第2話 偽物を殺せない敵
「だから聞く。偽物の姫。お前は、誰のために嘘を吐いた」
カイルの剣は下がっていた。
けれど、処刑台の下では剣が増えていた。煙の残る広場で、反乱兵たちが半円を作り、リーゼを囲んでいる。燃え落ちた旗の灰が白い石に散り、逃げ遅れた人々の咳だけが、まだあちこちで聞こえた。
マルタは子を抱いたまま、噴水から離れた石柱の陰にいた。
トルは杖をなくした足で立っていた。
それだけで、リーゼは答えをひとつ持っていた。
けれど、それを口にしてはいけない気がした。
民のため、と言えば王女の嘘になる。
自分のため、と言えば、死んでいない人々まで嘘に巻き込む。
リーゼは唇を開いた。
「……燃えると、わかりました」
「答えになっていない」
「答えられる身分ではありません」
反乱兵のひとりが吐き捨てた。
「身分? 偽物が身分を語るのか」
「殺せ、カイル。そいつが偽物なら、王家は処刑まで偽った。広場で首を落とせば証になる」
「逆だ」
カイルが短く言った。
兵たちの声が止まる。
「こいつを今殺せば、証が消える。本物の王女がいつ消えたのか。誰がこいつを台に上げたのか。誰が東門に火を置いたのか。全部、こいつの首と一緒に落ちる」
「王女の顔をした嘘つきだぞ」
「だから生かす」
カイルはリーゼの肩を押した。助ける手ではなかった。逃げ道を奪う手だった。
「嘘は尋問できる。死体はできない」
リーゼは、自分が救われていないことを理解した。
保存されている。
証拠として。
それでも、剣が首に戻らなかったことだけが、次の息を許した。
広場の西側では、反乱兵が生き残った者を路地へ誘導していた。石畳に座り込む者、咳き込む者、家族を探して叫ぶ者。さっきまで王女を殺せと叫んでいた人々が、今は水と布を求めていた。
説明している暇はない。
リーゼは、煙の向こうで一人の男が引きずられてくるのを見た。
灰色の外套。焦げた袖。胸には王宮記録局の小さな留め具。王党派の兵ではない。だが王宮の人間だ。
反乱兵が男の髪を掴んだ。
「こいつ、東門の裏にいた。王宮の書記だ」
「火をつけたのか」
「違う、私は命令書を運んだだけで――」
その一言で、槍の穂先が男の喉に寄った。
リーゼは一歩踏み出した。
カイルの手が肩に食い込む。
「動くな」
「その人を殺してはいけません」
「お前が決めることではない」
「王女として命じます」
言った瞬間、広場の空気が変わった。
反乱兵の何人かが笑った。何人かが唾を吐いた。カイルの目が、さらに冷たくなる。
リーゼは自分でもわかっていた。
さっきまで偽物だと暴かれた口で、また王女を名乗った。
もう、ただ巻き込まれただけではない。
自分で嘘を選んだ。
「その男は処刑人ではありません。王宮記録局の下級書記です。命令書を運ぶ者は、命令を作る者ではない。殺せば、誰の命令だったかが消えます」
「なぜそんなことを知っている」
カイルが問うた。
リーゼは答えられなかった。
王女のそばに立つ影武者は、宮廷の服だけでなく、役人の留め具も覚えさせられる。誰に微笑めば扉が開くか。誰を無視すれば、あとで命令書が遅れるか。誰が本当に権限を持たず、誰が持っているふりをしているか。
それは王女の知識ではない。
王女を演じるための知識だった。
槍を構えた兵が苛立って叫んだ。
「ならこいつに言わせればいい!」
書記は震えながら懐に手を入れた。
カイルが剣を上げる。
「手を出すな」
「違います」
リーゼは叫んだ。
「懐ではありません。袖の内側です。記録局は命令書を袖筒に入れます。懐に手を入れるなら、そこには別のものがある」
書記の顔から血の気が引いた。
反乱兵が彼の手首を捻り上げる。懐から落ちたのは、小さな封蝋の欠片だった。王家の百合紋。割れている。
カイルがそれを拾った。
「読めるか」
リーゼは、王女の顔で頷いた。
封蝋の裏に、細い羊皮紙が貼りついていた。燃え残りだ。文字は半分しか残っていない。
――広場、火、証人、処理。
リーゼの喉が狭くなる。
書記は震えながら首を振った。
「違う。私は、私は台帳を持って来いと言われただけです。命令書は上から来た。私は封を見ただけで、中身は」
「上とは誰だ」
カイルが問う。
書記はリーゼを見た。
そして、さらに顔を歪めた。
「……影の姫様」
その名ではなかったが、意味は同じだった。
リーゼは一瞬、息を止めた。
カイルの視線が刺さる。
「知り合いか」
「いいえ」
嘘だった。
書記の顔を、リーゼは知っている。王宮の廊下で、彼は何度も彼女に目を伏せた。王女には膝をつき、影武者には書類の山を押しつけた男だった。
書記も、彼女を知っていた。
その沈黙が、リーゼを裏切った。
カイルは何も言わなかった。
何も言わないまま、書記の前に立つ兵の槍を手で押し下げた。
それは信頼ではない。
処刑の延期だった。
「こいつも生かす。話を聞く」
「王宮の犬をかばうのか」
「犬が吠えれば、飼い主がわかる」
書記はその場に崩れた。
リーゼは安堵する暇もなかった。
路地の入口から、白い布を腕に巻いた者たちが入ってきた。三人。担架を持ち、灰を避けるように歩いてくる。王都では、火災後に負傷者を運ぶ者が白布を巻く。だから反乱兵たちは道を開けた。
リーゼも最初は、そう見た。
けれど、二歩目で違和感があった。
白布の結び目が、右にある。
王宮の弔事と救護では、結び目は左に落とす。右に結ぶのは、喪に服す者ではない。剣を抜く時に邪魔にならない者だ。
さらに、靴がきれいだった。
煙と水で汚れた広場に入ってきたのに、三人の靴底には灰が薄い。遠くから負傷者を運んできた足ではない。近くで待っていた足だ。
リーゼはカイルを見た。
「その人たちを近づけないで」
「今度は何だ」
「白布の結びが逆です。靴が汚れていません」
カイルは動かなかった。
彼の目はリーゼを疑っていた。今この場で、偽物の姫がまた嘘を足しているのかを量っていた。
白布の一人が担架を下ろした。
その手が、布の下へ入る。
リーゼは叫んだ。
「書記を伏せさせて!」
カイルが動いた。
リーゼを信じたのではない。
彼は、彼女が指した手を見た。
布の下から短い刃が出る。カイルの剣がそれを弾いた。金属音が路地に跳ね、反乱兵が遅れて槍を向ける。
白布の男たちは散った。
一人はカイルに押さえ込まれた。もう一人は反乱兵に腕を取られた。三人目は担架を蹴り倒し、煙の残る路地へ逃げる。
「追うな!」
リーゼは叫んだ。
また王女の声だった。
反乱兵の足が止まる。
カイルが振り向いた。
「なぜだ」
「路地は一本ではありません。逃げた者を追えば、残った負傷者が開いたままになります。ここにいる人を守って。書記を囲んで。白布の者をほどいて、手を見るのです。薬草の匂いがなければ救護ではありません」
反乱兵の一人が、憎々しげに舌打ちした。
それでも彼は書記の前に立った。
別の兵が、負傷者を壁際へ下げた。
マルタが子を抱いたまま、近くの少女を自分の背へ隠した。
誰もリーゼを褒めなかった。
誰も、彼女を姫と呼ばなかった。
けれど、人が動いた。
それが、恐ろしいほど胸に残った。
捕らえられた白布の男は、口を閉ざしていた。カイルが腕を捻ると、袖口から細い紙筒が落ちた。
王家の百合紋。
さっきの封蝋と同じだった。
反乱兵が怒鳴る。
「王女の命令か」
「違う」
リーゼは反射で言った。
カイルの目が彼女へ戻る。
「なぜ言い切れる」
言い切れるはずがなかった。
本物のエルヴィアがどこにいるのか、リーゼは知らない。王女が逃げたのか、逃がされたのか、裏切ったのか、裏切られたのかも知らない。
それでも、目の前の紙筒をエルヴィアの罪として閉じてしまえば、また誰かが死ぬ。
リーゼは唇を噛んだ。
「言い切れません」
初めて、王女の声ではなかった。
「けれど、読まずに殺せば、真実は増えません」
カイルは紙筒を開いた。
中には短い命令書が入っていた。
――広場後、偽物と記録局の者を処理。王女エルヴィアの名において。
路地が静かになった。
反乱兵の殺意が、またリーゼへ向く。
偽物。
その文字が、彼女の喉を締めた。
命令書は彼女を知っている。彼女の存在を知っている誰かが、彼女を消そうとしている。
書記が小さく呻いた。
「私は、そんな命令を見ていない。王女殿下の封だった。でも、これは……」
「黙れ」
カイルが言った。
声は低いが、書記を殺す声ではなかった。余計な言葉で自分を殺すな、という声だった。
その時、マルタの子が泣いた。
泣き声に紛れて、小さなものがリーゼの足元へ転がってきた。
焼け焦げた布玉だった。
リーゼはそれを見下ろす。王宮で使う香袋に似ていた。だが、灰にまみれた布の縫い目に、細い銀糸が一本だけ残っている。
エルヴィアの私物だ。
幼い頃の王女は、手紙を香袋に隠す癖があった。影武者はその癖まで覚えさせられた。笑い方も、筆跡も、隠し癖も。
リーゼは鎖の残った手で布を裂いた。
中から、小さく折られた紙が出た。
字は短かった。
けれど、リーゼが何百回もなぞらされた本物の字だった。
――私の名で出された暗殺命令を信じないで。
リーゼは息を忘れた。
カイルが紙を奪うように取った。
彼も読んだ。
反乱兵も、書記も、マルタも、誰も声を出さない。
命令書には、エルヴィアの名がある。
警告にも、エルヴィアの字がある。
どちらかが嘘なのか。
どちらも嘘なのか。
それとも、本物の王女は、嘘の中からまだ誰かを動かそうとしているのか。
カイルは紙を握り潰さなかった。
それだけで、リーゼは彼が結論を出していないと知った。
彼はリーゼを見た。
「偽物」
今度の声は、処刑台の時より静かだった。
「お前は、これも読めるんだな」
リーゼは答えなかった。
答えれば、また証拠になる。
答えなくても、もう証拠だった。
カイルは命令書と小さな警告文を、別々の手に持った。
「なら死ぬな。少なくとも、俺がどちらの嘘を斬るか決めるまでは」
それは救いではなかった。
判決の延期だった。
けれどリーゼは、煙の中でまだ生きていた。
そして、エルヴィアもまた、どこかで生きているかもしれなかった。




