第5話 猫だった
三十万円はうれしい。
でも、その三十万円のためにもう一度あんな目に遭うかと聞かれたら、答えは決まっていた。
絶対に嫌だ。
そう決意した翌日、ギルドから電話がかかってきた。
「もしもし」
『霧島さん、異能者ギルドです。今、お時間よろしいですか?』
昨日と同じ受付の女性だった。
報奨金について追加の説明でもあるのだろうか。
「大丈夫です」
『ありがとうございます。さっそくですが、次のお仕事をご紹介できます』
「もうですか?」
思わず聞き返した。
倉庫の仕事が終わってから、まだ二日も経っていない。
その間に私は、犯罪者を三人倒し、下着を履かずに帰宅し、スキルの検証に失敗してベッドを濡らした。
私の中では、もう一週間くらい経った気分だった。
『はい。現在、かなり人手が不足していまして』
「私、前の仕事でスキルを暴発させたんですけど」
『報告は受けています』
「商品棚も倒しました」
『そちらについては、侵入者による被害と合わせて、倉庫側の保険で処理される予定です。霧島さん個人へ請求されることはありません』
そういう話ではない。
普通なら、初仕事で現場を水浸しにした人間へ、すぐ次の仕事を紹介しようとは思わないはずだ。
「それでも、仕事を頼むんですか?」
『警察への通報を行い、侵入者を確保し、事情聴取にも最後まで対応されていますから』
「確保したのは、ほとんど偶然です」
『結果として三名とも確保されています』
結果だけを見れば、確かにそうなる。
私のズボンが濡れていたことは、評価項目に入っていないらしい。
『今回の実績で、霧島さんのギルド内評価も上がっています』
「昨日も言っていましたね」
『はい。依頼主へ紹介できる人材として、以前より信用度が上がりました』
少しうれしい。
管理局では、スキル名を見ただけでFランクにされ、調査する価値もないと言われた。
コンビニでは、能力者になったという理由で解雇された。
そんな私にも、仕事をした結果として評価してくれる場所がある。
『それに、現在は登録者の数に対して依頼が多く、稼働できる方には可能な限り仕事をお願いしたい状況です』
前言撤回。
単純に人手が足りないだけだった。
「つまり、誰でもいいんですか?」
『誰でもいいわけではありません』
受付の女性は、少しだけ強い口調で否定した。
『連絡が取れて、指定された時間に現場へ行き、問題が起きても黙って帰らない方が必要なんです』
条件が低い。
かなり低い。
でも、その条件すら満たさない登録者が多いのだろう。
ギルドへ登録しに行った時に見かけた人たちを思い出す。
受付前の椅子で寝ていた人。
昼間から酒の匂いをさせていた人。
職員に怒鳴っていた人。
能力を持っていることと、きちんと働けることは別らしい。
「それで、どんな仕事ですか?」
『物流倉庫の夜間警備です』
また倉庫。
「侵入者を捕まえたりしますか?」
『いいえ。通常の巡回と出入りの確認です。異常があれば責任者と警察へ連絡してください。直接対応する必要はありません』
「本当に普通の警備ですか?」
『本当に普通の警備です』
念を押す私に、受付の女性は少しだけ笑っているようだった。
『前回とは別の倉庫ですし、今夜はもう一名、経験者の警備員が入ります。霧島さんには建物の裏手を中心に巡回していただく予定です』
一人ではない。
犯罪者との戦闘もない。
見回って、異常がないか確認するだけ。
それなら私にもできる。
そもそも三十万円の報奨金は、一度きりのお金だ。
無職のまま使い続ければ、いつかはなくなる。
「分かりました。行きます」
『ありがとうございます。詳細をメールで送ります』
電話を切ると、すぐにメールが届いた。
勤務開始は午後十時。
家から電車で三十分ほどの場所にある、大型の物流倉庫だった。
持ち物の欄には、身分証とスマホだけが書かれている。
私は少し考えてから、鞄の中へ新しい下着を入れた。
前回の失敗から学んだのだ。
使わないとは思う。
使わないで済んでほしい。
それでも、持っていないよりはいい。
ビニール袋も一枚入れた。
ここまで用意しておけば大丈夫だろう。
多分。
その日の夜、指定された倉庫へ向かった。
受付で警備服を受け取り、更衣室で着替える。
紺色の上着と、同じ色のズボン。
前回とは違う会社の制服だったが、見た目はよく似ていた。
濡れても目立ちにくそうな色だ。
そんなことを最初に確認してしまう自分が嫌だった。
一緒に勤務する警備員は、五十代くらいの男性だった。
能力者ではないらしく、胸元には民間警備会社の名札がついている。
「裏手を一時間ごとに見てもらえればいいから。異常があっても近づかず、すぐ無線で呼んでね」
「分かりました」
「この辺り、たまに猫が入り込むんだ。警報が鳴っても、まずは慌てないように」
「猫ですか」
「餌をやる人がいるみたいでね。倉庫の隙間に何匹か住み着いてる」
犯罪者ではなく、猫。
それなら安心だ。
勤務が始まってから二時間ほどは、何も起こらなかった。
決められた通路を歩き、扉や窓に異常がないか確認する。
巡回が終われば、裏手の小さな詰め所で待機する。
暇だった。
スマホを触ることは禁止されていないけれど、勤務中にゲームをするのは少し気が引ける。
私は通知だけ確認し、画面を伏せた。
普通の仕事だった。
犯罪者もいない。
腕を掴まれることもない。
漏らす必要もない。
最初からこういう仕事を紹介してほしかった。
午前一時を過ぎた頃、三度目の巡回へ出た。
倉庫の裏手は暗かった。
壁に取りつけられた照明はあるものの、積まれた資材の陰までは光が届いていない。
懐中電灯で足元を照らしながら進む。
異常なし。
扉も閉まっている。
窓も割れていない。
そのまま通路の奥へ進んだ時、資材の陰から音がした。
がさり。
足を止める。
風だろうか。
しばらく待ったが、何も出てこない。
懐中電灯を向ける。
積まれた木材と、黒い影。
何かが動いた気がした。
「……猫?」
小さく呼びかけても、返事はない。
当たり前だ。
猫が返事をするわけがない。
それでも、先ほど聞いた話を思い出す。
この辺りには、猫が住み着いている。
だから多分、猫だ。
そう思った直後、もう一度音がした。
さっきより近い。
がさり。
黒い影が、資材の隙間を横切った。
人。
一瞬、そう見えた。
背中に冷たいものが走る。
前回の男たちが頭に浮かんだ。
倉庫へ忍び込み、箱の中身を袋へ詰めていた三人。
もし、また侵入者だったら。
無線で連絡しなければならない。
近づいてはいけない。
分かっている。
それなのに、身体が動かなかった。
黒い影が、こちらへ近づいてくる。
今度こそ。
そう思った。
前回は、何もできなかった。
怖くなって、漏らして、勝手にスキルが発動した。
昨日、家で試した時は失敗した。
でも、今はあの時に近い。
本当に危険な状況なら、もう一度発動するかもしれない。
私は懐中電灯を握ったまま、下腹部へ意識を向けた。
水。
動け。
お願いだから、今度こそ。
力を抜く。
じわりと、下着に温かさが広がった。
来た。
そう思った。
そのまま止めずに、スキルが発動するのを待つ。
温かさは下着を越え、警備服のズボンへ広がっていった。
でも、何も起きない。
水は動かない。
空中へ浮かぶこともない。
足元に集まることもない。
ただ、私のズボンが濡れていく。
「……嘘」
その時、資材の陰から黒いものが飛び出した。
私は声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
小さな影は私の前を横切り、少し離れた場所で止まった。
猫だった。
黒猫がこちらを振り返り、暗闇の中で目を光らせている。
私と猫は、しばらく見つめ合った。
猫は何も悪くない。
分かっている。
でも今は、少しだけ腹が立った。
「……何で出てくるの」
猫は答えなかった。
一度だけ尻尾を揺らし、倉庫の隙間へ消えていく。
窃盗犯はいなかった。
危険もなかった。
スキルも発動しなかった。
私は物陰にいる何かを犯罪者だと思い、自分の意思で漏らした。
しかも、猫に見られた。
誰にも見られていないよりはましなのだろうか。
猫なら誰かに話すこともない。
そういう問題ではなかった。
ズボンの前を確認する。
暗い場所なら目立たない。
警備服も濃い色なので、少し離れれば分からないと思う。
でも、近くで見られたら終わる。
そして臭いでバレる。
私は鞄の中に替えの下着があることを思い出した。
持ってきて良かった。
本当に良かった。
ただし、鞄があるのは更衣室だ。
今の持ち場から離れるには、警備員へ連絡しなければならない。
理由を聞かれたら困る。
体調不良とでも言えば、休憩を取らせてもらえるかもしれない。
でも、そのためには詰め所まで戻り、男性警備員と顔を合わせる必要がある。
濡れたズボンで。
無理だった。
私はそのまま巡回を続けた。
歩くたび、濡れた布が肌に張りつく。
冷たい。
気持ち悪い。
さっきまでは何も起きない仕事を退屈だと思っていた。
今は、何も起きないことだけを願っていた。
誰も来ないでほしい。
話しかけないでほしい。
腰から下を見ないでほしい。
巡回を終えて詰め所へ戻ると、男性警備員が書類へ何かを書き込んでいた。
「何かあった?」
「猫がいました」
「ああ、やっぱりいたか。黒いやつ?」
「はい」
「人に慣れてるから、突然出てくるんだよ。驚かなかった?」
「少し」
かなり。
人生が変わるくらい驚いた。
男性警備員は私の顔を見ただけで、腰から下へ視線を向けることはなかった。
助かった。
私は椅子へ座らず、壁際に立った。
「座らないの?」
「少し眠くなりそうなので」
「真面目だねえ」
違う。
座りたくないだけだ。
その後も、定時まで二度巡回した。
幸い、誰ともすれ違わなかった。
猫ももう出てこなかった。
何も起きなかった。
何も起きないことが、こんなにありがたいとは思わなかった。
午前六時、勤務が終わった。
「お疲れさま。初めてにしては、ちゃんと回れてたよ」
男性警備員が記録表へ印をつける。
「ありがとうございます」
「また人が足りない時に頼むかもしれないから、その時はよろしく」
次があるらしい。
うれしいような、うれしくないような。
私は急いで更衣室へ向かった。
鍵を掛け、濡れた警備服を脱ぐ。
ズボンの内側は、完全に濡れていた。
家での検証に続き、今回もただのおもらしだった。
鞄から替えの下着を取り出す。
前回の失敗から学んで持ってきたものだ。
まさか、次の仕事ですぐ使うとは思わなかった。
濡れた下着と警備服をビニール袋へ入れ、新しい下着を履く。
その上から、出勤時に着てきた私服のズボンを履いた。
今回はノーパンではない。
やった。
いや、やったじゃない。
私は今日も、仕事中に漏らしている。
能力者としては、何一つ成長していない。
ただ、おもらししたあとの対応だけが、少しずつ上手くなっていた。




