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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第4話 影筆跡の貸出札

 カイルは、二枚の紙を灯火の下に置いた。


 一枚は、広場の混乱を生んだ暗殺命令の写し。


 もう一枚は、書記が震える手で灰箱から救い出した、影筆跡控えの束から抜かれた一葉だった。


 紙はどちらも古くはない。だが、どちらにも、同じような疲れがあった。急がされ、押しつけられ、手順だけを守って書かれた紙の疲れだ。


 カイルは指の腹で、署名の最後の払いを押さえた。


「読め」


 命令ではなく、試しだった。


 リーゼは、逃げられないと知っていた。


 逃げれば、疑いは形になる。黙れば、紙が代わりに喋る。喋れば、自分がどれほど王女を真似るために作られてきたかを、敵の前で晒すことになる。


 それでも彼女は、二枚を見比べた。


 エルヴィアの名。


 右下へ沈む癖。


 疲れている時、急いでいる時、怖がっている時にだけ出る、細い震え。


 それは、リーゼが何度も直された線だった。


 違う、と言いたかった。


 これは私ではない、と。


 けれど、彼女の喉は、その言葉を許さなかった。


「……書けます」


 室内の空気が、音を立てずに変わった。


 反乱兵の一人が、腰の短剣に手をかける。別の兵は、灰箱のそばにひざまずいていた下級書記を、さらに強く床へ押しつけた。


 下級書記は息を詰まらせた。まだ若い男だった。袖には灰が染み、指先には封蝋の赤がこびりついている。誰かを殺すような顔ではない。ただ、命令されたことを燃やし、命令されたことを否定するためにここへ連れてこられた顔だった。


「やはり、こいつが書かせたんだ」


 兵が吐き捨てた。


「王女の名で命令を出し、書記に焼かせ、今度は証人にする。よくできている」


「違います」


 リーゼは言った。


 短い否定は、誰にも届かなかった。


 兵が下級書記の肩を乱暴に引き起こす。男の膝が石床に当たり、鈍い音がした。カイルは止めない。止めないまま、リーゼを見ている。


 どう動くかを見ている。


 信じていない。


 助けてもいない。


 ただ、彼女が次に何を守るのかだけを、剣を抜かずに待っている。


「その人を黙らせれば、道が消えます」


 リーゼは一歩踏み出した。


 兵の手が、書記の襟を締める。下級書記の目が大きく開いた。


「道?」


「筆跡は、手ではなく、部屋を通っています」


 兵たちが振り向く。


 リーゼは、自分の舌がまた王宮の暗い手順を喋り始めたのを感じた。教えられたこと。口にしてはいけないこと。影が影であるために、外へ持ち出してはならないこと。


 けれど、いま黙れば、この書記はただの口封じになる。


 紙は燃やされ、人は消され、次の命令がまた王女の名で届く。


 リーゼは、息を吸った。


「影筆跡控えは、書き写しの練習紙ではありません。保管番号があり、貸出札があり、鍵番がつきます。誰が、いつ、どの筆跡を、どの名目で持ち出したか。正しく運用されていれば、箱の中に残ります」


 カイルの目が細くなった。


「なぜ、お前がそれを知っている」


「教えられました」


「誰に」


「王女の影になるために」


 言った瞬間、兵の一人が小さく息を呑んだ。


 リーゼは自分の足元が沈んだように感じた。もう戻れない。偽物であることは、カイルには見抜かれていた。だが、偽物がどれほど精密に作られたものかを知られるのは、別の罪だった。


 ただ王女の服を着た娘ではない。


 王女の字を書ける娘。


 王女の癖を覚えた娘。


 王女の迷いまで写せる娘。


 それは、命令書一枚で人を動かせる道具だ。


「エルヴィア王女の字を、どこまで書ける」


 カイルが問うた。


 リーゼは答えなかった。


 答えなければ、下級書記の襟がさらに締められるだけだと分かっていた。


 彼女は、二枚の紙を見た。


「お元気な時の字。眠れない時の字。怒っている時の字。人に急かされて、指先だけで急いだ時の字」


 カイルの表情が動かない。


 だから、リーゼは一番言いたくないことを言った。


「震えている時の字も、書けます」


 誰かが低く罵った。


 下級書記の顔から血の気が引いた。彼は初めて、リーゼをただの王女ではなく、命令の出所そのものを見る目で見た。


 その視線は、刃より痛かった。


 リーゼは受け止めた。


 痛みを理由に黙れば、また誰かが紙の代わりに死ぬ。


「ですが、この暗殺命令は、今の手で書かれていません」


 カイルが紙から目を上げる。


「どういう意味だ」


「写しです。生きた筆ではありません」


 リーゼは灯火を少し寄せた。兵が制止しようとしたが、カイルが手だけで止めた。


 それは信頼ではない。


 だが、止めなかった。


 リーゼは命令書の署名の端を指さした。


「ここです。エルヴィア王女の震えは、本来なら言葉の途中で強くなります。怖い時、王女は最後だけを震わせる方ではありません。最初に息を落として、それを持ち直そうとして、途中の線が一度だけ太くなる」


「お前の癖ではないのか」


「私が真似る時も、同じ間違いを直されました」


 言ってから、リーゼは自分で自分を追い詰めたことに気づいた。


 反乱兵の目が、さらに硬くなる。


 この娘は、本当に書ける。


 この娘なら、本当に王女の名で人を殺せる。


 彼らの沈黙がそう言っていた。


 リーゼは指を引かなかった。


「でも、この命令書には、その途中の太さがありません。最後の払いだけが重い。これは、震えた筆跡を見て、その形をなぞった者の線です。書いた人間は、王女がなぜそこで震えるかを知らない。保存された見本の、見えている部分だけを使っています」


 下級書記が、かすかに顔を上げた。


 カイルは命令書と控えを並べた。


 灯火の下で、二つの署名がほとんど同じ形をしていた。


 同じすぎた。


「見本紙を写した、と?」


「はい。少なくとも、影筆跡控えのどれかを見ています」


「その箱を開ければ分かるのか」


「貸出札が残っていれば」


 カイルは短く命じた。


「書記を放せ」


 兵が反射的に反論しかける。


「しかし」


「まだ殺すな。そいつは道だ」


 その言い方に、リーゼの胸が痛んだ。


 助けた、とは言わない。


 守れ、とも言わない。


 ただ、道として残す。


 それでも下級書記の襟から手は離れた。彼は床に倒れこみ、空気を吸った。リーゼは近づきかけて、やめた。自分が触れれば、この人はさらに疑われる。


 代わりに、彼女はカイルを見た。


「箱を開けるなら、壊さないでください」


「またか」


「壊せば、貸出札が混ざります」


「鍵はない」


「鍵番の封蝋を見てください。箱の左側、蝶番の下です。赤なら王女筆跡、黒なら代理筆跡、白なら弔礼筆跡。影筆跡控えは、灰色の蝋で封じます。開け方は、押すのではなく、引いてから戻す」


 カイルの視線が、冷たく彼女に刺さった。


「お前は、王宮の鍵より詳しいな」


「私は鍵として育てられました」


 リーゼはそう言ってから、唇を噛んだ。


 言葉が、思ったより正確だったからだ。


 人ではなく、鍵。


 扉を開けるための形。


 誰かが使いたい時だけ取り出され、いらなくなれば処分されるもの。


 カイルはしばらく黙っていたが、やがて兵に顎で示した。


「灰色の封蝋を探せ。箱は壊すな。彼女が言った通りに開けろ」


 彼女。


 王女でも、偽物でも、囚人でもなかった。


 ただ、彼女。


 リーゼはその小さな呼び方に、救われかけて、すぐに戒めた。これは優しさではない。使える証言を使う判断だ。


 けれど、兵たちの動きは変わった。


 彼らはもう、彼女を部屋の隅に押し込めるだけではなかった。警戒しながらも、彼女の言葉の通りに灯火を動かし、箱の側面を確認し、灰色の封蝋を見つけた。


「ありました」


 書記の一人が言った。


 その声には、恐れと驚きが混じっていた。


 カイルは剣の柄で封蝋を砕こうとして、リーゼを見る。


 リーゼは首を振った。


「蝋の割れ方も記録です。刃を入れるなら右下から。割った者の名も、今ここで読み上げてください」


「細かいな」


「細かくなければ、誰かが死にます」


 カイルは笑わなかった。


「カイル・ロズウェルが、反乱軍臨時保全の名で、灰色封蝋の影筆跡貸出箱を開封する。立会人、王宮下級書記一名。偽王女リーゼ一名」


 偽王女。


 部屋の奥で誰かが息を漏らした。


 リーゼはその言葉を飲み込んだ。偽と呼ばれるのは、当然だ。彼女はエルヴィアではない。王女の名を使って命令し、兵を止め、人を生かした。偽であることは、消えない。


 だが、偽の命令でしか救えない人が、また目の前にいる。


 封蝋が割れた。


 箱の中には、札束があった。薄い木札に紙片を貼り、紐でまとめたものだ。札の端には小さな穴があり、返却されたものは紐の向きが逆に通される。


 リーゼは一目で、胸の奥が冷えた。


 返っていない札がある。


 カイルも気づいた。


「どれだ」


「触る前に、上から順に読んでください」


 兵が札を取り上げようとして、カイルに止められた。代わりに、下級書記が震える手で札の束を机へ置く。指がまだ頼りない。だが、彼は逃げなかった。


 リーゼは、そのことを覚えた。


 人は、逃げられる時にも残ることがある。


 それは証拠より弱く、でも時に証拠より強い。


「王女筆跡、平常時。返却済み」


 下級書記が読む。


「王女筆跡、病後。返却済み」


「王女筆跡、夜間書簡。返却済み」


 札は淡々と読まれていった。


 部屋の外では、まだ遠くに怒号があった。王宮のどこかで、火が移されたのか、石壁越しに焦げた匂いがする。それでもこの小部屋だけは、木札と紙と呼吸の音で満ちていた。


 やがて、下級書記の声が止まった。


「読め」


 カイルが言う。


 下級書記は唇を動かしたが、声にならない。


 リーゼは札を覗き込まないようにした。自分が先に読めば、また疑われる。けれど、沈黙が長引くほど、兵の苛立ちが戻る。


 彼女は静かに言った。


「見たままを」


 下級書記は、目を閉じるようにして読んだ。


「王女筆跡、震え字。貸出。処刑前夜。未返却」


 部屋の音が消えた。


 処刑前夜。


 リーゼが広場へ送られる前の夜。


 王女の名で暗殺命令が走る前の夜。


 リーゼは両手を握った。爪が掌に食い込む。痛みは、考えるために必要だった。


「借受人は」


 カイルの声が低くなった。


「上席書記官、ハルベルト」


「所属」


 下級書記は札を裏返した。


「宰相府、命令伝達室」


 兵たちがざわめいた。


 宰相府。


 王女の私室でも、女官部屋でも、反乱軍でもない。


 命令を文書にして、部屋から部屋へ走らせる場所。誰の声が命令になり、誰の名が紙になるかを知る場所。


 リーゼは息を止めた。


 これでエルヴィアが白くなるわけではない。


 これで誰か一人が黒くなるわけでもない。


 ただ、道が一本、部屋の壁から外へ伸びた。


「その上席書記官はどこにいる」


 カイルが問う。


 下級書記は首を振った。


「分かりません。広場の混乱のあと、命令伝達室には戻っていません」


「逃げたか」


「それも、分かりません」


 兵が苛立って机を叩いた。


「分からないばかりか」


 下級書記が肩を震わせる。


 リーゼは思わず言った。


「この人を責めても、札は増えません」


 兵が彼女を睨む。


「お前が庇う理由は何だ」


「この人が死ぬと、宰相府の札を最後に読んだ者が私だけになります」


 兵は黙った。


 リーゼは続けた。


「そうなれば、私が都合よく札を作ったと言える。私が、命令書も札も証言も作ったと」


 その言葉は、自分の首に縄をかけるようだった。


 だが、真実だった。


 リーゼが賢く見えるほど、疑いは濃くなる。


 リーゼが役に立つほど、彼女は犯人に近づく。


 だからこそ、他の目が必要だった。他の口が必要だった。彼女を嫌っていてもいい。怖がっていてもいい。生きて、見たことを見たと言える人が必要だった。


 カイルは下級書記へ目を向けた。


「お前は、その札を誰から受け取った」


「私ではありません。私は、返却棚の整理を命じられただけです。貸出は上席書記官が」


「では、上席書記官に札を持ってきた者は」


 下級書記は、今度こそ顔を上げた。


 恐怖だけではない。何かを思い出した顔だった。


「黒い、弔い布の女官です」


 リーゼの背筋が冷えた。


「弔い布?」


 カイルが聞き返す。


「はい。顔は薄布で半分隠れていました。王宮では、亡くなった方の近侍が喪に服す時、黒い肩布を掛けます。けれど、その方が誰の近侍だったのかは……」


「エルヴィア王女の女官か」


 兵の一人が急く。


 下級書記は激しく首を振った。


「分かりません。王女殿下の部屋へ出入りする方を、私は全員は知りません。ただ、代理札を持っていました。正式な札です。私は、上席書記官がそれを受け取るのを見ただけで」


「代理札」


 カイルがリーゼを見る。


 リーゼは頷いた。


「本人が来られない時、代わりに筆跡控えを借りるための札です。ただし、代理札には、依頼元の鍵番号と、持参者の路印が必要です」


「路印」


「どの通路を通ってきたかの印です。王宮の文書は、人の足跡を紙に残します。正門、東廊、女官階、宰相府。通った門ごとに小さな印を受ける」


「その札に残るか」


「残ります。削られていなければ」


 カイルは手袋をした指で、未返却札の端を持ち上げた。


 下級書記が灯火を寄せる。


 札の裏には、確かに三つの小さな印があった。


 女官階。


 内礼廊。


 宰相府。


 そして、最後に押された宰相府の角印だけが、やけに濃い。


 リーゼは、その濃さを見て胸騒ぎを覚えた。


 押し直したのか。


 強く押したのか。


 それとも、前の印を潰すためか。


 分からない。


 分からないものを、決めてはいけない。


「札は証拠になります」


 リーゼは言った。


「命令書、筆跡控え、未返却札、路印。これを別々に保全してください。同じ箱に戻せば、また一度で燃やされます」


 カイルは、短く兵に命じた。


「三人に分けろ。命令書は俺が持つ。札は封じて別の兵に。控えは書記に読ませて写しを作れ」


「偽王女の言葉に従うのですか」


 兵が問うた。


 カイルはリーゼを見た。


 その目には、疑いがあった。怒りもあった。剣を抜けばいつでも彼女を止められるという距離もあった。


 だが、彼は言った。


「従うのは、証拠が燃えない手順だ」


 リーゼは深く息を吐きそうになり、こらえた。


 礼を言えば違う。


 許されたわけではない。


 ただ、彼女の知識が人を止めた。彼女の言葉で、証拠が分けられた。下級書記はまだ床にいるが、生きている。


 それで今は足りる。


 足りると思わなければ、立っていられない。


 下級書記が、震えながら口を開いた。


「私の名は、記録に載りますか」


 カイルが当然のように答えようとした。


 リーゼは、その前に言った。


「載せないでください」


 全員の目が彼女に向く。


 まただ。


 また、王女でもないのに命じようとしている。


 リーゼは自分の声が震えないよう、両手を重ねた。


「証人番号で残してください。名前は別紙に封じて、カイル様か、別の保全役が持つ。今ここで名を残せば、この人は宰相府にも、王女派にも、反乱軍の過激な者にも狙われます」


「お前が命じるのか」


 カイルが問う。


 リーゼは、一瞬だけ目を伏せた。


 エルヴィアの声なら、兵は動く。


 王女の名なら、記録は形になる。


 自分の名では、誰も守れない。


 ならば、また嘘を使うしかない。


「王女エルヴィアの名で命じます」


 室内が凍った。


 リーゼは続けた。


「影筆跡貸出札に関わる下級証人の実名は、内乱終結まで秘匿。証人番号を仮に灰四号とし、本人の身柄は記録保全のため拘束ではなく保護とする。命令者名は……」


 そこで喉が詰まった。


 命令者名。


 そこにエルヴィアの名を書けば、また王女を使う。


 そこにリーゼの名を書けば、命令としては弱い。


 どちらにしても、彼女はまた罪を増やす。


 下級書記が、床から彼女を見上げていた。まだ怯えている。だが、その目の中には、先ほどとは違うものがあった。


 この偽物は、自分を消すためではなく、自分を隠すために嘘をついている。


 その理解が、かすかにあった。


 リーゼは腹を決めた。


「命令者名は、リーゼ。偽王女リーゼ。王女名の不正使用を伴う保護命令として記録してください」


 兵がざわついた。


 カイルは動かなかった。


「自分で罪状を増やすのか」


「はい」


「なぜ」


「私が嘘をついたことと、この人を守る必要があることは、別です」


 カイルの目が、ほんのわずか揺れた。


 怒りではない。


 信頼でもない。


 彼の中で、リーゼを斬る理由と、まだ斬らない理由がまた一つ並び替えられたような、小さな変化だった。


「記録しろ」


 カイルが言った。


 書記が息を呑む。


「偽王女リーゼによる不正な王女名使用。ただし目的は証人秘匿および証拠保全。証人名は灰四号。実名は別封。俺の名で副署する」


「副署、ですか」


 兵が驚く。


「俺が見た」


 カイルはそれだけ言った。


 リーゼは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 褒められてはいない。


 許されてもいない。


 ただ、彼は見たと言った。


 偽の命令を。


 その命令が誰を守ろうとしたのかを。


 それは、今のリーゼに与えられる最大の承認だった。


 下級書記は、床に額をつけそうになった。リーゼは止めたかったが、止める言葉を持たなかった。礼を受ける資格などない。けれど、彼が生きたいと思ったことだけは、受け取ってよかった。


 その時、札束を整理していた兵が低い声を上げた。


「隊長」


 カイルが振り向く。


「まだあります」


「何が」


「未返却札です。別束に紛れていました」


 リーゼの心臓が、嫌な音を立てた。


 兵は細い札を持ち上げる。灰色の紙片が貼られている。先ほどの王女筆跡札よりも小さい。


 影筆跡控え。


 その中でも、教育番号で管理される札だった。


 リーゼは、近づく前に分かった。


 分かってしまった。


 あの札の長さ。穴の位置。灰色の紐の巻き方。


 自分たち影に割り振られた、名前ではなく番号で呼ばれる札。


 カイルが読む。


「影教育番号、七」


 リーゼの息が止まった。


 七。


 彼女の番号だ。


 名前を与えられる前から、何度も呼ばれた数字。


 リーゼになる前に、エルヴィアの影になる前に、彼女を箱の中で区別するためだけに使われた数字。


「貸出日」


 カイルの声も硬い。


 兵が札を裏返した。


 灯火が揺れる。


「広場処刑、当日夕刻」


 誰も声を出さなかった。


 リーゼは、ゆっくりと首を振った。


 その時刻、彼女はすでに処刑台へ送られていた。


 手は縛られ、首には偽王女の罪がかけられ、広場の石の冷たさを裸足で覚えていた。


 影筆跡控えの箱を開けることなど、できるはずがない。


 教育番号七の札を使うことなど、できるはずがない。


「返却は」


 カイルが問う。


「未返却です」


 兵の声がかすれた。


 リーゼは札を見つめた。


 暗殺命令は、彼女の手に似ていた。


 王女の震え字は、保存された見本から写されていた。


 そして今、彼女の番号が、彼女の死ぬはずだった後に使われている。


 リーゼは、自分が証拠なのだと思っていた。


 王女の偽物として作られ、罪を着せられ、燃やされるための証拠。


 けれど違う。


 誰かは、まだ彼女を使っている。


 彼女が処分された後も。


 彼女の番号で、彼女の筆跡で、彼女の存在を鍵にして、どこかの扉を開けている。


 カイルが低く言った。


「お前ではない、とは言い切れない」


「はい」


 リーゼは答えた。


 怖かった。


 それでも目を逸らさなかった。


「でも、私一人ではありません」


 その言葉は、弁明ではなかった。


 次の扉の場所を示す、最初の杭だった。


 カイルは札を封じるよう命じた。


 リーゼは、灰色の札から目を離せなかった。


 教育番号七。


 未返却。


 処刑当日夕刻。


 彼女はもう、偽物の王女というだけではなかった。


 誰かがまだ持っている鍵だった。

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