4. 断られました
三の月二十日。朝の薄い光を背に、トルーデさんが、焼きたてのパンの匂いをまとった男を連れてくる。
「ヨハンネス。うちの二軒隣の、パン屋の三代目」
「僕、あの、はじめまして」
二十六。髪より先に、伏せた肩と大きな手が目に入る。爪の間には、こねた粉が細い筋になって白く残っていた。わたくしの視線に気づいたのか、この人はその手を慌てて後ろへ隠す。
隠されると、こちらはかえってそこを見てしまう。人の目というものは、どうにもそういうふうにできている。
「今日、あの、仕立屋の娘さんに、話をしに行くんです」
「かしこまりました」
この人の髪には、パンの匂いが深く染みている。焼けた小麦の甘さに、薪の煙がうっすら混じる。竈の前に立つ人の髪は、いつも少し焦げた匂いがする。
朝の二刻ぶん火の前に立った人の頭は、髪へ指を入れると、表は乾いていて、根元には逃げきれない熱が残っている。この人は、たぶん夜明け前から働いているのだ。
「この癖っ毛を、まっすぐにしてください。みっともないので」
癖の強い髪である。太く、弾くようで、旋毛が二つある。まっすぐにできないことはない。油を強く入れて、根気よく梳いて、手のひらで押さえれば、一刻はもつ。
一刻は。
「ヨハンネス様。仕立屋のお嬢様は、あなたのその頭を、何年ご覧になっていますの?」
「……十一年です」
鏡の中で、この人は肩を少し狭め、また手を後ろへ回す。鏡の縁に隠れた指先だけが、落ち着かない様子で動いている。
「十一年、毎朝ですか?」
「はい。朝一番に、丸パンを二つ。足音で、来るのが分かるんです」
「では、まっすぐの頭を、あの方はご存じないのですね?」
「……知らないです」
それから、この人は鏡から目をそらし、膝のあたりへ視線を落とす。大切なものをこぼさないように、ゆっくりと声を落とす。
「断られたら、あの人、うちにパンを買いに来なくなるでしょう?」
そういうことか、と思った。ようやく、この人が手とともに後ろへ隠していたものの形が分かる。
この人が十一年言えなかったのは、断られるその場が怖いからではない。断られたあとの朝が怖いのだ。丸パンを渡す朝が来なくなり、当たり前にあった声が消えること。いまあるものを失いたくないという気持ちは、欲しいものを取りに行く気持ちより、いつだって強い。わたくしにも、心当たりが一つだけある。
わたくしは、油の壺の蓋を、指先で静かに閉める。油の甘い匂いが、ふっと遠のく。
「本日は、癖を残して結います。……あなたのままで、行っていただきます」
「えっ?」
「直した髪は、一刻で戻りますの。戻る途中の頭が、いちばん人を落ち着かなくさせます」
「でも、みっともないんです」
「みっともないものを、十一年ご覧になっている方は、いらっしゃいませんわ」
櫛目を通して絡みをほどき、埃を落とし、襟の粉を払う。白い粉が朝の光へふわりと散る。それから、二つの旋毛が向くほうへ指を添え、髪の流れに素直に従って結う。癖を伸ばす方向へは一度も引かない。
癖を残して結うのは、伸ばして結うより手数が多い。逆らわない道を探すぶん、指がよけいに考えなければならない。急げば髪が跳ね、強く引けば頭が揺れる。だから指先で、髪が落ち着く場所をゆっくり拾っていく。
元結を低く、いつもと同じ高さで留める。この人が毎朝、自分で結んでいるのと同じ高さである。鏡の中の姿はきちんと整っていても、見慣れない誰かにはなっていない。手は、洗っていただかなかった。
「お手は、そのままで」
「でも、粉が……」
「粉のついた手を、十一年ご覧になっている方がいらっしゃいます」
鏡の中で、この人が恐る恐る自分の手を見る。爪の間の白さを見つめ、指を握りかけて、やめる。それから、その手を膝の上へそっと置いた。後ろへ回さなかったのは、それが初めてである。
出来ることは全てやった――――。
「行ってらっしゃいませ」
戸口から見送ると、この人の背中は、朝の通りの真ん中をまっすぐ進んでいく。靴音はまだ硬い。それでも、隠さない手が歩みに合わせて揺れ、癖っ毛が朝の風に一度だけ大きく跳ねる。
◇
その日、ヨハンネス様は、日のあるうちには戻ってこなかった。
日が落ち、通りの灯りがぽつりぽつりと点り、洗い張りの物干しが家々の軒へ片づけられても、足音は来ない。昼のあいだ通りに満ちていた温かな匂いまで消えていく。わたくしは戸を閉めずに待つ。
土間の底から、湿った冷えが衣の内側へ這い上がってくる。草履を履いた足の指が、順番に痺れていき、感覚だけが遠くなる。
窓の外を、空の荷車が一台、車輪を石に鳴らして通った。その音が角の向こうへ消えると、それきり、通りは息をひそめたように静かになる。
待つというのは、こんなに長いものだったろうか。櫛を持つあいだは、指を動かしていられる。けれど、送り出したあと、わたくしにできることは一つもない。それが今日はじめて、身の内に冷えが入るほど、はっきりと分かる。
今までは、待つことを一度も心細いと思わなかった。帰ってくる足音は、いつも少し弾んで聞こえたものだ。勝って帰ってくる人しか、まだ見ていなかったからだ。
道具を拭き、拭いたものをもう一度拭き、油の壺を並べ直す。櫛の歯を布でなぞり、布の端を折って、またなぞる。並べ直したところで、指のすることがなくなる。何もしていない指先だけが、ひどく冷たい。
来たのは、夜が店の中まで入り込んだころである。
「断られました」
パンの匂いが、冷えている。朝の甘さを失い、濡れた灰のように薄く、その肩に残っている。
「……ごめんなさい」
言ってから、誰のものか分からないほど細い声が、自分の喉から出たのだと気づく。丁寧な言葉が、戸口の外の暗がりへ、どこか落ちていた。
ヨハンネス様は、目を丸くする。責めるような色はなく、むしろ泣く前の人をなだめるように、少しだけ声をやわらげる。
「なんで謝るんですか。僕、言えたんです。十一年、言えなかったのに」
「でも」
「まっすぐの頭で行ったら、たぶん言えませんでした。鏡を見て、これは僕じゃないなって思ったら、口が動かなかったと思います」
それから、この人は、固く結んでいた口元をほどくように白い歯を見せる。笑う顔なのに、目の奥だけは濡れている。
「明日も、パン、届けに来ます」
この人は笑ったまま、それから一度だけ、目のふちを親指で押さえる。指の腹についた光を隠すように手を下ろしてから、また笑う。朝、隠していたその手で。
代金を返そうと、銅貨を差し出す。この人は、首を横に振って受け取らない。
わたくしの手のひらの上で、銅貨五枚が行き場をなくしている。冷たい重みが、皮膚の上だけに残る。
「これは、僕が払うぶんです」
そう言って、この人はわたくしの手から銅貨を取り、框に並べ直した。五枚。一枚ずつ、壊れやすいものでも扱うように、音を立てないで置いていく。
◇
戸口の上で、夜風を受けた板が低く軋んだ。乾いた音が、人影の消えた通りへ細く伸びる。
「あんた、勝たせ屋じゃないんだよ」
トルーデさんが、湯気の立つ湯桶を抱えたまま暗がりから言う。看板も、わたくしの顔も見上げず、それだけ言って、湯の匂いを連れて帰っていった。
わたくしは脚立を引き出す。木の脚が土間を擦る音だけが、妙に大きい。上がって、看板の掛け金に手をかける。
指が、動かない。冷えた金に触れたまま、そこから先へ力が入らない。
しばらくそうしていた。夜の風が板を鳴らし、頭の上で看板がわずかに揺れる。
掛け金にかけた指が、どうしても回らない。金の冷たさばかりが、爪の際へ染みてくる。
結局、わたくしは看板に背を向け、脚立を降りて、それを片づける。板の字は、夜の中に残ったままである。
戸を閂で締めると、外の風音が遠のく。自分の元結に手をかける。ほどきかけて、やめる。髪がゆるみ、うなじへ重さが落ちる。ほどいたところで、結ってくれる人はいない。
母も一度だけ、伸ばす方向へ引きかけた手を、途中で戻したことがある。相手が誰だったのかは覚えていない。その人の声も顔も、もう残っていない。ただ、癖のまま結い上げていく母の指が、急がず、行き先を探すようにゆっくり動いていたことだけを、わたくしの指が覚えている。
逆らわない道を探す手は、伸ばす手より遅い。けれど、触れられている人の頭は少しも揺れない。あの日の母の背中を、わたくしは土間の隅からずっと見ていた。
あのとき母は、どんな手つきで結び終えたのだろう。どこを撫で、どんな顔で鏡を見せたのか。思い出そうとすると、鋏を置く音のほうが先に来る。木の台へ触れた、小さく乾いた音。その音だけが、母の手よりはっきり耳の奥に残っている。
◇
三の月二十一日。夜の冷えがまだ石畳に残るころ、戸を開けると、列の先頭にパンの籠がある。布の隙間から、白い湯気と焼きたての匂いがこぼれている。
「隊長さん、お先にどうぞ」
「今日はいい。後ろを先に」
「いや、僕、順番、後ろですから」
「今日はいい」
誰かが、小さく笑う。こらえきれなかった笑いが隣の肩を揺らし、列の後ろへ漣のように渡っていった。わたくしの耳にも、そのやわらかな名残だけが届く。
その列のいちばん後ろに、城の色をした外衣の女が立っている。髪は後れ毛なく低く結われ、袖に隠した手のあたりだけ、布がかすかに張っている。
「手前は、ダグマーと申します」
女は、袖に手を入れたまま頭を下げた。外衣の肩は、糸を張ったようにまっすぐである。
「三の月二十三日の朝に、支度をお願いしたく存じます。……エルミーネ様に、お断りいただきました」




