第7話 実戦でしか出ない能力
翌朝。
目を覚ました私は、しばらく天井を見つめていた。
起き上がりたくない。
昨日のことを思い出したくない。
母の優しい顔も。
「検証ね」と、すべてを理解したように頷いた声も。
けれど、いつまでも寝ているわけにはいかなかった。
私はゆっくり上半身を起こす。
ずっしりとした感触が、下半身にあった。
「……とりあえず、おむつ脱ぐか」
能力者としての決意とは裏腹に、私の朝はひどく情けなかった。
パジャマを脱ぎ、濡れた紙おむつを外す。
昨日、母に見つかったあとも検証を続けた結果だ。
結論から言えば、何も分からなかった。
紙おむつはしっかり濡れている。
しかし、あの不思議な水が出たのかは分からない。
匂いも確認した。
正直、そこまでやりたくなかった。
でも、能力の検証には必要だった。
結果は、普通だった。
少なくとも、私に判断できる違いはなかった。
私は使用済みの紙おむつを小さく丸め、ビニール袋へ入れた。
これで二枚目。
人生で二枚目の大人用紙おむつ。
記録更新だ。
やったね。
「……やってない」
袋の口を固く結ぶ。
さて。
これをどうしよう。
自分の部屋のゴミ箱へ捨てるのは危険だ。
母が回収する可能性がある。
だからといって、家のゴミ箱へ直接入れに行くのも気まずい。
母はもう、私が紙おむつを使っていることを知っている。
隠す意味はない。
分かっている。
分かっているけれど、自分の使用済み紙おむつを母に処分されるのは嫌だった。
二十二歳の娘にも、守りたいものはある。
残り少ない尊厳とか。
私は袋を鞄の底へ押し込んだ。
出勤する途中で捨てよう。
何食わぬ顔でコンビニのゴミ箱へ――。
いや、家庭ゴミを捨てるのは駄目だ。
公園も駄目。
駅も駄目。
結局、家で捨てるしかない。
詰んだ。
「……あとで考えよう」
私は問題を先送りし、机の上のノートを開いた。
表紙には、大きくこう書いてある。
『能力検証記録』
その下に小さく、
『絶対に見られないこと』
と書き足してある。
母に見られたら、昨日以上の誤解を生む可能性が高い。
私はページをめくった。
これまで能力が発動したと思われる状況を、簡単にまとめてある。
一回目。
自宅。
発現直後。
突然の尿意。
結果、普通に漏らしただけ。
二回目。
倉庫。
チンピラ三人。
強い恐怖。
大量の水が出現。
成功。
三回目。
自宅。
ベッドの上で集中。
失敗。
四回目。
倉庫。
猫に驚く。
水が一瞬だけ出現した可能性あり。
ただし、普通に漏らした。
五回目。
昨日。
紙おむつを穿いて検証。
判定不能。
並べてみると、成功と呼べるのは一度だけだった。
猫の時も何かが出た気はする。
でも、すぐに消えてしまった。
確実とは言えない。
共通点を探す。
倉庫。
立った状態。
尿意。
驚き。
恐怖。
緊張。
その後の脱力。
何が必要なのか。
全部なのか。
それとも、この中の一つだけなのか。
私はノートへ書き込んだ。
『仮説一 立っている必要がある』
試してみる。
新しい紙おむつを取り出し、穿いた。
昨日より手際が良くなっている自分が嫌だった。
パジャマのズボンを穿き直し、部屋の中央へ立つ。
水を二杯飲んでから、三十分待った。
尿意はある。
目を閉じる。
肩の力を抜く。
「出ろ……」
何も起きない。
もう一度。
「出ろ……!」
何も起きない。
しばらく頑張った結果、普通に漏れた。
紙おむつが温かくなっただけだった。
『仮説一 失敗』
線を引く。
次。
『仮説二 運動後の弛緩』
緊張と弛緩が重要なら、身体を疲れさせてから一気に力を抜けばいいかもしれない。
スクワットを始める。
一回。
二回。
三回。
十回を超えたあたりで、太ももが重くなった。
二十回。
三十回。
普段まったく運動をしていない身体が悲鳴を上げる。
「よんじゅう……はち……」
五十回まで続けるつもりだった。
四十八回で限界が来た。
私はその場へ崩れ落ちた。
仰向けになる。
全身から力を抜く。
呼吸が苦しい。
太ももが震えている。
汗が額を流れる。
そして。
何も起きなかった。
『仮説二 失敗』
ただ筋肉痛の予定が追加されただけだった。
次。
『仮説三 驚けば出る』
スマートフォンのアラームを、一分後に設定する。
音量は最大。
スマートフォンを机へ伏せて置き、何も知らないふりをする。
一分後に鳴ると知っている時点で驚ける気はしない。
それでも、目を閉じて待った。
静かな部屋。
時計の音。
遠くから聞こえる掃除機の音。
そろそろだろうか。
まだだろうか。
そう考えた瞬間。
けたたましい警報音が鳴った。
「ひゃあっ!」
驚いた。
スマートフォンを床へ落とした。
胸を押さえる。
心臓が速い。
これはいけるかもしれない。
「……出ろ!」
何も出なかった。
『仮説三 失敗』
次。
『仮説四 本気の恐怖』
私はスマートフォンでホラー動画を検索した。
再生前の画面だけで、すでに怖い。
暗い廃病院。
長い髪の女。
画面の隅に映る白い顔。
私はホラーが苦手だ。
だからこそ効果があるかもしれない。
イヤホンをつける。
部屋のカーテンを閉める。
電気を消す。
再生する。
三分後。
私は動画を止めた。
無理だった。
怖すぎる。
しかも能力は出なかった。
ただ怖い思いをしただけだ。
夜、トイレへ行けなくなるという損害だけが残った。
『仮説四 失敗』
ノートへ線を引く。
ここまで、すべて失敗。
紙おむつは三枚目に突入していた。
能力を検証しているはずなのに、大人用紙おむつの消費速度だけが上がっている。
このままでは、母が買ってきた一袋を数日で使い切ってしまう。
そうなれば、母は新しい袋を買ってくるだろう。
そして私は、紙おむつを常用する娘として完全に認識される。
それだけは避けたい。
「何が違うんだろう……」
椅子へ座り、成功した時のことを思い返す。
チンピラに囲まれた時。
あれは本当に怖かった。
逃げられないと思った。
何をされるか分からなかった。
猫に驚いた時も、正体が分かるまでの一瞬だけは、本気で危険を感じた。
一方、自分の部屋でどれだけ怖い想像をしても、心のどこかでは分かっている。
ここは安全だ。
動画の幽霊は画面から出てこない。
アラームが鳴る時間も知っている。
スクワットをやめれば苦しさから解放される。
身体を騙せていない。
「本物じゃないと駄目なのかな……」
本気の恐怖。
実際の危険。
つまり。
「実戦……?」
口にしただけで嫌になった。
能力を出すためには、誰かに襲われなければならない。
そんな能力、どうやって訓練すればいいのだろう。
訓練施設へ行けば、職員が本気で襲ってくれるのだろうか。
嫌だ。
絶対に行きたくない。
そもそも、Fランクの私が訓練施設を使わせてもらえるかも分からない。
使用料もかかりそうだ。
三十万円を能力訓練へ使うのは、少し違う気がする。
いや、正しい使い道ではある。
でも、できれば新しいパソコンが欲しい。
私はノートへ書いた。
『仮説五 本物の危険が必要』
その横に、
『検証不可能』
と付け足した。
自分から危険な目に遭いに行く気はない。
能力を使いこなしたいとは思う。
でも、そのためにチンピラを探して路地裏を歩くほど、私は勇敢ではなかった。
スマートフォンを見る。
そろそろ仕事へ行く時間だ。
私は紙おむつを脱ぎ、身体を拭いた。
使用済みの袋が、また一つ増えた。
部屋の隅には、合計三袋。
ちょっとした不法投棄現場のようになっている。
「帰ってから考えよう……」
今日も問題を先送りした。
クローゼットを開き、仕事用の服へ着替える。
下着を手に取ったところで、ベッドの上に置かれた紙おむつが目に入った。
一瞬、迷う。
仕事中にまた漏らす可能性を考えれば、穿いていくべきなのかもしれない。
前回は作業着も下着も濡れた。
替えを持っていなければ、もっと大変なことになっていた。
紙おむつなら、少なくとも被害は抑えられる。
母が用意してくれたものだ。
使っても誰にも分からない。
服の下に隠れてしまえば、見えない。
「…………」
私は紙おむつを手に取った。
広げる。
白くて、厚い。
昨日より見慣れた形。
これを穿いて仕事へ行く。
大人用紙おむつを穿いたまま、電車に乗る。
駅を歩く。
職場の人と話す。
倉庫を巡回する。
誰にも見えない。
誰にも知られない。
それでも。
「無理」
私は紙おむつをベッドへ戻した。
家の中で能力検証に使うのとは、話が違う。
外で穿くなんて無理だ。
もし歩くたびに音が鳴ったら。
もし更衣室で見られたら。
もし誰かに気づかれたら。
考えただけで、仕事へ行けなくなる。
それに。
紙おむつは、能力が発動したかどうかを確認する邪魔になる。
昨日、身をもって学んだ。
実戦で能力が出たとしても、すべて吸収されてしまえば意味がない。
「能力の確認ができなくなるからね」
自分へ言い聞かせる。
「これは能力者として正しい判断だから」
普通の下着を穿く。
替えの下着を二枚、鞄へ入れる。
作業着の替えも入れる。
タオル。
ビニール袋。
消臭スプレー。
準備は完璧だった。
能力者の装備には見えなかった。
玄関へ向かう。
リビングを通ると、母が洗濯物を畳んでいた。
「仕事?」
「うん」
「今日も倉庫?」
「たぶん」
母は私の鞄を見た。
昨日より明らかに膨らんでいる。
「替え、持った?」
「持ったよ」
答えてから、しまったと思った。
母の言う替えが、何を指しているのか分からない。
下着か。
作業着か。
紙おむつか。
確認したくない。
母は安心したように微笑んだ。
「そう。無理しないでね」
「……行ってきます」
私は逃げるように家を出た。
今日の仕事は、いつもの倉庫警備だった。
緊急案件ではない。
戦闘もない。
指定された区域を見回り、異常があれば報告する。
それだけだ。
「よかった……」
担当表を確認しながら、小さく息を吐く。
前回は猫に驚いて失敗した。
でも、今日は大丈夫。
猫が出ても驚かない。
何か音がしても、すぐに危険だと決めつけない。
落ち着いて確認する。
能力を出す必要もない。
普通に働いて、普通に帰る。
それが一番だ。
夕方から始まった勤務は、拍子抜けするほど平和だった。
巡回路を歩く。
倉庫の扉を確認する。
鍵がかかっている。
窓も異常なし。
不審者もいない。
猫もいない。
空は少しずつ暗くなり、倉庫街の街灯が順番に点いた。
海から吹く風が、昼間の熱を冷ましていく。
静かだった。
「今日は本当に何もなさそう」
独り言が出る。
こういう仕事でいい。
いや、こういう仕事がいい。
前回のようにチンピラを倒せば賞金がもらえる。
それは嬉しい。
三十万円は大きい。
でも、毎回漏らしてまで欲しいかと聞かれたら、迷う。
かなり迷う。
十万円なら嫌だ。
三十万円なら、少し考える。
五十万円なら――。
「いや、何考えてるんだろう」
私は首を振った。
お金のために漏らす覚悟を決めるのは、何かが間違っている。
能力を使いこなせるようになれば、漏らさずに水だけ出せるようになるかもしれない。
そうなれば、普通の水系能力者として働ける。
その可能性はある。
たぶん。
きっと。
あってほしい。
倉庫の角を曲がる。
次の確認地点は、古い資材置き場だった。
現在はほとんど使われていないらしく、周囲に人の気配はない。
街灯も少ない。
少し暗い。
私は懐中電灯を点けた。
その時。
がたん。
金属がぶつかる音がした。
足が止まる。
音は、資材置き場の奥から聞こえた。
心臓が一度、大きく跳ねる。
「…………」
大丈夫。
落ち着け。
前回も、こういう音がした。
そして、いたのは猫だった。
今回もきっと同じだ。
猫。
たぶん猫。
倉庫街には猫が多い。
何もおかしくない。
「もう驚かないからね……」
私は小さく呟き、懐中電灯を構えた。
ゆっくりと奥へ進む。
積み上げられた木箱。
錆びた金属製の棚。
青いシートに覆われた資材。
光を向けるたび、長い影が動く。
何もいない。
やっぱり猫だろうか。
あるいは、風で何かが倒れただけ。
私は少し安心した。
その瞬間。
奥で、また音がした。
今度は金属音ではない。
足音だった。
一つ。
二つ。
人が歩く音。
私は息を止めた。
懐中電灯を向ける。
光の先で、誰かが動いた。
黒い服。
帽子を深くかぶった男。
その後ろにも、もう一人いる。
男たちは大きな鞄を持っていた。
手には、工具のようなものが握られている。
私と男たちの視線がぶつかった。
一人が顔をしかめる。
「……警備員か」
聞き覚えのある声ではない。
けれど、その顔には見覚えがあった。
今日、警備室で確認した資料。
広域窃盗事件。
複数の倉庫へ侵入し、現在も逃亡中。
指名手配犯。
男が、面倒そうに舌打ちした。
「見られたな」
私の足が震え始めた。
猫ではなかった。




