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第3話 推しが、目の前にいた

 卒業パーティーでの断罪騒動が続く中、ユリウスは、ヴィオレッタが小さく頭を下げる仕草を見て、なぜか初めて彼女と出会った日のことを思い出していた。


 あれは、今から十二年前、まだ六歳だった頃のことだ。


 ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォードには、前世の記憶がある。

 まだ幼ない頃、すでに自分が一度死んだ人間だと理解していた。

 もっとも、最初からすべてを覚えていたわけではない。


 前世で暮らしていた日本の街並み。

 学校へ通っていたことや、仕事をしていたこと。

 そして、休日になると小説を読み、好きな登場人物について考えていたこと。


 そうした記憶が少しずつ戻ってきたのは、ユリウスが五歳になった頃だった。


 王宮の寝室で目を覚ました彼は、天井を見上げながら、自分が置かれている状況を整理した。


(……転生、したんだよな)


 その事実を理解するまでには、少し時間がかかった。


 前世では、ごく普通の日本人だった。

 少なくとも、朝起きると使用人が着替えを手伝い、食事のたびに何人もの人間が給仕するような生活とは無縁だった。


 ところが、今の自分は王太子である。


 国王である父と王妃である母に大切に育てられ、将来はエルフォード王国を治める立場になることまで決まっていた。


(……いや、王太子って。転生先の責任、重すぎないか?)


 幼い身体のまま、ユリウスは寝台の上で頭を抱えた。


 もっとも、王太子としての生活そのものに、大きな不満があったわけではない。

 両親は優しく、教育係も熱心だった。

 勉強することは多かったものの、前世の記憶があるおかげで、文字や計算を覚えるのにもそれほど苦労しなかった。


 問題は、別のところにあった。


 この世界の名前や歴史、そして王族の家系について学ぶうちに、ユリウスは奇妙な既視感を覚えるようになったのだ。


 エルフォード王国。

 王立学院。

 ローゼンベルク公爵家。


 どれも初めて耳にするはずの名前なのに、どこかで聞いた覚えがある。


 その疑問が解けたのは、六歳の誕生日を迎えて間もない日のことだった。


 王宮の応接室で、ユリウスは父から一人の少女を紹介された。


「ユリウス。こちらがローゼンベルク公爵のご息女、ヴィオレッタ嬢だ」


 その名前を聞いた瞬間、ユリウスは息を止めた。


(……え?)


 父の隣に立っていた公爵が、一歩横へ退く。

 そこには、淡い色のドレスを着た小さな少女が立っていた。


 艶のある紫紺の髪。

 整った顔立ちと、年齢のわりに落ち着いた立ち姿。


(……ヴィオレッタ? えっ、本物!? 本物のヴィオレッタ!?)


 ユリウスの頭の中は、一瞬で大騒ぎになった。


 前世で何度も読み返した物語の中で、誰よりも幸せになってほしいと願っていた少女が、今、自分の目の前に立っている。


(うわああああっ! 推しだ! 推しがいる! しかも目の前に! ちょっと待って、可愛すぎないか!?)


 今すぐ駆け寄って、思い切り抱きしめたい。

 そんな衝動が胸の内で渦巻き、ユリウスは危うく椅子から飛び出しそうになった。


 だが、ここは王宮の応接室だ。

 父である国王も、ローゼンベルク公爵も、双方の家臣たちも見守っている。


 そして何より、自分はエルフォード王国の王太子である。


(……落ち着け! 私は王太子! 帝王学も礼儀作法も学んできた! ここでいきなり抱きついたら、ただの変な子供だ!)


 ユリウスは、必死に表情を整えた。

 帝王学の授業では、王族たるもの、どのような場面でも感情を制御し、相手に不必要な動揺を悟らせてはならないと教えられている。


 今こそ、その教えを実践するときだった。


(……そうだ。私は王太子ユリウス。落ち着いて、優雅に、堂々と……!)


 内心では今にも歓声を上げそうになりながら、表向きには穏やかな微笑みを浮かべる。


 もはや、立派な役者だった。


 少女は緊張した様子を見せながらも、教わったとおりにドレスの裾を持ち上げ、丁寧に一礼した。


「ヴィオレッタ・ローゼンベルクと申します。ユリウス殿下、お初にお目にかかります」


(……声まで可愛い! 待ってくれ、これは反則だろ!?)


 ユリウスは、心の中で頭を抱えた。

 しかし、顔に浮かべた微笑みだけは崩さなかった。


「初めまして、ヴィオレッタ嬢。ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォードです。今日はお会いできて嬉しいよ」


 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

 ヴィオレッタは、少しだけ安心したように微笑んだ。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


(……笑った! 今、私に笑ってくれた!)


 ユリウスは、再び叫び出しそうになった。

 だが、そこも何とか耐えた。


 王太子としての教育が、これほど役に立ったことはない。


 もっとも、帝王学を教えている教師たちも、まさかその成果が『推しを目の前にして取り乱さないため』に発揮されているとは、夢にも思わないだろう。


 ユリウスは、目の前の少女を改めて見つめた。

 この世界が前世で読んだ恋愛小説の舞台であり、ヴィオレッタ・ローゼンベルクがその物語に登場する悪役令嬢だということは、もう疑いようがなかった。


 主人公の恋愛模様も、王立学院で起きる事件も、物語の結末も覚えている。

 だが、最も印象に残っていたのは、主人公ではなかった。


 王太子の婚約者として登場し、最後には悪役として断罪されるヴィオレッタ。


 前世のユリウスは、彼女が登場する場面を読むたびに、どうしても納得できなかった。


 厳しい態度を取ることはあっても、彼女の言葉には婚約者としての立場を守ろうとする理由があった。

 王妃になるための教育を受け、周囲から求められる役割を果たそうとしていたことも、作中では何度も描かれていた。


 それなのに、物語が進むにつれて、彼女の行動は悪意によるものとして扱われるようになった。

 そして、最後には婚約者である王太子からも見放されてしまう。


(……あの結末だけは、本当に嫌だったんだよな)


 ユリウスは、前世で読んだ最後の場面を思い出した。


 卒業パーティー。

 大勢の貴族たちが見守る中、王太子がヴィオレッタを断罪する。


 彼女は自分の行いを否定するものの、その言葉は受け入れられない。

 そして、婚約破棄が宣言される。


(……待てよ)


 そこで、ユリウスは重大な事実に気づいた。


 ヴィオレッタを断罪する王太子。

 その名前は、ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォード。


(……私じゃないか!)


 ユリウスは、思わず立ち上がりそうになるのを堪えた。

 今の自分は、物語の中で推しを追い詰める側の人間なのだ。


(……いやいやいや! 冗談じゃない!)


 内心では激しく動揺していたが、表情には出さなかった。

 目の前では、ヴィオレッタが不思議そうにこちらを見つめている。


「……殿下?」


 小さな声で呼ばれ、ユリウスは穏やかな微笑みを向けた。


「ごめんね。少し考え事をしていたんだ」

「……そうでしたの?」


 ヴィオレッタは、まだ緊張しているらしく、両手を身体の前で揃えていた。


 ユリウスは、その様子を見て気づいた。


 彼女は、まだ五歳だ。


 前世で読んだ物語では、冷たい悪役令嬢として描かれていた。

 しかし、今ここにいるのは、初めて王太子に会い、失礼がないよう一生懸命に振る舞っている幼い少女だった。


(……こんな子が、将来あんな目に遭うのか?)


 ユリウスは、改めてヴィオレッタを見つめた。

 彼女は視線が合うと、少し慌てたように背筋を伸ばした。


「……わ、私、何か失礼なことをしてしまいましたでしょうか……?」

「えっ? どうして?」

「殿下が、ずっとこちらをご覧になっていらっしゃるので……」


 ユリウスは、自分が彼女を見つめ続けていたことに気づいた。


「あっ、ごめん! 失礼なことなんて、何もしていないよ」

「……本当ですの?」

「うん。初めて会えて嬉しかったから、つい」


 ヴィオレッタは、驚いたように目を見開いた。


「……嬉しい、ですの?」

「もちろん。これから仲良くしてくれると嬉しいな」


 ユリウスが手を差し出すと、ヴィオレッタはしばらくその手を見つめていた。

 やがて、おずおずと自分の手を重ねる。


「……はい。私も、殿下と仲良くなれたら……嬉しいです」


 小さな手が、ユリウスの手を握った。


(……っ! 推しと握手してる! 私、今、推しと握手してるぞ!?)


 ユリウスは、顔に浮かべた穏やかな微笑みを維持したまま、内心では大騒ぎになっていた。


(……柔らかい……! いや、待て。これ、いつまで握っていていいんだ? できれば一生このままでいたいんだが!?)


 しかし、初対面の令嬢の手をいつまでも握っているわけにはいかない。

 ユリウスは、王太子としての礼儀を思い出し、名残惜しさを必死に押し殺しながら、そっと手を離した。


(……ああ、離してしまった……)


 できることなら、もう一度握りたかった。

 だが、さすがにそれは我慢した。


(……よし)


 ユリウスは、心の中で決意した。


 物語の結末がどうなっていようと、自分まで同じ行動を取る必要はない。


 ヴィオレッタを断罪するつもりなど、最初からない。

 まして、身に覚えのない罪を押しつけられて苦しむ姿を、黙って見ているつもりもなかった。


(……絶対に、あんな結末にはさせない)


 前世では、物語を読むことしかできなかった。

 どれほど彼女を応援しても、すでに書かれた結末を変えることはできなかった。


 けれど、今は違う。


 目の前にヴィオレッタがいて、自分は彼女と話すことができる。

 そして何より、自分こそが、彼女の運命を大きく左右する王太子なのだ。


(……だったら、話は簡単だ)


 ユリウスは、改めてヴィオレッタへ微笑みかけた。

 そのとき、父である国王が、二人の様子を見て満足そうに頷いた。


「どうやら、仲良くできそうだな」


 公爵も、ほっとした様子で微笑んでいる。


「はい。娘も、殿下にお会いできる日を楽しみにしておりました」


 ヴィオレッタは、その言葉に頬を赤らめた。


「お、お父様……!」


 ユリウスは、そんな彼女を見て笑った。


「私も楽しみにしていたよ、ヴィオレッタ」


 その言葉は、決して嘘ではなかった。

 ただし、前世からずっと会いたかった相手だという事情までは、さすがに説明できなかった。


 そして、この日の対面には、もう一つ大きな意味があった。

 両家の間で進められていた婚約について、正式に話をまとめるための顔合わせだったのだ。


 ユリウスは、父からその説明を聞いていた。


 王太子として、将来の王妃となる相手を迎えること。

 その相手として、ローゼンベルク公爵家の令嬢が選ばれたこと。


 前世の記憶が戻る前なら、幼い自分にはまだよく分からない話だっただろう。

 だが、今は違う。


(……つまり、ヴィオレッタが私の婚約者になる)


 ユリウスは、改めて隣の少女を見た。


 ヴィオレッタは父親の話を真剣な表情で聞いている。

 ときどき小さく頷きながらも、難しい話になると少し困ったように眉を寄せていた。


(……推しが、婚約者になるのか)


 前世の自分が聞いたら、どんな顔をするだろう。


 おそらく、信じない。

 いや、信じたとしても、しばらくまともに話せなくなるに違いない。


(……落ち着け、私。今は六歳だ。しかも王太子だぞ)


 ユリウスは、何とか平静を保った。

 そして、ヴィオレッタへ向き直る。


「ヴィオレッタ」

「はい、殿下」

「これから、よろしくね」

「……はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 ヴィオレッタは、丁寧に頭を下げた。

 ユリウスは、彼女へ穏やかに微笑んだ。


 このとき、彼にはまだ分かっていなかった。


 原作を知っているからといって、すべてが思いどおりに進むわけではないことを。


 自分が婚約破棄を望まなくても、周囲の人間が勝手にその結末へ向かって動き始めることを。


 そして、ヴィオレッタ自身もまた、ユリウスの知らないところで、必死に未来を変えようとしていることを。


 ただ、この日のユリウスには、一つだけ確かなことがあった。


 前世で何度も読み返した物語の中で、どうしても幸せになってほしかった少女が、今は自分の目の前にいる。

 しかも、その少女は、これから自分の婚約者になるのだ。


(……絶対に、守ってみせる)


 ユリウスは、幼い胸の内で改めて誓った。


 たとえ原作でどんな結末が待っていようとも、ヴィオレッタを断罪する王太子にだけはならない。


 ――そう決めたのは、彼女と初めて出会った、六歳の春のことだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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