第2話 誰が婚約破棄すると言った!?
ユリウスは、リリアが落ち着いて話せるよう、少し声を和らげた。
「無理に急がなくていい。何があったのか、君の言葉で話してくれればいいんだ」
リリアは一度深く息を吸い、胸元で握りしめていた手をゆっくりと下ろした。
「……階段を下りていたとき、後ろから……押されそうになったんです」
その言葉に、会場のあちこちから息を呑む音が聞こえた。
「押されそうになった……?」
ユリウスが確認すると、リリアは小さく頷いた。
「はい。後ろから足音が聞こえて、振り向こうとしたら……誰かが私の背中へ手を伸ばしていて……。咄嗟に身体を横へずらしたんですけど、足を踏み外してしまって……」
リリアは震える手で、自分の腕を抱いた。
「何段か落ちて、尻もちをついて……。そこで、ようやく止まりました……」
ユリウスの表情が険しくなった。
「怪我は?」
「……大きな怪我はありませんでした。腰を打って、しばらく痛かったですけど……」
リリアは俯いたまま答えた。
「そのとき、誰が手を伸ばしたのかは見たのかい?」
「……はい」
リリアは顔を上げ、ヴィオレッタの近くに立っていた令嬢の一人へ視線を向けた。
「あちらの方です……」
指名された令嬢が、びくりと肩を震わせた。
「ち、違います! 私は、そんなつもりでは……!」
その反応に、ユリウスは目を細めた。
「では、君は階段でリリア嬢に何をしたんだい?」
令嬢は口を開きかけたものの、すぐに俯いた。
「……わ、私は……ただ、少し……」
「少し?」
「……背中を、押そうと……」
周囲から、驚きの声が上がった。
ユリウスは、彼女の言葉を聞き逃さなかった。
「押そうとした、ということは、実際に手を伸ばしたんだね?」
「……は、はい……。でも、まさか避けられて、階段から落ちてしまうなんて……!」
令嬢は慌てて顔を上げた。
「ほんの少し驚かせるつもりだったんです! 怪我をさせようなんて、そんな……!」
ユリウスは、彼女の言葉を最後まで聞いてから口を開いた。
「階段で人の背中を押そうとすれば、どうなるか分からなかったのかい?」
「そ、それは……」
「リリア嬢が咄嗟に身体をずらさなければ、もっと大きな怪我をしていたかもしれない。驚かせるつもりだったという説明で済ませられることではないよ」
令嬢は何も答えられず、俯いた。
その様子を見ていたヴィオレッタが、一歩前へ出た。
「……あなた。本当に、そのようなことを……?」
令嬢は顔を上げたものの、ヴィオレッタと目が合うと、すぐに視線を逸らした。
「ヴィ、ヴィオレッタ様……! ですが、私は……!」
「私は、リリア様への嫌がらせをやめるよう、何度も申し上げましたね?」
「……は、はい……」
「それなのに、階段で背中を押そうとしたというのですか!?」
ヴィオレッタの声が、はっきりと強くなった。
令嬢は肩を震わせた。
「……申し訳、ございません……」
ヴィオレッタは唇を引き結び、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、ゆっくりとリリアへ向き直る。
「リリア様。私の知らないところで、そのようなことが行われていたとは……。本当に、申し訳ございません」
ヴィオレッタは深く頭を下げた。
リリアは慌てて首を振った。
「い、いえ! ヴィオレッタ様がなさったわけでは……!」
「ですが、私と親しくしていた方が、あなたに危害を加えようとしたのです。知らなかったからといって、そのことを軽く考えるつもりはございません」
ヴィオレッタは頭を上げると、もう一度、令嬢たちへ視線を向けた。
「……どうして、こんなことをしたのですか?」
令嬢たちは互いの顔を見合わせた。
そのうちの一人が、意を決したように口を開いた。
「……ヴィオレッタ様のためだと思ったのです」
「……私のため?」
ヴィオレッタが眉を寄せる。
「リリア嬢は、殿下にあまりにも近づきすぎておりました。ヴィオレッタ様が快く思われないのも当然ですし、私たちは……」
「だから、嫌がらせをしたと?」
「……はい。ですが、ヴィオレッタ様はお立場上、そのようなことを直接お命じになるわけにはまいりません。ですから、私たちが……!」
ヴィオレッタは、信じられないものを見るように令嬢を見つめた。
「……待ってください。私は、やめるように申し上げましたよね?」
「もちろんです! ですが、それは皆の前でのお言葉で……!」
「……どういう意味ですか?」
「未来の王妃となられる方が、表立って嫌がらせをお認めになるわけにはまいりません。ですから、私たちが察して差し上げなければならないと……!」
ヴィオレッタは、言葉を失った。
自分が何度注意しても、彼女たちが謝罪しながら同じことを繰り返していた理由。
それが、ようやく分かった。
彼女たちは、ヴィオレッタの言葉を、最初から本心として受け取っていなかったのだ。
「……私は、一度も、そのようなことを望んでおりません」
ヴィオレッタは、令嬢たちを見据えた。
「あなたたちがリリア様を傷つけることを、私が喜ぶと……本当に、そう思っていたのですか?」
令嬢たちは、答えなかった。
ヴィオレッタの手が、ドレスの裾を強く握りしめる。
「……私が、何度もお話ししたことは……何だったのですか……!」
その声には、怒りだけでなく、親しくしていた相手に裏切られた悲しみも滲んでいた。
しかし、オスカーは、そのやり取りを別の意味で受け取ったらしい。
「……なるほど。やはり、そういうことでしたか!」
ユリウスは、嫌な予感を覚えて振り向いた。
「……オスカー?」
「殿下! 今の証言で、すべてが明らかになりました!」
オスカーは懐から別の紙を取り出した。
「実は、私自身も以前から調べておりました! ヴィオレッタ嬢の周囲にいる令嬢たちが、リリア嬢について話していた内容を、複数の生徒が耳にしているのです!」
オスカーは紙へ視線を落とした。
「『ヴィオレッタ様は、リリア嬢が殿下へ近づくことをお許しにならない』。そして、『ご本人がお口にできないことは、私たちが察して差し上げなければならない』!」
オスカーは勢いよく顔を上げた。
「これほど明確な証言があるのです! ヴィオレッタ嬢が直接命令していなかったとしても、彼女たちがその意思を汲み取って行動していたことは、もはや疑いようがありません!」
ユリウスは、オスカーが掲げた紙を見つめた。
(……いや、待て)
そこに記されているのは、令嬢たちがヴィオレッタの意思をどう解釈したかという話だ。
ヴィオレッタ本人が何を望んでいたかを示す証拠ではない。
しかも、当のヴィオレッタは、嫌がらせをやめるよう繰り返し注意していたと話している。
「オスカー。今の話で分かったのは、彼女たちがヴィオレッタの言葉を勝手に解釈していたということじゃないのかい?」
「ですが、殿下! 彼女たちはヴィオレッタ嬢のために行動していたのです!」
「本人が望んでいないことを、勝手に『本人のため』だと決めつけたんだろう?」
オスカーは一瞬、言葉に詰まった。
ユリウスは、令嬢たちへ向き直った。
「君たちに確認したい。ヴィオレッタから、リリア嬢の教科書を隠せとか、私物を壊せとか、階段で背中を押せと命じられたことはあるのかい?」
令嬢たちは誰もすぐには答えず、やがて一人が小さく首を横に振った。
「……いいえ」
「……ございません」
「一度も……」
ユリウスは頷いた。
「では、ヴィオレッタから嫌がらせをやめるよう注意されたのは、本当なんだね?」
「……はい」
「……何度も、ございました……」
会場が静まり返った。
ユリウスは、オスカーへ向き直った。
「聞いたね。嫌がらせがあったことは事実だし、リリア嬢が被害を受けたことも疑いようがない。だが、ヴィオレッタがそれを命じたという証拠は、今のところ何もない」
「しかし、殿下……!」
「君が集めた証言も、令嬢たちが勝手にそう考えていたという内容だ。それを、ヴィオレッタ本人の命令と同じように扱うことはできないよ」
オスカーは納得できない様子だったが、すぐには反論できなかった。
ユリウスは、階段でリリアを押そうとした令嬢へ目を向けた。
「君には、学院の担当者へ事情を説明してもらう。ほかの嫌がらせについても、関係した者は全員、正式に証言するように」
「……はい……」
「学院内で起きたことは、まず学院が事実関係を確認し、規則に従って処分を判断する。私も、必要な報告は受けるつもりだ」
続いて、リリアへ向き直った。
「リリア嬢。君が受けた被害については、きちんと調べてもらう。今日ここで話してくれたことも、無駄にはしないよ」
「……ありがとうございます、殿下……!」
リリアは目元を押さえながら、深く頭を下げた。
ユリウスは、彼女が落ち着くのを待ってからヴィオレッタへ視線を向けた。
「ヴィオレッタ。君にも、学院から事情を聞かれることになると思う」
「……承知しております。私も、知っていることはすべてお話しいたします」
「ありがとう。君が嫌がらせを止めようとしていたことも、きちんと確認してもらおう」
ヴィオレッタは、少しだけ目を見開いた。
「……殿下……」
ユリウスは、彼女へ小さく頷いた。
これで、少なくとも今日の場で確認できることは整理できた。
あとは学院に正式な調査を任せ、必要な対応を進めればいい。
そう考えた、まさにそのときだった。
「殿下!」
オスカーが、再び声を張り上げた。
「事情は理解いたしました! しかし、それでもヴィオレッタ嬢が殿下の婚約者にふさわしいかどうかは、別の問題です!」
ユリウスは、ゆっくりと振り向いた。
「……何だって?」
「殿下は、これまで十分にお苦しみになりました! 婚約者の周囲でこれほどの問題が起きていたのです! もはや、婚約を続ける理由などございません!」
オスカーは、王太子へ一歩近づいた。
「殿下! どうか、この場で婚約破棄を宣言してください!」
ユリウスは、目の前の友人を見つめた。
オスカーは本気だった。
それも、自分が王太子のために正しいことをしていると、心の底から信じている顔だった。
「……オスカー。私は、君にそんなことを頼んだ覚えはないよ」
「ですが、殿下! 先ほど、婚約についてはっきりさせたいとおっしゃったではありませんか!」
「確かに言ったね」
「でしたら、もう迷う必要はございません! この女との婚約を――」
「誰がそんなことを聞いた!」
ユリウスの声が、大広間に響き渡った。
オスカーが、びくりと肩を震わせた。
ユリウスは、怒りを隠そうともしなかった。
「私は婚約について話があると言っただけだ! いつ、ヴィオレッタとの婚約を破棄すると言った!?」
「で、ですが、殿下……!」
「その口を慎めッ! 私の婚約者を『この女』呼ばわりすることを、誰が許した!」
会場が、完全に静まり返った。
オスカーは口を開いたまま、言葉を失っていた。
ヴィオレッタも、驚いたようにユリウスを見つめている。
ユリウスは一度息を吐き、オスカーへ向き直った。
「……君がリリア嬢のために動いていたことは分かる。実際に嫌がらせがあった以上、それを調べたことまで否定するつもりはない」
「……殿下……」
「だが、嫌がらせをした者と、それを命じてもいない者を同じように責めるのは間違っている。それに、私の婚約をどうするかは、君が決めることではないよ」
オスカーは、ようやく自分の足元を見た。
「オスカー。君は、私の婚約者を大勢の前で告発した。しかも、本人が否定し、令嬢たちの説明にも食い違いがあると分かった後で、婚約破棄まで要求したんだね?」
オスカーは唇を震わせた。
「そ、それは……殿下のためを思って……!」
「私のためだと言うのなら、まず私が何を望んでいるのか確認してほしかったね」
ユリウスはそこで言葉を切り、オスカーが答えるのを待った。
しかし、返事はなかった。
華やかだった卒業パーティーの会場は、すっかり静まり返っていた。
誰もが、次にオスカーが何を答えるのかを待っている。
ユリウスは、その沈黙の中で小さく息を吐いた。
今日、ヴィオレッタへ伝えようと決めていた言葉があった。
何日も前から考え、彼女の顔を思い浮かべながら、何度も口に出して練習してきた言葉だった。
ユリウスは、ヴィオレッタへちらりと視線を向ける。
彼女は胸元に添えていた手を下ろし、ユリウスと目が合うと、何かを尋ねかけるように唇を開いた。
しかし、彼女は何も言わず、小さく頭を下げた。
(……まったく。どうして、こんなことになったんだ)
ユリウスは再びオスカーへ向き直った。
まずは、目の前の騒動を収めなければならない。
そして、すべてが片づいたら、改めてヴィオレッタに伝えよう。
ずっと胸に抱いてきた、自分の本当の気持ちを。
――少なくとも、彼女との婚約を破棄するつもりなど、ユリウスには最初からなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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