第3話 替えの下着がない
倉庫の床には、気絶した男が三人。
その中央で、ズボンを濡らした私だけが座っている。
しばらくすると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
私はそこでようやく、自分が警察へ連絡したことを思い出した。
男たちに囲まれる直前、スマホの緊急通報だけは押せていたらしい。通話は繋がったままで、床へ落ちたスマホから警察官らしき声が聞こえていた。
『もしもし。聞こえますか? 現場は安全ですか?』
安全。
多分。
少なくとも、床に倒れている三人は動いていない。
「……大丈夫です」
声を出すと、自分でも驚くくらい震えていた。
『まもなく警察官が到着します。無理に動かず、その場で待っていてください』
動きたくても、あまり動きたくなかった。
ズボンが濡れている。
立ち上がれば、脚に張りつく。
それに、今の状態を警察官に見られるのも嫌だった。
ただ、このまま床に座って待っている方が、もっと状況は悪く見える気がする。
私は意を決して立ち上がった。
濡れた布が肌に張りついた。
気持ち悪い。
しかも寒い。
倉庫の夜勤に暖房なんて気の利いたものはなく、冬の冷気が服の中まで遠慮なく入ってくる。
初めての能力発動で男三人を倒したのに、達成感は一切なかった。
今すぐ着替えたい。
それだけだった。
やがて倉庫の外が赤い光で照らされ、複数の足音が近づいてきた。
「警察です! 動かないでください!」
懐中電灯の強い光を向けられ、思わず目を細める。
警察官が数人、倉庫の中へ入ってきた。
倒れている男たちを確認し、私の方を見る。
その視線が、一瞬だけ腰から下へ落ちた気がした。
気のせいであってほしい。
「通報された霧島ひよりさんですか?」
「はい」
「怪我はありませんか?」
「腕を少し掴まれましたけど、大丈夫です」
「何があったか説明できますか?」
説明。
どこから説明すればいいのだろう。
倉庫荒らしを見つけた。
囲まれた。
怖くなった。
漏らした。
水が勝手に動いて三人を倒した。
最後の二つだけ、急に話の種類が変わる。
「……能力が発動しました」
とりあえず、そこだけ答えた。
警察官は倒れている男たちと、床に広がった水を見回した。
「水系能力ですか?」
「多分」
「多分?」
「今日初めて発動したので、私もよく分からなくて」
警察官は少し困った顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
助かった。
能力名まで聞かれたら、どう答えればいいか分からない。
別の警察官が男たちの身体を確認している。
「全員、意識はありませんが呼吸はあります」
死んではいない。
その言葉を聞いて、身体から少しだけ力が抜けた。
私がやったのかもしれない。
何も分からないまま人を殺していたらどうしようと、さっきから考えないようにしていた。
「この三人に見覚えは?」
「ありません」
「倉庫の関係者では?」
「違うと思います。箱の中身を袋へ詰めていました」
「分かりました。詳しい話は、場所を移して伺います」
場所を移す。
この格好で。
「あの」
「はい」
「その前に、着替えてもいいですか?」
警察官が私を見た。
また視線が下へ落ちた。
今度は気のせいではなかった。
「もちろんです」
余計なことは聞かれなかった。
大人だった。
ありがたい。
倉庫の責任者へ連絡すると、二十分ほどで担当の男性が到着した。
眠っていたところを起こされたのか、髪が片側だけ潰れている。
倒れた男たちや荒らされた荷物を見て青ざめていたが、私を見ると何度も頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。まさか初日にこんなことになるとは」
私も、まさか初日に漏らすとは思っていなかった。
「警備員用の更衣室、使ってください。予備の制服もありますから」
「私服を持ってきているので大丈夫です」
制服だったことだけは、本当に良かった。
これが私服だったら、濡れたまま家まで帰るしかなかった。
更衣室へ入り、鍵を掛ける。
小さなロッカーを開けると、出勤時に着ていた服と鞄が入っていた。
黒いセーターと、濃い色のズボン。
今日はスカートではない。
良かった。
本当に良かった。
安堵しながら濡れた制服を脱ぎ、そこで動きが止まった。
替えの下着がない。
当たり前だった。
普通、初日の夜勤に替えの下着までは持ってこない。
雨に濡れる可能性を考えて靴下くらいは入れておけばよかったと思うことはあっても、おもらしする前提で下着を用意する人はいない。
少なくとも、昨日までの私はそうだった。
濡れた下着を見つめる。
これをまた履く。
無理。
気持ち悪いし、冷たい。
かといって、下着だけ洗って乾くまで待つわけにもいかない。外では警察官が事情を聞くために待っている。
選択肢は一つしかなかった。
私はしばらく迷ったあと、濡れた下着をビニール袋へ入れた。
そして、そのままズボンを履いた。
ノーパン。
さっき能力対策として一瞬だけ考え、全力で否定したものを、数十分後には実行している。
人生は分からない。
いや、分かりたくなかった。
ズボンのファスナーを上げる。
落ち着かない。
何というか、守られていない感じがする。
今日スカートを選ばなかった自分を褒めたい。
スカートだったら、私はどうしていたのだろう。
考えたくない。
濡れた制服と下着を別々の袋へ入れ、何事もなかったような顔で更衣室を出た。
何事もなかったような顔ができていたかは分からない。
「大丈夫ですか?」
責任者に聞かれた。
「はい」
大丈夫ではない。
でも説明はできない。
その後、倉庫の事務室で事情聴取が始まった。
警察官に勧められ、パイプ椅子へ座る。
座りたくない。
でも立ったまま話をするのも不自然だ。
仕方なく腰を下ろすと、ズボン越しに椅子の冷たさが直接伝わってきた。
落ち着かない。
ものすごく落ち着かない。
「発見した時の状況から、もう一度お願いします」
「見回り中に、金属のぶつかる音が聞こえました」
私は昨夜の出来事を順番に説明した。
男たちを見つけたこと。
通報しようとしたこと。
箱を落として気づかれたこと。
囲まれたこと。
そこまでは普通だった。
問題は、その後だ。
「能力が発動したのは、どの時点ですか?」
「男の人に腕を掴まれたあとです」
「ご自身の意思で?」
「違います」
「では、無意識に?」
「多分」
また多分だ。
今日はこの言葉を何回使っただろう。
「能力の具体的な効果は?」
「水が動きました」
「どのように?」
「勝手に」
警察官の手が止まった。
「勝手に?」
「私も分からないんです。気づいたら、男の人たちが倒れていて」
嘘は言っていない。
おもらしした部分を省いているだけだ。
重要な情報である可能性は高い。
でも言いたくない。
警察官は何度か確認したものの、私が本当に何も分かっていないと判断したのか、それ以上細かく聞くのを諦めた。
「詳しい能力調査は、ギルドか管理局を通して行われると思います」
「管理局には、Fランクで調査対象外と言われました」
「……そうですか」
警察官が少しだけ床を見た。
そこには、私の能力が出したらしい大量の水が残っている。
三人の能力者を倒したFランク。
改めて考えると、おかしい。
でも一番おかしいと思っているのは私だった。
事情聴取が終わる頃には、空が少し明るくなり始めていた。
男たちは救急車で運ばれ、その後、警察車両へ引き渡されるらしい。
私は倉庫責任者から、今日はもう帰っていいと言われた。
「勤務については、改めてギルドを通して連絡します」
その言い方からして、次の勤務があるかは分からない。
初日から倉庫内で能力を暴発させ、商品棚まで倒した警備員を、また雇いたいと思うだろうか。
思わない。
多分。
「制服は、こちらで洗濯しておきます」
責任者が袋を受け取ろうとする。
私は反射的に後ろへ引いた。
「自分で洗います」
「でも、貸与品なので」
「大丈夫です。責任を持って洗います」
「そうですか?」
「はい」
ビニール袋には、濡れた下着も一緒に入っている。
それを抜いたところで、ズボンだけ不自然に濡れた制服なんて渡したくない。
私の頑なさが伝わったのか、責任者はそれ以上、無理に受け取ろうとはしなかった。
外へ出ると、朝の空気が冷たかった。
ズボンの中も寒い。
駅まで歩き、始発に近い電車へ乗る。
座席は空いていたけれど、座らなかった。
座りたくなかった。
早朝の車内には、これから仕事へ向かう人や、夜勤帰りらしい人が何人かいる。
誰も私を気にしていない。
それでも、下着を履いていないことが全員に知られているような気がした。
知られるわけがない。
分かっている。
でも落ち着かない。
私は吊り革につかまり、早く最寄り駅へ着くことだけを考えた。
家に着く前に、母へメッセージを送った。
『仕事で色々あって遅くなった。夕飯はいらない。帰ったら寝る』
夕飯の時間はとっくに過ぎている。
朝食の間違いだった。
訂正する気力はなかった。
玄関の鍵を静かに開ける。
家の中はまだ暗い。
母は寝ているらしい。
助かった。
音を立てないように靴を脱ぎ、そのまま風呂場へ向かう。
洗濯機へ制服と下着を入れ、洗剤を入れた。
早朝に洗濯機を回せば、音で母が起きるかもしれない。
迷った。
でも、このまま置いておくのも嫌だった。
私は洗濯機の一番静かそうなコースを選び、スタートボタンを押した。
静音。
本当に静かなのかは分からない。
少なくとも、今の私にはかなり大きく聞こえた。
シャワーを浴びる。
温かいお湯が身体に当たると、ようやく少しだけ落ち着いた。
男たちに囲まれたこと。
漏らしたこと。
水が動いたこと。
三人が倒れたこと。
警察に事情を聞かれたこと。
下着を履かずに電車へ乗ったこと。
一晩に起きるには、少し多い。
シャワーを止め、着替えて自分の部屋へ戻る。
スマホには、母から返信が届いていた。
『分かった。お疲れさま。起きたら話聞くね』
話せることが、ほとんどない。
少なくとも、能力の発動条件については絶対に話せない。
ベッドへ倒れ込む。
眠い。
疲れた。
これからどうなるのか考えなければならないけれど、今は何も考えたくなかった。
目を閉じる。
そういえば、限定ガチャをまだ引いていない。
そんなことを思い出したけれど、スマホへ手を伸ばす前に意識が落ちた。
能力者として初めて働いた夜。
私は犯罪者を三人倒した。
そして、替えの下着がないまま帰宅した。
どちらが強く記憶に残るかは、考えるまでもなかった。




