第4話 悪役令嬢にならないために
王立学院の卒業パーティー会場で、ヴィオレッタ・ローゼンベルクは、王太子ユリウスの言葉を聞いた。
「本日、この場で、私たちの婚約について、はっきりさせておきたいことがある」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタの顔からさっと血の気が引いた。
(……ああ……とうとう、この日が来てしまったのね……)
婚約について、はっきりさせる。
ほかの者が聞けば、何を意味するのか分からない言葉だったかもしれない。
けれど、ヴィオレッタには、その先に続くはずの言葉が分かっていた。
婚約破棄。
前世で何度も読み返した恋愛小説では、今日、この卒業パーティーで、王太子がヴィオレッタとの婚約を破棄する。
その結末を避けるために、彼女は何年も努力してきた。
それなのに、今、目の前のユリウスが婚約について話し始めようとしている。
(……私、あんなに頑張ったのに……)
ヴィオレッタは、震えそうになる指先に力を込めた。
彼女が前世の記憶を取り戻したのは、五歳の頃だった。
最初に思い出したのは、日本で暮らしていたことだった。
学校へ通い、友人と話し、休日には本を読んで過ごしていた。
その中に、一冊の恋愛小説があった。
男爵令嬢リリア・ベルフォードが王立学院へ入学し、王太子ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォードと恋に落ちる物語。
そして、二人の恋を妨げる存在として登場するのが、王太子の婚約者ヴィオレッタ・ローゼンベルクだった。
(……私、悪役令嬢なの?)
自分の名前が物語の登場人物と同じだと気づいたとき、ヴィオレッタは寝室の椅子に座ったまま動けなくなった。
ローゼンベルク公爵家。
エルフォード王国。
王太子ユリウス。
覚えている名前が、あまりにも一致していた。
最初は、何かの間違いであってほしいと思った。
しかし、数日後、父から王太子との顔合わせについて聞かされ、その望みは消えた。
原作でも、ヴィオレッタとユリウスは幼い頃に婚約している。
そして、彼女はその婚約を失うのだ。
(……嫌。そんなの、絶対に嫌……!)
ヴィオレッタは、前世で読んだ物語の結末を思い出した。
卒業パーティーでの断罪。
婚約破棄。
周囲の貴族たちから向けられる冷たい視線。
原作のヴィオレッタは、最後まで自分の立場を守ろうとした。
しかし、誰も彼女の言葉を信じず、王太子からも見放されてしまう。
その場面を思い出すたびに、ヴィオレッタは胸が苦しくなった。
まだ五歳だった彼女には、王太子との婚約を自分の意思だけで断ることなどできなかった。
公爵家の娘として、両家が決めた婚約を受け入れるのは当然だと教えられていたからだ。
だから、別の方法を考えた。
悪役令嬢にならなければいい。
誰かを虐めたり、身分を利用して傷つけたりしなければ、断罪される理由もなくなるはずだった。
ヴィオレッタは、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
そこには、前世で読んだ物語の出来事を、覚えている限り書き留めていた。
主人公リリアが王立学院へ入学すること。
王太子ユリウスとの出会い。
学院内で起きる事件。
そして、卒業パーティーでの断罪。
細かな台詞や日付までは覚えていなかったが、重要な出来事はできるだけ書き残した。
忘れてしまう前に記録しておけば、同じ失敗を避けられるかもしれない。
そう考えたのだ。
最初に決めたのは、誰に対しても身分を理由に威張らないことだった。
公爵令嬢という立場に甘えず、使用人にも礼を言う。
失敗した相手を頭ごなしに叱らず、事情を聞く。
自分より身分の低い者に対しても、必要以上に厳しい態度を取らない。
もちろん、何でも許せばよいというわけではない。
将来の王妃となる以上、規律を守らせる必要もあった。
けれど、叱ることと、相手を傷つけることは違う。
ヴィオレッタは、その違いを忘れないようにした。
そして、六歳になる少し前、彼女は王宮へ招かれた。
ユリウスとの、初めての顔合わせだった。
王宮の応接室へ案内されたとき、ヴィオレッタは緊張で指先が冷たくなっていた。
前世で読んだ物語では、ユリウスは最後に自分を断罪する人物だ。
しかも、そのときの彼は、ヴィオレッタの言葉をほとんど聞こうとしなかった。
(……怖い人だったら、どうしよう……)
父の隣に立ちながら、ヴィオレッタは何度も挨拶の言葉を確認した。
失礼のないように。
王太子に不快な思いをさせないように。
そして、できることなら、少しでもよい印象を持ってもらえるように。
そう考えていた彼女の前に、一人の少年が現れた。
金色の髪を整え、上品な衣装を身につけた少年だった。
年齢は一つ上の六歳だと聞いている。
ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォード。
前世で読んだ物語の王太子が、目の前にいた。
「ヴィオレッタ・ローゼンベルクと申します。ユリウス殿下、お初にお目にかかります」
教わったとおりに挨拶すると、ユリウスは穏やかに微笑んだ。
「初めまして、ヴィオレッタ嬢。ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォードです。今日はお会いできて嬉しいよ」
その声は、ヴィオレッタが想像していたよりも、ずっと優しかった。
(……あれ?)
原作のユリウスは、冷たい人物というわけではなかった。
むしろ、主人公のリリアにはとても優しかった。
ただ、ヴィオレッタに対しては、いつもどこか距離を置いていたように思う。
だから、初対面で嬉しいと言ってもらえるとは考えていなかった。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ヴィオレッタは、少しだけ緊張が和らぐのを感じた。
しかし、ユリウスはそれからしばらく、彼女の顔を見つめたままだった。
(……やっぱり、何か失礼なことをしてしまったのかしら……?)
挨拶の仕方が間違っていたのだろうか。
それとも、ドレスや髪形が気に入らなかったのだろうか。
不安になったヴィオレッタは、おそるおそる声を掛けた。
「……殿下?」
ユリウスは、すぐに微笑みを向けてくれた。
「ごめんね。少し考え事をしていたんだ」
「……そうでしたの?」
それでも、まだ気になった。
「……わ、私、何か失礼なことをしてしまいましたでしょうか……?」
「えっ? どうして?」
「殿下が、ずっとこちらをご覧になっていらっしゃるので……」
すると、ユリウスは少し驚いたような顔をした。
「あっ、ごめん! 失礼なことなんて、何もしていないよ」
「……本当ですの?」
「うん。初めて会えて嬉しかったから、つい」
ヴィオレッタは、思わず目を見開いた。
「……嬉しい、ですの?」
「もちろん。これから仲良くしてくれると嬉しいな」
ユリウスが、彼女へ手を差し出した。
ヴィオレッタは、その手を見つめた。
原作で自分を断罪するはずの王太子が、今は自分と仲良くしたいと言っている。
それが不思議で、すぐには手を伸ばせなかった。
けれど、差し出された手を拒む理由もなかった。
「……はい。私も、殿下と仲良くなれたら……嬉しいです」
ヴィオレッタは、おずおずとユリウスの手を握った。
その手は温かかった。
そして、彼女が思っていたよりも、ずっと優しく握り返してくれた。
(……この方が、将来、私を……?)
ヴィオレッタは、目の前の少年を見つめた。
原作の結末は知っている。
けれど、今ここにいるユリウスが、そんなことをする人物には思えなかった。
(……もしかしたら、変えられるのかもしれない)
初めて、そう思った。
その日の顔合わせは、無事に終わった。
そして、ヴィオレッタとユリウスの婚約が正式に決まった。
それからの日々、ヴィオレッタは努力を続けた。
王妃教育では、礼儀作法だけでなく、王国の歴史や法律、外交、財政についても学んだ。
公爵家の娘として必要な教養に加え、将来は王太子妃として公務を支えられるよう、毎日の勉強を欠かさなかった。
教師から課題を出されれば、期限までに仕上げる。
理解できないところがあれば、分かるまで質問する。
失敗したときには言い訳をせず、次に同じ間違いをしないようにした。
それは、原作の悪役令嬢にならないためでもあった。
けれど、もう一つ理由があった。
ユリウスの隣に立っても、恥ずかしくない人間になりたかったのだ。
ユリウスは、婚約が決まってからも、ヴィオレッタに優しかった。
王宮で顔を合わせれば、彼女の勉強の進み具合を気に掛けてくれた。
難しい課題に悩んでいるときには、一緒に資料を調べてくれた。
公務の見学で疲れてしまったときには、休憩を取ろうと声を掛けてくれた。
最初の頃、ヴィオレッタは、その優しさを王太子としての義務だと考えていた。
婚約者なのだから、丁寧に接するのは当然なのだろう。
将来の王妃となる相手を気遣うことも、帝王学の一部なのかもしれない。
そう思っていた。
けれど、ある日、ヴィオレッタはユリウスと王宮の庭園を歩いていた。
その日は王妃教育の課題が思うように進まず、教師から何度もやり直しを命じられていた。
ヴィオレッタは、ユリウスに心配を掛けまいと、いつもどおりに振る舞っていた。
「ヴィオレッタ。今日は少し元気がないね」
隣を歩いていたユリウスが、そう言った。
「……そのようなことはございません」
「そう? でも、いつもより口数が少ない気がするよ」
ヴィオレッタは、返事に困った。
ユリウスは、彼女の歩調に合わせて立ち止まった。
「何かあったなら、話してくれていいんだよ」
その言葉に、ヴィオレッタはしばらく迷った。
王太子の婚約者として、弱音を吐くべきではない。
まして、王妃教育が難しいなどと話せば、失望されてしまうかもしれない。
けれど、ユリウスは急かさなかった。
「……今日、先生から、同じ課題を三度もやり直すように言われてしまいました」
ようやく口にすると、ユリウスは少し驚いたようだった。
「三度も? それは大変だったね」
「……私の理解が足りなかったのです。もっと努力しなければなりません」
「そうかもしれないけど、今日はもう十分頑張ったんじゃないかな?」
ヴィオレッタは、思わず顔を上げた。
「……ですが、私は殿下の婚約者ですから」
「うん。だからこそ、無理をしすぎてほしくないんだ」
ユリウスは、穏やかに微笑んだ。
「ヴィオレッタが倒れてしまったら、私は心配するよ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタの胸が大きく跳ねた。
(……心配、してくださるの……?)
彼は、王妃教育の成績を尋ねたわけではなかった。
課題を終えられなかった理由を責めたわけでもなかった。
ただ、彼女が無理をしていないか、気に掛けてくれたのだ。
「……ありがとうございます、殿下」
ヴィオレッタは、頬が熱くなるのを感じながら頭を下げた。
その日から、彼女はユリウスと会える日を以前より楽しみにするようになった。
王宮へ向かう馬車の中では、今日はどんな話ができるだろうと考えた。
新しい本を読めば、次に会ったときに感想を伝えたくなった。
庭園で季節の花が咲いているのを見ると、ユリウスにも見せたいと思うようになった。
そして、彼が微笑んでくれるたびに、胸が温かくなった。
(……私、殿下のことが……)
その気持ちに名前をつけるまで、それほど時間はかからなかった。
ヴィオレッタは、ユリウスが好きだった。
王太子だからでも、婚約者だからでもない。
自分の努力を認め、失敗したときにも責めず、何より一人の人間として大切にしてくれるユリウスが好きだった。
けれど、その事実を認めた途端、ヴィオレッタは怖くなった。
原作のヴィオレッタも、王太子を愛していた。
その想いが強かったからこそ、主人公リリアへ嫉妬し、次第に追い詰められていった。
そして最後には、すべてを失ってしまう。
(……駄目。私まで、同じことをしてはいけないわ)
ヴィオレッタは、自分に言い聞かせた。
ユリウスを好きになってはいけない。
少なくとも、その気持ちを理由に、誰かを傷つけてはいけない。
それでも、彼への想いが消えることはなかった。
むしろ、顔を合わせるたびに、以前よりも強く意識するようになっていた。
ユリウスが笑えば嬉しくなり、彼から声を掛けてもらえれば、その日一日を幸せな気持ちで過ごせた。
だからこそ、ヴィオレッタは自分の感情を信用してよいのか、分からなくなっていた。
(……もしかして、私の気持ちも、物語に決められているのかしら……?)
原作の悪役令嬢が王太子を愛するのなら、自分も同じように彼を好きになる。
そういう筋書きが、最初から用意されているのかもしれない。
だとしたら、この恋心も、本当に自分のものなのだろうか。
ユリウスの優しさに嬉しくなったことも、彼の隣にいたいと思ったことも、すべて物語によって決められた感情なのだろうか。
(……違う、と思いたい……)
ヴィオレッタは、机の上に置いたノートを見つめた。
彼と過ごした時間は、確かに自分の記憶として残っている。
交わした言葉も、差し出された手の温かさも、何度も思い出せる。
それでも、原作の結末を知っている以上、安心することはできなかった。
やがて、ヴィオレッタは王立学院へ入学した。
そこで、リリア・ベルフォードと出会った。
前世で読んだ物語の主人公。
その名前を聞いた瞬間、ヴィオレッタの心臓が大きく跳ねた。
(……とうとう、始まるのね)
原作では、リリアの入学をきっかけに、ユリウスとの恋愛が進んでいく。
そして、その過程でヴィオレッタはリリアを敵視し、取り巻きの令嬢たちを使って嫌がらせを繰り返すことになる。
けれど、今のヴィオレッタには、そんなことをするつもりなどなかった。
(……大丈夫。私は、絶対に同じことをしないわ)
ヴィオレッタは、リリアの姿を見つめながら、改めて決意した。
これまで何年も努力してきたのは、原作と同じ結末を迎えないためだ。
そして今は、ただ断罪を避けたいだけではなく、ユリウスとの婚約を守りたいという気持ちもある。
だからこそ、彼女は自分の行動に、これまで以上に気を配らなければならないと思った。
しかし、ヴィオレッタはまだ知らなかった。
自分がどれほど注意しても、原作で起きた出来事が、別の形で繰り返されていくことを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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