第12話 トイレに行くな
家に帰った時。
私は普通だった。
少なくとも、見た目は。
ギルドで服はクリーニングしてもらった。
医務室で穿かされていた大人用紙おむつも、もちろん脱いだ。
普通の下着。
普通の服。
普通に電車に乗って。
普通に家へ帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
台所から母の声がする。
「今日は大丈夫だった?」
「何が?」
「服」
「…………大丈夫だった」
嘘ではない。
今日は濡れた状態で帰ってきていない。
その前に訓練場を水浸しにしただけだ。
「そう。よかった」
母は嬉しそうだった。
その顔を見ると、余計な説明をする気がなくなる。
私は黙って部屋へ戻った。
夕飯。
お風呂。
テレビ。
いつも通りの夜。
そして。
夕食後しばらくして。
「あ」
尿意。
普通の。
私は立ち上がった。
廊下へ出る。
トイレの前まで歩く。
ドアノブへ手を伸ばした。
そこで。
止まった。
『まずは、漏らす感覚を身体に覚えさせろ』
「…………」
今日。
ギルドから帰る直前。
私は、アマネさんとユキさんに呼び止められていた。
◇
「それで」
私は聞いた。
「訓練って、具体的にどうすればいいんですか?」
アマネさんは腕を組んでいた。
「どう、とは?」
「いや、昨日言ってたじゃないですか。漏らす感覚を覚えろって」
「言ったな」
「どうイメージすればいいんですか?」
瞑想とか。
魔力を感じるとか。
呼吸を整えるとか。
能力者らしい何かがあるはずだ。
アマネさんは少し考えた。
「イメージする必要はない」
「え?」
「実際に漏らせ」
「…………」
聞かなかったことにしたい。
「尿意を感じたら、トイレへ行くな」
「はい?」
「その場で出せ」
「いやいやいやいや」
私は両手を振った。
「それ、訓練じゃなくて普通におもらしですよね!?」
「だからそう言っている」
「能力の訓練ですよね!?」
「能力の訓練だ」
会話が噛み合っている。
噛み合っているのにおかしい。
ユキさんが横から補足した。
「現在、霧島さんの身体には『尿意を感じたらトイレへ行く』という習慣が強く定着しています」
「普通の人はみんなそうです」
「はい」
「じゃあ正常ですよね?」
「正常です」
「なら何で壊すんですか」
「能力に必要だからです」
便利だな。
能力。
何でも正当化できる。
「まずは、場所に関係なく排出を開始できるようになることです」
「言い方が研究施設なんですよ……」
「研究に近いので」
そうだった。
この人、本気だ。
「でも」
私は思いついた。
「家なら、おむつ使えばいいですよね?」
母が買ってくれた。
大量にある。
あれなら床も服も汚れない。
「構わん」
アマネさんが言った。
助かった。
「ただし」
助からなかった。
「それだけでは駄目だ」
「なんでですか!」
「トイレがおむつに変わるだけだからだ」
「…………」
ぐう。
「おむつを穿いている時だけ出せるようになって、何の意味がある」
「でも普通の下着でやったら濡れるじゃないですか!」
「漏らすのだから当然だろう」
「そういう話じゃない!」
この人。
本当に容赦がない。
「本来なら最初から下着のままやれと言いたいところだ」
「絶対嫌です」
即答した。
「嫌ですじゃない」
「嫌です!」
「任務中、必ず《イージス・アンダーギア》を穿いている保証はないぞ」
「それは……」
「装備が破損することもある。予定外の状況もある。それでも能力を使えなければ意味がない」
また正論。
嫌い。
この人の正論。
「おむつは使っていい」
アマネさんが言った。
「ただし、それだけに慣れるな。風呂場でも何でもいい。普通の下着でもやれ」
「…………」
「返事は?」
「……わ、分かりました」
言ってしまった。
ユキさんが静かに頷いた。
「まずは一週間ほど続けてください」
「一週間!?」
「日常的に」
「日常的に!?」
「尿意が来るたびにです」
私は思った。
このギルド。
新人教育を間違えてない?
◇
そして現在。
私はトイレのドアノブを握っていた。
「…………」
入りたい。
すごく入りたい。
普通に用を足したい。
でも。
訓練。
私はゆっくり手を離した。
回れ右。
自室へ戻る。
机の横。
例の袋。
大人用紙おむつ。
「…………」
取り出す。
穿く。
ズボンを戻す。
ベッドの横に立つ。
よし。
これなら大丈夫。
出していい。
むしろ出さないといけない。
「…………」
出ない。
「……え?」
尿意はある。
さっきまで普通にトイレへ行こうとしていた。
なのに。
出ない。
「いや、今は出していいから」
誰に言っているんだろう。
自分だ。
力を抜く。
「…………」
出ない。
座る。
出ない。
立つ。
出ない。
少し屈む。
出ない。
「なんで?」
漏らしたくない時は勝手に漏れるくせに。
漏らそうとすると出ない。
私の膀胱。
性格悪くない?
十分。
二十分。
「…………」
まだ出ない。
私はベッドへ腰掛けた。
なんだこれ。
能力を使う以前の問題じゃん。
ただおしっこするだけなのに。
いや。
ただではない。
トイレ以外で。
自分の意思で。
そう考えると。
ものすごく抵抗がある。
二十二年間。
ここではしない。
服を着たまましない。
漏らしてはいけない。
ずっとそうやって生きてきた。
それを突然。
今日から出してください。
と言われても。
身体が納得するわけがない。
「……なるほどね」
ちょっとだけ。
訓練の意味が分かった。
認めたくないけど。
私は息を吐いた。
考えない。
力を抜く。
ここは大丈夫。
穿いてる。
漏れても問題ない。
「…………」
しばらくして。
じわ。
「っ」
反射的に止めた。
止めてしまった。
「違う違う違う」
今は止めちゃ駄目。
もう一度。
力を抜く。
じわ。
温かい。
私は天井を見た。
「…………出た」
出た。
紙おむつが静かに吸収していく。
外からは何も分からない。
床も濡れない。
服も濡れない。
完璧。
成功した。
たぶん。
「…………」
私は両手で顔を覆った。
こんな成功。
人生で一度も欲しくなかった。
◇
翌朝。
尿意。
トイレ。
止まる。
部屋。
紙おむつ。
出す。
昨日より少し早い。
その夜。
同じ。
次の日。
また。
三日目。
私は気づいた。
「…………これ」
かなり慣れてきている。
紙おむつを穿く。
出していいと思う。
出る。
最初みたいに二十分もかからない。
数分。
いや。
時には数十秒。
人間。
慣れるんだな。
嫌なことにも。
「ひより」
「はい?」
部屋の外から母の声。
「おむつ、もう少なくない?」
「…………」
私は袋を見る。
確かに。
思ったより減っている。
「最近よく使ってるみたいだから、買い物ついでに買ってくるね」
「訓練だから!」
反射的に叫んだ。
少し間。
「うん」
優しい返事。
「…………」
全然信じてない。
その日の午後。
玄関が閉まった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
母が買い物へ出た。
私はしばらく待った。
窓を見る。
母が歩いていく。
角を曲がる。
見えなくなる。
よし。
誰もいない。
私は自室へ戻った。
そして。
普通の下着のまま。
立った。
「…………」
やるのか。
本当に。
アマネさんに言われた。
おむつだけでは駄目。
普通の下着でも。
場所に依存しないように。
「…………」
でも。
いきなり部屋は無理。
私は風呂場へ移動した。
床は濡れてもいい。
すぐ洗える。
普通の下着。
ズボンは脱いだ。
ここなら。
まだ。
「…………」
いや。
何が、まだ、なんだ。
私は風呂場の真ん中に立った。
尿意はある。
出していい。
「…………」
出ない。
やっぱり。
紙おむつとは違う。
身体が全力で止めてくる。
当然だ。
普通の下着。
濡れる。
身体は知っている。
「大丈夫」
小さく呟く。
誰もいない。
風呂場。
後で洗えばいい。
「…………」
じわ。
「あ」
止まった。
まただ。
身体が勝手に締める。
「もう!」
自分の身体なのに。
思い通りにならない。
私は壁に手をついた。
深呼吸。
力を抜く。
ここでいい。
ここで出していい。
失敗じゃない。
訓練。
「…………」
じわ。
今度は。
止めなかった。
下着が濡れる。
太ももに少し温かさが触れた。
「…………」
私は目を閉じた。
できた。
普通の下着で。
トイレじゃない場所で。
自分の意思で。
「…………」
数秒後。
私は風呂場の壁に額をつけた。
「私、何やってんだろう……」
誰も答えてくれなかった。
◇
その後も。
少しずつ。
続けた。
紙おむつなら、かなり簡単になった。
普通の下着では、まだ難しい。
最初は風呂場。
次は脱衣所。
母が買い物へ行っている間だけ。
床にはタオル。
さらに数日後。
自室。
やっぱり母がいない時だけ。
念のためタオル。
「…………」
私は足元のタオルを見る。
これ。
結局。
安全な場所を作ってない?
風呂場。
タオル。
母がいない。
全部。
漏らしてもいい条件。
アマネさんが言っていた。
場所を選ぶな。
「いや、無理でしょ」
一人で言った。
いきなりリビングの真ん中で何の準備もなくできる人間になりたいわけじゃない。
私は能力を使いたいだけだ。
方向を間違えるな。
でも。
最初よりは確実に違う。
少なくとも。
トイレじゃないと絶対に無理。
ではなくなった。
身体が。
少しずつ。
「出していい」という命令を覚えている。
肝心の【おもらし】は。
一度も出なかった。
普通に漏らす。
それだけ。
水が増えることもない。
謎の水が現れることもない。
能力者らしいことは。
何一つ起こらなかった。
ただ。
私はこの数日で。
トイレ以外でもおしっこができるようになった。
「…………」
文章にすると。
本当にひどい成長だ。
◇
一週間後。
ギルド本部。
私はアマネさんの執務室にいた。
隣にはユキさん。
「それで」
アマネさんが机越しに私を見る。
「成果は?」
「…………」
言いたくない。
「紙おむつなら」
「うむ」
「かなり普通に……できるようになりました」
「下着では?」
逃げられなかった。
「…………何回か」
「場所は?」
「風呂場とか」
「他は?」
「脱衣所とか……部屋とか……」
「なるほど」
何の報告なんだ。
これ。
社会人の会話じゃない。
「能力は?」
ユキさんが聞いた。
「出ませんでした」
「一度も?」
「はい」
「水量の変化も?」
「普通です」
普通。
何が普通なんだ。
「それでいい」
アマネさんが言った。
「え?」
「今やっているのは能力を出す訓練ではない」
「……そうでした」
忘れそうになる。
「貴様の身体に染み付いた『ここでは出してはいけない』という制限を崩している」
アマネさんは椅子から立った。
「その第一段階としては十分だ」
十分。
私の人生で。
まさかギルドマスターに、
漏らし方は十分だ。
と評価される日が来るとは思わなかった。
「では次へ進む」
「次?」
アマネさんが部屋の出口へ向かう。
「ついて来い」
まただ。
この人。
説明してから歩いてほしい。
私はユキさんを見る。
「何ですか?」
「行けば分かります」
この人も教えてくれない。
仕方なくついていく。
廊下。
階段。
さらに奥。
今まで入ったことのない区画。
アマネさんが一つの扉の前で止まった。
カードをかざす。
電子音。
扉が開く。
中は。
装備室だった。
壁沿いに。
防具。
ケース。
武器。
能力者用らしい特殊な装備。
その中央。
一式だけ。
明らかに。
私のサイズ。
黒と濃紺を基調にした衣装。
長いマント。
大きな杖。
それから。
どう見ても。
魔法使いっぽい何か。
「…………」
私は立ち止まった。
何これ。
アマネさんが振り返る。
「貴様の戦闘服だ」
「…………」
もう一度見る。
マント。
杖。
衣装。
どう見ても。
アニメとかゲームで見る。
水属性の魔法使い。
みたいな。
「着ろ」
私は即答した。
「嫌です」




