第1話 処刑台の偽物
処刑台は、白い石の広場のまんなかに置かれていた。
リーゼは王女エルヴィアの喪服を着せられ、両手を銀の鎖で結ばれて、木の階段を一段ずつ上がった。絹の裾は重く、靴は小さく、耳飾りは本物の王女の持ち物だった。
死ぬのは、彼女の役目だった。
けれど広場は、処刑を見る場所にしては狭すぎた。四つある出口のうち、三つが鉄鎖で閉じられている。群衆の後ろでは王党派の兵が槍を横に構え、反乱兵は台の前だけを見ていた。子どもが押されて泣いているのに、誰もそちらを見ない。
おかしい。
リーゼは首を上げた。
鐘楼の影に、油の匂いがある。
「顔を下げろ」
後ろの兵が小さく命じた。反乱軍の赤い腕章を巻いた青年だった。黒髪を短く刈り、目だけが静かで、剣の柄に置いた指に無駄な力がない。
彼が処刑人なのだろう。
リーゼは言われた通り、王女らしく顎を引いた。
王女らしく。
何度も教え込まれた。歩幅は半足。泣く時は左の睫毛を先に濡らす。民を見下ろす時は、憐れむのでなく、覚えている顔を探すように視線を動かす。
けれど彼女は、エルヴィアではない。
名も、声も、死に方も、借り物だった。
本物の王女は、夜明け前に消えた。残されたのは、同じ髪色に染められ、同じ傷痕を化粧で描かれ、同じ謝罪文を暗記させられたリーゼだけだった。
彼女が死ねば、反乱は王女を討ったことになる。王党派は時間を稼げる。誰も困らない。
そのはずだった。
リーゼはもう一度、広場を見た。
噴水の縁に、枯れ草を詰めた樽が三つ。祝祭の飾りに見せかけているが、樽の下に黒い染みがある。油だ。東門の上には、弓兵ではなく松明持ちがいる。しかも松明の火は、まだ明るい昼なのに消されていない。
処刑だけではない。
ここは、燃える。
台の下で、反乱軍の長が羊皮紙を広げた。
「王女エルヴィア。民を飢えさせ、罪なき者を牢へ送り、王都を血で濡らした罪により――」
群衆が唸った。
石を握る者がいる。泣いている者がいる。黙っている者ほど、目が暗い。
リーゼはその中に、知っている顔を見つけた。
南門の粉屋のマルタ。二年前、雨漏りの陳情に来て、王宮の門前で三日待たされた女。腕には、まだ小さい男の子を抱いている。
西井戸の靴直し、トル。左足が悪いから、人に押されると逃げられない。
市場の薬売りの老夫婦。前に王女の馬車へ薬草税の軽減を訴え、兵に追い払われた。
エルヴィアは、覚えていただろうか。
リーゼは覚えている。影武者は、王女が忘れてよいものまで覚えるよう教えられたからだ。誰に笑うか。誰を無視するか。誰の名を呼べば、王女らしく見えるか。
その記憶が、いま急に重くなった。
「罪を認めるか」
反乱軍の長が問うた。
用意された返事は一つだった。
――わたくし、エルヴィアは、王家の罪を認め、民に赦しを乞います。
それを言えば、リーゼは首を落とされる。
言わなければ、無理に言わされるだけだ。
どちらでも、彼女の人生は終わる。
けれど、広場の人生は終わらせていいのか。
東門の松明持ちが、合図を待つように腕を上げた。
リーゼは息を吸った。
「赦しは、乞いません」
広場の唸りが止まった。
後ろの処刑人の指が、剣の柄でかすかに動く。
リーゼは膝が震えないよう、鎖のかかった両手を胸の前で重ねた。王女の所作で。王女の声で。けれど、謝罪文ではない言葉で。
「南門のマルタ。子を抱いているなら、噴水から離れて。今すぐ」
マルタが目を見開いた。
群衆の何人かが振り返る。
「西井戸のトル。左足では押し合いに巻き込まれます。薬売りのご夫婦を連れて、青い旗の下へ。そこなら石柱が盾になる」
「黙れ!」
反乱軍の長が叫んだ。
リーゼは黙らなかった。
「東門の上に火があります。飾り樽の下に油が染みています。王女の処刑を見るなら、燃え草のそばで見る必要はありません。子どもを前に出さないで。老人を壁際に寄せないで。走らないで、三歩ずつ、噴水から離れて」
言葉が広場を渡った。
最初に動いたのは、マルタだった。彼女は子どもの頭を抱え、隣の男の袖を掴んで後ろへ下がった。
次に、トルが老夫婦の手を引いた。
誰かが「樽だ」と言った。誰かが「油の匂いがする」と続けた。
群衆が一斉に逃げかける気配を、リーゼは見た。ここで走れば押し潰される。
「止まって!」
喉が裂けるほどの声が出た。
「王女エルヴィアの名で命じます。近くの者の手首をつかんで。子を内側へ。足の悪い者を壁側へ。三歩ずつ下がりなさい。走った者から死にます」
嘘だった。
彼女に命じる権利などない。
それでも、広場は止まった。
いや、止まってしまった。
リーゼはその恐ろしさを知った。自分の口から出た嘘が、人の足を動かし、人の命を置き換えていく。王女ではないのに。死ぬための人形なのに。
けれど、マルタの子が泣きながら母の胸に隠れた。
それだけで、リーゼは次の嘘を吐けた。
「反乱軍の方々。あなたたちは民を裁きに来たのではないはずです。火を見なさい。台ではなく、東門を」
反乱兵の何人かが振り向いた。
その中で、後ろの処刑人だけは振り向かなかった。彼はリーゼを見ていた。静かな目で、王女の首ではなく、王女の顔の奥を探るように。
東門の松明が落ちた。
火は樽の一つに触れ、乾いた音を立てて跳ねた。炎が低く走る。悲鳴が上がったが、群衆はもう噴水の周りから離れていた。火は人の足ではなく、敷かれていた藁を舐めた。
完全には防げなかった。
熱風が頬を打つ。煙で子どもが咳き込む。転んだ男を、隣の女が引き起こす。反乱兵が水桶を探して走る。王党派の兵は出口の鎖を外そうとして、手間取っていた。
リーゼは鎖のまま処刑台の端へ進んだ。
「北の鎖を切って。そこから出すと細道で詰まります。西を開けて。広い。馬車道につながる」
「なぜ知っている」
反乱軍の長が低く言った。
リーゼは答えなかった。
答えれば、王女としての記憶ではなく、影武者として王都の逃走路まで叩き込まれた記憶だと知られる。
後ろで金属音がした。
処刑人が剣を抜いたのだと思った。
けれど刃は、リーゼの首ではなく、彼女の手首の鎖を打った。銀が鳴り、鎖が半分だけ切れる。
「命令を続けろ」
青年が言った。
リーゼは彼を振り返った。
「あなたは、わたくしを殺す役目では」
「そうだ」
「なら、なぜ」
「いま殺せば、もっと死ぬ」
それは褒め言葉ではなかった。
それでもリーゼは、息が少しだけ入るのを感じた。
彼女はもう一度、広場に向いた。煙の向こうで、マルタが子どもを抱いたままこちらを見ている。トルが老夫婦を石柱の陰へ押し込んでいる。反乱兵が民を追い立てるのではなく、火から離すために腕を広げている。
動いた。
嘘で、動かしてしまった。
王女エルヴィアなら、もっと美しく救えただろうか。
それとも、本物の王女は最初からここにいないから、こんな広場になったのか。
喉の奥が焼けた。煙のせいか、罪のせいか、リーゼにはわからない。
最後の出口が開いた時、広場にはまだ泣き声が残っていた。火傷を負った者もいた。倒れた屋台も、焼けた旗もあった。
それでも、噴水のそばにいた子どもたちは生きていた。
リーゼは膝から崩れそうになった。
その肩を、処刑人の手が支えた。支えるというより、逃がさないための掴み方だった。
「名は」
彼が問うた。
「……エルヴィア」
「違う」
短い言葉だった。
リーゼの心臓が、処刑台の木板より冷たくなった。
青年は彼女の耳飾りに目をやり、次に化粧で描かれた首筋の小さな傷を見た。指先で触れられたわけでもないのに、偽物の傷が剥がれていく気がした。
「王女は左手で裾を押さえる。お前は右手だった。群衆の名を、王女より多く覚えている。逃げ道を、貴族より正確に知っている」
彼は剣を下ろした。
だが、解放ではなかった。
「お前は本物じゃない」
煙の残る広場で、リーゼは初めて、自分の名を奪われた時よりも深く息を失った。
青年は低く続けた。
「だから聞く。偽物の姫。お前は、誰のために嘘を吐いた」




