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能力至上主義社会で私の異能はおもらしでした  作者: 片桐アリス


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8/18

第8話 制御不能

猫ではなかった。


懐中電灯の光の先に、男が二人立っている。


どちらも暗い色の作業着を着て、大きな鞄を持っていた。


足元には、切断された南京錠。


片方の手には、大きな工具。


そして。


帽子の下から覗いた顔に、見覚えがあった。


今日、警備室で見た資料。


『広域窃盗事件 指名手配中』


写真と同じ顔だった。


資料には、赤い文字で注意書きまであった。


『発見時は接触せず、直ちに通報すること』


私はゆっくりと一歩下がった。


「……警備員か」


男が言った。


もう一人もこちらを見る。


「見られたな」


心臓が跳ねた。


まずい。


非常にまずい。


でも、やることは決まっている。


接触せず。


直ちに通報。


つまり逃げればいい。


私はさらに一歩下がった。


「し、失礼しました」


何に対する失礼なのか、自分でも分からなかった。


ただ、この場から自然に立ち去りたかった。


「待て」


ですよね。


足が止まる。


男が私の腰元を見た。


無線。


まずい。


私は咄嗟に手を伸ばした。


「動くな」


低い声だった。


手が止まる。


「それ、無線だろ」


「……はい」


さすがに飾りとは言えなかった。


男が舌打ちする。


「出せ」


「え」


「無線。あと携帯も」


もう一人が周囲を確認する。


「早くしろ。長居できねえ」


男たちは焦っている。


逃げるつもりなのだ。


だったら、渡してしまえばいい。


私は警備員であって、警察でも能力者専門の戦闘員でもない。


戦えなんて言われていない。


むしろ接触するなと言われている。


素直に従おう。


命の方が大事だ。


そう思った。


なのに。


男がこちらへ近づいてくる。


一歩。


また一歩。


怖い。


手が震える。


足にも力が入らない。


昨日ノートに書いた言葉が、こんな時に限って頭へ浮かんだ。


『仮説五 本物の危険が必要』


いや。


今は検証の時間ではない。


そんな場合ではない。


でも。


もし。


本当に、本物の恐怖が能力の発動条件なら。


今は間違いなく条件を満たしている。


目の前には指名手配犯。


逃げ道は狭い。


助けも近くにはいない。


本物だ。


これ以上ないほど本物だ。


私は下腹部へ意識を向けた。


出ろ。


今なら出るかもしれない。


あの水。


チンピラを吹き飛ばした、あれ。


能力者なら。


こういう時に能力を使うものだ。


「……っ」


息を止める。


身体中に力が入っている。


昨日の検証を思い出す。


緊張。


そして。


弛緩。


私はゆっくり息を吐いた。


肩の力を抜いた。


お腹の力も抜いた。


その瞬間。


「あ」


温かい。


下着の中へ、じわっと温かさが広がった。


太ももの内側を伝う。


足元へ落ちる。


ぽた。


ぽた。


「…………」


違う。


これじゃない。


普通の方だ。


私は目を閉じた。


終わった。


昨日あれだけ考えた。


紙おむつを三枚使った。


スクワットまでした。


怖い動画まで見た。


そして、ようやく本物の危険に遭遇した結果。


普通に漏らした。


何一つ成長していない。


むしろ状況は悪化している。


家なら紙おむつだった。


今日は普通の下着だ。


私の判断だった。


能力者として正しい判断だったはずなのに。


人としては完全に失敗だった。


「おい」


男の声で現実へ戻る。


「何してんだ。早く出せ」


「は、はい……」


気づかれていない。


暗いおかげだ。


よかった。


よくないけど。


私は震える手で無線を外そうとした。


その時。


遠くから警報音が聞こえた。


甲高い電子音が、静かな倉庫街へ響く。


男たちが同時に振り返った。


「なんだ?」


「向こうでバレたんじゃねえか?」


二人の空気が変わった。


焦りが明らかに強くなる。


「急ぐぞ」


一人が大きな鞄を持ち直した。


もう一人が私を見る。


「こいつどうする」


「無線取って行け」


男が再び近づいてくる。


私は無線を外し、差し出した。


「これでいいですよね」


「携帯も」


「はい」


ポケットへ手を入れる。


その時、遠くから人の声がした。


「そっち確認して!」


警備員だ。


誰かが近づいている。


助かった。


そう思った瞬間。


男が私の腕を掴んだ。


「来い」


「え?」


強く引っ張られる。


身体が前へよろめいた。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


「顔見られてんだ。少し離れたところまで来てもらう」


「嫌です!」


反射的に声が出た。


それは絶対に嫌だ。


この場を離れたくない。


もう少し待てば人が来る。


ここなら助けてもらえる。


なのに、男は私の腕を離さない。


「暴れんな!」


「離してください!」


必死に腕を引く。


でも力が違う。


もう一人の男も焦ったようにこちらへ近づいてくる。


「早くしろ!」


「分かってる!」


怖い。


さっきとは比べものにならない。


さっきは、物を渡せば逃がしてもらえると思っていた。


今は違う。


連れていかれる。


どこまでなのかも分からない。


嫌だ。


絶対に嫌だ。


心臓が痛い。


息がうまく吸えない。


手足が震える。


「離して……!」


もう一度腕を引かれた。


その瞬間。


下腹部の奥が緩んだ。


「あっ……」


また。


温かい感触。


下着がさらに濡れる。


私は一瞬、何が起きたのか分からなかった。


そして理解する。


二回目。


また漏らした。


「嘘……」


最悪だった。


一回ならまだしも。


同じ現場で二回。


能力は出ない。


おしっこだけは出る。


自分の身体なのに、あまりにも役に立たない。


温かいものが脚を伝っていく。


私は俯いた。


お願いだから誰にも気づかれないで。


そう願った。


でも。


おかしい。


止まらない。


「……え?」


さっきより長い。


量も多い。


もう膀胱には、それほど残っていないはずだった。


なのに。


足元へ水が流れ続けている。


じわじわと。


小さな水溜まりができる。


それが、広がる。


靴の周りを覆う。


さらに広がる。


「…………?」


私は足元を見た。


水溜まりは、もう自分一人が漏らした量ではなかった。


男の靴まで届いている。


「なんだ?」


男も気づいた。


水が止まらない。


ゆっくりだった流れが、少しずつ勢いを増していく。


私の足元から。


その周囲から。


まるでどこかに見えない蛇口でもあるみたいに、水が溢れてくる。


「え、ちょっと」


私は混乱した。


「待って」


何に言っているのか分からない。


自分の身体か。


水か。


能力か。


「止まって」


止まらない。


むしろ増えた。


ざあっ、と音がした。


「お、おい!」


男が私の腕を離した。


水が一気に広がる。


足首まで。


あっという間だった。


「な、なんだこれ!?」


もう一人が後ずさる。


私は逃げることすら忘れて、足元を見ていた。


水。


大量の水。


さっきまで乾いていた倉庫の通路が、みるみる水に覆われていく。


「これ……」


見覚えがある。


チンピラに囲まれた時。


猫に驚いた時。


あの水だ。


「出た……?」


喜ぶ暇はなかった。


水量が明らかにおかしい。


「待って待って待って!」


さらに水が溢れる。


止めようと力を入れてみる。


下腹部に力を入れる。


息を止める。


何も変わらない。


「止まってってば!」


能力は私の言うことを聞かなかった。


水位が上がる。


男たちは完全に慌てていた。


「水系能力者か!」


「聞いてねえぞ!」


私も聞いていない。


こんなに出るなんて知らない。


「私も知りません!」


思わず答えてしまった。


「はあ!?」


その瞬間。


水の流れが変わった。


それまで足元へ広がっていた水が、一気に前へ押し出された。


「え」


次の瞬間。


大量の水が二人の男へぶつかった。


「うわっ!」


「ぐっ!」


人が立っていられるような勢いではなかった。


男たちの身体がまとめて持っていかれる。


一人が足を滑らせる。


もう一人も巻き込まれる。


二人は水に押され、そのまま数メートル先まで流された。


「ちょっ!」


私は手を伸ばした。


何の意味もない。


「待ってええええ!」


私が止めたいのは男たちなのか、水なのか。


自分でも分からない。


水は止まらなかった。


通路いっぱいに広がり、積まれていた空のコンテナや軽い資材まで押し流していく。


がしゃん。


がたん。


大きな音が連続する。


男たちは起き上がろうとする。


でも、水流に足を取られて立てない。


「くそっ!」


一人が壁へ手をつく。


その横から流れてきたプラスチック製の箱がぶつかり、また転ぶ。


もう一人も水に押され、金網へ背中を押しつけられている。


水の重さ。


ただそれだけだった。


特別な形になったわけでもない。


固まったわけでもない。


私が操作したわけでもない。


大量の水が、一気に押し寄せただけ。


それだけなのに。


立っていられない。


逃げられない。


男たちは完全に動きを止めていた。


「……止まって!」


私は叫んだ。


まだ出る。


水は私の膝近くまで来ていた。


服も濡れている。


靴も靴下も、全部びしょびしょ。


さっき普通に漏らしたことなんて、もう見た目では絶対に分からない。


そんなことを考えている場合ではない。


「止まって! もういいから!」


私は必死に力を入れた。


でも何をどうすればいいのか分からない。


能力の止め方なんて知らない。


そもそも出し方すら知らなかった。


ただ。


いつの間にか。


男たちがこちらへ来なくなった。


腕を掴まれていない。


連れていかれる心配もない。


遠くから、人の声が近づいている。


危険がなくなった。


そう認識した瞬間だった。


水の勢いが弱くなった。


「……あれ?」


少しずつ。


本当に少しずつ。


流れが穏やかになっていく。


そして。


止まった。


静かになった。


警報音だけが聞こえている。


私は水の中に立ち尽くした。


目の前には、倒れた男が二人。


周囲は水浸し。


資材も散乱している。


自分も全身ずぶ濡れ。


「…………」


何だこれ。


私は能力を出そうとはした。


でも。


こんなことをしようとはしていない。


男たちを水で押し流そうとも思っていない。


水量を増やそうともしていない。


止めようとはした。


止まらなかった。


つまり。


「……暴走?」


言葉にしてみる。


嫌な響きだった。


「霧島さん!」


遠くから声がした。


私は振り返る。


警備員とギルドの職員が、懐中電灯を持って走ってくる。


「大丈夫ですか!」


「はい!」


私は反射的に答えた。


職員たちが近づいてくる。


そして。


全員が止まった。


「……なんだ、これ」


当然の反応だった。


少し前まで乾いていた通路が、完全に水浸しになっている。


ところどころ、まだ水が溜まっている。


資材は流されている。


その先には、指名手配犯が二人。


「こいつら……!」


警備員が駆け寄る。


男たちは水を大量に浴び、完全に戦意を失っていた。


一人は座り込んでいる。


もう一人も立ち上がろうとはしない。


すぐに拘束された。


ギルドの職員が私を見る。


頭から足まで。


びしょ濡れの私を。


「霧島さん、怪我は?」


「腕を掴まれましたけど、それだけです」


「ほかには?」


「大丈夫です」


本当は大丈夫ではない。


下着も濡れている。


二回も漏らした。


でも。


誰にも分からない。


周囲全部が濡れているから。


私が濡れていることも、何もおかしくない。


むしろ乾いている方がおかしい。


初めて能力に感謝した。


いや。


感謝していいのか、これは。


職員が周囲を見渡した。


「この水……」


嫌な予感。


「霧島さんの能力ですか?」


私は少し考えた。


「……たぶん」


「たぶん?」


「出そうとはしました」


嘘ではない。


「でも、途中から止まらなくなって……」


職員の顔が真剣になる。


「制御できなかった?」


「はい」


これも本当だ。


完全に。


別の職員が、水の跡を懐中電灯で照らしている。


「この範囲全部ですか?」


「……たぶん」


今日二回目の、たぶん。


「発動を見た人は?」


誰も答えない。


当然だ。


警備員たちが到着したのは、全部終わったあとだった。


指名手配犯たちは何か言いたそうだったが、拘束されてそれどころではない。


つまり。


能力が実際にどう発動したのかを見たのは、あの二人だけ。


ギルドの人間は、何も見ていない。


見ているのは結果だけ。


水浸しの現場。


倒れた指名手配犯。


そして、ずぶ濡れの私。


職員が難しい顔をする。


「前回も、三人を一人で確保してましたよね」


「あれは偶然です」


「今回も?」


「……偶然です」


少し間が空いた。


自分でも苦しいと思う。


職員が水浸しの通路を見た。


「偶然で、ここまでなりますかね……」


私に聞かれても困る。


なったのだから仕方ない。


「霧島さん」


「はい」


「能力について、一度詳しく確認した方がいいかもしれません」


心臓が別の意味で跳ねた。


「確認?」


「判定ではFランクでしたよね」


「はい」


「でも、この出力は……」


職員は言葉を濁した。


私は周囲を見る。


水。


水。


水。


どう考えても、ゴミ掃除に便利な程度ではない。


「詳しい話は、またギルドでしましょう」


「……はい」


嫌な予感しかしなかった。


その後。


私は更衣室へ戻った。


幸い、朝の私には先見の明があった。


替えの下着。


替えのズボン。


タオル。


ビニール袋。


全部ある。


紙おむつはない。


でも、今回に限っては必要なかった。


必要だった気もする。


よく分からない。


服を脱ぎ、濡れたものをビニール袋へ入れる。


普通のおもらしで濡れた部分も。


能力で濡れた部分も。


もう完全に混ざっていた。


見分ける方法はない。


「……二回」


私は小さく呟いた。


今日だけで二回。


しかも一回目は、完全に普通だった。


二回目も。


最初は普通に漏らしたのだと思った。


温かかった。


感覚も似ていた。


でも。


止まらなかった。


あり得ない量になった。


そして、最後には倉庫の通路を水浸しにした。


私は鞄からノートを取り出した。


『能力検証記録』


今日のページを開く。


第7話の朝に書いた項目。


『仮説五 本物の危険が必要』


その下には。


『検証不可能』


私はそれを二本線で消した。


少し考える。


そして書く。


『本物の危険で発動した』


さらに。


『たぶん』


と付け加えた。


まだ一回だ。


断定はできない。


その下。


『発動時、普通のおもらしとの区別がつかなかった』


『途中から水量が明らかに増えた』


『制御不能』


最後の三文字を見つめる。


制御不能。


格好悪い。


でも、正しい。


私は今日、能力を使った。


指名手配犯を二人倒した。


でも。


自分の意思で出せたわけではない。


自分の意思で止められたわけでもない。


どう動かすかも分からない。


ただ怖くなって。


漏らしたと思ったら。


勝手に水が出て。


勝手に全部押し流した。


私はノートへ、もう一行だけ書き足した。


『実戦では出る。でも危ない』


ペンを止める。


それから少し迷って。


さらに小さな字で書いた。


『あと、普通に一回漏らした』


これは必要な記録だ。


きっと。


能力至上主義社会で、私は少しずつ自分の能力を知り始めている。


今日分かったこと。


本物の危険では、能力が発動する可能性が高い。


発動すると、かなりの量の水が出る。


そして。


まったく制御できない。


「……どうやって練習するんだろう」


誰もいない更衣室で、私は呟いた。


危険にならないと出ない。


出たら止まらない。


訓練方法が分からない。


能力者として、致命的な問題だった。


それでも。


一つだけ確かなことがある。


今回も。


賞金は、出るらしい。


私はノートを閉じた。


少しだけ。


本当に少しだけ。


口元が緩んだ。


尊厳は失った。


でも、お金は増える。


……本当にこれでいいのだろうか。

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― 新着の感想 ―
出そうと思って出る能力じゃないのに、どうやって検証するつもりなんだろ お役所の手腕見せてもらいましょうか
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