3. では、負けた方には
三の月十八日。朝の光が戸口から土間へ斜めに差し込み、舞う埃まで淡く照らすころ、店先の列は二人だった。
先頭にいるのは、もう見慣れたいつもの外套である。
「今日はいい。後ろを先に」
男は振り返りもせず、低い声でそう言う。身体を張って客寄せをしてくれているようですらある。
譲られた二番目に立っていたのは、朝の明るさを吸うような黒の外出着に、銀の簪を挿した女である。
その人が戸口をまたいだ途端、表通りの匂いが店の奥まで入り込む。白粉と、丁子と、まだ新しい木箱の、乾いて澄ました匂いだ。
この裏通りの朝は、灰汁と湯と藁の、湿った暮らしの匂いでできている。そこへ場違いな匂いが細く立てば、目より先に鼻の奥がそれを見つける。
「あたくしは、客ではございません」
庇の下で、誰かが小さく笑う。からかうというより、意表を突かれた息が漏れたような笑いだった。
「エルミーネと申します」
その人は、挨拶を済ませるより先に店の中を見渡す。それから、わたくしの頭へ目を上げる。わたくしの顔を見たのは、最後である。
同じ順で人を見る髪結いを、わたくしは母以外に知らない。店を見て、頭を見て、最後に顔を見る。飾りより手入れを、愛想より腕を測る目である。腕のある人の目は、たいていこの順で動く。
「まあ。その頭で、ご商売を」
わたくしの髪はひっつめである。朝は、鏡に自分の顔を映さないまま、指だけで束ねている。人の髪ならわずかな乱れも気になるのに、自分の頭へ手をかけようとすると、指の先がひどく落ち着かない。
「今朝、あたくしはお一人お断りしました。……たぶん、こちらへいらっしゃいます」
「お断りに、なるのですか?」
「あたくしは、勝てる方しかお結いしません」
「……なぜでございますか?」
「十のうち八つを勝たせれば、十のうち八つが宮廷へ参ります。九つ勝たせれば、九つ参ります。数がそのままあたくしの看板でございますから」
その人はわたくしではなく、看板を見上げている。声は水面のように静かで、棘はどこにもない。だからこそ、胸の奥だけが遅れて痛む。刃物というものは、よく研いであるほど、触れたときには切られたことにさえ気づかないのだと、あとになって思う。
「よい板をお使いですこと。けれど、その一行は嘘でございます」
「……」
「では、負けた方には、何とおっしゃるのです?」
答えられなかった。息を吸っても、喉の奥に冷たいものが詰まり、声の形にならない。
負けた方には、と言われて、わたくしの頭にまず浮かんだのは、客の顔ではなく、あの板の白さである。まだ墨の乾ききっていない、白木の白さ。看板が掛かった日の朝、戸口に人影を見て軽くなった手の感じまで、その白さに塗りつぶされていく気がした。
口の中で言葉を探す。けれど、どれも看板の字より頼りなく、形になる前にほどけてしまう。そうしているあいだに、その人は静かに身を返し、戸口を出ていく。
簪が朝日を弾いて、一度だけ鋭く光る。その光は目の裏に残ったのに、足音は通りの砂利をほとんど鳴らさなかった。
いつのまにか、框にはトルーデさんが腰を下ろし、こちらを見ずに膝をさすっている。
「あれが王都一だよ。宮廷付き。座の肝煎。ついでに言うと、ネッケルんとこは春先の払いが遅れてるってさ」
庇の下の男は、腕を組んだまま、簪の女が去っていく背中をじっと見送っていた。
ネッケル。すぐに分かる名である。それでも、あの人の問いで狭くなった頭は、それ以上先へ行かない。
◇
昼前、朝より白くなった日ざしが庇の影を短くするころ、その人が来る。
荷馬車屋の女房、ヴィープケ。三十三。今日、夫の家へ離縁を告げに行くという。そう話す口元は固く、膝に置いた手も、何かを離すまいとするように強く閉じられていた。
「みっともなくない頭にしてちょうだい」
「かしこまりました」
この人の手は、轡を握る手である。親指の付け根には固い胼胝が盛り上がり、爪は短く切り揃えてある。日に焼けた指の関節は太く、上衣の袖口には、朝からの仕事を連れてきたように、干し草の細い切れ端が一本ついている。
髪は厚く、癖がない。よく手入れが行き届き、毛先まで重くつやめいている。この人は自分をみっともないとは思っていない。そう思っていない人が「みっともなくない頭に」と言うときは、たいてい、姿ではない何かを恐れている。
「前に何か……あったのですか?」
櫛を持つ手を止めず、鏡越しに、わたくしは訊いた。
ヴィープケさんの目が、鏡の中でこちらを向く。黒い瞳の奥で、押し込めていた火がかすかに揺れる。
「怒鳴って……三年前にね。それで負けた」
「そのとき、何をおっしゃったのですか?」
「覚えてない。覚えてないのよ、一言も。それが怖いの」
その短い返事だけで、声の出どころが分かった。この人は喉先で怒るのではなく、腹の底に溜めたものを声ごと持ち上げる人である。そういう人の声は、いちど上がると勢いがつき、自分の耳にさえ届かなくなる。止めたいと願ったときには、もう止められない。
「では、耳を出しましょう」
「耳?」
「耳が出ていると、相手の声がよく聞こえます」
髪が耳を覆っていると、相手の声は布越しのようにこもる。こもった声には、耳を澄ますより先に聞き返したくなる。けれど人は、聞き返す代わりに、つい自分の声を被せてしまう。
鬢を上げ、梳いて、耳の後ろへなめらかに流す。厚い髪の下から、耳たぶが二つ、心もとなげに露になった。鏡の中で、この人の肩がわずかに強張る。
「聞こえているあいだは、こちらは黙っていられますわ」
鬢つけを指の腹でゆっくり温め、やわらかくしてから、生え際へ薄く置く。冷たいままつければ、この人の肌はすぐ赤くなる質だ。触れたところから緊張までほどけるように、力を入れずになじませていく。
窓の下では、日ざしが土間の縁まで静かに伸びてきていた。湯気の薄れた店内で、櫛を通すたび、髪の油が細く光を返し、黒いつやがゆっくり整っていく。
ヴィープケさんは、鏡の中に現れた自分の耳を、まるで知らないものでも見るように、ずいぶん長いこと見つめている。
「あたし、荷主の名前を全部覚えてるのよ。どの荷主が、どの日に、何を出すか。紙になんか書いてない。あたしの頭の中にしかないの」
「存じませんでした」
「あの家、あたしがいなくなったら回らないんだから」
そう言って、この人は椅子を押し、立ち上がる。鏡の中で縮こまっていた背が、店へ来たときよりまっすぐに伸びている。
「行ってらっしゃいませ」
戸口まで送ると、この人は振り返らず、片手を高く上げた。荷馬車屋の女房らしい、手綱の先まで届きそうな、大きな手の振り方である。けれど、指先だけはほんのわずかに震えている。
◇
夕方、長くなった影を連れて、ヴィープケさんは戻ってきた。
「これはお礼さ!」
銅貨十枚を框に置く音が、静かな店内に小気味よく響く。それから、朝にはなかった笑みを頬いっぱいに広げる。
「怒鳴らずに、済みました」
離縁は通ったという。そのうえで、荷送りの差配は今後も自分が続けることになった。荷主が彼女の名で付いているので、夫の家は、その働きまで手放せなかったのである。家を出ても、積み上げてきた仕事はこの人の手に残る。
「三年ぶん、荷主の名を一つずつ挙げて、聞かせたのよ。名を挙げ終えるのに、小半刻かかったわ」
「小半刻も、でございますか?」
「そしたら相手が黙ったのよ。あたしが黙ってるから、向こうが喋るしかなくなって、喋るうちに自分で分かったのね。あたしが要るって」
「よろしゅうございました」
「耳がね、ずっと効いていたわ。些細な音まで拾えると、そこに気が行くのね。だから、喋らずに済んだ」
戸口をくぐりかけて、この人は一度だけ振り返る。
「あたしね、勝ちたかったんじゃなかったみたい。聞きたかったの。三年、聞かずに来たから」
◇
その人が帰ったあと、急に広くなった店で、わたくしは道具を拭く。布を動かす音だけが、夕暮れの土間を浅く行き来する。
櫛の歯の間に、他人の髪が一本だけ残っている。黒く細いそれを指でつまみ、竈の火へ落とした。髪は身をよじるように縮れ、焦げた匂いを残して消える。
『では、負けた方には、何とおっしゃるのです』
その言葉が何度も浮かび上がってくる。
母なら、あの問いに何と答えただろうか。口の中で呼びかけても、返るのは火のはぜる音ばかりだ。
思い出せるのは、声ではない。鋏を置くときの、木の台に当たる小さな音だけである。その音に重なるように、使い終えた刃を確かめる母の指先が浮かぶ。けれど、その指は何も教えてくれず、答えはどこからも出てこない。
看板の下に立つと、傾いた夕日が板の字を赤くしていた。白木に落ちたわたくしの影まで赤く染まり、字の上で頼りなく揺れている。
「負けた方には、何と……」
口に出すとまだ墨の匂いが残る字が、舌の上で苦くなる。やがて、これはいつか必ず来る客の話である。その客が戸口に立つ日の気配が、夕闇の向こうからもうこちらを見ているようで、わたくしは冷えた指を握り込んだ。




