2. 順番だ
三の月十六日。朝の榛通りは、洗い張りの湯気と、パンの焼ける香ばしい匂いに包まれて、ゆっくり目を覚ましていく。
湯気は井戸のほうから来る。灰汁の匂いが混じった白い息は、まだ低い日ざしの中を横に流れ、濡れた石畳をやわらかくぼかしていく。その向こうでパン屋の窓が軋み、焼きたての熱と香りが通りへこぼれた。
今朝も、戸口に二人が並んでいる。まだ列と呼ぶのもためらうほどの数だ。それでも、昨日きりではなかったのだと思うと、閂を抜く手も、足の運びも、いつもより軽くなる。
人が立っている店というのは、立っていない店とはまるで違う顔をする。戸口に人影があるだけで、眠っていた店が息をしはじめるのだ。母の店にはいつも人が立っていて、子どものころのわたくしは、忙しく動く母の背中を眺めながら、その列を数えるのが好きだった。
「今日はいい。後ろを先に」
男はそれだけ言うと、庇の下へ身を寄せる。空いた戸口から、二人目がためらいがちに入ってくる。
従騎士のラッセ。十九。今日、春の武技会の従騎士の部の予選があるという。抱えた兜は胸へ強く押しつけられ、声だけが、体に入りきらない緊張を追い出すように大きい。
「自分、兜が回るんであります!」
「声が大きいですわ」
「はいっ」
兜を膝に置かせて、結い目の位置を検める。この子の髪は頭頂で高く束ねられ、固いこぶのように盛り上がっている。そこが内張りに当たれば、兜は必ず横へ滑り、締め緒は顎へ食い込んでしまう。
兜の内側の革は、汗を吸い、まだらに色を変えていた。乾いてはまた汗を吸った跡が、消えずに残っている。稽古の量は、こういうところに隠せず出るものだ。この子は、量だけなら十分にやっている。
「結い目は、低く。耳の後ろで留めます」
「低く、でありますか?」
「兜の中で頭が動かなければ、あなたの目も動きません。目が動かなければ、足も迷いませんわ」
「……はい」
髪を解き、丁寧に梳いて、耳の後ろで低く留め直す。櫛の歯が通るにつれ、強く引かれていた頭皮がゆるんでいく。指が根を締めるたび、少年の首の後ろの筋が固くなるのも伝わってくる。緊張は、いつも首から来る。
「息を、吐いてくださいませ」
「はいっ」
「吸うのではなく、吐くのです」
鏡の中で、少年の肩が一段下がった。つかえていた息が抜けたように首筋がゆるみ、幼さの残る顔が、ふいに大人びて見える。
呼吸が静かになるのを待ち、それから、鏡越しに訊く。
「呼び出しは、お名前でございますか?」
膝の上の兜が、かちりと鳴った。縁を握る指に力が入り、古い革が小さくきしむ。
「……兄上の、弟、と」
「兄上は、おいくつでございますか?」
「四つ上であります。近衛の、第一隊に」
剣も、兄上のものだという。柄の革の巻き方は、この子の手の大きさに合っていない。合わない柄を、それでもこの子は毎朝千五百回振っている。兄上に合う形へ、自分の手のほうを押し込めるように。
わたくしは、その返事の速さに耳を澄ませた。速く答える人ほど、その言葉を何度も心の中で言い慣らしている。言い慣らせば痛みが減るわけではない。ただ、どこを刺されれば痛むのかが、先に分かるようになるだけだ。
「今日は、あなたのお名前で呼ばれると……よろしゅうございますね?」
「はい」
銅貨五枚。この子は五枚きっちり持っている。框へ並べる指先はまだ固いが、入ってきたときより、背筋はまっすぐに伸びていた。
「行ってらっしゃいませ」
◇
昼過ぎ、春の日ざしが通りの土を白く照らすころ、大家であり洗い張り屋の女将が、女中を一人連れて土間に入ってくる。
「家賃は月に銀貨二枚。毎月十五日。まけないよ」
トルーデさん、この通りでいちばん耳の早い人である。よその家の鍋が焦げても、煙より先に知っていそうな人だ。
「昨日、お待ちしておりましたけれど」
「川へ晒しに行ってたんだよ。晴れた日にしかできないんだから、しょうがないだろ」
銀貨二枚を框に置く。石に触れた硬い音が土間へ落ちたが、トルーデさんはろくに見もせずに懐へしまう。
「言っとくけどね、八年、この土間には誰も入れなかったんだ」
「なぜでございますか?」
答えは返ってこない。細めた目の奥を読ませないまま、かわりに、この人は女中の背中を押した。
「ほら、洗い髪で悪いけどさ。この子、明日から表の店に出るんだよ」
「かしこまりました」
女中の髪を結うあいだ、トルーデさんは框に腰を下ろし、湯気に負けない勢いでしゃべり続ける。井戸端では、うちの通りに髪結いの令嬢がいると噂になっていること。表通りの髪結い座がどうのということ。パン屋の三代目が三日も同じ上衣を着ているのが気に入らないこと。話は途切れる気配もない。
「あたしゃ、何にも言っちゃいないけどね」
あの娘が同輩に言ってくれたのだろう。帰ったあとにも、わたくしの仕事を覚えていてくれた人がいる。そう思うと、櫛を持つ指の先へ、湯とは違うあたたかさがじんわり戻ってくる。
それから、絶え間なく流れていた声が、ふと低くなった。にぎやかだった土間まで、何かを待つように静まる。
「あんたのおっ母さんも、この土間で結ってたよ」
櫛が、女中の髪の途中で止まる。
「……あの人の手も、あんたとおんなじだったよ」
しばらく、湯の滴る音だけがしている。桶の縁から落ちる音が、急に広くなった土間へ響き、消えていく。
おんなじ、という四文字が、ゆっくりと沈み、思っていたよりずっと深いところで痛みに触れてしまう。わたくしはこの八年、母の手を思い出すたび、あれは母だけのものだと決めていた。追いつけない、もう戻らないものとして、遠くへ置いてきたのだ。自分の手が、その続きを覚えているかもしれないなど、考えたこともない。
「あんた、自分の頭は結わないのかい?」
「……お客様が、いらっしゃいますので」
「客が並んでる時分にやれって話じゃないよ」
わたくしは答えなかった。鏡の中に自分の髪が映るより早く目を伏せ、女中の襟元ばかりを見てしまう。
「入れなかったんじゃなくて、入れたくなかったんだよ」
トルーデさんは、誰にともなく、そう言い直した。それだけ言うと、湯桶の湯を揺らしながら、土間の外へ捨てに出ていく。
母の櫛は質屋にある。六の月十日に流れる。請け出すには銀貨十二枚が要る。母へ続いているかもしれない自分の手を見た途端、その遠さが重みを増し、数えるたび、指の関節が冷たくなる。
銅貨五枚。それを何度数えれば櫛が帰ってくるのか、頭の中で積み上げようとしても、指のほうが先に諦める。冷えた関節を握り込み、数えかけて、やめる。
◇
夕方、板を打つ乾いた音が、閉まりかけた店々の物音を抜けて聞こえてくる。
外へ出ると、トルーデさんが梯子の上にいる。戸口の上には、夕日を受けた白木の板が、まぶしいほど新しい顔で掛かっていた。
――わたくしが髪を結った方は、その日、負けません。
「下ろしてくださいませ」
「あたしゃ大家だからね。店の看板くらい掛けるよ」
「そんな大口、わたくしには」
「あんたが言ったんじゃないよ。昨日の娘が言ったんだ」
梯子が揺れないよう両手で支えながら、わたくしは板を見上げる。字は太く、勢いがあり、乾ききらない墨が木目に沿って滲んでいる。
板の言葉を目で追ううち、掌にじっとり汗が湧いた。人に何かを約束するのが怖いのではない。約束した分だけ、自分で自分に値をつけ、その値を人の目にさらすことになる。それが、怖いのだ。
値をつけるというのは、それが外れたとき、言い訳も肩書も剥がれ落ち、自分だけがその場に残るということである。母の名の陰にも隠れられない、わたくし自身が。
たまらず、掛け金へ手を伸ばす。
その手より先に、大きな手が伸びて、掛け金をきつく締め直した。外套の男である。
「あんた、見た顔だね?」
トルーデさんが、記憶を探るように目を細めた。男は板を見上げたまま、顔色も変えずに答える。
「人違いだ」
「そうかい。あたしゃ、人の顔だけは忘れないんだけどね」
そこへ、通りの奥から、石を蹴る足音が勢いよく走ってくる。
「勝ちました!」
ラッセだった。兜を小脇に抱え、稽古着の胸を大きく上下させている。汗に濡れた顔は、疲れよりも喜びで明るい。
「呼び出し、自分の名前でありました!」
「おめでとうございます」
「兜、一度も回らなかったであります!」
「それは良かったわ」
「毎朝の素振りが、効いたであります!」
この子は自分の右腕を一度叩いた。借りた剣ではなく、振り続けた腕こそ自分のものだと確かめるように。それから、息を整えきれないまま続ける。
「千五百、続けてきたであります。……それに、兄上の名じゃなく、名前で呼ばれたであります」
「では、勝ったのはあなたでございますね?」
「あ、いや、あの、髪も。楽でありました。頭が、静かで」
少年は耳まで赤くなり、それでも笑みを隠しきれないまま深く頭を下げ、大事そうに兜を抱え直しながら帰っていく。
その背中が角を曲がるまで、わたくしは戸口に立っていた。兜の緒の跡が、あの子の顎に赤く残っていたのを思い出す。明日には消える程度の跡である。それでも、兄上の影から自分の名へ踏み出した声は、いつまでも耳に残りそうだった。
外套の男は、まだ庇の下にいる。夕暮れの影に溶けながら、板の文字を見守るように。
「あの、あなた様は」
「また来る」
それだけ言うと、男は外套の裾を翻し、人影のまばらな通りへ紛れていく。
その後ろ姿が夕暮れへ溶けてから、トルーデさんが欠伸まじりに、どうでもよさそうな声で言った。
「あの人、五日ばかり前から朝な朝な、この通りを見に来てたよ」
「そうでございますか?」
「あんたが来る前からさ」
五日前といえば、あの夜会の翌日である。わたくしは板の字をもう一度見上げ、滲んだ墨を目で追ううちに、その話を忘れてしまう。
日暮れ、最後の赤みが屋根の向こうへ沈むころ、通りの向こうに黒塗りの二輪が音もなく停まる。磨かれた車体は店々の灯を冷たく映し、閉じた窓の奥だけが見えない。
誰も、降りてこない。それでも、黒い窓の奥から、こちらだけは見られている気がする。




