第16話 ウォーターバレット
「――ウォーターバレット!」
バンッ!
杖の先から飛び出した水塊が、訓練用の標的を真正面から叩いた。
標的が大きく揺れる。
水は途中で散らなかった。
細い水流にもならなかった。
拳ほどの大きさを保ったまま飛び、きちんと一つの塊として着弾した。
「…………」
私は杖を構えたまま、横を見る。
ユキさんは標的と手元の端末を交互に確認していた。
やがて、小さく頷く。
「及第点です」
「よっしゃ!」
思わず拳を握った。
やった。
ついにやった。
あれから何度練習したことか。
杖の先に出せるようになったと思ったら、そのまま下に落ちる。
前へ飛んだと思ったら、途中でバシャッと散る。
丸くまとめたつもりなのに、妙に細長い水の塊になる。
そして何より。
「――ウォーターバレット!」
と格好よく叫んだ直後に、ただの勢いのいい水が出た時の悲しさ。
(それウォーターバレットじゃなくてウォーターだよ!)
何度そう思ったことか。
だが、今日は違う。
今のはちゃんと弾だった。
水だけど。
「現在の距離であれば、速度、形状ともに攻撃として成立しています」
「攻撃として成立……!」
なんていい言葉だろう。
私の異能にそんな評価がつく日が来るとは思わなかった。
三ヶ月前まで、私の能力といえば。
漏らす。
水が出る。
以上。
だったのだ。
それが今では、杖の先から狙った方向へ水を撃てる。
成長した。
間違いなく成長した。
「ただし、命中精度にはまだ改善の余地があります」
「今くらい褒めるだけでもよくないですか?」
「必要な評価ですので」
「はい……」
ユキさんは今日もユキさんだった。
私は改めて標的を見る。
表面には水がべったりと張りつき、固定台がまだ小さく揺れていた。
思ったより、強い。
最初に水滴を出せた時から考えると、別の能力みたいだ。
「これで、限定的ではありますが、実地での使用も可能と判断します」
「え?」
私は振り返った。
「使っていいんですか?」
「必要な状況であれば」
「現場で?」
「現場でです」
胸の奥が、一気に明るくなった。
もちろん、ランクが上がったわけではない。
私のカードには相変わらず大きくFと書かれている。
でも。
今までは何かあっても逃げるか、偶然能力が暴発するかだった。
これからは違う。
自分の意思で。
自分の能力を使える。
(……能力者っぽい)
かなり能力者っぽい。
いや、能力者なんだけど。
今まで自分で言っていてもしっくり来なかったのだ。
「ただし」
ユキさんが言った。
嫌な予感がした。
この人の「ただし」は大体いい話を終わらせる。
「訓練場で発動できることと、実地で発動できることは別です」
「……どういうことです?」
「環境が変われば、心理的な抑制も変化します」
「心理的な抑制」
「霧島さんの現在の発動方法は、通常の排尿を起点にしていますから」
「…………」
急に能力者っぽさが消えた。
そうだった。
ウォーターバレットだけ見れば格好いいけど、その前に私は一度漏らさなければならない。
そこは三ヶ月経っても変わっていない。
「念のため、これを携行してください」
ユキさんが小さな銀色の包装を差し出した。
錠剤が一粒入っている。
「薬?」
「利尿剤です」
「…………利尿剤?」
「医療用の即効性のものです。排尿を強く促します」
「それを私に?」
「霧島さんは通常の排尿を能力発動の起点にしていますから」
「めちゃくちゃ力技じゃないですか?」
「有効なら問題ありません」
難しい。
「もっと簡単にお願いします」
「我慢しづらくなります」
「なるほど」
分かりやすい。
分かりやすすぎる。
私は銀色の包装を見つめた。
「それって……飲んだら、漏らしやすくなるってことですよね?」
「そう考えて構いません」
「じゃあ、その感覚から能力にも繋げやすくなる?」
「その可能性は高いです」
「おお……」
「ただし、効果は数時間続きます」
「数時間?」
「服用後は吸水装備を外さないでください」
「そんなに強いんですか?」
「かなり」
「それ本当に普通の薬ですよね?」
「医療用です」
「答えになってない気がする……」
ちょっと便利じゃなくなってきた。
ユキさんは私の手に錠剤を乗せた。
「必要な場合だけ使用してください」
「分かりました」
「常用は勧めません」
「はい」
銀色の包装をポケットへ入れる。
まあ、使わなくてもいいのだ。
いざという時の保険。
それなら問題ない。
私はもう、漏らすこと自体にはかなり慣れている。
家でも。
訓練場でも。
イージスを穿いていれば、かなり簡単にできる。
(たぶん使わないでしょ)
その時は、本気でそう思っていた。
◇
その数日後。
私は商業地区の巡回警備に入っていた。
仕事自体はいつも通りだった。
戦闘服。
長い黒のマント。
杖。
そして、その下には紺色の《イージス・アンダーギア》。
見た目だけなら、かなり立派な能力者である。
カードはFだけど。
午前中は何もなかった。
道を聞かれた。
迷子の母親を一緒に探した。
荷物を落としたおばあさんを手伝った。
平和だった。
能力を使う機会なんて、たぶん今日もない。
そう思っていた時だった。
耳元の通信機から声が入る。
『周辺警備中の各員へ。能力犯罪容疑者一名が逃走中』
私は足を止めた。
『対象は商業施設裏手から東方向へ逃走。現在、確保班が追跡中です』
続いて現在地の確認が入る。
私は端末を見る。
近い。
かなり近い。
『霧島さん、現在地から対象まで約二百メートルです』
「はい」
『積極的な交戦は不要です。周辺の一般人を退避させ、対象を確認した場合は位置を報告してください』
「了解です」
少しだけ肩の力が抜けた。
戦え、ではない。
私はまだFランクだ。
こういう時に単独で犯罪者へ突っ込ませるほど、ギルドも雑ではない。
『確保班到着まで無理をしないでください』
「はい」
通信が切れる。
私は杖を握り直した。
(一般人の退避と、位置確認)
それならできる。
走り出した。
対象が向かっているのは、店舗の裏側を通る搬入用道路だった。
幸い、人通りは少ない。
近くにいた店員と配送業者へ事情を伝え、建物の中へ入ってもらう。
その途中で、また管制から連絡が来た。
『対象、進路変更。南側の搬入路へ』
「南側……」
私は周囲を見る。
すぐ横に、建物の外階段があった。
二階の踊り場まで上がれば、搬入路が見える。
私は階段を駆け上がった。
コンクリートの壁に身を寄せ、そっと下を見る。
いた。
男が一人、走っている。
距離は――十数メートル。
こちらにはまだ気づいていない。
後ろから確保班が追ってきているはずだが、まだ姿は見えない。
このまま行けば、搬入路の先にある大通りへ出る。
人がいる。
『霧島さん、対象を確認できますか?』
「見えます」
『位置を送ってください。無理に止める必要はありません』
「了解」
端末から位置情報を送る。
それで私の役目は終わり。
本来なら。
私は下を見た。
男はまだ走っている。
距離はある。
こちらは見えていない。
そして私は、杖を持っている。
(……撃てる?)
訓練では何度も撃った。
今日の装備も同じ。
イージスも穿いている。
あとは能力を出して、杖の先にまとめて、飛ばすだけ。
ただ。
今まで撃ったものは、全部的だった。
私は杖を構えた。
男の背中が見える。
(……人に撃つの?)
急に、杖が重くなった気がした。
標的は痛がらない。
怪我もしない。
転んだりもしない。
でも、あれは人間だ。
ウォーターバレットがどのくらい人に効くのか、私はまだ知らない。
少なくとも、訓練用の標的を大きく揺らす程度の威力はある。
頭は駄目だ。
顔も駄目。
狙うなら胴体。
止めるだけ。
(……止める)
大通りへ出る前に。
私は息を整えた。
まずは、いつも通り。
普通に漏らす。
「…………」
力を抜く。
「…………」
出ない。
(あれ?)
もう一度。
訓練場で何度もやったように、身体の力を抜く。
出ない。
「…………」
(いやいやいや)
私はイージスを穿いている。
濡れても外からは分からない。
何の問題もない。
出していい。
そう思っているのに。
身体が勝手に止める。
(なんで!?)
男が遠ざかっていく。
私は焦った。
出ろ。
出ろ。
こういう時のために三ヶ月も練習したんでしょうが。
出ろ。
「…………」
出ない。
そして、ようやく気づいた。
ここは家じゃない。
訓練場でもない。
外だ。
仕事中だ。
近くには人がいる。
(……待って)
私はこれまで、外で漏らしたことがないわけではない。
一度、帰宅途中に間に合わなかったことはある。
でも、あれは事故だった。
自分から。
人がいる場所で。
仕事中に。
(私、わざと漏らしたことなくない?)
盲点だった。
ものすごい盲点だった。
家でできるようになった。
訓練場でもできるようになった。
だから、どこでもできるようになった気でいた。
全然違う。
『霧島さん?』
通信が入る。
「はい」
『対象はこちらでも確認しました。確保班まであと一分ほどです。危険を感じた場合はその場を離れてください』
「……了解です」
逃げてもいい。
別に私は失敗していない。
そもそも交戦命令すら出ていない。
確保班も来る。
なのに。
私は杖を下ろせなかった。
(訓練場では撃てます)
(でも、現場では撃てません)
それって。
(結局、使えないのと同じじゃん)
三ヶ月。
私は何をやってきた。
漏らして。
また漏らして。
紙おむつを穿いて。
普通の下着でも練習して。
お母さんに優しい目で見られて。
挙げ句の果てには、おねしょまでした。
(……改めて並べると何の努力だよ!)
いや。
違う。
努力だ。
私はちゃんと努力した。
やりたくもないことを、何度もやった。
恥ずかしくてもやった。
その結果、ようやく水を杖の先から撃てるところまで来た。
それを。
外だから無理でした。
で終わらせたくない。
男が大通りへ近づく。
私はポケットへ手を入れた。
指先に、小さな銀色の包装が触れた。
「…………」
ユキさんの言葉を思い出す。
発動しやすくなる。
出力が上がる可能性がある。
制御は不安定になる。
効果は数時間。
常用は勧めません。
(……あれなら)
私は包装を取り出した。
少しだけ迷う。
でも。
「一回だけ」
誰に言うでもなく呟いた。
包装を破る。
錠剤を口へ放り込む。
奥歯で噛み砕いた。
「にがっ……!」
まずい。
かなりまずい。
薬なんだから当然かもしれないけど、もう少し何とかならなかったのか。
そんなことを考えた直後。
身体の奥で、何かが緩んだ。
「……え」
急に来た。
待って。
ちょっと待って。
じょろろっ
「…………っ」
反射的に脚へ力が入る。
でも、遅い。
イージスの中へ温かさが広がった。
(速っ!?)
薬効。
早すぎない?
いや。
今はいい。
むしろ助かった。
(出た)
感覚がある。
いつもよりはっきりしている。
私は目を閉じかけて、すぐに男へ視線を戻した。
逃がさない。
漏れている感覚を、そのまま掴む。
消さない。
身体の中だけで終わらせない。
繋ぐ。
三ヶ月かけて覚えた感覚を、能力側へ。
冷たさが生まれる。
腿でもない。
膝でもない。
杖を握る手でもない。
もっと先。
杖の先端。
水が集まり始めた。
「…………」
いつもより早い。
一瞬だけ、そう思った。
今は考えている暇がない。
私は杖を下の男へ向けた。
距離がある。
動いている。
訓練用の的とは違う。
狙いにくい。
(胴体)
頭は狙わない。
止めるだけ。
私は息を止めた。
「――ウォーターバレット!」
バンッ!
杖の先から、水塊が飛び出した。
速い。
一直線に男へ向かう。
「っ!?」
男が何かに気づいて顔を上げた。
水塊はその頬のすぐ横を抜けた。
外れた。
そのまま背後の金属製シャッターへ衝突する。
ドンッ!
大きな音。
水が激しく弾けた。
「…………」
「…………」
男が止まった。
私も固まった。
(外した!!)
ものすごく外した。
いや、ものすごくではない。
頬の横だから惜しい。
惜しいけど、人に向けて撃つ攻撃で「惜しい」は駄目だろう。
男が振り返る。
こちらは壁に隠れているので、私の姿は見えていない。
「誰だ!?」
周囲を見回している。
シャッターに残った大量の水。
今、自分の顔すれすれを通ったもの。
男の表情が変わった。
「なんだ今の……」
一歩下がる。
「どこの高ランクだよ!?」
「…………」
私は思わず杖を見る。
(高ランク)
私です。
Fです。
ごめんなさい。
いや、謝るところではない。
それより。
もう一発。
さっきまでとは違う。
漏れている感覚がまだ強く残っている。
能力との繋がりも切れていない。
普段なら一射した後、もう一度集中し直す必要があるのに。
(……まだいける)
杖の先へ水が集まる。
やっぱり早い。
量も少し多い気がする。
薬のせいなのか。
今は分からない。
男が再び走り出した。
さっきより動きが激しい。
周囲を警戒しながら、蛇行するように進んでいる。
(そりゃそうだよね!)
一発撃たれたら動くよね!
訓練標的はそんなことしなかった。
当たり前だけど。
私は杖を追わせる。
右。
左。
また右。
(狙いにくい!)
杖の先端と男の胴体を重ねようとする。
ずれる。
また合わせる。
(これ、杖で狙うの難しくない!?)
それでも。
次は外せない。
大通りまで、もう近い。
私は一度だけ息を吐いた。
男の動きを見る。
右へ行く。
次は。
左。
杖を少し先へ向ける。
(そこ)
今度こそ。
胴体。
「――ウォーターバレット!」
バンッ!
水塊が飛ぶ。
男がこちらを見る。
遅い。
高密度の水の塊が、その胸元へまともに叩き込まれた。
「がっ――!」
身体が大きくのけ反った。
両足が一瞬地面を離れる。
そのまま背中から道路へ倒れた。
「…………」
動かない。
「…………え」
私は杖を構えたまま固まった。
(倒れた)
いや。
倒すために撃った。
止めるために撃った。
でも。
(こんなに効くの!?)
男は起き上がらない。
慌てて管制へ連絡する。
「た、対象、倒れました!」
『確認しています。確保班が到着します。そのまま距離を取ってください』
「はい!」
ほどなくして、路地の反対側から複数の隊員が駆け込んできた。
一人が男を拘束し、もう一人が状態を確認する。
「呼吸正常。意識なし」
「…………」
意識なし。
つまり。
(気絶させた……)
私が。
ウォーターバレットで。
隊員の一人がこちらを見上げた。
「霧島さん!」
「はい!」
「今の射撃、あなたですか?」
「……はい」
「助かりました。お手柄ですよ」
「…………」
お手柄。
その言葉は、今までにも何度か聞いたことがある。
でも。
今回は少し違った。
倉庫で水を出した時も。
犯罪者をまとめて流した時も。
私は、自分が何をしたのかよく分かっていなかった。
勝手に出た。
止められなかった。
結果的に捕まった。
そんなことばかりだった。
今日は違う。
私は杖を見る。
手が少し震えていた。
怖かった。
外した時は心臓が止まるかと思った。
二発目を撃つ時も、本当に当てていいのか迷った。
でも。
暴発じゃない。
偶然でもない。
私が決めた。
私が狙った。
私が撃った。
そして。
私が、止めた。
「…………」
胸の奥が、じわじわ熱くなる。
三ヶ月前。
私の異能は、ただ恥ずかしいだけの能力だと思っていた。
名前は最悪。
発動条件も最悪。
今だって、それは何一つ変わっていない。
それでも。
今日初めて。
私の能力は、自分の意思で誰かを止めるための力になった。
私は小さく息を吐いた。
それから、ふと思う。
今の一撃を出すために。
私はついさっき、しっかり漏らした。
「…………」
まあ。
それについては。
今だけは考えないことにした。




