第11話 まずは漏らせ
目が覚めた時。
最初に見えたのは、知らない白い天井だった。
「…………」
どこだ、ここ。
ぼんやりした頭で考える。
白い天井。
白いカーテン。
消毒液みたいな匂い。
身体の下には、少し硬めのベッド。
「……医務室?」
声に出した瞬間。
昨日の記憶が、一気に戻ってきた。
ギルド本部。
第一訓練場。
アマネさんの炎。
私から溢れた、大量の水。
全部を一瞬で凍らせたユキさん。
そして。
私が漏らしたことを。
ギルドマスターに。
完全に。
はっきり。
看破された。
「…………」
もう一度寝よう。
全部夢だったことにしよう。
私は掛け布団を頭までかぶろうとした。
その時。
下半身に違和感があった。
ごわ。
「……ん?」
腰を動かす。
かさ。
ごわごわ。
聞き覚えがある。
いや。
最近、聞き慣れてきてしまった。
ものすごく認めたくない音。
私はゆっくりと掛け布団を持ち上げた。
パジャマのような医務室用のズボン。
その下。
腰回りが。
少し。
厚い。
「…………まさか」
恐る恐る、ズボンの中を確認する。
白い。
厚い。
見覚えのある形。
「おむつ……」
穿いていた。
大人用の。
私は静かに掛け布団を戻した。
天井を見る。
二十二歳。
能力者になった。
指名手配犯も捕まえた。
ギルドマスターとも戦った。
いや、私は戦っていないけれど。
そしてついに。
意識のない間に、人におむつを穿かせてもらうところまで来た。
順調に成長している。
何が。
「……誰……」
誰が穿かせたの。
そこが一番重要だ。
まさかアマネさん?
いや。
絶対嫌だ。
ユキさん?
それも嫌だ。
医務室の人?
それも普通に嫌だ。
選択肢に正解がない。
私は枕へ顔を埋めた。
「もうやだ……」
「起きたか」
「ひゃっ!」
勢いよく顔を上げた。
ベッドの横。
少し離れた場所に置かれた椅子へ、アマネさんが座っていた。
脚を組み。
腕を組み。
相変わらず偉そうに。
その隣ではユキさんが端末を操作している。
「起きたなら騒ぐな。医務室だ」
「誰のせいですか!」
思わず叫んだ。
「元気そうですね」
ユキさんが淡々と言った。
「元気じゃないです!」
私は掛け布団を腰まで引き上げる。
「というか!」
聞かなければならない。
嫌だけど。
絶対に。
「あの……これ」
「これ?」
アマネさんが首を傾げる。
察して。
お願いだから。
「お、おむつ……」
声が小さくなる。
アマネさんは一瞬考えて。
「ああ」
軽い。
反応が軽すぎる。
「誰が穿かせたんですか!?」
「医務室の女性職員です」
ユキさんが答えた。
私は死んだ。
「…………知られた」
「何がです?」
「何がって!」
私の能力。
発動方法。
漏らしたこと。
全部。
昨日まで、誰にも言えなかった秘密なのに。
「安心してください」
ユキさんは端末から目を離さないまま言った。
「医務室には、能力使用後に衣服が濡れたため着替えが必要だったことと、意識が戻るまで念のため吸収用品を使用するよう伝えただけです」
「念のため……」
「失神後は排泄管理が不安定になる能力者もいます。医療側としては特に珍しい対応ではありません」
そうなんだ。
知らなかった。
能力者って大変だな。
いや。
今そこじゃない。
「じゃあ……私の能力のことは?」
アマネさんを見る。
昨日。
完全に見られた。
普通に漏らしたところから。
その直後に大量の水が出たところまで。
アマネさんは椅子の背にもたれた。
「伏せた」
「……え?」
「昨日の発動条件について知っているのは、私とユキだけだ」
一瞬。
意味を理解できなかった。
「本当に……?」
「嘘をついてどうする」
アマネさんが面倒そうに言う。
ユキさんが補足した。
「内部報告には、『強度のストレス下における無意識型の水系能力。詳細発動条件はギルドマスター管理』と記録してあります」
「おもらしって……」
「書いていません」
「失禁って……」
「書いていません」
「本当に?」
「本当です」
力が抜けた。
私はベッドへ沈んだ。
「よかったぁ……」
心の底から出た。
本当に。
助かった。
もしギルド中に、
『あの新人、漏らすと水出るらしいぞ』
なんて広まったら。
もう二度と来られない。
国外へ行く。
できれば能力者制度のない国へ。
あるか知らないけど。
「今後も、他の者へ説明する必要はない」
アマネさんが言った。
私は顔を上げる。
「え?」
「発動条件を聞かれたら、詳細はギルドマスター管理だと言え」
「……それだけでいいんですか?」
「私が確認した」
アマネさんの声は淡々としている。
「それ以上、誰に説明する必要がある」
強い。
ギルドマスター。
ものすごく強い。
初めてこの人を、ちょっとだけ格好いいと思った。
「ありがとうございます……」
頭を下げる。
「勘違いするな」
すぐ言われた。
「貴様を哀れんでいるわけではない」
「そこは少しくらい哀れんでください」
「興味がない」
「ひどい」
私にとっては人生最大級の秘密なのに。
でも。
笑われなかった。
気持ち悪がられもしなかった。
変な慰めもなかった。
ただ。
能力の一部として処理された。
なんだろう。
雑に扱われているのに。
少しだけ。
安心する。
「むしろ問題は別にある」
アマネさんが言った。
嫌な予感。
「……何でしょう」
「貴様の能力だ」
やっぱり。
ユキさんが端末を持って、ベッドの横へ来る。
画面にはグラフのようなものが表示されていた。
「昨日、第一訓練場の観測設備が記録したデータです」
「データ?」
「外部へ顕現した魔力反応です」
私は画面を見る。
よく分からない。
線が。
こう。
ものすごく上がっている。
「この小さな反応が最初です」
ユキさんが画面を指す。
ほぼ平らな部分。
「その後、ここから急激に上昇しています」
線が壁みたいに跳ね上がっていた。
「……何これ」
「あなたの能力です」
「嘘でしょ」
「記録上は」
記録上は。
嫌な言い方。
「管理局で測定した時、こんなの出ませんでしたよ?」
「当然だ」
アマネさんが答える。
「この世界の測定器が観測できるのは、体外へ放出された魔力だけだ」
「体の中は?」
「直接は測れん」
そうなんだ。
能力者になったばかりなので知らなかった。
「俗に魔力量測定などと呼ばれているが、実際に見ているのは外部出力だ」
ユキさんが続ける。
「発動した魔力の強度、持続時間、再現性、制御精度。それらから総合的に能力を評価します」
なるほど。
登録時の私は。
能力を出せない。
出ても弱い。
制御できない。
「だからFランク……?」
「登録時点の評価としては妥当です」
ユキさんが頷く。
つまり。
管理局が間違えたわけではない。
あの時の私は、本当にFランクだった。
いや。
今もFランクだけど。
「じゃあ、昨日のあれは何なんですか?」
二人を見る。
アマネさんが楽しそうに笑った。
「それを今から考える」
嫌な笑顔。
昨日の訓練場を思い出す。
この人。
能力の話になると本当に楽しそうだ。
ちょっと怖い。
ユキさんが別の画面を表示した。
「まず、確認できている事実から整理しましょう」
「はい」
「最初にあなたは失禁しました」
「もう少し言い方ありません?」
「必要な事実です」
「はい……」
容赦がない。
「その時点では、大きな魔力反応はありませんでした」
「え?」
私は画面を見る。
「じゃあ、最初のは……」
「普通の排尿と考えるのが自然です」
真正面から言われた。
ちょっと傷ついた。
分かっていたけど。
改めて専門家に判定されると傷つく。
「その直後です」
ユキさんが線の跳ね上がっている部分を指す。
「大量の水が発生した」
「はい」
「そして、この水には明確な魔力反応が存在しました」
つまり。
普通のおしっこ。
その後。
能力。
やっぱり別物だった。
「なら単純だ」
アマネさんが言った。
「貴様の能力は、尿を大量に出す能力ではない」
「その言い方も嫌です」
でも。
少しだけ。
嬉しい。
本当に少しだけ。
私の能力は、おしっこそのものではない。
「そもそも、人間の膀胱からあの量が出るわけがない」
「それはそうですね」
あの訓練場を埋めた水。
どう考えても人体の容量ではない。
「なら何か」
アマネさんが指を立てた。
「魔力を水へ変換している」
ユキさんが続ける。
「現状では、それが最も可能性の高い仮説です」
「魔力を……水に?」
なんか。
急に能力者っぽくなった。
格好いい。
ちょっとだけ。
「じゃあ私、水を作れる能力なんですか?」
「そう単純でもない」
アマネさんが即座に否定した。
「普通の水生成能力なら、貴様のような発動の仕方はせん」
「ですよね……」
分かってた。
「問題は名前だ」
「名前?」
「貴様の登録スキル」
言われたくない。
ものすごく。
「【おもらし】」
言われた。
「声に出さなくてもいいじゃないですか!」
「名称の確認だ」
「私は毎回ダメージ受けてるんです!」
アマネさんは無視した。
「もし尿そのものを生成する能力なら、名称が【排尿】なり【尿生成】なりでもおかしくない」
それはそれで絶対嫌だ。
「だが判定AIが付けた名称は【おもらし】だ」
ユキさんが端末を閉じる。
「スキル判定AIは、能力の表面的な見た目だけで名称を決定しているわけではありません」
「じゃあ……」
「『何を出すか』ではなく」
ユキさんが言う。
「『漏らす』という現象そのものを認識している可能性があります」
私は黙った。
漏らす。
現象。
「昨日のあなたは、一度普通に失禁した」
「はい……」
「その後、再び同じような排出感覚が起きた」
「……はい」
覚えている。
二回目も。
最初は普通に漏らしたと思った。
温かかった。
感覚が。
ほとんど同じだった。
でも。
もうそんなに残っているはずがないのに、止まらなかった。
そこから一気に水が増えた。
「つまり」
アマネさんが言う。
「身体が『まだ漏らしている』と認識した結果、尿の代わりに魔力が漏れた」
「…………」
嫌だ。
説明としては、すごく分かる。
分かりたくないのに。
「魔力が水へ変換されて」
ユキさんが続ける。
「体外へ顕現した」
私はしばらく黙った。
「……それなら」
ずっと引っかかっていたことがある。
「なんで、そこから出るんですか?」
言ってから顔が熱くなる。
そこ。
具体的に言いたくない。
でも二人にはもうバレている。
アマネさんは気にした様子もなく答えた。
「それも、貴様がそう思っているからではないか?」
「私が?」
「水が身体から漏れる」
アマネさんが言う。
「貴様は何を想像する?」
「…………」
おしっこ。
答えたくない。
顔に出たらしい。
「それだ」
「まだ何も言ってません!」
「分かりやすい」
嫌な人だ。
ユキさんが助け舟を出してくれる。
「昨日の観測でも、魔力反応は身体の内部を移動して排出されたというより、身体のごく近くで水として顕現したように見えます」
「ごく近く……?」
「少なくとも、あの量が身体の内部を物理的に通過したとは考えにくいです」
確かに。
あれが全部体内を通ったなら。
私はもう人間の形をしていない気がする。
「つまり本来は」
ユキさんが少し考えてから言った。
「生成位置が固定されていない可能性があります」
「…………」
私は目を瞬いた。
「じゃあ」
目の前に。
水を出す。
そんなことも。
できる?
「理論上は」
ユキさんが言った。
「可能性があります」
ちょっと。
胸が高鳴った。
それ。
普通に格好いいじゃん。
手を伸ばして。
目の前に水を生み出す。
水系能力者。
魔法使い。
そういう感じ。
私が子供の頃に憧れていたやつ。
「できるんですか!?」
思わず身を乗り出す。
「今の貴様には無理だ」
アマネさんが即座に言った。
私は沈んだ。
「早いですよ」
「事実だ」
夢を見させて。
三秒くらい。
「二十二年間の認識を、一日で変えられると思うな」
それは。
そう。
確かに。
私は二十二年間。
トイレで用を足してきた。
当たり前だ。
身体から水が出る場所も。
そういうものだと思って生きてきた。
「だから訓練する」
アマネさんが立ち上がった。
嫌な予感。
ものすごく嫌な予感。
「まず、貴様は自分の意思で『漏らす』感覚を再現できるようになれ」
「…………はい?」
聞き間違い。
きっと。
まだ意識がぼんやりしている。
「もう一度お願いします」
「いつでも漏らせるようになれ」
聞き間違いではなかった。
「嫌です!」
即答した。
「拒否権は?」
「ありません」
ユキさんが先に答えた。
「ユキさんまで!?」
「必要な訓練です」
二対一。
勝てない。
「いや、待ってください!」
私は必死に考える。
抜け道。
何か。
「トイレ!」
「何?」
「トイレじゃ駄目なんですか!?」
名案だ。
能力のきっかけに排尿感覚が必要なら。
トイレですればいい。
誰にも迷惑をかけない。
床も汚さない。
尊厳も守れる。
完璧。
アマネさんが私を見た。
「貴様は戦闘中に敵へ言うのか?」
「何をです?」
アマネさんが少し芝居がかった調子で言った。
「『能力を使うので少々待て。トイレへ行ってくる』と」
「…………」
私は黙った。
想像する。
指名手配犯。
私。
戦闘開始。
ちょっと待ってください。
五分だけ。
トイレ行ってきます。
戻りました。
では戦いましょう。
無理だ。
絶対待ってくれない。
「……言いません」
「なら駄目だ」
正論だった。
ものすごく嫌な正論だった。
ユキさんが淡々と続ける。
「必要なのは、排尿そのものではありません」
「はい……」
「場所を選ばず、『漏らす』という身体感覚を自分の意思で再現できることです」
「言ってることは分かります」
「では」
「納得したとは言ってません」
でも。
反論できない。
戦闘中。
警備中。
屋外。
屋内。
どこでも。
どんな状況でも。
能力を使えなければ意味がない。
だから。
まず。
トイレ以外で漏らせるようになる。
理屈は。
完璧だった。
理屈だけは。
「こんな能力欲しくなかった……」
小さく呟く。
「今さらだな」
アマネさんが言った。
知ってる。
ユキさんが壁際に置いていた小さなケースを持ってきた。
「そのために、こちらを用意しました」
「……何ですか?」
嫌な予感しかしない。
ケースが開く。
中に入っていたのは、何枚かのショーツだった。
白。黒。紺。灰色。薄い桃色。
「……下着?」
「《イージス・アンダーギア》です」
「イージス……?」
なんか格好いい。
「女性能力者向けの戦術インナーです。高吸収、防漏、防臭、抗菌。吸収後も表面へ水分が戻りにくく、動作音もほとんどありません。尿や経血にも対応しています」
「へえ……」
思っていたより、ちゃんとした装備だった。
「軍や警備部門でも採用されています」
「普通に実用品なんですね」
「つまり、おむつだ」
アマネさんが言った。
「言い方!!」
「正確には吸水戦術インナーです」
「ユキさん、その訂正もうちょっと早くしてください!」
でも。
見た目は本当に普通のショーツだ。
家にある大人用紙おむつみたいな厚みもない。
これなら服の上から分からない。
「色も選べます」
「じゃあ……紺で」
「選ぶんだな」
「選べるなら選びますよ!」
ユキさんから紺色の一枚を受け取る。
普通の布地にしか見えない。
「これ……本当にそんなに吸うんですか?」
「かなり」
「外から分かります?」
「ほぼ分かりません」
「音は?」
「ほとんどしません」
「すごい……」
私はちょっと感動した。
文明。
能力者社会。
最高。
これなら訓練で失敗しても、周りにはバレない。
床も濡れない。
服も濡れない。
私だけが知っている。
……いや。
私だけが知っているのは普通に辛いけど。
でも大進歩だ。
「これなら家でも――」
「一枚四千八百円です」
ユキさんが言った。
「…………はい?」
「使い捨てです」
「四千八百円!?」
ユキさんが言った。
「…………はい?」
「使い捨てです」
「四千八百円!?」
思わずショーツを落としかけた。
高い。
下着一枚。
しかも。
使い捨て。
「何で!?」
それだけ高機能だ、高い理由は分かった。
わかったけれど。
納得はできない。
「これで訓練したら……」
計算する。
一日三枚。
一万四千四百円。
一ヶ月。
四十三万二千円。
「賞金首捕まえても赤字じゃん……」
何のために働いているの。
尊厳を削って稼いだ金が。
尊厳を守る下着に消えていく。
永久機関。
いや。
全然永久じゃない。
私の財布が先に死ぬ。
「ギルドでの訓練に使用する分は経費です」
ユキさんが言った。
「本当ですか!?」
救い。
「ただし自主訓練分は支給対象外です」
救いが消えた。
「家でもやるんですよね……?」
「当然だ」
アマネさん。
即答。
私は天井を見た。
そして。
頭に浮かんだ。
自分の部屋。
ベッドの横。
母が買ってくれた。
大人用紙おむつの袋。
一枚。
百数十円。
「…………」
嫌だ。
でも。
四千八百円。
百数十円。
嫌だ。
でも。
四千八百円。
私は目を閉じた。
背に腹は代えられない。
どうやら。
私の自宅訓練装備は。
これからも紙おむつらしい。
「では、今日は休め」
アマネさんが言った。
珍しく優しい。
「明日から始める」
前言撤回。
「……何をですか?」
聞く必要はなかった。
でも。
聞いてしまった。
アマネさんは当然のように答えた。
「漏らす訓練だ」
「…………」
私は掛け布団を頭までかぶった。
能力者になりたかった。
確かに。
一度くらい。
人生で。
そう願った。
でも。
こんな修行をするとは。
一度も願っていない。




