第1話 婚約について話があると言っただけなのに
「ヴィオレッタ・ローゼンベルク公爵令嬢! あなたがリリア・ベルフォード嬢に行ってきた数々の嫌がらせ、もはや見過ごすわけにはいきません!」
王立学院の卒業パーティーで、突然の糾弾が響き渡った。
楽団の演奏が途切れ、踊っていた生徒たちが一斉に足を止める。
声を上げたのは、王太子ではなかった。
王太子の友人である、ヴァレンティス侯爵家の令息、オスカーだった。
「王太子殿下の婚約者というお立場でありながら、なんと卑劣な! これほどの嫌がらせを重ねておきながら、まだ殿下の婚約者でいられるとお思いですか!?」
会場の視線が、一人の少女へ集中する。
紫紺の髪を結い上げ、淡い藤色のドレスをまとった公爵令嬢、ヴィオレッタ・ローゼンベルク。
彼女は突然の告発に目を見開き、すぐ隣に立つ王太子へ視線を向けた。
しかし、王太子ユリウスは、婚約者を断罪するどころか、オスカーを呆然と見つめていた。
(……待て。なぜ、そうなる?)
ユリウスには、どうしても理解できなかった。
――事の始まりは、ほんの少し前に遡る。
エルフォード王国、王立学院の卒業パーティー。
大広間には色とりどりのドレスや礼服に身を包んだ卒業生たちが集まり、楽団の演奏に合わせて踊る者や、友人との別れを惜しむ者たちで賑わっていた。
その会場の中央で、一人の青年が婚約者の名を呼んだ。
「ヴィオレッタ・ローゼンベルク」
エルフォード王国の王太子、ユリウス・フェルディナント・フォン・エルフォード。
十八歳になった彼は、この日、学院の卒業を迎えていた。
そして、彼に呼ばれたのは、ローゼンベルク公爵家の令嬢、十七歳のヴィオレッタだった。
「……はい、殿下」
ヴィオレッタは一歩前へ進み出ると、ドレスの裾を軽く持ち上げ、丁寧に一礼した。
ユリウスは、彼女の手元へ目を向けた。
いつもなら、挨拶のあとに自然と差し出される手が、今日はドレスの裾を握ったまま離れない。
「ヴィオレッタ。少し緊張している?」
「……そう見えますか?」
「うん。さっきから、ほとんど飲み物にも手をつけていないだろう?」
ヴィオレッタは驚いたように顔を上げた。
「……お気づきでしたの?」
「君が好きな白葡萄の果汁を用意してもらったんだけど、口に合わなかったかな?」
「いいえ! とても美味しゅうございました。ただ……少し、考え事をしておりまして……」
「そうか。具合が悪いわけではないなら、よかった」
ユリウスは微笑み、彼女の手元にあるグラスへ視線を向けた。
ヴィオレッタはその視線に気づくと、慌ててグラスを持ち直す。
「……殿下は、昔からよくお気づきになりますのね」
「君のことだからね」
ヴィオレッタの頬が、わずかに赤くなった。
ユリウスは彼女が顔を上げるのを待ちながら、胸の内で何度も練習してきた言葉を確認していた。
今日という日を選んだのには理由がある。
だが、それを口にする前に、まずは彼女の反応を確かめたかった。
ユリウスは、落ち着いた声で切り出した。
「本日、この場で、私たちの婚約について、はっきりさせておきたいことがある」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタの顔からさっと血の気が引いた。
思わず一歩後ずさり、足元がふらついた彼女は、倒れまいとドレスの裾を握りしめた。
(……え? どうして、そんな顔をするんだ?)
ユリウスは、予想外の反応に戸惑った。
周囲の卒業生たちも、互いに顔を見合わせている。
王太子が卒業パーティーの場で、わざわざ婚約について言及する。
それも、王国有数の名門であるローゼンベルク公爵家の令嬢を、会場の中央へ呼び出してのことだった。
いつの間にか楽団の演奏も小さくなり、近くにいた生徒たちが二人の会話へ耳を傾けていた。
ユリウスは、ヴィオレッタが不安そうに自分を見つめていることに気づき、慌てて言葉を続けようとした。
しかし、その瞬間だった。
「殿下っ! ついに……ついに、ご決断なされたのですね!」
突然の大声に、ユリウスは思わず振り向いた。
オスカー・ヴァレンティス。
ヴァレンティス侯爵家の令息であり、ユリウスと同じく、この日学院を卒業する青年だった。
オスカーは王太子の前まで進み出ると、勢いよく頭を下げた。
「このオスカー・ヴァレンティス、殿下のご英断を心より支持いたします!」
「……オスカー? 何の話だい?」
「もちろん、ヴィオレッタ嬢との婚約についてでございます!」
ユリウスは目を瞬かせた。
(……うん? 婚約について話があるとは言ったが、なぜオスカーが答えるんだ?)
しかも、オスカーは満面の笑みを浮かべていた。
その表情は、長年待ち望んでいた瞬間がついに訪れたとでも言いたげだった。
「殿下! これまでお一人で苦しまれたことでしょう! ですが、もうご心配には及びません! このオスカー、すべて承知しております!」
「いや、私はまだ何も――」
「どうか、お任せください!」
オスカーはユリウスの言葉を遮り、勢いよくヴィオレッタへ向き直った。
そして、会場中へ響き渡る声で、彼女を糾弾し始めた。
先ほどまで和やかだった会場は、オスカーの告発によって一変していた。
あまりに突然の出来事に、ユリウスは口を閉じたまま、目の前の友人を見つめるしかなかった。
(……待て。何の話だ?)
オスカーは、そんな王太子の困惑にまったく気づいていなかった。
「皆様にもお聞きいただきたい! リリア・ベルフォード嬢が、この学院でどのような仕打ちを受けてきたのかを!」
ユリウスは、オスカーの勢いに押されかけながらも、口を挟むのを思いとどまった。
リリアが嫌がらせを受けていたという話が事実なら、王太子として無視するわけにはいかない。
だが、誰が何をしたのかも分からない段階で、婚約者を責めることもできなかった。
まずは、オスカーの話を最後まで聞く必要がある。
「まず、リリア嬢の教科書が、ある日突然なくなりました! 翌日、それは学院の裏庭で見つかったのです。雨に濡れ、何ページも破れた状態で!」
オスカーは、懐から一枚の紙を取り出した。
「こちらは、発見された教科書について、学院の職員が作成した報告書の写しです! 発見場所、日時、破損状況が記されております!」
会場のざわめきが大きくなった。
ユリウスも、思わずその紙へ視線を向けた。
(……報告書まであるのか)
オスカーは、紙を高く掲げたまま続けた。
「さらに、教科書がなくなる前日、リリア嬢はヴィオレッタ嬢の周囲にいる令嬢たちから、身分をわきまえるよう注意を受けていたのです!」
「……それは、初めて伺いました」
「初めて!? ご自分の取り巻きが何をしているのか、ご存じないとおっしゃるのですか!」
オスカーは勢いを緩めず、次の告発を始めた。
「リリア嬢の私物が壊され、廊下では身分を理由に侮辱され、親しくしていた生徒まで彼女から離れるようになった! そして、そのたびに名前が挙がったのは、ヴィオレッタ嬢、あなたの周囲にいる令嬢たちなのです!」
ヴィオレッタは、すぐ近くに控えていた令嬢たちへ目を向けた。
何人かが顔を伏せ、互いの様子を窺っている。
「……あなたたち。以前、私がお話ししたことを覚えていますね?」
令嬢たちは答えなかった。
その沈黙を見たオスカーが、さらに一歩前へ出る。
「ご覧ください、殿下! 誰も否定しないではありませんか!」
オスカーは、ヴィオレッタの周囲にいる令嬢たちを順に見た。
「あなた方も、リリア嬢が殿下へ近づくことを快く思っていなかったのでしょう!?」
一人の令嬢が、唇を噛んだ。
「そ、それは……」
「否定なさらないのですね!」
ヴィオレッタが一歩前へ出た。
「お待ちください! 私は、リリア様への嫌がらせをしてはならないと、何度も申し上げております!」
「何度も? それでは、嫌がらせが行われていたこと自体は、ご存じだったのですね!」
「以前、リリア様が廊下で取り囲まれているのを見かけたことがあります。その場で解散させ、二度と繰り返さないよう注意いたしました!」
「なるほど! ご自分で取り巻きたちを注意した、と!」
「はい。その後も陰口を耳にするたび、本人たちを呼んで注意しております!」
オスカーは、納得した様子を見せなかった。
「しかし、それでも嫌がらせは続いていた! 公爵令嬢であるあなたの言葉に、彼女たちが従わなかったというのですか!?」
ヴィオレッタは言葉を詰まらせた。
彼女たちは、注意するたびに謝罪していた。
二度と繰り返さないとも約束していた。
それなのに、今になって別の嫌がらせが続いていたと知らされたのだ。
「……私も、どうしてそのようなことになったのか、確かめたいと思っております」
ヴィオレッタは、令嬢たちへ向き直った。
「あなたたち。本当に、私が注意した後もリリア様へ嫌がらせをしていたのですか?」
令嬢たちの間に、気まずい沈黙が落ちた。
オスカーはその返答を待たず、会場の一角へ手を差し伸べた。
「リリア・ベルフォード嬢! どうか、こちらへ!」
人垣の向こうから、一人の少女が姿を現した。
淡い桃色の髪を肩の辺りで揃え、薄桃色のドレスをまとった男爵令嬢だった。
リリアは緊張した様子で歩み出ると、ユリウスの前で一礼した。
「……ユリウス殿下……」
ユリウスは、彼女が両手を胸元で握りしめていることに気づいた。
「リリア嬢。君が嫌がらせを受けていたというのは、本当なのかい?」
「……はい」
リリアは小さく頷いた。
「教科書が……なくなったんです。大切にしていた物も壊されて……。それに、廊下ですれ違うたび、身分をわきまえるようにって……。私、何度も、やめてくださいってお願いしたのに……!」
言葉を重ねるうちに、リリアの声が震え始めた。
ユリウスは彼女が話し終えるのを待ち、静かに尋ねた。
「つらい思いをしたんだね。それで、嫌がらせをしていたのは誰だったんだい?」
「……ヴィオレッタ様の周りにいらっしゃる方々です」
「ヴィオレッタ本人から、何か言われたことは?」
「……はい。以前、殿下との接し方について、ご注意を受けたことがあります」
その答えに、オスカーが勢いよく顔を上げた。
「やはり! ヴィオレッタ嬢ご本人も、リリア嬢へ圧力をかけていたのですね!」
「オスカー。まずは最後まで聞こう」
ユリウスが制すると、リリアは小さく頷いた。
「……婚約者のいらっしゃる男性に、不用意に触れるのは控えるべきだと。それから、殿下は王太子で、私は男爵家の娘だから……お立場の違いを理解して、礼儀を守るように、と……」
「それだけかい?」
「……はい。叱られたわけではありません。ただ、私が殿下のお腕に触れていたときでしたので……」
ユリウスはヴィオレッタへ視線を向けた。
「ヴィオレッタ。君が注意したのは、そのことだね?」
「はい。リリア様を責めるつもりはございませんでした。ただ、殿下には婚約者がおりますし、リリア様ご自身が不必要な誤解を受けることも心配でしたので……」
ヴィオレッタはリリアへ向き直った。
「リリア様。あのときも申し上げましたが、殿下とお話しになることを禁じたわけではございません。ですが、王太子殿下との距離が近すぎれば、周囲から誤解を招くこともございます。どうか、その点だけはご理解くださいませ」
リリアは視線を落とした。
「……はい」
ユリウスは頷いた。
「ヴィオレッタの言うとおりだよ。君と話すことに問題はないけれど、婚約者のいる男性への接し方には気をつけてほしい。これは、私自身も配慮すべきことだね」
リリアは、小さく頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
ユリウスは、彼女が顔を上げるのを待ってから尋ねた。
「ほかにも、話しておきたいことはあるかい?」
リリアは少し迷ってから、小さく頷いた。
「……あります。実は、階段で……」
ユリウスは、その言葉を聞いて眉を寄せた。
教科書や私物への嫌がらせだけでも看過できないというのに、階段で何かが起きたのだとすれば、話はさらに深刻になる。
「……階段で、何があったんだい?」
リリアは答えようとして唇を開いたものの、すぐには声を出せなかった。
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