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能力至上主義社会で私の異能はおもらしでした  作者: 片桐アリス


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第6話 紙おむつ

玄関の扉を、できるだけ音を立てないように開けた。


帰る前に職場の更衣室で軽くシャワーを浴び、替えの下着へ履き替えてきた。


それでも、濡れた作業着と下着は鞄の中に残っている。


「ただいま……」


返事はない。


よし。


私は靴を脱ぐと、鞄を両手で抱えて廊下を進んだ。


鞄の中には、ビニール袋へ押し込んだ濡れた作業着と下着が入っている。


替えの下着を持ってきたのは正解だった。


おかげで今回は、ノーパンで帰宅せずに済んだ。


やったね。


だから、ぜんぜんやったね、じゃない。


漏らしたのだ。


普通に。。


それに、今日のは、猫に驚いただけだ。


能力ですらない。

ただのおもらしだ。


余計に駄目だった。


リビングの前を通り過ぎ、洗面所へ向かう。


あと少し。


このまま洗濯機に放り込めば、証拠は消える。


「ひよりちゃん?」


背後から声がした。


全身が跳ねた。


「は、はいっ!」


振り返ると、母がリビングから顔を出していた。


「おかえりなさい」


「ただいま!」


「今日は早かったのね」


「うん! 猫だったから!」


「猫?」


しまった。


何を言っているんだ、私は。


「ち、違う。何でもない」


母の視線が、私の抱えている鞄へ向いた。


私は反射的に鞄を背中へ隠した。


「何か洗うの?」


「え?」


「洗面所に行くんでしょう?」


「う、うん。ちょっと作業着が汚れちゃって」


「そう」


母はそれ以上聞かなかった。


帰ってきて真っ先に洗濯なんて、どう考えても不自然だ。


その証拠に、視線が一瞬だけ私の腰から下へ動いた。


「自分で洗うから!」


「わかったわ。晩ご飯までには戻ってきてね」


「うん!」


私は逃げるように洗面所へ駆け込んだ。


扉を閉める。


鞄から作業着を取り出し、洗濯機へ放り込む。


下着も入れる。


洗剤を入れ、蓋を閉め、電源を押した。


ごうん、ごうん、と洗濯機が回り始める。


間に合った。


証拠隠滅、完了。


いや、別に犯罪をしたわけではない。


ただ仕事中に漏らしただけだ。


それも十分隠したい事実だった。


自分の部屋へ戻り、扉を閉めた。


そして、固まった。


ベッドの上に、見慣れない袋が置かれている。


白を基調としたパッケージ。


柔らかそうな字体で書かれた商品名。


その下には、大きな文字でこう書かれていた。


『大人用紙おむつ』


さらに、


『長時間でも安心』


『たっぷり吸収』


という頼もしい宣伝文句が並んでいる。


頼もしくない。


まったく頼もしくない。


袋の上には、小さなメモが載っていた。


『必要だったら使ってね。無理しないで』


母の字だった。


「…………」


気づかれていた。


完全に気づかれていた。


私はベッドの前で頭を抱えた。


二十二歳。


能力者。


ギルド所属。


母親から、大人用紙おむつを用意される。


こんな能力者が、ほかにいるだろうか。


いや、いない。


いてたまるか。


「恥ずかしい……」


袋を持ち上げる。


思ったより大きい。


しかも、ずっしりしている。


何枚入っているんだろう。


一回きりの応急処置ではなく、今後も継続的に使用することを想定した量だった。


母の優しさが重い。


物理的にも、精神的にも。


捨てたい。


今すぐどこか遠くへ捨てに行きたい。


でも、袋を抱えたまま部屋を出たところを母に見られたら、もっと気まずい。


私は紙おむつをベッドへ戻した。


視線を逸らす。


机の引き出しには、先日受け取った賞金が入っている。


三十万円。


正確には、もう少し使ってしまったので三十万円ではない。


けれど、私が人生で初めて能力によって稼いだお金だ。


あの時、私の周りに浮かんだ水。


チンピラたちをまとめて吹き飛ばした、透明な水。


もう一度出せれば、また仕事に役立つかもしれない。


また賞金がもらえるかもしれない。


それだけではない。


自分に発現した能力を、少しくらい使いこなしてみたい。


スキル名は最悪だ。


発動条件も最悪だ。


使えば服も下着も濡れる。


それでも、私に発現した唯一の異能だった。


子供の頃、漫画やアニメに出てくる能力者に憧れたことがある。


手から炎を出したり、空を飛んだり、時間を止めたり。


まさか自分が能力者になるとは思っていなかった。


ましてや、その能力が【おもらし】だとは、もっと思っていなかった。


でも。


能力は能力だ。


あの水を自由に出せたら。


自分の意思で動かせたら。


ほんの少しだけ、格好いいかもしれない。


発動方法は、まったく格好よくないけれど。


私は再び、紙おむつの袋を見た。


失敗しても、床やベッドは濡れない。


服を洗う必要もない。


能力の検証には、これ以上ないほど適している。


適してしまっている。


「……検証のためだから」


誰に向けた言い訳なのか、自分でも分からなかった。


袋を開ける。


一枚取り出す。


白い。


厚い。


広げると、想像していたより存在感があった。


私はしばらく紙おむつと向かい合った。


紙おむつも、私と向かい合っているような気がした。


穿きたくない。


ものすごく穿きたくない。


でも、能力は使えるようになりたい。


プライドか。


能力か。


三十万円か。


私はカーテンを閉め、部屋の鍵を確認した。


それからパジャマのズボンと下着を脱ぎ、紙おむつを穿いた。


「…………」


ごわごわする。


腰回りが妙に分厚い。


一歩動くと、かさり、と乾いた音が鳴った。


もう一歩動く。


かさかさ。


私の尊厳が音を立てて削られていく。


パジャマのズボンを穿き直し、姿見の前に立った。


少し膨らんでいる。


知らない人が見れば分からないかもしれない。


でも、知っている人が見れば分かる。


そして、私は知っている。


つまり、鏡を見るたびに分かる。


「見なかったことにしよう」


検証を始める。


前回、ベッドに座って試した時は失敗した。


あの水は出ず、ただ普通に漏らしただけだった。


チンピラに襲われた時も、今日猫に驚いた時も、私は立っていた。


なら、立った状態の方が発動しやすいのかもしれない。


部屋の中央へ移動する。


足を肩幅に開く。


深呼吸する。


発動した時に共通していたのは、強い緊張と、その直後の弛緩。


まずは緊張しなければならない。


目を閉じる。


目の前にチンピラがいると想像する。


逃げ道はない。


襲われる。


怖い。


怖いはずだ。


「…………」


何も感じない。


自分の部屋だから当然だった。


推しのポスターが壁から微笑んでいる。


その隣には、クレーンゲームで取ったぬいぐるみが並んでいる。


安心感しかない。


猫を想像してみる。


路地裏から突然飛び出してくる猫。


可愛い。


駄目だ。


むしろ撫でたい。


もっと現実的な恐怖が必要だ。


私は考えた。


そして、気づいた。


今、この瞬間。


母が突然部屋に入ってきたらどうなるだろう。


二十二歳の娘が、自分で紙おむつを穿き、部屋の中央で仁王立ちしている。


何をしているのか聞かれる。


能力の検証だと説明する。


信じてもらえるだろうか。


無理だ。


絶対に無理だ。


「…………」


心臓が速くなった。


ドアの向こうから足音が聞こえた気がした。


気のせいだ。


でも、もし鍵をかけ忘れていたら。


確認したはずだ。


本当に確認しただろうか。


急に不安になる。


胸が苦しくなる。


手のひらに汗が滲む。


これだ。


この緊張。


あとは、力を抜く。


私はゆっくり息を吐いた。


肩の力を抜く。


お腹の力も抜く。


ふっと、全身が軽くなる。


その瞬間だった。


「あ……」


下腹部の奥で、何かがほどけた。


温かいものが流れ出す。


じわり、と紙おむつの中へ広がっていく。


「出た……」


紙おむつが温かくなる。


吸収されていく。


さらに重くなる。


私は目を閉じたまま、必死に意識を集中させた。


浮け。


動け。


あの時みたいに、水になれ。


何かが身体の内側を流れている。


ただの尿意とは少し違うような気がする。


けれど、紙おむつはすべてを吸収してしまう。


水が浮かんだ様子はない。


床も濡れていない。


「今の、どっち……?」


普通に漏らしただけなのか。


それとも一瞬だけ能力が発動し、浮かぶ前に吸収されたのか。


分からない。


紙おむつの性能が高すぎる。


本来なら感謝するべき性能が、今は検証の邪魔をしている。


私は腰を落とし、紙おむつの上から手を当てた。


重い。


かなり吸収している。


でも、これでは何も分からない。


匂いを確認するしかないだろうか。


嫌だ。


そこまでしたくない。


いや、検証には必要かもしれない。


でも、私はまだ人間でいたい。


葛藤していると、ドアが開いた。


「ひよりちゃん、お茶――」


母が立っていた。


お盆の上に、湯飲みが二つ載っている。


私は紙おむつに手を当てた姿勢のまま、母を見た。


母も私を見ていた。


目が合う。


静寂。


「…………」


「…………」


鍵をかけたはずだった。


かけていなかったらしい。


母の視線が、私の腰へ下がる。


紙おむつはパジャマ越しにも分かるほど、先ほどより膨らんでいた。


終わった。


私の人生は、今ここで終わった。


「あの」


「使ってくれたのね」


母は微笑んだ。


ものすごく優しい微笑みだった。


「違うの!」


反射的に叫んだ。


「これは違うの! 能力の検証なの!」


「うん」


「本当に! 私、別におねしょしてるわけじゃなくて!」


「大丈夫よ」


「大丈夫じゃない!」


母はお盆を机の上へ置いた。


その動きが、腫れ物を扱うように慎重だった。


「能力が発動すると漏れちゃうの! だから紙おむつを使って試してただけなの!」


「そうなのね」


「そうなの!」


分かってくれた。


そう思った。


けれど、母の表情は変わらなかった。


優しい。


優しすぎる。


これは真実を理解した人の顔ではない。


娘の苦しい言い訳を、否定せず受け止めようとしている母親の顔だ。


「本当なの!」


私は必死に続けた。


「仕事中にも何回か漏らしてるけど、それも能力のせいで!」


言ってから、しまったと思った。


母が目を見開く。


「何回か?」


「あ」


「今日だけじゃなかったの?」


「あ、いや、その……」


止まらない。


追い詰められた私は、隠していたことを次々に口にした。


「最初の倉庫でも漏らしたし、その前に家でも漏らしたし、今日も猫に驚いて漏らしたけど、全部能力の検証とか、能力のせいとかで……!」


「そんなに……」


母の顔が曇った。


違う。


その顔は違う。


私が求めていた反応ではない。


「一人で隠していたのね」


「違う! 隠してたけど、そういう意味じゃない!」


「言いづらかったのね」


「だから能力なの!」


母は少し考えたあと、洗面所の方向を見た。


「さっき洗っていた作業着も?」


「そう! 能力で――」


言葉が止まる。


今日の作業着は、能力ではない。


猫に驚いて、普通に漏らしただけだ。


母は私の顔を見つめた。


「見せてもらってもいい?」


「え」


「能力で濡れたなら、普通とは何か違うところがあるかもしれないでしょう?」


母は責めていなかった。


むしろ、私の話を確かめようとしてくれている。


でも。


今日の作業着は、本当に普通のおもらしだ。


見た目も普通。


匂いも普通。


何も違わない。


しかも、今は洗濯機の中で回っている。


「そ、それは……」


「うん」


「もう、洗濯しちゃった」


「そう」


母は静かに頷いた。


完全に言い逃れだと思われた。


「でも、本当なの! 最初の時は水が浮かんで、チンピラを吹き飛ばして!」


「うん」


「ギルドの人も見てるの!」


「そうなのね」


「信じてないでしょ!」


母は少し困ったように笑った。


「ひよりちゃん」


私の肩へ、そっと手を置く。


「無理に説明しなくてもいいのよ」


「説明させて!」


「恥ずかしいことじゃないから」


「恥ずかしいよ!」


「お母さんは、何があってもひよりちゃんの味方だから」


「違うのおおおおお!」


魂の叫びだった。


母は私を責めなかった。


馬鹿にもしなかった。


ただ、紙おむつを濡らした娘を、慈愛に満ちた目で見つめていた。


「替えはまだたくさんあるからね」


「いらない!」


「無理しないで使っていいのよ」


「検証には使うけど!」


「うん。検証ね」


「その言い方やめて!」


母はお茶を置き、静かに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


私はその場にしゃがみ込んだ。


紙おむつが、ずっしりと重い。


能力の検証をしていただけなのに。


どうして、こんなことになったのだろう。


母には、完全に誤解された。


仕事中に漏らしていることも知られた。


家で漏らしていることも知られた。


紙おむつを使っているところまで見られた。


しかも、真実を話したのに信じてもらえなかった。


いや。


私が母でも、たぶん信じない。


能力名が【おもらし】で、実際に何度も漏らしている娘が、


「能力のせいなの」


と言っている。


言い訳にしか聞こえない。


私は床に座ったまま、濡れた紙おむつへ目を向けた。


今のは、本当に普通のおしっこだったのだろうか。


一瞬だけ、あの時と同じ感覚があった。


身体の奥から、何かが流れ出すような感覚。


紙おむつに吸収されてしまっただけで、能力は発動していたのかもしれない。


分からない。


一度では判断できない。


なら、もう一度試すしかない。


恥ずかしい。


ものすごく恥ずかしい。


母にも誤解された。


それでも。


あの水を、もう一度出してみたい。


自分の能力を、自分の意思で使ってみたい。


スキル名は最悪だ。


検証方法も最悪だ。


能力者としての姿も、たぶん世界で一番情けない。


それでも、私に発現した能力なのだ。

いつか必ず、使いこなしてやる。


私はそう決意し、ゆっくりと立ち上がった。


その瞬間、ずっしりとした重みが下半身にかかった。


「……とりあえず、おむつ脱ぐか」


能力者としての決意とは裏腹に、私の後ろ姿はひどく情けなかった。

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