第15話 杖の先の一滴
翌日。
私はギルド本部の小さな検査室にいた。
定期的な経過確認。
三ヶ月も訓練を続けていると、こういう時間にもだいぶ慣れてきた。
体調。
能力の発動回数。
水量。
発生位置。
任務中に異常がなかったか。
ユキさんが端末へ入力しながら、一つずつ確認していく。
「能力発動後の疲労は?」
「前とそんなに変わらないです。ちょっとだるくなるくらいで」
「頭痛、吐き気、めまいなどは?」
「ないです」
「食欲は?」
「普通です」
「排尿回数に変化は?」
「…………普通だと思います」
最近、この人に排尿関係の質問をされることにも慣れてきた。
慣れたくなかったけど。
「睡眠は?」
「普通です」
即答した。
ユキさんの指が止まった。
嫌な止まり方だった。
「起床時に何か変化は?」
「ないです」
「本当に?」
「本当です」
「昨日も?」
「…………」
しまった。
ユキさんが端末から顔を上げた。
「霧島さん」
「はい」
「何かありましたね」
「ないです」
「ありましたね」
「…………」
なんで分かるの。
少し離れたところでは、アマネさんが腕を組んでこちらを見ている。
助けてほしい。
いや。
この人に助けを求めたら、たぶん余計なことを言う。
「身体の変化は能力訓練に関係する可能性があります」
ユキさんは淡々としていた。
「些細なことでも報告してください」
「些細というか……」
昨日の朝。
濡れたシーツ。
母の、
『……おねしょ?』
という声。
思い出しただけで消えたい。
「霧島さん」
「…………」
「言ってください」
逃げられない。
私は膝の上で手を握った。
「……お」
声が出ない。
もう一回。
「……お、おねしょを」
ユキさんが待つ。
聞き返さないで。
お願いだから。
「……してしまいまして……」
たぶん人生で一番小さい声が出た。
沈黙。
私は床を見た。
顔が熱い。
二十二歳。
ギルドの副官とギルドマスターへ。
おねしょを報告している。
私の能力者人生。
本当にこれでいいんだろうか。
「何回です?」
ユキさんが聞いた。
「一回です!」
顔を上げる。
「昨日だけです!」
「分かりました」
反応。
薄い。
もう少しこう。
驚くとか。
困るとか。
何かないの?
いや。
驚かれても嫌だけど。
「以前にもありますか?」
「昨日が初めてです!」
そこまで言って。
止まった。
違う。
人生初ではない。
ユキさんは見逃さなかった。
「子どもの頃は?」
「…………」
聞かないでほしかった。
「……ありました」
「頻度は?」
「覚えてないです」
「いつ頃まで?」
「そこまで言わなきゃ駄目ですか!?」
思わず声が大きくなった。
ユキさんが少しだけ首を傾げる。
「必要なら」
「必要じゃない方向でお願いします!」
「要するに、昔は少し長引いたということか」
アマネさんが口を挟んだ。
「まとめないでください!」
でも。
間違ってはいない。
子どもの頃。
私は、おねしょがなかなか治らなかった。
周りより少し遅かったと思う。
それでも、ずっと昔に卒業した。
もう自分には関係ないものだと思っていた。
昨日までは。
「三ヶ月間」
ユキさんが端末へ何か入力する。
「霧島さんは、トイレ以外では排尿しないという習慣を意図的に弱め続けています」
「はい……」
「尿意を感じても我慢せず、自分の意思で排出を開始する。それを繰り返している」
「言葉にすると本当にひどいですね」
「訓練です」
「分かってます」
「その学習が、睡眠中の抑制にも影響した可能性はあります」
私は顔を上げた。
「じゃあ、訓練のせいなんですか?」
「可能性です」
「治ります?」
「現時点では分かりません」
「不安になる答え!」
ユキさんは相変わらず冷静だった。
「しばらく経過を確認してください」
「確認したくないんですけど……」
「なら備えればいい」
アマネさんが言った。
嫌な予感がした。
ものすごく。
「備える?」
「寝る時も紙おむつを穿け」
「…………」
やっぱり。
「そんな簡単に言わないでください」
「何が難しい」
「意味が違うんですよ!」
「同じ物だろう」
「物は同じです!」
私は思わず身を乗り出した。
「今までは能力訓練だから穿いてたんです! でも寝る時に穿ったら、それはもう完全に――」
言いたくない。
アマネさんが代わりに言った。
「おねしょ対策だな」
「言わないでください!」
この人。
本当に容赦がない。
「シーツを濡らすより合理的です」
ユキさんまで。
二対一。
また。
「…………」
反論できない。
できないけど。
納得したくない。
「今夜だけでも試してください」
「……はい」
能力者になって。
三ヶ月。
ついに。
就寝時の装備まで増えた。
◇
その夜。
私はベッドの前に立っていた。
机の横。
紙おむつの袋。
ベッド。
新品のシーツ。
紙おむつ。
ベッド。
紙おむつ。
「…………」
一回だけだった。
昨日だけ。
今日は大丈夫かもしれない。
むしろ普通はそうだ。
大人が二日連続でおねしょなんて。
そうそうない。
たぶん。
私はベッドへ入ろうとした。
止まる。
昨日の朝を思い出す。
濡れたシーツ。
早朝の洗濯。
母。
『……おねしょ?』
「…………」
紙おむつを見る。
穿けば安心。
それは分かる。
でも。
今までとは違う。
訓練じゃない。
能力のためじゃない。
ただ。
寝ている間に漏らしても大丈夫なように。
自分から。
寝る前に。
大人用紙おむつを穿く。
二十二歳。
「…………重い」
同じ紙おむつなのに。
意味が変わった瞬間。
ものすごく重い。
私は十分くらい悩んだ。
そして。
新しいシーツを見る。
「……もう一回洗う方が嫌」
負けた。
紙おむつを手に取る。
穿く。
パジャマを戻す。
ベッドへ入る。
ごわ。
最近は訓練で聞き慣れてきた音。
でも。
寝るために聞くのは初めてだった。
「…………」
眠れない。
自分が今。
おねしょ対策で紙おむつを穿いて寝ている。
その事実だけで。
ものすごく目が冴える。
「考えるな」
目を閉じる。
「寝ろ」
自分に言う。
いつの間にか。
眠っていた。
◇
翌朝。
目が覚めた。
「…………」
最初に。
下半身の感覚を確認した。
ごわ。
少し。
重い。
「…………」
嫌な予感。
いや。
もう結果は分かっている気がする。
恐る恐る確認する。
濡れていた。
しっかり。
「…………」
私は天井を見た。
二日連続。
おねしょ。
でも。
シーツは。
乾いている。
「……備えてよかった!」
一瞬。
本気でそう思った。
「いや、全然よくねえわ」
何を喜んでるんだ。
おねしょしてる。
普通に。
ただ。
昨日みたいにシーツを抱えて早朝の洗濯機へ走る必要はない。
母にも。
たぶん。
バレない。
私は紙おむつを替えながら思った。
便利。
悔しいけど。
ものすごく便利。
そして。
便利だと思い始めている自分が一番怖かった。
◇
その日の午後。
ギルドの訓練場。
私は杖を持って立っていた。
今日は。
おねしょの話ではない。
ようやく。
能力の話。
それだけで少し嬉しい。
「現在」
ユキさんが説明する。
「霧島さんは、通常の排尿後、その感覚を維持することで魔力水へ接続できます」
「はい」
「発生位置も、身体の表面から数十センチ程度まではずらせるようになっています」
「まだ安定しませんけど」
太もも。
膝。
足元。
三ヶ月。
少しずつ。
身体から離れてきた。
「次の目標は?」
アマネさんが聞く。
ユキさんは、私が持っている杖を見た。
「完全に身体から切り離します」
「完全に?」
「身体とは別の地点を、魔力水の発生位置として固定します」
私は少し考えた。
「それって……どうイメージすればいいんですか?」
太ももなら分かる。
足元も。
自分の身体の延長だから。
でも。
何もない空間。
どこに出すのか。
何を基準にすればいいのか。
分からない。
ユキさんが杖を指した。
「杖先ではどうでしょう」
「杖先?」
「はい」
「ここから水が出るって思えばいいってことですか?」
「霧島さんなら、その方が具体的にイメージしやすいかと」
「…………」
確かに。
杖。
魔法使い。
杖の先から水魔法。
分かる。
めちゃくちゃ分かる。
むしろ、何もない空間から出せと言われるより百倍分かる。
「始めます」
「はい」
私は息を整えた。
まず。
いつもの準備。
イージスの中で。
普通に。
「…………」
三ヶ月前なら。
ここだけで何分もかかっていた。
今は。
自分の意思で。
力を抜く。
温かい感覚。
大丈夫。
誰にも見えない。
イージスが吸収する。
ここから。
切らさない。
漏れている。
まだ。
漏れている。
そう思う。
魔力が。
水になる。
そして。
杖。
私は両手で構えた。
先端を見る。
ここ。
身体じゃない。
太ももでもない。
足元でもない。
杖の先。
(ここから)
水が出る。
アニメで。
何度も見た。
魔法使いが。
杖を向けて。
魔法を放つ。
あんな感じ。
「…………」
ひや。
太もも。
「あ」
水滴。
いつもの位置。
失敗。
「従来位置です」
ユキさんが言う。
「分かってます!」
もう一度。
集中。
杖。
先端。
ここから。
ぽた。
今度は。
右手。
「…………」
袖が濡れた。
「近づきました」
「近づいた扱いなんですか、これ」
「発生位置が身体中心から離れています」
「でも手ですよ!」
「進歩です」
何でも進歩にするな。
三回目。
杖の根元。
四回目。
持ち手の少し上。
五回目。
杖の中央。
「…………」
私は杖を見る。
水滴。
ちょうど真ん中。
ユキさんがメジャーを取り出した。
「先端まで六十四センチ」
「測るんですか!?」
「記録します」
「なんか腹立つ!」
「前回より十九センチ進んでいます」
「もっと普通に褒めてください!」
アマネさんが笑った。
「面白いな」
「人の苦労を面白がらないでください!」
でも。
進んでいる。
本当に。
最初は。
身体から少し離れるだけで。
三ヶ月。
今は。
杖の真ん中。
あと。
六十四センチ。
「…………」
私は杖を握り直した。
もう一度。
何度目か分からなくなった。
失敗。
失敗。
手元。
杖の途中。
足元。
太もも。
また途中。
集中力が切れ始める。
腕も少し疲れた。
「今日はここまででも――」
ユキさんが言いかけた。
「もう一回」
自分で言った。
自分でも少し驚いた。
「もう一回だけ」
アマネさんが口元を上げる。
「やれ」
私は杖を構えた。
息を吐く。
考えすぎるから駄目なんだ。
杖から。
水。
それだけ。
昔。
テレビの前で。
魔法使いの真似をしたことがある。
棒を持って。
呪文を言って。
当然。
何も出なかった。
今は。
違う。
本当に。
魔法がある。
私にも。
能力がある。
名前は最悪だけど。
出し方も最悪だけど。
それでも。
私の能力だ。
(ここから)
杖の先。
青い飾り。
その先。
(出る)
そう思った。
ぽた。
「…………」
小さな音。
床。
一滴。
私は動かなかった。
杖先を見る。
水滴。
もう一つ。
ゆっくり膨らんで。
ぽた。
落ちる。
「…………」
身体じゃない。
手でもない。
杖の途中でもない。
先端。
私から。
一メートル以上離れた場所。
そこに。
水が。
「……出た」
声が自然に漏れた。
ユキさんが杖先を見る。
「出ましたね」
アマネさんも、少し楽しそうに口元を上げた。
「ようやく魔法使いらしくなってきたな」
「……まだ一滴ですけど」
「ゼロよりは多い」
また。
正論。
でも。
今日のこれは。
少し嬉しい。
杖先を見る。
水滴が膨らむ。
ぽた。
床へ落ちた。
「…………」
もう一度。
杖先を意識する。
じわり。
また。
小さな水滴。
出せる。
本当に。
杖の先から。
「霧島さん」
ユキさんが言った。
「はい?」
「今度は、呪文を唱えてみてください」
「…………はい?」
私はユキさんを見た。
真顔だった。
いつも通りの。
「呪文?」
「はい」
「何を言えばいいんですか?」
ユキさんは。
少しも迷わなかった。
「《ウォーターバレット》で」
「…………」
なんでそんな即答なの。
「いや、これ英語ですよね……?」
「英語です」
「呪文って、もっとこう……なんかあるんじゃないですか?」
古代語とか。
謎の言葉とか。
そういう。
「言語そのものに特別な力があるわけではありません」
ユキさんは淡々と答えた。
「能力は能力者自身の内側にあるものです。制御方法は人によって異なります。動作、呼吸、視線、発声。言葉によって能力の形を明確にする能力者も珍しくありません」
「じゃあ、技名を言うのにも意味がある?」
「その言葉と、発動させたい現象が本人の中で強く結びついているなら」
なるほど。
ちゃんとした説明だった。
ちゃんとしている。
しているんだけど。
《ウォーターバレット》。
なんというか。
恥ずかしい。
「霧島さんなら、イメージしやすいと思います」
「…………」
またそれ。
(……なんでこの人、私がそれなら分かるって分かったんだろ)
はっ。
(まさかオタクってバレてる!?)
(見た目か!? 私そんなにオタクっぽい見た目してる!?)
(……えっ、してる!?)
(うるさいよ!)
「どうしました?」
「なんでもないです!」
危ない。
変なところで精神的ダメージを受けるところだった。
私は杖を前へ向ける。
杖先。
水滴。
そこから。
前へ。
飛ばす。
「……うぉーたーばれっと」
ぽた。
水滴は。
普通に床へ落ちた。
「…………」
ユキさんが言った。
「もっとはっきり発声してください」
「そこ重要なんですか!?」
「今の発声では、霧島さん自身が恥ずかしがっていることしか伝わってきません」
「伝わってた!」
「技を放つイメージを明確に」
「…………」
恥ずかしい。
ものすごく。
でも。
魔法使いが。
杖を構えて。
技名を叫んで。
魔法を撃つ。
分かる。
悔しいくらい。
分かる。
私は杖を構え直した。
息を吸う。
「――ウォーターバレット!!」
ビュッ。
「っ!?」
杖先から。
水が。
前へ飛んだ。
本当に。
一瞬。
細い水の塊は、一メートルも進まないうちに形を崩して床へ散った。
水弾。
と呼ぶには。
あまりにも弱い。
それでも。
下へ落ちるだけだった水が。
初めて。
私の意思で。
前へ飛んだ。
「……飛んだ」
「飛びましたね」
ユキさんが頷く。
アマネさんが笑った。
「次は、それを弾にしろ」
「……弾」
私は杖を見る。
先端には。
また小さな水滴が浮かんでいた。
名前は最悪。
発動方法も最悪。
寝る時には紙おむつまで必要になった。
それでも。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
魔法使いになれた気がした。




