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第8話 推しではなく、君を好きになった

 ユリウスは、静まり返った卒業パーティーの会場で、婚約者のヴィオレッタ・ローゼンベルクを見つめていた。


 先ほどまで彼女を非難していたオスカー・ヴァレンティスたちは、王太子の叱責を受け、ようやく口を閉じている。

 リリア・ベルフォードへの嫌がらせが実際にあったことは確認された。

 しかし、それをヴィオレッタが命じたという証拠はなく、取り巻きの令嬢たちも独断で行動したことを認めていた。


 学院内の問題については、正式な調査と処分を行うことになる。


 ユリウスは、オスカーたちが再び騒ぎ始める様子がないことを確かめ、ヴィオレッタへ視線を戻した。

 いつもなら落ち着いて微笑む彼女が、今は戸惑いを隠せずにいる。

 胸元に添えた手は固く握られ、何かを言いかけては、ためらうように唇を閉じていた。


(……ヴィオレッタは、どう思っているんだろうな)


 先ほど、ユリウスは大勢の前で婚約破棄を否定した。

 しかし、彼女が安心しているようには見えなかった。

 ユリウスは、その理由を考えた。


 今日の卒業パーティーで、ヴィオレッタは自分が命じてもいない嫌がらせの責任を追及された。

 親しくしていた令嬢たちが、自分の注意を勝手に解釈していたことも知った。

 そのうえ、王太子との婚約を破棄するよう、大勢の前で要求されたのだ。


 すぐに気持ちを切り替えられなくても、不思議ではなかった。


 ユリウスは、彼女のもとへ歩み寄った。


「ヴィオレッタ。少し、いいかな?」


 声を掛けると、ヴィオレッタは驚いたように顔を上げた。


「……殿下。はい、もちろんでございます」


 彼女は慌てて姿勢を正そうとしたが、ユリウスはその前に小さく首を振った。


「そんなにかしこまらなくてもいいよ。……大丈夫?」

「……はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」


 いつもどおりの丁寧な返事だった。

 けれど、ヴィオレッタはユリウスの顔を見たあと、すぐに視線を落としてしまった。


「……ただ、少し……驚いております」

「うん。そうだよね」

「殿下が、あのようにはっきりと婚約破棄を否定してくださるとは……」


 ユリウスは思わず目を瞬かせた。


「……えっ? そこ?」


 ヴィオレッタが顔を上げた。


「……そこ、と申しますと?」

「いや、だって……。私は最初から、ヴィオレッタとの婚約を破棄するつもりなんてなかったんだけど……」


 ヴィオレッタは、何かを言おうとして口を開いた。

 しかし、すぐには言葉が出てこなかったらしい。


「……そう、なのですか……?」

「……うん。そうだよ?」


 ユリウスは、彼女の反応に少し戸惑った。

 婚約破棄を望んでいないことなど、これまでの態度で十分に伝わっていると思っていた。

 だが、ヴィオレッタは信じられないものを見るように、こちらを見つめている。


(……もしかして、ちゃんと伝わってなかった?)


 その可能性に気づいた途端、ユリウスは少しだけ焦った。

 彼女を大切にしてきたつもりだった。

 婚約者として一緒に過ごす時間も、できる限り作ってきた。


 それでも、肝心な気持ちを言葉にして伝えたことが、どれほどあっただろうか。


 ユリウスは、ヴィオレッタの顔を見つめながら、これまでのことを思い返した。


 初めて彼女と出会ったとき、ユリウスが抱いていたのは、前世で好きだった登場人物を目の前にした興奮だった。


 ヴィオレッタ・ローゼンベルク。


 その名前を聞いた瞬間、前世で何度も読み返した小説の記憶が蘇った。

 彼女は、ユリウスが最も好きだった登場人物だった。


 原作では王太子の婚約者でありながら、最後には婚約破棄され、悪役令嬢として断罪されてしまう。

 その結末がどうしても納得できず、前世では何度も読み返していた。


 だから、今世で彼女が自分の婚約者になると知ったとき、ユリウスは本気で喜んだ。


(……絶対に、この子を幸せにしよう)


 そう決めたことを、今でも覚えている。

 けれど、当時の気持ちは、まだ前世の読者としての憧れに近かった。


 好きだった登場人物が目の前にいる。

 彼女が不幸になる結末を変えたい。


 最初は、それだけだった。


 しかし、ヴィオレッタと過ごす時間が増えるにつれて、ユリウスの気持ちは少しずつ変わっていった。


 彼女は、想像していたよりもずっと真面目な少女だった。

 王太子の婚約者として恥ずかしくないようにと、礼儀作法や歴史、政治について熱心に学んでいた。

 分からないことがあれば、そのままにせず、何度でも教師に質問していた。


 ユリウスが王宮の書庫で難しい本を読んでいると、隣に座って同じ分野の本を開くこともあった。


「ヴィオレッタ。そんなに無理して勉強しなくてもいいんだよ?」

「無理などしておりません。殿下のお隣に立つ以上、私も相応の知識を身につけなければなりませんから」

「でも、今日は朝からずっと勉強していたんでしょう?」

「……それは……」


 ヴィオレッタは少し困ったように視線を逸らした。

 ユリウスは、彼女の前に置かれた分厚い本を閉じた。


「今日はもう終わりにしよう。庭園でお茶でも飲まない?」

「ですが、まだ途中で……」

「続きは明日でも読めるよ。それに、僕はヴィオレッタとお茶を飲みたいんだけどな」


 そう言うと、ヴィオレッタは驚いたように顔を上げた。


「……殿下が、私と……?」

「うん。嫌かな?」

「い、いいえ! そのようなことは……!」


 ヴィオレッタは慌てて首を振り、それから少しだけ頬を赤らめた。


「……私も、殿下とご一緒したいです」


 その返事が嬉しくて、ユリウスは思わず笑ってしまった。


 そんな時間を、二人は何度も重ねてきた。


 王宮の庭園を歩いたこともあれば、互いに読んだ本について話し合ったこともある。

 ヴィオレッタが苦手なことに挑戦して落ち込んでいるときには、ユリウスが励ました。

 反対に、ユリウスが王太子としての務めに疲れているときには、ヴィオレッタが静かに話を聞いてくれた。


 彼女は決して、ユリウスの言うことを何でも肯定するわけではなかった。

 間違っていると思えば、相手が王太子であっても、言葉を選びながら意見を伝えてくれる。


 それが、ユリウスには嬉しかった。


 ある日のことだった。


 ユリウスは、王宮で行われた会議のあと、書庫で一人、資料を読み返していた。

 王太子として意見を求められたものの、自分の考えを十分に説明できず、納得のいかないまま会議を終えてしまったのだ。


 机の上には、会議で使われた資料が何枚も広げられていた。

 ユリウスがその一枚へ手を伸ばしたとき、書庫の扉が控えめに叩かれた。


「殿下。ヴィオレッタでございます。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「……ああ、ヴィオレッタ。もちろんだよ。入って」


 扉が開き、ヴィオレッタが姿を見せた。

 彼女は机の上に広がる資料へ視線を向け、それからユリウスの顔を見た。


「……まだ、お仕事をなさっていたのですね」

「うん。ちょっと、会議でうまく説明できなかったところがあってね」

「……そうでしたか」


 ヴィオレッタはすぐに慰めの言葉を口にするのではなく、机の上の資料へ目を向けた。


「もし差し支えなければ、どのようなお話だったのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 ユリウスは、彼女が指した資料を手元へ引き寄せた。


「地方の街道整備についてなんだけどね。私は、先に橋を直した方がいいと思ったんだ。でも、ほかの人たちは街道そのものを優先すべきだって」

「……橋、でございますか?」

「うん。橋が使えなければ、街道を整備しても荷馬車が通れない地域があるんだ。だから、そこを先に解決した方がいいと思ったんだけど……」


 ユリウスは、資料に記された地図を指で示した。

 ヴィオレッタは彼の隣へ移動し、地図と予算表を交互に確認した。


「……殿下。こちらの橋は、現在も通行できないのでしょうか?」

「いや、軽い荷車なら通れる。ただ、大きな荷馬車は無理なんだ」

「では、街道を整備すれば、少なくともこちらの地域までは輸送量を増やせるのではありませんか?」

「……あ」


 ユリウスは、彼女が指した街道へ目を落とした。

 橋の先にある地域ばかりを考えていたが、街道の途中にも複数の町がある。


 ヴィオレッタは、もう一枚の資料を手に取った。


「橋の修繕が必要であることは、私にも分かります。ですが、先に街道を整備することで利益を受ける方々もいらっしゃるのではないでしょうか?」

「……そうか。私は、橋の先にある町のことばかり考えていたんだな」


 ユリウスは、思わず苦笑した。


「ありがとう、ヴィオレッタ。君のおかげで、ほかの人たちが何を考えていたのか分かった気がするよ」

「い、いえ! 私は、資料を拝見して思ったことを申し上げただけで……!」


 ヴィオレッタは慌てて首を振った。

 しかし、ユリウスは本当に嬉しかった。


 彼女は、王太子である自分の考えを無条件に肯定しなかった。

 自分なりに資料を読み、分からないところを尋ね、違うと思った部分については率直に意見を伝えてくれた。


「……ヴィオレッタ」

「はい?」

「君が婚約者で、本当によかったよ」


 ユリウスがそう告げると、ヴィオレッタは一瞬、動きを止めた。


「……えっ?」

「いや、だって、こうして一緒に考えてくれるからさ。君と話していると、自分では気づかなかったことに気づけるんだ」


 ヴィオレッタは何度か瞬きをしたあと、ゆっくりと頬を赤らめた。


「……そのように言っていただけるなんて……。私、とても嬉しいです」


 彼女は資料を丁寧に机へ戻し、それから少し照れたように微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間、ユリウスは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 いつからだっただろう。


 ヴィオレッタに会える日が楽しみになり、彼女と話す時間を何より大切に思うようになったのは。


 面白い本を見つければ彼女にも読ませたくなり、美しい花を見れば彼女が喜ぶかもしれないと思った。

 会議で嫌なことがあっても、ヴィオレッタに話せば気持ちが軽くなる。

 彼女が笑ってくれると嬉しくなり、困っていると放っておけなくなる。


 その気持ちが何なのか、ユリウスはようやく理解した。


(……ああ。そうか)


 自分が好きなのは、前世の小説に登場した悪役令嬢ではない。


 今、自分の隣で笑い、悩み、努力しているヴィオレッタ・ローゼンベルクという、一人の少女なのだ。


(……推しだったから好きになったんじゃない)


 ユリウスは、その違いをはっきりと理解していた。


 最初に彼女へ興味を持ったきっかけは、確かに前世の記憶だった。

 けれど、今の気持ちは違う。


 たとえ原作の物語を知らなかったとしても、同じようにヴィオレッタと出会い、同じ時間を過ごしていたなら、きっと彼女を好きになっていただろう。


 そう思えるほど、ユリウスにとってヴィオレッタは大切な存在になっていた。


 そして、学院へ入学してからも、その気持ちは変わらなかった。


 リリア・ベルフォードと出会ったときも、ユリウスは原作の展開を思い出していた。

 明るく、少し慌て者で、身分の違いを気にしながらも一生懸命に話しかけてくる少女。


 彼女が原作の主人公であることは、すぐに分かった。


 だが、ユリウスはリリアに恋愛感情を抱くことはなかった。


 彼女が困っていれば助けたし、相談を受ければできる限りの対応をした。

 それは王太子として当然のことであり、学院の同級生としても不自然なことではない。


 しかし、リリアが自分に好意を寄せているらしいと気づいてからは、必要以上に親しくならないよう気をつけていた。

 彼女が距離を縮めようとしても、婚約者がいる立場を忘れるつもりはなかった。


 何より、ヴィオレッタに余計な不安を与えたくなかったのだ。


(……それでも、結局こんな騒ぎになったんだけどな)


 ユリウスは、現在の会場へ意識を戻した。

 ヴィオレッタは、まだ少し不安そうにこちらを見ている。


 彼女が何を考えているのか、ユリウスには分からなかった。


 ただ、これだけは確かだった。


 彼女を傷つけるために、婚約破棄などするつもりはない。

 そして、彼女の知らないところで誰かが勝手に決めた結末に、従うつもりもなかった。


「……ヴィオレッタ」


 ユリウスが声を掛けると、彼女は顔を上げた。


「はい、殿下」

「さっきの話だけど、私は本当に婚約を破棄するつもりなんてないからね」

「……はい……」


 ヴィオレッタは頷いたものの、まだ少し戸惑っているようだった。

 ユリウスは、そんな彼女へ穏やかに微笑んだ。


「それに、君が私の婚約者でいてくれて、本当によかったと思っているよ」


 ヴィオレッタの目が、大きく見開かれた。


「……殿下……?」

「今まで、ちゃんと言葉にしていなかったかもしれないけど……。私は、ヴィオレッタと一緒に過ごしてきた時間を、とても大切に思っているんだ」


 ヴィオレッタは、胸元に添えていた手をゆっくりと握りしめた。


「……私も、でございます……」


 その声は、少し震えていた。


「私も、殿下とご一緒できた日々を……とても、大切に思っております……」


 ユリウスは、彼女の返事を聞いて微笑んだ。

 ヴィオレッタも、ようやく少しだけ表情を和らげた。


 その顔を見て、ユリウスは改めて思った。


 この笑顔を、これからも隣で見ていたい。


 王太子としてではなく、一人の男として、彼女と共に生きていきたい。


 今日、卒業パーティーで伝えようと決めていた言葉がある。

 何日も前から考え、何度も練習してきた言葉だった。


 けれど、今はまだ、そのときではない。


 ユリウスはヴィオレッタへ小さく頷き、オスカーたちへ視線を戻した。

 彼らは、王太子の叱責を受けたまま、まだその場に立っている。


 リリアへの嫌がらせについては、学院が正式に調査することになった。

 しかし、それとは別に、今日この場でヴィオレッタへ向けられた言葉については、何も終わっていない。


 証拠もないまま彼女を首謀者だと決めつけ、婚約破棄まで要求した。

 その行為を、ただの勘違いとして済ませるつもりはなかった。


(……さて。ここからは、王太子としての仕事だな)


 ユリウスは静かに息を吐いた。

 そして、オスカー・ヴァレンティスへ向き直る。


「……オスカー。まだ、話は終わっていないよ」


 その声に、オスカーが顔を上げた。

 先ほどまでの勢いは消え、王太子の表情を窺うように視線を動かしている。


 ユリウスは、彼の返答を待たずに続けた。


「リリア嬢への嫌がらせについては、学院が調査する。けれど、今日この場で君たちがしたことについては、別の話だ」


 オスカーの表情が強張った。


「……殿下……?」


 ユリウスは、ヴィオレッタを取り囲んでいた貴族子息たちへ視線を巡らせた。

 そして、静かに告げた。


「君たちには、誰に向かって何を言ったのか、きちんと理解してもらう必要があるね」


 その言葉を聞いたオスカーの顔から、血の気が引いた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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ありがとうございました!

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