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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第3話 嘘姫の最初の命令

カイルは、二枚の紙を別々の手に持っていた。


 片方は、捕らえた白布の男が隠していた命令書。


 ――広場後、偽物と記録局の者を処理。王女エルヴィアの名において。


 もう片方は、焼け焦げた香袋に隠されていた小さな警告。


 ――私の名で出された暗殺命令を信じないで。


 煙はまだ路地に残っていた。


 反乱兵は誰も喋らない。書記は壁際で膝を抱え、捕らえられた白布の男は歯を食いしばっている。マルタの子どもが泣き疲れて、しゃくりあげる音だけが聞こえた。


「どちらが嘘だ」


 反乱兵のひとりが言った。


「どちらも王女の名だ。なら、どちらも王女の罪だ」


「違う」


 リーゼは言いかけて、息を止めた。


 違う、と言い切る権利はない。


 彼女はエルヴィアではない。


 王女の名を借りて人を動かした、偽物だ。


 カイルが二枚の紙を丸めずに、腰の革袋へ入れた。


「燃やすな。破るな。俺が預かる」


「反乱軍の証にするのか」


「証にするには、まだ足りない」


 その声は冷たかった。


 けれど、紙は残った。


 リーゼはそれを見て、胸の奥で小さく息をした。紙が残る。人が残る。嘘と真実の境目が、まだ灰になっていない。


 その時、横の路地が開いた。


 焼けた屋台をどかそうとした兵の背後で、細い抜け道が見えた。西の馬車道へ続く、王宮の裏納品路だ。人ひとりなら通れる。煙も薄い。


 リーゼの手首の鎖は半分切れている。


 走れる。


 この喪服を脱ぎ、耳飾りを捨て、髪を切れば、リーゼという名もない娘に戻れるかもしれない。王女でも、影武者でも、処刑台の偽物でもない。ただの誰かとして。


 足が、ほんの少しだけ動いた。


 カイルの剣先が、彼女の背に触れた。


「逃げるなら、ここで終わる」


 振り返らなくても、彼の目がわかった。


 信じていない。


 助けていない。


 ただ、まだ殺す順番ではないだけだ。


 壁際の書記が、かすれた声を出した。


「……記録局です」


 誰も彼を見ていなかった。


 彼は自分を守るために喋った。黙っていれば殺されると知った者の声だった。


「命令書の写しは、記録局にあります。封印簿も、伝達簿も。けれど、今ごろ非常封鎖がかかっている。鐘が三度鳴れば、広場関連の書類は灰箱へ移されます。上からの命令で、証拠隠滅ではなく、暴徒保護のためという名目で」


「灰箱?」


 反乱兵が書記の襟を掴んだ。


「燃やす箱か」


「私は決めていません! 私は下級書記です。封を運ぶだけで、封を作る者では」


「どこだ」


 カイルが問う。


 書記は震えたまま、黙った。


 その沈黙を見て、別の反乱兵が唸った。


「王宮の記録など全部燃やせ。どうせ民を縛る紙だ」


「燃やせば、誰が火を仕掛けたかも消えます」


 リーゼは言った。


 反乱兵が彼女を睨む。


「偽物がまた命じるのか」


 リーゼの喉が痛んだ。


 命じなければならない。


 逃げ道はまだ見えている。


 走れば、たぶん今なら行ける。


 けれど、命令書はまた出る。エルヴィアの名で。王家の名で。偽物を処理せよ、記録局の者を処理せよ、証人を処理せよ。


 紙は人を殺す。


 なら、紙を掴まなければならない。


 リーゼは煙を吸い、背を伸ばした。


 王女の姿勢で。


 王女の声で。


 自分の意思で。


「王女エルヴィアの名で命じます。記録局の非常封印を停止。広場火災、暗殺命令、王女印の使用記録を、現場証拠として保全しなさい」


 路地が凍った。


 嘘だった。


 しかも、今度は偶然ではない。


 処刑台で死ぬためでも、火から人を逃がすためでもない。リーゼは自分で、王女の名を使った。王女の権限を、偽物の口で動かした。


 胸の奥で、何かが汚れた音を立てた。


「お前」


 カイルの剣先が、背中に押し込まれる。


「今、自分で罪を増やしたな」


「はい」


 リーゼは答えた。


 声は震えたが、逃げなかった。


「でも、燃えた後では、誰の罪かも残りません」


 カイルは短く息を吐いた。


「書記。案内しろ」


「私が? 無理です、封鎖中は上席の鍵がなければ」


「持っているな」


「持っていません!」


 書記の声は裏返った。


 リーゼは彼の袖を見た。焦げた布の内側が、不自然に膨らんでいる。命令書を袖筒に入れる者は、鍵も同じ側に隠す。逃げる時、利き手で握れるように。


「右袖です」


 リーゼは言った。


 書記の顔が歪んだ。


「違います」


「では、今ここで袖を切ります」


「やめてください!」


 書記は泣きそうな顔で、小さな鉄鍵を取り出した。


「私は、開けるだけです。開けろと言われたから開けるだけです。私の名前は台帳に書かないでください。お願いします」


 誰も彼を慰めなかった。


 けれど、反乱兵のひとりが鍵を奪わず、カイルを見た。


 カイルは顎で路地を示した。


「行く。偽物は前だ」


「前に立たせるのか」


「罠なら、最初にわかる」


 リーゼは反論しなかった。


 それは当然の扱いだった。


 彼女は証拠で、嘘で、罠かもしれない。


 カイルは半分切れた鎖を掴み、残った輪を短く結んだ。逃げられるほど長くはない。歩けるほどには、自由がある。


「開け。嘘なら、ここで終わる」


 リーゼは頷いた。


 記録局の裏口は、煙の細い路地の先にあった。


 表の扉は重厚な青銅だが、裏口は黒い木扉だった。扉の上に小さな鐘が三つ並び、右端の鐘だけが揺れている。二度、鳴った後だ。


 あと一度で、灰箱。


 書記が鍵を差そうとして、手を滑らせた。


「急げ」


 カイルが言う。


「急げと言われても、封印中は手順が」


「左の鐘紐を切ってください」


 リーゼは言った。


 書記がびくりとする。


「なぜそれを」


「非常封鎖は、三つ目の鐘が鳴って初めて記録破棄に移ります。鐘紐を切れば、灰箱係は正式手順を待つ。勝手には燃やせない」


「そんなこと、王女殿下が知るはず」


 書記はそこで口を閉じた。


 言ってはいけないことを言いかけたのだ。


 反乱兵が短剣で鐘紐を切った。


 小さな鐘が、鳴りかけたまま黙る。


 誰もリーゼを褒めない。


 ただ、鐘は止まった。


 扉が開くと、冷たい紙の匂いが流れた。


 記録局の中は暗かった。壁一面に棚があり、革紐で縛られた台帳が並んでいる。中央には封蝋台。赤、白、黒、青の蝋が箱ごとに分かれ、脇には灰を受ける鉄箱が置かれていた。


 奥で人影が動いた。


「止まれ!」


 カイルが叫ぶ。


 影は棚から一冊の台帳を抜き、灰箱へ投げようとしていた。


 反乱兵が走る。


 リーゼは台帳の革紐に見覚えがあった。


 黒紐に銀の留め具。


 王女印使用簿。


「それを燃やさないで!」


 王女の声が出た。


 反乱兵の足が速くなる。台帳を抱えた男は灰箱の蓋を開けかけたが、カイルの剣がその手元を打った。台帳が床に落ちる。


 書記が悲鳴を上げた。


「王女印使用簿です! 燃やせば、印を押した日も、持ち出した者も、全部」


「黙って拾え」


 カイルが命じた。


 書記は這うようにして台帳を抱えた。


 今度は逃げようとしなかった。


 逃げられなかったのかもしれない。


 けれど、彼は台帳を胸に抱いたまま、灰箱から離れた。


「そこの棚」


 リーゼは言った。


 喉が乾いていた。


「青い蝋の下。命令伝達簿があります。広場の命令が王女印から出たなら、伝達簿に通過印が残るはずです」


「また命じるのか」


 反乱兵が言った。


「命じます」


 リーゼは言った。


 今度は、逃げなかった。


「王女エルヴィアの名で。青い蝋の下の伝達簿を保全。灰箱から離して、入口の光へ」


 反乱兵は歯を食いしばった。


 それでも動いた。


 彼は棚へ行き、青い蝋箱の下から分厚い帳面を引き出した。別の兵が灰箱の前に立つ。カイルは剣を抜いたまま、リーゼと書記の両方を見ていた。


 誰も彼女を信じていない。


 けれど、台帳は燃えなかった。


 それが、この場で得られる唯一の承認だった。


 書記は震える手で王女印使用簿を開いた。


「広場の命令……ありました。夜明け前。王女印、黒蝋。持ち出し担当、上席書記官。返却欄は空白」


「空白?」


「印が戻っていない、ということです」


 カイルが眉を寄せる。


「つまり、王女の印はまだ誰かの手にある」


 リーゼの背筋が冷えた。


 エルヴィアが持っているのか。


 王党派が持っているのか。


 それとも、エルヴィアの名で命令を出した誰かが、まだ次の紙を書くつもりなのか。


 書記が伝達簿をめくる。


 その手が途中で止まった。


「……写しがあります」


 彼は小さな声で言った。


「広場火災後の処理命令。原本ではありません。写しです。命令鎖に載せる前の下書き控え」


「読め」


 カイルが言う。


 書記はリーゼを見た。


 見たくないものを見てしまった顔だった。


「読め」


 今度はリーゼが言った。


 書記は震える指で紙を広げた。


 そこには、さっきの暗殺命令より長い文があった。


 広場の混乱後、偽物を処理すること。


 記録局の運搬者を処理すること。


 生存した目撃者を、暴徒鎮圧の混乱に紛れて分散させること。


 そして、最後に署名。


 王女エルヴィア。


 リーゼはその文字を見た。


 王女の筆跡だった。


 細く、気品があり、線の終わりにわずかな溜めがある。祝祭の告示で何度も見た字だ。リーゼ自身が、何度もなぞった字だ。


 だが、違和感があった。


 最後の「ア」のはらい。


 普通のエルヴィアは、そこを軽く跳ねる。幼い頃から癖として残った、少しだけ明るい線。


 けれど、この紙では沈んでいる。


 右下へ、わずかに重い。


 疲れている時。


 急いでいる時。


 怖くて手首が硬くなった時。


 リーゼが、影武者部屋で何百回も直された癖だった。


 ――あなたは王女ではありません。けれど、王女が震えた時の字も書けなければ、影にはなれません。


 女官の声が、紙の向こうから戻ってきた。


 リーゼは一歩下がった。


 カイルの剣先が背に触れる。


「どうした」


「……この字は」


 声が出なかった。


 書記が青ざめる。


「違います。私は書いていません。私はただ写しを束ねただけで」


「誰が書いた」


 カイルが問う。


 書記は首を振る。


「下書き控えは、筆跡保管箱から来ます。王族筆跡、代理筆跡、儀礼筆跡。誰がどれを使ったかは、別の札に」


「どこだ」


「そこです」


 書記が指したのは、封蝋台の下だった。


 小さな引き出しがある。


 リーゼはそれを知っていた。


 知っていることが、また罪になった。


「開けろ」


 カイルが言った。


 書記は首を振った。


「鍵が違います」


「なら壊す」


「壊せば札が混ざります!」


 反乱兵が苛立つ。


「だったらどうする」


 リーゼは、引き出しの端にある銀の小さな留め金を見た。王女の私印ではない。影武者教育で使った、筆跡練習室と同じ留め金。


 開け方も同じだ。


 押すのではなく、引いてから戻す。


 彼女は手を伸ばしかけた。


 カイルがその手首を掴んだ。


「触るな」


「開けなければ、札が見られません」


「お前が開けられる理由は」


 リーゼは答えなかった。


 答えられなかった。


 カイルの目が細くなる。


 彼は手を離さないまま、書記に命じた。


「こいつが言う通りに動け。少しでも違えば止める」


 書記は泣きそうな顔で頷いた。


 リーゼは手順だけを言った。


「留め金を手前へ。戻して。左の角を押して。今です」


 小さな音がして、引き出しが開いた。


 中には札束と、薄い練習紙の束があった。


 王女筆跡控え。


 代理筆跡控え。


 儀礼筆跡控え。


 そして、黒い紐でまとめられた小さな束。


 影筆跡控え。


 書記がそれを見た瞬間、顔を背けた。


 リーゼは背けられなかった。


 束の一枚目には、王女エルヴィアの署名があった。


 二枚目にも、同じ署名。


 三枚目にも。


 だが、四枚目で、線が沈んでいた。


 右下へ、わずかに重く。


 疲れて、急いで、怖い時の字。


 リーゼの手から、力が抜けた。


 カイルが紙を奪う。


 暗殺命令の署名と、影筆跡控えを並べる。


 誰も声を出さない。


 同じだった。


 完全ではない。


 だが、似すぎていた。


 王女エルヴィアのものだった。


 そして、リーゼのものでもあった。


「偽物」


 カイルの声は低かった。


「お前は、これを書けるのか」


 リーゼは紙を見た。


 逃げ道はもう、どこにもなかった。


 彼女は首を横に振ることも、縦に振ることもできなかった。


 どちらも、嘘になる気がした。


 ただ、ひとつだけわかった。


 自分は証拠ではない。


 証拠にされるために作られていたのだ。

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