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双玉の戦乙女  作者:
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第十八話:『それぞれの休日』


交流会から一ヶ月。

 休養日になって、珍しくそれぞれは単独行動に出ていた。

 アイカは一人で修練場にやってきていた。

 去年、トーナメントから少しばかり距離が近くなったメイアやゾイドは、必要以上に近づくことはない。修練場も常に一緒にいるわけでもない。

 下手な勘繰りを周囲に与えない為、あくまで偶然、気まぐれの範囲でしか共に行動していない。

 その為、修練場には何人かいるものの交流のある者はおらず、アイカは修練場近くにある資料室に入っていった。

 動きやすい服装に着替えてはきたが、アイカが見たかったのは戦略資料や戦史だ。書庫にもその手の物はあるが、図解付きとなるとこの資料室にしかない。

 アイカは特別戦史や戦略に興味があるわけではない。だが、将来的に部下を指揮する士官になる以上、持っていて損はない知識の為面倒だと思いつつやって来た。

 いざという時、下手な判断をして無為に人を死なせるよりは今の面倒さを押し殺す。

 基本、そこに出入りする人間はおらず、一週間に一度、掃除の為に王宮の小間使いがやってくるだけだ。それはつい昨日の事だったので、ここには誰もいない。

 ……はずだった。


「お取込み中なら後にした方がいい?」


「そこは問答無用で拘束するところだと思うけどな」


 首を傾げながらのアイカの言葉に、少年の淡々とした声が答えた。

 黒髪に黒い瞳、どこか懐かしい顔立ちの少年は、立ち上がって膝についたほこりを叩いて落とした。


「ひとまず、誰?」


「職としてなら王宮の小間使い。名前としてなら教えない」


 淡々とした声音は変わらないままに、少年はにっこりと笑う。笑顔と声に差がありすぎて、どこか不気味だがアイカはそう思わなかったらしい。


「まぁ、別にいいけどね」


 あっさりと頷いたアイカは、自分の目的の物を探すために棚へと視線を移す。

 その様子に呆気にとられた少年は、小さく笑ってアイカに近づいていく。


「何を捜してんの?」


「え?」


「ここの掃除係だから、熟知してんの。手伝ってやるよ」


「…北方の内乱に関する資料」


「それならこっち。まだ比較的新しい資料だからな」


 初めて会った少年に、アイカは特に疑心を抱くことなく肩を並べて本棚の通路を歩いていく。

 まるで、それが当たり前のように違和感がない姿だった。


※※※


 セラは、魔術道具店に来ていた。

 その名の通り、魔術道具や魔術書を取り扱っている。一本路地を入ったところにあるこの店は、他とは違って閲覧席が設けられている。もちろん、閲覧できるのは写本されたものであるが、中には貴重な書籍も存在する。

 魔法師団の書庫などには入れない為、士官学校の書庫にはない魔術書を閲覧に来る魔術師は意外といるらしく、分かりづらい立地だが中々に繁盛している。…閲覧料が必要なので。

 閲覧席の一番奥で本を積み上げていたセラの前に、誰かが立った。

 少しして、目の前に立つ陰に気付いたセラが顔を上げ、きょとんと瞳を丸くした。


「…お久しぶりです。ラス先輩」


「おう」


 呆れた表情のラスが、セラが左右に積み上げていた本を見る。


「…抜け目ないな。希少で実用的なものばかりだ」


「実用性のない物を覚えても仕方ないので…。ラス先輩はどうしてここに?」


「常連なんだよ」


「…魔法師団の書庫、使えないんですか?」


「伝手はあるけど、おれは魔法師団所属じゃないからな」


「なるほど…」


 国軍に所属する魔術師ならば申請すれば書庫を使える。だが、優先順位は魔法師団所属の魔術師が上なので、いつ使えるかわからない。魔法師団は研究職もいるので、なおさらだ。

 さらに、魔法師団の術衣(ローブ)集団の中に、国軍の上衣(コート)は非常に目立つ。場違い感が半端なく、とてつもなく居づらいのだ。ラスは可愛がられているのでそれほどでもないが、それでも遠慮してしまう。


「それに、ここならコーヒーが出てくる」


「え?!」


「ラスは常連だからなぁ」


 セラが驚愕の声を上げた直後、笑い含みの低い声が響いた。

 視線を向ければ、店主である四十代前半の男性がトレイにカップを乗せて立っていた。


「久しぶりです」


「おう。お嬢さんと知り合いなのか?」


「士官学校の後輩です。それなりに親しいですよ」


「それを聞いて安心だわ。ミゲル様以外に友達いねぇんじゃと思ってたからな」


「友人はミゲル以外いないのは確かだから、別に良いけど。セラはあくまでも後輩」


「………」


 きっぱりと言い切ったラスに、セラはどう反応すべきか迷った。

 というか、きっぱりと友人が少ない発言をするのはどうなのか。かつて、アイカもしていたなと思い出して、セラは問題ないなと結論付けた。

 セラはあっさりと思考放棄したが、実際、ラスほどの高位貴族はそう簡単に友人を持つことはできない。双方が純粋な友情を抱いていようとも、家や周囲がそう見てくれるとは限らない為だ。友人と言っても差支えないのは、ミゲルの両親と叔父の考え、そして、ミゲルがラスよりも上位であるからだ。取り入っていると思われるかもしれないが、それぐらいなら問題ない。貴族である限り、誰と付き合おうといわれることだからだ。


「お嬢さんもいるかい?」


「良いんですか?」


「ご贔屓にしてもらえるんならな」


「では、遠慮なく」


 これからも利用しようと思っていたので、店主の言葉は苦にならない。

 丁寧に頭を下げたセラに、店主は何故か頬をかいて店の二階(住居部分)を見上げてから頷いた。

 そそくさとセラの分のコーヒーを入れに行った店主に、ラスとセラは首を傾げつつも読書を再開する。流れでラスはセラの対面に座る。

 本を机の上で開き、頬杖をついて読んでいるラスを、上目遣いに盗み見てセラはしみじみと思う。


(背は低いけど、顔立ちは綺麗なのよね。どっちかっていうと可愛い感じだけど、雰囲気の所為かしら。凛とした綺麗さがあるのよね…)


 上級生になってから余裕が出たというか、情報を集めるのに気を付けなくてよくなったので、女子の会話に耳を傾けることの多いセラは、ふとラスの容姿を観察する。

 ラスはフィリアよりも背が低い。同学年では確実に最小だったに違いない。そのラスより頭一つ分低いセラは、女子の中でもかなり小柄な部類になるので人の事は言えないのだが、そこは丸無視している。

 長身であるミゲルと並べば、まるで大人と子供だ。だが、華奢に思えても、けして弱そうには見えなかった。

 実際、ラスはかなりの腕前であるし、大きな得物を軽々と扱うことから膂力も相当なものであると分かる。それを身近で見て来たので、セラはラスを見た目で判断してはいけない、の代名詞だと思っている。

 セラは知らないことだが、入学したばかりのラスは少女のような愛らしさだったため、上級生の男子にそういった感じで迫られたり弄られたりしていたが、遠慮なく全て叩き潰した。アイカとフェナルの騒動の時に慣れていたのは、これをはじめとした諸々の経験ゆえである。


(これで学年総合三位、しかも、準爵と言えど独立した新貴族で実家はエルクイド侯爵家とか…。引く手数多ね…)


 実際、すでにラスに言い寄る女性や縁談を持ってくる貴族は結構いる。いくら独立したとはいえ、エルクイド侯爵家と関わりが切れたかと言えばそうではない。関係ないとラスが言い張ったところで、周囲はそうとは思わないし、常識的に考えて貴重な魔術師を手放すとは思えないからだ。

 だが、ラスはエルクイド侯爵家には一切関わらないと決めているし、連絡も取らないどころか偶然以外で会おうともしていない。会いたいはずがないので仕方ないが。

 ちなみに、若輩者である事と爵位が釣り合わないことを理由にラスは全ての縁談を丁寧に断っている。女性自身には、結構はっきりと断っているが。


(そういうの嫌いそうだし、大変ね…)


 他人事の意見に着地したセラは、手元の本に集中する。

 確かに他人事だが、それで全てを片付けてしまうのは少し薄情な気もする。それなりに世話になった事実があるのだから。

 そんなセラの様子に気付いていたラスは、表情は変わらないものの内心は何とも言い難い複雑な様子だった。

 武術でもそこらの騎士ではすでに敵わないレベルのラスが、セラの視線に気づかないはずがない。じっと観察されているのに気付いていたが、不快なものではなかったので放っておいたのだ。


(ある意味、一番わからんな。こいつ…)


 ラスがセラに抱く一番の感想だった。

 アイカは読めないようでいて結構わかりやすい。アイルとコールも、その生まれを考慮すれば十分に納得できる感情を持っていることが察せられる。フィリアとルフォルは全くの別物であるし、察してもそれが本当だと思いにくいので横に置いておく。

 セラは特に問題が無い。家族も環境も裕福ではなくともひもじさを感じるほど貧しくはない。縁談をまとめられそうになったのだって、代々続く家系ならよくあることだ。それに反発して自分の道を目指すのはおかしくないのだが、強い感情が一切ない。

 年齢的に反発するのは普通だ。勝手に決められるのはいくつになっても嫌な物だろう。

 普通の感情だ。そう、あまりにも普通すぎる。


(それぞれに意味は違うが、逸脱してるからな)


 アイカも、アイルも、コールも、フィリアも、ルフォルも何かしらの感情が他から逸脱している。それらに関わっておきながら、セラは誰にも染まることなく、共感する様子もなく自然に傍にいる。

 持たないで済むなら、その方がいいだろう感情を抱いている事は分かるので、別にかまわないのだろうが。


(まぁ、おれには関係ないからいいけどな)


 セラと同じく他人事の意見に着地したラスは、また同じく手元に集中する。

 互いに自分の目的に没頭し始めた二人を、こっそりと見やった店主は何とも言い難い表情を浮かべた。

 それからおよそ二時間、どうやって積み上げていた本を読み終わったのか、二人とも全ての本を元の棚に戻し始める。


「もう昼か。飯でも食いに行くか?」


「奢りですか?」


「遠慮って言葉を知ってるか?」


「甲斐性って言葉を知ってますか?」


「見せる相手は限定で良いと思うんだが…。まぁ、良いけど。行きつけで良いか?」


「奢ってもらうのに文句は言いませんよ。というか、行きつけどのくらいあるんですか」


「色々」


「…なんか、ラス先輩に興味が出てきました」


「…今まではなかったってか、おい」


 軽口をたたき合う二人が自然と並んで出口に向かうのを、店主は生暖かい笑みで見送った。

 出口で振り返って二人して一礼したのに軽く手を振った時、背後で物音がしたのに気付いて振り返った店主はため息をついた。

 裏の自宅につながる扉から出てきたのは、可愛らしいワンピース姿の少女だ。呆然と立ち尽くす姿は愛らしく、年齢はセラよりも年下だろうがそれほど離れてもいないだろう。

 店主の娘である少女は、しばらく固まっていた後泣きそうになりながら家に駆け戻っていった。


(失恋、てわけじゃないんだが…。望み薄だろうなぁ…)


 ラスに淡い恋心を抱いていたらしい娘を哀れに思いつつ、鈍いのかわざとなのか今までのアプローチをスルーしまくったラスにわずかに怒りが湧いた店主だった。


※※※


 コールは、国軍詰所に併設された食堂でアルバイトに精を出していた。

 フィリア達のおかげで、不安があった魔法や座学に余裕が出てきはじめた為、わずかばかりでも稼ごうと思ったからだ。

 士官学校生ということで、兵も料理人も遠巻きなのだがコール本人は一切気にしていない。ここで気にするようでは、士官学校で生活していけない。

 ただ、フィリア達のおかげで学校生活は予想より穏やかではある。面倒くさいことはこまごまとあるが。

 アルバイトの内容は、裏方業務なので精神的には非常に楽だ。

 皿洗いや皮むき程度なのだが、黙々とこなせる仕事が性に合っているらしく、徐々にコールはテンションが上がっていた。

 そんな時、影が差した。思わず視線を上げれば、軍服を身に着けた美丈夫が笑みをたたえて立っていた。


「やぁ、初めて見る顔だね」


「…はぁ、最近入ったばかりでして」


 癖の強い金の髪を長く伸ばしているのが良く似合っているのだが、コールは眉を寄せて無意識に上半身を後ろにそらした。


(なんか、気持ち悪い…)


 女性的ではない美貌なのだが、どこかねっとりとした粘着質な雰囲気を感じる。しかも、適度に着崩した感じが妙な違和感を覚える。

 その違和感を含み、全体的な印象としてコールは気持ち悪いと思った。

 美丈夫の徽章は第二師団を示しているが、王都騎士団か地方騎士団かは分からない。

 コール自身、前線配備以外の部署に興味はなかった。身分的に配属されることはないと分かりきっているからこそだ。

 軍全体で見れば上司になるが、直接的には関わることはまずない人物なので、覚えておくことすらコールはこの時点で放棄している。元より、日々の勉強だけで手いっぱいなのだ。


「出稼ぎの子かな?」


「…士官学校第二八七期生です」


「あぁ、殿下方と同期の子か。働いているということは貴族出身ではないんだね」


「そうですが…」


 なんだこいつ、と胡乱げな眼差しを向けるコールに対して、美丈夫の笑みは深まり距離が近くなる。

 きっちり手入れのされた手が伸ばされるのに、言いようのない悪寒が全身を駆け巡る。

 瞬間、響いたのは凛とした高くもなく低くもない声だった。


「何しておられる? エルンハルト殿」


 美丈夫―――エルンハルト=ルオン=ロレノスは、動きを止めてそちらを見やると不愉快そうに眉をひそめた。

 コールは視線をやった先に立っている人物に、瞳を丸くした。

 高く結った長い黒髪に藍色の瞳をした女性は、エルンハルトに軽蔑の眼差しを向けている。


「貴殿は西方騎士団所属だろう。定期報告時期でもなかろうに、何をしておられる?」


 地方騎士団は師団長がいる王都に月一で定期報告を行うのだが、それは月初めに行われるので半ばを過ぎている今は定期報告を行った者は任務地に戻っているはずだ。

 コールのような士官学校生は知らないが、エルンハルトは定期報告担当から外されている為ここ数年王都に来ることはなかったのだ。

 その理由を知っている女性は、コールと二人でいるエルンハルトに警戒心と敵意をむき出しにしている。


「休暇で戻ってきてはいけませんか? 第一師団第二連隊長ロザリア=ルゥナ=ファルエン様」


「休暇中ならば軍服は脱がれてはいかがか? 第二師団西方騎士団第一大隊長エルンハルト=ルオン=ロレノス殿」


(寒い…)


 二人の間に挟まれたコールは、体感温度が氷点下に至ったような気がした。吹雪いてすらいるように感じられる現状に、逃げ出したくなったがどういう状況かわからないほど鈍くない。

 何らかの危険がコールの身に迫り、それを女性―――ロザリアが阻んでくれたのだと理解している。だからこそ、逃げ出すのは不義理だと思えた。


(つーか、ロレノスとファルエンって聞き覚えあんだけど…)


 この時、コールは気付かなかったが、後にフィリア達と話して二人のことを知ることになる。


「…貴方が何をしようと貴方の勝手だが、常識的範疇になさった方がいいだろう。相手は成人していない学生だ」


 にらみ合いに疲れるだけと思ったのか、ロザリアは遠まわしにくぎを刺す。それにエルンハルトは眉を寄せて小さく舌打ちをこぼす。

 優美で柔らかな印象が一変し、軍人らしい荒っぽさがのぞく。


「嫁き後れが、常識派ぶって…」


「私は私の意思でこの場にいる。それを誰かにとやかく言われる筋合いはない。…これ以上、軍服をまとったままで自らの欲を満たそうとするのなら、第二師団長へ報告することになるが?」


 女性にとってはとんでもない暴言だったが、ロザリアは気にしていないのかきっぱりと言い切ると最後通牒を突きつける。それに、分が悪いと思ったのかエルンハルトは苦々しげな表情を浮かべて、踵を返す。

 軍位では上であるロザリアに挨拶もないのは非常識極まりない。だが、ロザリアは気にしていないらしく表情を変えることもなく、呼び止めて注意することもない。

 傍観者になっていたコールが、眉を寄せる。

 踵を返した直後、エルンハルトがこぼした呟きが聞こえたからだ。つまり、ロザリアにも聞こえていたはずなのだが。


 泥犬の娘如きが。


 小さな呟きにこめられた明確な悪意。その意味を、コールは知っている。

 一部の貴族が、農民を罵る時に使う言葉だ。


「…気にするな。聞きなれた言葉だ」


 不機嫌そうなコールに気付いたロザリアが苦笑を滲ませる。

 その様子には諦めも見て取れて、コールは何も言えなくなる。

 根っからの農民であるコールとは違い、貴族であるロザリアは想像するに難い苦難を味わってきた事だろう。

 沈黙したコールを見下ろして、ロザリアは小さく息をつく。


「あいつには近づくな。見かけたら出来るだけ会わないように心掛けろ。…難しいだろうがな」


 身分や立場を考えれば、関わらないでいるのは難しい。

 向こうから声をかけられたらどうしようもない。立ち話でもコールから切り上げることは出来ない。

 下手すれば妙な拡大解釈と嫌がらせで罰則を受けることになる。そうなれば、昇進はもう望めないところに落ちてしまう。


(出世自体は興味ねぇけど、出来ないのは困るしな…)


 士官学校に入った理由が理由だけに公言できないし、今では内心を占める割合は多くないが、消えたわけではない。その為には、ある程度の出世はしたい。


「…まぁ、出来る限り気を付けます。一つ、聞いてもいいですか?」


「なんだ」


「あの人、何か気持ち悪かったんですけど…」


 敬語は崩さないままだが、容赦ない言葉にロザリアは瞳を丸くする。

 瞬きの後、笑いをこらえるようにロザリアは口元を覆い、緊迫していた瞳を緩ませる。


「…そうか、気持ち悪い、か…。知らないのは仕方ないと思っていたが…」


 微妙に笑いが含まれた声音に、コールは首を傾げるしかない。

 その様子に、ロザリアは笑いを治めて苦笑を浮かべる。


「エルンハルト殿は、事あるごとに君のような少年に声をかけている。自分より立場や家柄が低い者に限って、な」


「それは…」


 どういう意味かと聞く前に察してしまい、コールは何とも言えない表情を浮かべる。


「女に興味がない分、女の立場からしたらマシだが、目をつけられた少年達はたまったものではないな」


「やっぱりそういう意味か…」


 思わず素で呟いてげんなりしたコールを哀れに思ったのか、ロザリアは肩を叩く。


「安心しろ。多分、そういう意味ではもう絡んでこないだろう」


「? どういう意味ですか?」


「エルンハルト殿でも、王族ゆかりの者には手を出さないだろう。…味方ではないから警戒しておくに越したことはない」


「なるほど…。ご忠告ありがとうございます」


(なんか、ほだされてきた気がする…)


 素直に頭を下げながら、コールは内心で遠い目をする。

 入学当初は軍人貴族嫌いで会話すら厭っていたというのに、今や友人達がそれらの代表格の家系だというのだから何とも言えない。さらに、そのおかげ(?)で接することに抵抗感がなくなっているのだ。

 ほだされている現状を目の当たりにして、過去が過去だけに複雑な感情がコールの中で渦巻いている。


「では、最後にもう一つ忠告を」


「はい?」


「…尊敬しているかどうかは別として、目上の者と相対する時は立って姿勢を正せ。エルンハルト殿は目的が目的だったし、私の場合は気にしないからこの場では不問にするが、細かい事にこそこだわる者は結構多い。面倒事を避けたいなら、徹底しておけ」


「…はい」


 エルンハルトに声をかけられてから今に至るまで、コールは立ち上がろうとさえしていない。

 それを指摘されて、若干気まずくなる。

 コールの視線が泳いだのに気付いて、ロザリアは何かしら察したらしい。


「思うところは数多あるだろう。…分からないでもない」


 苦笑を含めた声音に、しばらく黙っていたコールは立ち上がり学校で習った通りに深く頭を下げる。


「助けていただきありがとうございます。先達のご忠告痛み入ります」


 先ほどとは全く違うコールの態度に、ロザリアは困惑する。それが晴れないうちに顔を上げたコールは、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「……これで良いっすか?」


 砕けた敬語で問いかけられて、ロザリアはしょうがないと言いたげな笑みを浮かべて息をつく。

 暗くなりかけた空気を軽くしようとしたらしいコールの態度に、ロザリアは一つ頷く。


「そうだな。親しげに見せる必要はない。上辺だけでもいいから、無難な態度を心掛けておけ」


「了解っす」


 軽い頷きに、ロザリアは踵を返す。


「…おそらく、もう会うことはないだろう。努力を怠るな」


 激励を残して去っていくロザリアに、コールは感嘆の息をつく。


「…近衛にもまともな奴がいるんだな。しかも、並の男より男前」


 しみじみとした感想は、誰にも届かなかったが多くの者が頷くだろう。

 ロザリアは女性騎士や身分の低い侍女などに人気がある。

 コールは知らないながらに、その人気の理由を目の当たりにして好感を抱いた。

 確実にほだされている現状から目をそらし、長らく中断させられていた仕事に戻る。


※※※


 アイルは大通りに面した服飾店でアルバイトに勤しんでいた。

 表に出るのではなく、裏方だ。荷物の運び込みや梱包、仕分けだがかなり体力を使う。

 面接に行った折、店員はアイルが士官学校生と知って好意的になったが、姓を聞いた瞬間に何とも複雑な感情に支配された。

 それを何となく察しながら、アイルは黙々と働いている。何を言う必要性もなければ、同情を買おうとも思っていないからだ。


(まさか王宮の小間使いが良く来るなんて思っていなかったけどな)


 王都の店の中でも中堅どころにある店は、大通りに面しているにしては非常に庶民的だ。王宮仕えと言っても通常の奉公よりも給料が良いとはいえ、高給とはいいがたい小間使いにも手が届きやすい。

 同じ顔が月に二度はやってくる。だが、一人だけ四度やってくる少女がいることに、アイルは気付いた。


(王宮仕えって、副業可だったんだな)


 ちょっとずれた感想を抱いているのは、少女が買い物では無く納品もしくは仕入れの為に来ているからだ。

 アイルよりも年下と思しき少女は、同年代とは違って淡々とした表情と声音で必要な事しか口にしないし、用が終わればさっさと帰っていく。無駄なことはしない、と言わんばかりのしゃきっとした背中に感嘆したのを覚えている。

 少女が治める商品は質が良く、納品後二日ぐらいで完売する。


「あのねぇ、一昨日に言っただろう?」


 運び込みが一段落して、背筋を伸ばしていると表の方で女将の困ったような声が響いた。

 ちょうど休憩に入る寸前ということで、アイルはわずかな好奇心で店の方をのぞき込む。数人の従業員もこっそりと仕事をしながら伺っている。


「うちは確かに高級店じゃないし見習いの作品も取り扱ってるが、何でもかんでもってわけじゃないんだよ」


「でもっ…!」


「置いてほしいんだったら、もっと腕を磨きな。もしくは、あんたの作品でも置いてくれる店を探すんだね」


「そんなっ!」


 年若い少女の甲高い声と女将の言葉に、何となく察したらしい従業員は仕事に戻っていく。慣れたようなその様子に、良くあることなのだろう。

 見習いの作品を商品として扱ってくれる良心的な店は、こういった大通りには珍しい。女将の言うように他に捜そうと思えばあるが、目に留まりにくい。手に職をもって自立しようと思うなら、多くの目に留まる店に置く必要があるだろう。


「今回は、前よりももっとうまくできたんです! お願いします」


「あのねぇ……っ」


 食い下がる少女に、うんざりしたような女将の声音が唐突に止まる。ひきつった呼気がもれたようなかすれた吐息とともに、女将の小さい目が見開かれる。それを不審に思ったアイルは、そろりと女将の後ろに立つ。

 少女の手から作品をひったくった女将は、まじまじとそれを見て人の良さそうなおっとりした目元をきりきりとつり上げる。


「バカにしてんのかい!?」


 憤懣やるかたないと言わんばかりの怒声は、人通りの少なくなる時間帯の通りに良く響いた。

 いきなり怒鳴りつけられた少女は、顔をこわばらせている。戸惑っているわけでもないので、怒鳴られる理由があるのかもしれない。

 小柄な女将の肩越しにその手元を見やったアイルは、納得した。

 作品は刺繍だ。それぞれ指し手によって特徴がある。誰にでも癖がある為、それなりに目が肥えていればさし方や色合い、構図によって誰の作品かわかる。

 目の前の少女の作品をアイルは見たことないが、女将の持つ作品には見覚えがある。誰の物か、一目でわかるくらいにはアイルもよく見ている。見事だと思って、納品されてからしげしげと見つめてしまっていたのだ。


「他人の作品を自分の物と偽って評価を得て、何になるってんだい! この恥知らずがっ!」


 普段温厚な女将の一喝に、周囲の人々も驚いている。女将は職人として店に入りその腕や人柄を見込まれて、今の店主と結婚した。手に職をもって現在まで来たからこそ、少女の行動に憤りを隠せない。それを周囲の人々は知っている上、一喝の内容で怒りの理由を理解した為、少女に対する視線は非常に冷ややかだ。

 強張った表情の少女は、どういった思いからその表情を浮かべているのか。


(罪悪感からなら良いけど…)


 どうしてばれたのか、という感情からなら救いはない。

 人の物を盗んだ上にそれを自分の物と偽っている。二重の犯罪を行った上で、罪の意識が無いのならどれだけ正論を言われてもきっと聞き入れないだろう。理不尽だと逆恨みするかもしれない。

 罪の意識があるように感じられない少女に、アイルがため息をついた時向かいから歩いてくる少女に気付いた。それに、思わずアイルの表情がひきつってしまったのは致し方ない。


(今日って、納品日かよ…!)


 刺繍は短時間で出来上がるわけではない。だが、一定の納品期間を設けているのは店として当然だ。

 女将も気付いたのだろう、何とも言えない歪な表情を浮かべる。

 アイルがそっと距離を取った時、少女が立ち止まった。女将の前についたからだ。


「すみません、少し遅れました」


「いや、構わないよ。フィオは期日を守ってくれるから、十分ぐらいで目くじら立てないよ」


 納品に来た少女――フィオは、女将の後ろにアイルがいるのを認めて小さく会釈する。

 フィオの登場に一気に青ざめた少女の事は気にも留めていないのか、持っていた袋から作品を取り出す。


「作っておいたのが一つなくなったんですけど……って、なんで持ってるんですか?」


(鈍いのか? それともただの無関心か?)


 ようやく女将の手にある作品に気付いたのか、フィオが首を傾げる。

 女将は一つ息をついて、少女の方をじろりとにらみつける。


「この子が、自分の作品だって持って来たのさ」


「へぇ…。あんた、刺繍論外じゃない。何まるわかりの嘘ついてんの」


 あまりにも率直な発言に、さすがの女将も口元をひきつらせる。

 少女は目元をつり上げるが、何か言う前に淡々としたフィオの言葉にさえぎられる。


「もう王宮で働きたくないなら、自分の得意分野で勝負しなさいよ。まぁ、見た目以外にないからこんなバカな事してるんだろうけど」


 中々にきつい一言に、女将が額に手を当てて天を仰いだ。

 アイルも頬をひきつらせる。普段の態度から、面倒事を嫌うことなかれ主義に見えていた為、この言葉には心底驚いた。内容の辛辣さに思わず引いた。


「だいたい、編み物とかならともかく、刺繍なんて縫い手の癖が出るから、職人が見たら誰のってわかるわよ」


 現に、女将は一見して作品がフィオの物だと気付いている。

 そのことに思い至らなかった少女がバカなのか、それほど切羽詰まっていたのか。


「それに、今誤魔化せても、その後どうする気よ。ずっと盗み続けるの? その前にあたしが王宮を辞めたらどうする気?」


 現実的な問題を突きつけられて、少女は初めて気づいたのだろう。視線が泳いでいる。


(思った以上にバカだな。それほど切羽詰まってたのかもしれないが…)


 切羽詰まった内容がわからないだけに何とも言えないが、アイルはため息をついた。

 興味のなかった内容は、フィオがあっさりと口にしたが。


「玉の輿狙って複数の騎士の誘いに乗ったりするから、居づらくなるのよ。尻軽の金目当て、て笑われてるわよ」


 おそらく、よりいい条件の相手を探していたのだろうが、少女の年齢(アイルと同年代か少し下)からすればその行動はありえない。誘い、というのがどの類の物だったのかは詳しく分からないが、尻軽と言われるぐらいの内容と言うことだろう。

 話を聞いていた女将は職人としてだけではなく女としても軽蔑に値すると判断したのか、冷ややかな眼差しが絶対零度に変化した。従業員達も、嫌悪を隠そうともしない。

 少女は、男好きのする美貌をしている。年の割に発達した肢体も、男の欲望をくすぐるのだろう。だが、複数から声をかけられるということは、遊び、という認識も多いのではないだろうか。王宮の小間使いなど、金を払わずに抱ける娼婦、と思っているバカも確かにいるのだから。

 それが本気にならないとは言わないが、おそらく少女はその容貌と肢体から慣れていると思われたか男あさりが目的だと思われたかのどちらかだろう。後者だったのだから、遊びだったと分かっても文句は言いづらいだろうが。

 少女の思惑と騎士達の思惑が、方向性は違えど合致した結果、少女は居づらくなっている。同じ小間使いや監督係の侍女、さらには女官にまで噂が出回った結果だ。騎士達の中では、小間使いの扱いは暗黙の了解となっているので別に取りざたされていない。

 真摯に少女を口説き色よい返事をもらっていた騎士もいたので、その人は哀れだったとしか言いようがないが。


(そりゃ、居づらい…)


 王宮で働く以上、一定の品の良さが求められる。特に女官はそういうことに厳しい。身分の所為か小間使いを見下しがちだが、同じく王宮で働く身として不品行は許せないのだろう。

 貴族出身の女官ににらまれては、解雇は目前ともいえるしこの焦りようなら騎士達にとって遊びだったということも分かっているのだろう。縋る相手がおらず、せっかく王宮に上がったのに不品行で解雇されるなんて親もいい顔をしないだろう。最悪、絶縁されて放り出される。

 少女の生家がどういう身分なのかは知らないが、おそらくは農民ではないのだろう。そうであれば、見た目以外に取り柄が無い、と言う事態にはならない。内職は農民にとって必須なのだから、得意不得意はあっても、論外とまではならない。


(でもなぁ…)


「自業自得だろ」


 思わず、思考が言葉として飛び出していた。

 フィオと女将と少女、三人の視線が一斉にアイルに向かう。

 そこでアイルは声に出してしまったことに気付いた。しまった、とは思ったが言ってしまった事はしょうがない。


「自分の不器用さと不品行が理由だろう。諦めてとっとと王宮を辞めて、故郷で適当な相手と結婚しろよ。まぁ、もらってくれる奴がいるかは別として」


 噂と言うのはどこから広がるかわからない。

 少女の故郷がどこかは知らないし、どんな生まれなのかは分からない。だが、どれだけ遠くともリボニス王国はけして広くない。王宮に行って数年で帰って来た未婚の少女の話は、面白おかしく交わされることになるだろう。

 結婚相手を見つけて来たのでも、家に呼び戻されたのでもなく、自ら王宮を辞してくるとは誰も思わない。その内実がどれほどどろどろしているか知らなくとも、王宮勤めと言う肩書がどれだけ名誉な事かは誰もが知っている。

 少女が帰ったところで、変に捻じ曲がった事実混じりの話でこの先は日陰者として後ろめたい思いをすることになるだろう。

 それがわかっているからだろう、少女は青ざめている。

 家族に何か思いがあるのだろう。だとしても、アイルには関係が無いし、フィオや女将も関係ない。


「多分、近い内に解雇されるだろうから、下手な誤魔化しするよりも再就職先を見つけといた方が良いぞ? 解雇される前に辞職するんなら、言い訳は立つんだし。まぁ、王都内ではやめといた方が良いだろうけどな。誰と遭遇するかわからないから」


「なんでそんなこと…!」


 わかるのかと言いたいのだろう。

 実際、アイルがそんな事情を知ることは本来なかった。だが、士官するということは王宮勤めと同義だ。だから、フィリアとルフォルは暇があれば王宮での注意事項や裏話を聞かせている。特にアイルとコールに。

 王宮や軍に伝手が無い二人に、せめて情報だけでもと言う思いゆえだ。


「一応、士官学校生だからな」


 その一言で、少女は自分がどれだけの醜態をさらしたのか理解したのだろう。意外に頭は悪くないようだ。

 現役だけでなく、これからの士官達にこの醜態が広く知られるとなれば、もう行場はない。王都で結婚すること、特に玉の輿は諦めた方が良いだろう。貴族の情報網は恐ろしいほどなのだ。

 そこまで理解したかどうかはともかく、少女は青ざめたまま走り去っていった。


「謝罪くらいしなさいよ」


 ぼそり、と呆れたように呟くフィオは正論だが、微妙にこの場にそぐわない。


「礼儀と節度がないってことだろ。まぁ、もう二度と関わらないだろうが」


「なんで?」


「…王宮から出ていくだろ。王都の店にも噂は広がるだろ。店にしても不品行な人間を雇いたくないだろ。従業員や客と関係を持たれても困るからな。だから、どれだけ気まずくても故郷に帰るしかない。どこなのかは知らないが」


「…確か、ラバルド侯爵領の北部じゃなかったかな? 森林を挟んで北だから、元子爵領よね」


「うわぁぉ」


 思わず、変な声が出たアイルは目元を覆って天を仰いだ。

 それにフィオと女将は首を傾げる。


(なんか、呪いじみたものを感じる…)


 今後、何らかで波乱がありそうな気がして仕方ないアイルは、休憩時間中頭を抱えることになる。

 これをきっかけに納品の度にフィオと談笑する仲になったのは、余談である。


※※※


 王宮と言う魔窟で、フィリアとルフォルは書庫にこもっていた。念入りに結界まで張って。

 本来、魔術師団の管轄範囲外の王宮内魔法使用は厳罰に処される。最低でも王宮からの永久追放だろう。だが、現在、二人がいるのは重要文書が保管されている書庫だ。一定以上の管理と書庫官吏しか立ち入れない厳重管理区域である為、常に何らかの魔法が働いている。侵入者防止のトラップであったり、火災防止であったり。

 そこに、消音と隠蔽の結界魔法を二重掛けしても、誰も気に留めない。どこにでも隠し通路がある為、規模の大小はあれど隠蔽魔法がかけられているし、高位官吏同士の秘密の会合が行われる場合は消音魔法が使用されることもある。魔術師自体が多くはないので常時あることではないが、一日にどこかしらで一度は使用された形跡があるので誰も気にしない。殺傷能力があるようなものでも、上級魔法でもないから、気付いたとしても誰もが知らぬ存ぜぬを通すだろう。

 二人はそういった内情を知ったうえで行っているのだから、段々と誰かの影響を受けている気がする。誰とは言わない。


「なんか、意図的に隠されている気がするわ」


「アイカじゃないけど、めんどくさい」


「全くだわ」


 盛大な溜息をついたフィリアに、ルフォルもうんざりしたような表情で開いていた本を閉じる。

 二人は、ある目的を果たす為に必要な書物を探していた。


「お祖父様の個人履歴がわからないってありえないわ」


 手始めに捜していたのは、二人にとって祖父にあたるラルガン=サングリアの履歴。

 国家の英雄と称えられる人物の履歴が無いのはおかしい。

 サングリア家はセラの家のように代々軍人の家系だがそんなに上位ではない。

 ラルガンと言う天才ともいえる存在が生まれたことで名を上げたが、元々子供が多い家ではなく、ラルガン自身出世まで時間がかかり五十を超えて結婚し子供が生まれている。

 その為か、フィリア達の母は一人娘でラルガンより先に母を亡くしており、ラルガンの死後はその栄誉をねたむ者達に家名断絶に追い込まれている。曲がりなりにも王妃の実家であるが、その王妃自身が早逝している上家名を継いで貴族として下ってもおかしくないフィリア達をゼインが忌み嫌っている為、あっさりと潰されてしまったのだ。

 はっきり言って、それはもうどうでも良い。

 フィリア達にとって、重要なのは過去ではなくて未来だから。


「戦争記録や褒賞記録なら分かるけどな」


「それがわかったって、どうにもならないわ。褒賞なんて何一つ残ってないじゃない」


 先々代の王から下賜されたという武具や先王が与えたという領地などは、死後に王家へ返納されている。そうなると相続する権利はフィリア達にはない。

 大柄であったというラルガンが扱った大剣や鎧をルフォルが扱えるわけもなく、何の後見もなく領地運営などフィリアに出来るはずもないので、相続する気もない。


「出生地すらわからないってどうなのよ…」


 苛立ったようなフィリアの発言に、ルフォルは持っていた本を乱暴に積み重ねる。

 サングリア家は王都住まいだ。だが、元々は地方の豪氏であったらしい。

 その地方がわからない上、その当時に仕えていたであろう領主もしくは属していたであろう貴族のことすら欠片も記されていない。

 あまりにも露骨だ。


「疑問なのは、どうしてここまで徹底して隠すのか、だよな」


「全くだわ。家は断絶、母様は亡くなってるし後見となるような貴族もいないんだから、わざわざ隠す必要はないわよね」


 取るに足りない情報のはずだ。

 それを一から調べなおそうと思ったのは、書庫によく出入りしていたのにサングリア家の記録を目にした記憶が無かった為だ。

 卒業後の事を考えれば、知っておいて損はないと考えたからでもあるが。


「おそらく無駄でしょうけど、まだ半日あるわ。探せるだけ探しましょう」


「そうだな。…見つからなかったら、アイカとかに聞いてみるか? ラバルド侯爵家なら改ざんとかはしてないだろ」


「そうね。年代的にも資料とかあってもおかしくないし、話をお聞きすることもできるかもしれないわね」


「先輩達も、知ってるかな?」


「頼るなら、ミゲル公子でしょうね」


「エルクイド侯爵家は、頼れないからな」


 独立しているのもあるが、関わりが無いので聞こうにも聞けない。

 そっと二人はため息をつく。


 無言で次の本に手を伸ばす。

 そこにも求める情報は一文字も記載されていないことを分かっていながら。


※※※


 ふいに、窓から差し込む日差しが赤く染まっているのに気付いて、アイカは顔を上げる。

 時間を忘れて読みふけっていたことに、苦笑する。

 アイカはそれほど読書家ではない。必要であれば一日中読んでいることもあるが、そうでなければ一文字も眼にしないこともある。

 理由は明白。面倒だからだ。

 文字を追うと目が疲れ、肩が凝り、背筋が固まる。それが面倒な上に鬱陶しいことこの上ない。


「帰るのか?」


「門限があるからね」


 顔を上げたアイカに気付いた少年が、なるほどと頷く。

 結局、少年は適当に資料を読みながらずっと資料室にいた。

 職務上、目にしてしまうことはあるだろうが、意図的に見るのは職務規定上違反になるはずだが、と首を傾げたアイカは、まぁばれなければ問題ないか、と勝手に納得した。


「オレ、ここらの清掃担当だから、好きな時に来いよ」


「ありがとう。そうだ…」


「ん?」


「アイカ=アディス=ラバルド。よろしくね、名無し君」


 小さく微笑んで帰っていったアイカを見送った少年は、しばらくその場に立ち尽くし、我に返って噴き出した。


「…あんたを知らない奴がここに居たら、とんでもないバカだっつぅのに、律儀な…」


 笑いをこらえようと体を折り曲げていた少年の瞳が、好奇心と警戒の光を宿して怪しく光っていたことに、気付く者はいなかった。













フラグ、立った、かな…?

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