第14話 三ヶ月の成果
それから、三ヶ月が過ぎた。
大きな事件は起きなかった。
指名手配犯に遭遇することもなければ、ギルドマスターに炎で追い立てられることもない。私は相変わらずFランクのまま、倉庫の巡回や施設警備、荷物の確認といった低ランク向けの仕事をこなしていた。
戦闘服にも、少しだけ慣れた。
ロングマント。
大きな杖。
水系魔術師っぽい濃紺の衣装。
その格好でやることは。
「異常なし」
倉庫の非常口を確認する。
「異常なし」
消火器を見る。
「異常なし」
段ボールの山を見る。
三ヶ月経っても、仕事は地味だった。
でも。
それでよかった。
少なくとも、命の危険はない。
そして仕事が終われば、家で訓練。
これが、私の日常になった。
◇
最初の一ヶ月。
紙おむつなら、ほぼ迷わずできるようになった。
尿意を感じる。
トイレへ行かない。
自室へ戻る。
紙おむつを穿く。
そして、自分の意思で出す。
最初は二十分近くかかっていたのに、今では数十秒もあれば身体の力を抜ける。
人間の適応力ってすごい。
できれば、こんなことで知りたくなかった。
普通の下着では、まだ抵抗があった。
風呂場。
脱衣所。
母が買い物に出ている時の自室。
少しずつ場所を変えながら試した。
それでも、何も敷かずにリビングの真ん中で、なんてことは当然できない。
する気もない。
そこまで行ったら、能力訓練なのか生活崩壊なのか分からなくなる。
「ひより」
ある日、母が紙おむつの袋を持ってきた。
「また買ってきたよ」
「…………ありがとう」
最近。
素直に受け取れるようになってしまった。
これも成長なのだろうか。
「前より減るの早いから、多めに買ってきた」
「訓練だからね!」
「うん」
また。
その返事。
私は袋を受け取った。
母の優しい目は、三ヶ月経っても変わらなかった。
むしろ。
悪化している気がする。
◇
問題は。
能力そのものだった。
普通に漏らすことは、できるようになった。
でも。
そこから【おもらし】へ繋がらない。
紙おむつが濡れる。
終わり。
何も起きない。
私は何度もノートを見返した。
第八話――じゃない。
違う。
頭の中で事件を番号管理し始めてどうする。
最初の指名手配犯。
倉庫の二人組。
アマネさんとの訓練。
共通していたのは。
一度、普通に漏らしたあと。
まだ「出る」という感覚が続いていたこと。
普通の排尿は終わっている。
それでも身体だけが、まだ漏らしているように感じた。
そして。
そこから水が増えた。
「…………」
私は風呂場に立っていた。
紙おむつ。
自主訓練。
母は買い物中。
完璧。
この状況が完璧だと思えている時点で、何かを失っている気がする。
でも今は考えない。
尿意は十分。
私は力を抜いた。
温かさ。
いつもの感覚。
紙おむつが吸収する。
ここまでは、もう慣れた。
問題は。
ここから。
「止めない……」
小さく呟いた。
尿そのものは、もうほとんど出ていない。
でも。
感覚だけ。
漏れている。
まだ出ている。
そう思う。
あの時と同じ。
あの恐怖の中で。
二度目も漏らしたと思った時と。
同じ。
「…………」
何も起きない。
やっぱり。
駄目か。
そう思った。
その時。
ひや。
「っ?」
右の太もも。
冷たい。
私は動きを止めた。
じわりと。
今度は温かくない。
冷たい水が、皮膚を伝った。
ぽた。
床に落ちる。
「…………え?」
もう一滴。
ぽた。
紙おむつの端から漏れた?
私は慌てて確認した。
違う。
紙おむつは濡れている。
でも、吸収できている。
外側までびしょ濡れになっているわけじゃない。
なのに。
太ももの外側。
そこから。
水。
「…………」
心臓が跳ねた。
「出た……?」
ぽた。
もう一滴。
私は息を止める。
漏らしている感覚を。
切らさない。
普通の排尿の続き。
そう思う。
すると。
太ももの横から。
細い水が流れた。
「出てる……!」
思わず声が出た。
能力。
【おもらし】。
自分の意思で。
出した。
いや。
正確には。
普通に一度漏らしたあとだけど。
それでも。
出た。
私は嬉しくなった。
ものすごく。
三ヶ月。
毎日。
何をやっているんだと思いながら。
それでも続けた。
その結果。
初めて。
自分の意思で。
能力まで繋がった。
「やった……!」
ぽたぽたと水が床に落ちる。
量は少ない。
訓練場を埋めた時とは比べものにならない。
でも。
制御不能の大波より。
今の数滴の方が。
ずっと嬉しかった。
その時。
玄関が開いた。
「ただいま」
「っ!」
母。
早い。
買い物。
早くない?
私は慌てて止めようとした。
止まった。
止まった?
今の。
自分で?
いや。
考えるのはあと。
とにかく。
床。
水。
太もも。
紙おむつ。
状況が最悪。
「ひより?」
「な、何?」
廊下から声。
「お風呂場?」
「うん!」
母が来る。
私は床を見る。
少しだけ。
水たまり。
隠せない。
母が入口から覗いた。
「…………」
私を見る。
床を見る。
そして。
紙おむつの辺りを見る。
やめて。
そこを見ないで。
「あら」
嫌な予感。
「漏れちゃった?」
「違う!」
即答した。
「これは能力!」
「うん」
「本当に!」
「ちゃんとこまめに替えないと駄目よ?」
「だから違うって!」
「吸いきれなくなる前に替えようね」
「吸いきれてるの!」
「え?」
「吸いきれてるけど、別のところから水が出たの!」
母が黙った。
しまった。
説明すればするほど。
悪化する。
「…………そうなの」
優しい。
もうやめて。
「と、とにかく!」
私は床を指した。
「これは成功なの!」
「うん。よかったね」
何が。
何を成功したと思ってるの。
私はその場にしゃがみ込んだ。
能力者として。
歴史的な一歩。
母から見れば。
おむつから漏らした娘。
報われない。
◇
翌日。
ギルドで報告した。
アマネさんは机の向こうで腕を組んでいる。
ユキさんはいつものように端末。
「自宅で?」
「はい」
「一度通常の排尿を行った後、その感覚を維持」
ユキさんが確認する。
「はい」
「その後、魔力水が発生した」
「はい」
「発生位置は?」
「……右の太ももの外側、だと思います」
ユキさんの指が止まった。
「従来位置よりずれていますね」
「やっぱり?」
「少なくとも、通常の排尿経路とは一致しません」
胸が高鳴る。
つまり。
仮説。
当たっている。
能力水は。
身体の中を通って出ているわけじゃない。
私がそう思い込んでいただけ。
「では」
私は少し期待して聞いた。
「これって、結構すごい進歩ですよね?」
「大きい」
アマネさんが即答した。
珍しく。
素直。
「三ヶ月でようやく一歩だ」
前言撤回。
「ようやくって言わないでください!」
「事実だ」
「毎日やってたんですよ!」
「知っている」
「結構頑張ったんですよ!」
「だから一歩進んだと言っている」
正論。
また正論。
ユキさんが淡々と続ける。
「ただし、通常の排尿なしでは発動できていません」
「……はい」
そこ。
分かっている。
今の私は。
何もない状態から水を出せるわけじゃない。
まず。
普通に漏らす。
その感覚を切らさない。
そこから。
能力へ繋げる。
つまり。
戦闘中でも。
能力を使う前に。
一度。
普通に漏らす必要がある。
「…………」
格好よくない。
全然。
「焦るな」
アマネさんが言った。
「三ヶ月前の貴様は、恐怖で暴走するだけだった」
「はい」
「今は自分の意思で発動まで持っていける」
「……一回漏らせば」
「条件付きでも再現性がある。それは大きい」
アマネさんはそう言った。
私は少しだけ。
嬉しくなった。
本当に。
少しだけ。
◇
それからさらに。
何度も繰り返した。
家では紙おむつ。
風呂場。
時々、普通の下着。
任務中はイージス。
勤務中に自分から漏らすのは、まだ苦手だった。
でも。
家なら。
一度普通に漏らして。
その感覚を繋ぐ。
そこから少量の魔力水を出す。
成功率は。
少しずつ上がった。
十回に一回。
五回に一回。
三回に一回。
そして。
気づけば。
かなりの確率で。
出せるようになっていた。
水量はまだ少ない。
位置も安定しない。
太もも。
膝の近く。
足元。
たまに。
思ったより横。
そのたびに。
私はノートへ記録した。
『通常排尿後、感覚保持』
『魔力水発生』
『発生位置、右腿外側』
『水量、少量』
『制御、まだ不安定』
そして。
最後に。
『普通のおもらし無しでは発動不可』
ここだけ。
三ヶ月。
変わらなかった。
「…………」
簡単にはいかない。
当たり前か。
二十二年間の身体の感覚を。
三ヶ月で全部ひっくり返せるわけがない。
それでも。
私は。
進んでいた。
確実に。
◇
そんなある朝。
目が覚めた。
「…………」
何か。
変。
まだ暗い。
カーテンの隙間から。
朝の光が少し。
身体を動かす。
「…………ん?」
腰の辺り。
冷たい。
私は止まった。
嫌な。
予感。
ものすごく。
嫌な予感。
ゆっくり。
掛け布団を持ち上げる。
「…………」
パジャマ。
濡れている。
その下。
普通の下着。
昨夜は訓練していない。
紙おむつも穿いていない。
私は。
さらに。
シーツを見る。
染み。
「…………」
思考停止。
十秒。
十五秒。
理解したくない。
でも。
理解した。
「…………おねしょ」
声に出した。
破壊力が増した。
子どもの頃。
私は、おねしょがなかなか治らなかった。
周りより、少し遅かったと思う。
いつの間にかしなくなって。
もう二度と、自分には関係のないものになったと思っていた。
なのに。
二十二歳。
戻ってきた。
おかえり。
おかえりじゃない。
「…………」
能力じゃない。
水が増えた形跡もない。
床も濡れていない。
普通に。
寝ている間に。
漏らした。
「嘘でしょ……」
三ヶ月前。
自分の意思で漏らせなかった。
今。
寝ている間にも漏らせる。
「成長の方向おかしくない!?」
小声で叫んだ。
いや。
落ち着け。
一回。
一回だけ。
たまたま。
疲れてた。
水分取りすぎた。
訓練の影響かもしれない。
理由はいくらでもある。
問題は。
母。
これは。
絶対。
バレてはいけない。
私はベッドから飛び起きた。
シーツを外す。
パジャマを脱ぐ。
下着も。
全部まとめる。
洗濯機。
今なら早朝。
母はまだ。
「ひより?」
背後。
「ひゃあっ!」
振り返る。
母。
寝起き。
「早いね」
「う、うん!」
私はシーツを抱えている。
濡れた。
シーツを。
母が見る。
シーツ。
私。
またシーツ。
「…………」
やめて。
考えないで。
「洗濯?」
「そう!」
「こんな朝早く?」
「目が覚めたから!」
完璧。
自然。
たぶん。
母が近づく。
「シーツ濡れてる?」
「汗!」
即答した。
母が少し首を傾げる。
「こんなに?」
「…………」
終わった。
母は。
ほんの少しだけ。
優しい顔になった。
嫌だ。
その顔。
「……おねしょ?」
「言わないで!!」
家中に響いた。
母が目を丸くする。
私は。
シーツを抱えたまま。
顔が熱い。
「だ、大丈夫よ」
「大丈夫じゃない!」
「疲れてたんじゃない?」
「違う!」
いや。
違わないかもしれない。
分からない。
でも。
今は。
違うと言いたい。
「訓練のせいだから!」
出た。
また。
最強の言い訳。
母は頷いた。
「うん」
「その『うん』やめて!」
何回目だ。
この会話。
母は優しく笑った。
「とりあえず洗おうか」
「自分でやる!」
「はいはい」
私は洗濯機へ逃げた。
シーツを押し込む。
洗剤。
スイッチ。
回り始める。
「…………」
洗濯機の前。
しゃがみ込む。
三ヶ月。
私は。
確実に成長した。
自分の意思で漏らせる。
そこから能力へ繋げられる。
水の発生位置も。
少しずつずらせる。
三ヶ月前とは。
全然違う。
その結果。
紙おむつを使う回数が増えた。
普通の下着でも漏らせるようになった。
そして。
今日。
二十二歳で。
おねしょした。
「…………」
私は膝に額をつけた。
本当に。
成長してるんだよね。
私。
たぶん。
きっと。
そして。
一つだけ。
決めた。
これは。
一回だけ。
絶対に。
一回だけだ。




