものを口にすれば、また一つ、彼女が影として育てられた証になる。カイルが聞いている。書記が書いている。兵が覚える。


 けれど、少女は箱を抱いたまま震えていた。


 犯人を見つけるためではない。


 この子が、証拠と一緒に消されないために。


 リーゼは、声を落とした。


「名ではなく、番号で残せ。返った者ではなく、守った者として記せ」


 少女の喉が小さく鳴った。


 白い紐がほどかれる。箱は開かなかった。ただ、蓋の横にある細い差し口から、薄い札が一枚、押し出された。


 少女はそれを床に置き、自分の手をすぐ膝の下へ隠した。


「触るな」


 カイルが兵を止める。


 リーゼは振り返らなかった。だが、命令の向きが変わったのは分かった。捕まえるための声ではなく、保つための声だった。


 書記が震える声で読み上げる。


「保全記録、一枚。返却棚、七番請求により外出し。直接接触なし。内側保護対象、名を問わず。カイル・ロズウェル立会い」


 カイルが言った。


「保護対象と書け。証人名は空欄」


 書記の筆が走る。


 リーゼは少女に向かって言った。


「あなたの名前は、今ここでは要りません。見たものだけ、札にあるものだけ、残してください」


 少女は顔を上げない。


「名前を言ったら、返却になると……」


「誰に?」


 カイルの声が鋭くなった。


 少女の体が縮む。リーゼはすぐに言った。


「今は聞かないでください」


「命令するな」


「聞けば、その人を守れません。答えが出る前に、誰かの名に証拠が縛られます」


 カイルは唇を引き結んだ。


 敵の顔だった。リーゼを疑う顔だった。


 それでも彼は、次に少女へではなく兵へ命じた。


「質問を止める。内側の者は名を出すな。出入口を二重に封鎖。誰も宰相府、内礼廊へ使いを出すな。先に記録を写す」


 リーゼは目を伏せた。


 承認の言葉はなかった。


 けれど手順が変わった。


 少女が箱の側面を押した。今度は、札ではなく細長い冊子が少しだけ出る。表紙には、内教育室ルールと古い字で書かれていた。端は焦げている。


 書記が近づこうとしたが、カイルが止めた。


「読むだけだ。触るな」


 リーゼは冊子の見える範囲を見た。


 そこには、短い規則が並んでいた。


 一、教育番号は本人の返答なく返却済みとしない。


 一、未返却者の所在は名でなく番号にて保全する。


 一、返却棚より保全箱へ移した記録は、立会い三名まで開示を禁ず。


 一、番号抹消の請求がある場合、別番号断片を残す。


 最後の行で、リーゼの指先が冷たくなった。


 番号抹消の請求がある場合、別番号断片を残す。


 消すことを前提にした規則。


 けれど、完全には消さない規則。


 リーゼはそこでようやく、返却棚と保全箱の違いを掴んだ。返却棚は、番号の所在を置く場所。保全箱は、返却棚から外した記録を一時的に守る箱。保全記録は、誰がその箱から何を出させたかだけを残し、別番号断片は、抹消されても完全には消えない欠片だった。だから少女は七番を待っていた。七番の返答なしに箱を返しても、開けても、彼女自身が手順違反として消される。


 内教育室は、人を守るための場所だったのか。消すための場所だったのか。あるいは、消す者と守る者が、同じ棚を使っていたのか。


「読めるところまで記録しろ」


 カイルが言った。


 書記は声を詰まらせながら、規則を写していく。


 少女が箱を抱きしめたまま、低く言った。


「七番が戻らなければ、箱は返すなと」


 リーゼの胸が痛んだ。


「誰に言われたかは、今は言わなくていい」


「黒い布の……」


 兵の一人が息を吸った。


 黒い喪服の女官。


 その影が、全員の頭に浮かんだのが分かった。だが、リーゼは首を振った。


「服では人を決めないでください。布は借りられます。香も移ります。手袋も落とせます」


 カイルがリーゼを見た。


「ずいぶん庇う」


「違います。間違えて一人を犯人にすれば、本当に消した人が、次の棚を開けます」


「お前に都合がいい理屈だ」


「はい」


 リーゼは否定しなかった。


「それでも、いま守れるものが増えます」


 カイルは返事をしなかった。


 ただ、兵へ手で示した。黒い片手袋の封と、喪の香の封を、扉から遠ざけるように置き直させる。通路印の写しも、副簿箱の脇ではなく、別紙に分けさせる。


 混ぜない。


 決めつけない。


 リーゼが求めた手順が、彼の命令として部屋に広がっていく。


 そのたびに、書記の行にリーゼの名が増えていく。


 王女リーゼ、教育番号七として請求。


 王女リーゼ、教育番号七として制止。


 王女リーゼ、教育番号七として保全を提案。


 偽りと番号が、一つの縄になって彼女の首にかかる。


 少女が、不意に小さく咳き込んだ。


 リーゼは反射的に足を出しかけた。カイルの剣の音が鳴る。リーゼは止まった。


「水を」


「兵に持たせる」


「器は床に置いて、離れてください。手渡しはしないで」


 カイルは一瞬だけ眉を寄せたが、命じた。


 兵が水を床に置き、離れる。少女はしばらく動かなかった。やがて、片手だけを伸ばし、器を取った。指は細く、爪の間に灰が入り込んでいた。


 生きている。


 それだけで、リーゼは膝から力が抜けそうになった。


 白二号がそうだった。灰四号もそうだった。名前の代わりに番号で扱われた者たちは、記録の隙間に押し込まれ、必要がなくなれば行ごと消される。


 自分も、そうだった。


 処刑台で死ねば、七番は返却済みになったのだろう。王女リーゼの偽物として斬られ、教育番号七としては棚に戻ったことにされたのだろう。


 それを誰かが、まだ未返却にしていた。


 守るためか。


 使うためか。


 分からない。


 分からないから、残さなければならない。


「箱の中に、まだ札がありますか」


 リーゼが尋ねると、少女は首を横に振りかけ、途中で止めた。


 嘘をつこうとして、やめたのだ。


「あります」


「出せますか」


「七番だけ」


 カイルの目が鋭くなる。


「また鍵か」


 リーゼは首を振った。


「鍵ではありません。責任の移し替えです。七番が請求したと記録される。箱を開けた者ではなく、開けさせた者として」


「つまりお前の責任になる」


「はい」


「そして、お前が中身を選べる」


「選びません。順に出させます。書記が順番を記録し、カイル様が封じます」


 カイルはしばらく黙っていた。


 それから書記へ言った。


「そのまま記録。順序違反があれば、発案者を拘束する」


「はい」


 褒め言葉ではない。


 けれど、拘束の前に手順が置かれた。


 リーゼは扉の奥へ向けて言った。


「七番として、保全箱の順番出しを請求します。中身の名を読まないでください。形だけを」


 少女は箱の中へ手を入れた。


 一枚目。


「細い札。端が白。印なし」


 二枚目。


「黒い糸。結び目一つ」


 三枚目。


「紙片。番号、欠け」


 書記が読み返す。


「番号欠け。形状は」


 少女が紙片を両手で持った。焦げた端が震える。


 リーゼは目を凝らした。


 数字の上半分だけが残っている。七ではない。二でもない。縦線が一本、横線がかすかに残る。十番台かもしれない。あるいは、十二番の一部かもしれない。断定できない。


 断定してはいけない。


「別番号断片。判読不能。上部線あり、横傷あり。抹消痕あり」


 リーゼが言うと、書記がそのまま写した。


 カイルが低く問う。


「お前には読めるのか」


「読めません」


「嘘なら」


「読めても、今は読めないと記録すべきです」


 カイルの目が細くなる。


 リーゼは続けた。


「ここで十二番と決めれば、十二番でない者が消えます。十番と決めれば、十番でない者が消えます。断片は断片として残すべきです」


 カイルは紙片を見つめた。


「書記。断定禁止と追記しろ」


 書記が筆を走らせる。


 少女の肩が、ほんの少し下がった。


「七番は、戻ったのですか」


 その問いに、リーゼは答えられなかった。


 戻ったとは言えない。処刑台からここへ来たのは、帰還ではない。逃走でもない。王女の名を騙り、兵に囲まれ、証拠に押し戻されただけだ。


 それでも、少女は答えを待っている。


 返却棚の前で。


 保全箱を抱いて。


「まだ戻っていません」


 リーゼは言った。


「だから、返却済みにしないでください」


 少女は初めて、顔を上げた。


 頬はこけ、唇は乾いていた。けれど目だけは、灰の下で消えていなかった。


「では、七番はどこに」


 リーゼは自分の胸に手を当てなかった。


 それをすれば、認めてほしい人間の仕草になる。


 代わりに、書記のほうを見た。


「記録してください。七番は、未返却先を請求中。所在、内教育室扉前。身分、王女リーゼとして拘束下。教育番号七として保全手続き中」


 書記の筆が止まる。


 カイルが言った。


「書け」


 書記は書いた。


 リーゼは、その音を聞いた。紙に刃が入るような音だった。


 自分は今、逃げ道を一つ失った。


 だが、少女は箱から手を離した。


 保護対象が、証拠を手放せた。


 その一つだけで、今は十分だった。


 カイルが兵へ命じる。


「内側の者を移す。名は聞くな。顔を布で隠せ。保全記録、返却棚、保全箱は別々に封じる。運搬順は、保護対象、保全記録、保全箱、副簿箱。最後に通路印の写しだ」


「白二号の保護室とは分けてください」


 リーゼが言うと、カイルの視線が刺さった。


「まだ命令するか」


「同じ場所に置けば、二人が同じ証言をしたように扱われます。違うものは違うまま残さないと、あとで一つに潰されます」


 カイルは舌打ちした。


「分けろ。記録も別封だ」


 兵が動く。


 少女は立ち上がろうとして、膝をついた。リーゼの体がまた動きかける。今度もカイルの視線が止めた。


 だがカイルは兵へ言った。


「触れるな。椅子を持ってこい。歩かせるな」


 リーゼは目を伏せた。


 信頼ではない。優しさでもない。


 けれど、手順が人を傷つけない形に変わった。


 少女が椅子に座らされ、布で顔を隠される。名はまだ空欄のままだ。空欄であることが、今だけは命を守っている。


 保全箱が閉じられる前、リーゼは棚の奥に目を向けた。


 返却棚の右端に、小さな札が一枚、逆さに挟まっていた。誰かが急いで戻したか、隠したかのように。


「待ってください」


 兵の手が止まる。


 カイルが即座に問う。


「何だ」


 リーゼは指ささなかった。指させば、触れる理由を与える。


「返却棚の右端。逆さの札があります。誰も抜かないでください。まず位置を記録してください」


 書記が身を乗り出し、声を震わせる。


「返却棚右端、逆さ札一。表記、下向きのため判読不能。位置、七番棚の隣」


 カイルが近づき、触れずに見る。


「七番の隣か」


「はい」


 リーゼは喉の奥が乾くのを感じた。


 七番の隣。


 抹消された別番号。


 未返却者の所在は、名でなく番号にて保全する。


 すべてが一本の線になるには、まだ足りない。足りないからこそ、危うい。


 カイルが手袋を替えた兵へ命じる。


「棚ごと封じる。札は抜くな」


 兵が布を持ってきた。


 そのとき、逆さ札の端が、空気に揺れた。


 ほんの一瞬だけ、焦げた裏面が見えた。


 数字は完全ではなかった。


 だが、消し残しの線の下に、薄く、所在欄の文字が残っていた。


 ――内教育室、奥。


 リーゼの背筋が冷えた。


 この扉の向こうでは、まだ終わっていない。


 七番の未返却先を請求したことで、別番号の所在もまた、呼び起こされてしまった。


 カイルも見たのだろう。剣に置いた手が、音もなく固まった。


「書記」


 彼の声は低かった。


「今の文字は、断定するな。だが記録しろ。別番号断片、所在欄らしき残字あり。内教育室、奥、判読未確定」


 書記が書く。


 リーゼは、まだ暗い内教育室のさらに奥を見た。


 そこには扉がもう一つあった。


 返却棚よりも低く、壁の影に沈む、小さな扉。


 その隙間から、消えたはずの番号札が、かすかに覗いていた。


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