1. 髪結いなど、下女の仕事だ
三の月十日。花の香りと金色の灯りに包まれた春の宮の夜会で、わたくしは婚約を破棄された。
「レナーテ。君との縁は、今日限りにさせてもらう」
シュテファン・ネッケル様の声は、磨いた銀のように冷たく、よく通る。広間の端まで届いたとたん、弦の音が切れ、最後の響きだけが高い天井へ消えていく。
止まったのは音だけではない。人の話し声も、杯の触れ合う音も、扇を鳴らす手も、いっせいに止まる。三百人が息を止めた広間は、しんとするというより、耳を押さえつけられたようで、その奥がじんじんと痛む。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか?」
震える息を押し込めて出した自分の声が、思ったより遠くから、まるで見知らぬ女のもののように聞こえてくる。
「君は夜会で人の髪を触る。髪結いなど、下女の仕事だ。子爵家に入る者の振る舞いではない。常識だろう」
常識。その言葉が、天井の高いところで小さく反響し、冷たい雫になって頭上から落ちてくる。
わたくしは十九年、その言葉に細い針で何度も刺されるようにして育ってきた。母が王都の裏通りの髪結いで、父がその人を娶ったからである。
言い返す言葉を、わたくしは持っていない。母は下女ではありませんでした――そう言えばいいのだと、頭では分かっている。けれど、腹の底からせり上がった声は、喉の途中でいつも引っかかる。十九年ぶんの痛みが、飲み込んだ言葉といっしょに層になって固まっているのだ。持っていないことにさえ、とうに慣れてしまっている。
だから、爪が手のひらへ食い込むほど拳を握り、黙って一礼する。それで終わるはずである。
終わらなかったのは、シュテファン様の隣に立つご令嬢の、右の編み込みが落ちかけているのを、わたくしの目が見つけてしまったせいである。
その方の白い手は、そこが当然の居場所であるかのように、シュテファン様の腕へ軽く添えられている。
「近いうちに、あらためてご挨拶することになる。君も、噂で聞く前に知っておくといい」
「存じませんでした」
わたくしは、そちらを見ていない。顔を見れば、細く張りつめた糸のようなものが切れそうで、見られない。目が追っていたのは、右の鬢から拾った一筋だけである。
編み目の内側で、その一筋が捩れて浮いている。生え際の細い毛までいっしょに引かれ、頭を動かすたびに肩へ滑る。あと十を数えるうちに、あの編みは全部ほどける。ほどけた髪はこの明るさでは白い糸のように見えて、誰かがきっと笑う。自分へ向けられる笑いではないのに、その気配を思うだけで肌がひりつく。
気づいたときには、痛みより先に母に教わった指が答え、もう足が出ていた。
「失礼いたします。――動かないでくださいませ」
「え、あの」
髪に触れる。絹より少し乾いた感触が指の腹へなじむにつれ、ざわめきは遠のき、指が勝手に動き始める。
編み目を三つ遡って拾い直し、落ちた一筋を内側へ返して、元結の紐をきゅっと締める。人の髪はその人の一日の疲れを覚えているもので、この方の髪は右へ右へと逃げたがる。逃げる先を指の腹でそっと押さえ、頭の皮を引かないよう、行きたい方向へ流してやる。
ほんの三十を数えるあいだのことである。
その三十のあいだだけ、わたくしは何も考えていなかった。父の借財も、たった今言われた言葉も、明日からのことも、指先には一つも上がってこない。髪の重さと、油の乗り具合と、襟の高さだけがそこにあり、乱れていた息まで静かになっていく。
――ここだけは、静かだ。
手を離した瞬間、指先だけにあった静けさがほどけ、代わりに広間じゅうの凍りついた沈黙が肌へ押し寄せる。
「代金は、結構ですわ。……最後ですから」
わたくしは踵を返す。背中で、扇の陰の囁きが、風にざわめく草のように急に起こる。頬が熱いのか冷たいのかも分からず、視線の針だけが背に刺さる。それでも歩幅だけは崩さないようにと、自分の足音を数えながら進む。
柱のそばに、夜の影をまとったような外套の男が立っていた。近衛の留め金だけが燭台の光を返し、暗がりの中で鋭くきらめいている。すれ違いざま、その人が、わたくしにだけ届く低さで言う。
「――見事だ」
名乗りはない。わたくしも、訊かない。ただ、その短い声だけが、凍えていた指先へ小さな火のように残る。
◇
翌日、父から手紙が届いた。紙を見ただけで、みぞおちに重いものが沈む。
王都の遠縁へ行儀見習いに出す、と、いつもより固い字で書いてある。保証を引き受けた商会が潰れて、領地はもう差し押さえの一歩手前だという。母の黄楊の櫛を質屋へ入れたのも、この人である。
紙の折り目に、滲んで乾いた輪が二つあった。筆を持ったまま、言葉を探して迷った跡である。責める言葉より先に、その迷いが目に入ってしまう。父を憎めない理由がいつもここにあり、わたくしは同じところで毎回つまずく。
わたくしは返事を書かない。開いた手紙を卓に残し、母の道具箱を担いで立ち上がる。肩へ食い込む重みだけが、いま選んだ道を確かにしてくれる。
勘当されたのではない。家に残ればまた自分を小さくしてしまうと分かって、自分の足で出たのだ。
◇
三の月十五日。朝の薄い光が、榛通りに残る母の店の跡へ、斜めに差し込んでいる。
八年、借り手のつかなかった土間である。湿気で黒ずんだ壁には、時間だけが静かに積もっている。昨日のうちに洗い張り屋へ行って話はつけてあった。大家は川へ晒しに出ていて留守で、取り次いだ女中が、今朝そのまま鍵を届けてくれる。
閂を抜くと、蝶番が長くかすれた声で鳴く。土の匂いと、藁の匂いと、八年ぶんの冷えがいっしょに顔を包み、そのまま息の底まで流れ込む。
道具箱を開けると、椿油と埃の匂いが、眠りから覚めたようにふわりと立つ。この匂いだけは変わらない。母の指がこの箱に触れていたころから、寸分も変わっていない。そのことが嬉しくて、同じだけ苦しくなる。
櫛の入っていた窪みだけが、空のままである。小さな空白が、母のいないことよりもはっきり目に刺さる。
母の耳飾りを売った銀貨三枚。握ると冷たいその金のうち、いくらかは、店を開ける前から家賃に消えることになっている。
看板は、出していない。何と書けばよいのか、わたくしには分からなかったからだ。母の店と呼ぶには母がいなくて、自分の店と呼ぶには、まだ舌が追いつかない。
戸を開ける。細い通りの朝の光が、冷えた土間へまっすぐ差し込む。
男が一人、光を背にして立っていた。肩の形と、近衛の留め金ですぐに分かる。あの夜会の外套の人である。
「今日はいい。後ろを先に」
その大きな背中の後ろで、隠れるように小さくなっている娘がいる。胸元で握りしめた指だけが、落ち着かずに動いている。
「……あの、わたし、」
「どうぞ、お座りくださいませ」
娘の名はロミー。十六。今日の午後、王宮の書記官見習いの登用試験があるという。膝の上では、細い指がほどけてはまた固く組まれている。
「あの、井戸で、洗い張り屋の女将さんに聞いて。ここで、髪結いが始まるって」
「井戸の女将さんが、そうおっしゃいましたのね?」
「はい。まだ、看板も出てないのにって、思ったんですけど」
「字が、下手で。それが、心配で」
そう言いながら、この子は指先で何度も襟を立てている。髪を下ろし、何かから首を守るように、すっかり覆っている。
鏡越しに、わたくしはその項の隠れ方をしばらく見ていた。髪の分け目の乱れ方から、この子が何度も襟を引き上げ直したことが分かる。長く続いた癖ではない。今朝、怖さを飲み込むたびについた癖である。
「ロミー様。試験は、お名前を呼ばれるところから始まりますのね?」
細い肩が、糸で上から引かれたように、ぴくりと跳ねる。
「……はい」
「返事が、怖いのでございましょう?」
娘は答えない。鏡の中で唇をきゅっと結び、視線だけを膝へ落とす。答えないことが、何よりはっきりした答えである。
わたくしは梳き櫛を取る。手になじむ木の重さが、迷っていた心を仕事へ戻してくれる。
「高く結い上げます。項を出しますので、少し寒うございますよ」
「あの、それ、試験に、関係」
「声は、喉から出ますの。喉を隠すと、声も隠れます」
襟で喉を覆えば顎が引ける。顎が引ければ胸まで縮こまり、息が浅くなる。浅い息では、名を呼ばれた一拍に声が乗らない。隠れたい気持ちは消せなくても、声の通り道だけは、髪の力で開けられる。
母がそう教えてくれた。教えるとき、母はわたくしの首の後ろへ、熱を分けるように手を当てる。開いているか塞がっているかを、言葉ではなく手のひらで示す人だった。あの手のあたたかさだけは、いまもわたくしの首が覚えている。母を思い出すとき、顔より先に、そこだけがあたたかくなる。
髪を上げ、油を薄くつけ、元結でしっかり留める。後れ毛を三本だけ落とすと、隠れていた首が細く長く出て、白い肌に店の朝の光が触れる。
鏡の中で、娘が初めて見るもののように自分の喉を見ている。開いた首元へそっと息を入れながら、無意識に顎を上げた。
その隣に、束ねただけのわたくしの頭が映っている。自分の髪へ目を向けるだけで、古い傷が静かに開く。わたくしは目を伏せる。自分の髪を見ないようにするのは、もう息をするのと同じくらい自然になっている。
「三枚しか、ないんです」
代金は銅貨五枚である。けれど、ためらいながら差し出された手のひらにあるのは、銅貨三枚。娘の指は、足りないぶんまで隠そうとするように内側へ縮んでいる。
その三枚は、掌の熱でぬるくなっていた。ずっと握っていたのだ。硬貨の縁には、この戸を開けるまでの迷いまで染み込んでいるように思える。
「三枚で結構ですわ」
「でも」
「三枚で結構ですわ」
言ってから、母ならこうは言わなかっただろうな、と思う。母は「五枚です」と言って、それから「今日は貸しにしておくよ」と言う人だった。同じことのようで、あれは違う。技の値を曲げず、そのうえで相手の事情を抱えるのが母だった。違うのだと分かっているのに、わたくしの口はいつも安いほうへ滑る。そのたび、自分の腕まで自分で軽くしているような痛みが、あとに残る。
「行ってらっしゃいませ」
◇
日が傾いたころ、夕日の色に染まった通りの向こうから、石を蹴るような足音が走ってきた。
「受かりました!」
ロミーは戸を叩きもせずに飛び込んできて、それから胸いっぱいに息を継ぐ。襷がほどけかけ、額には汗で髪が張りついている。走ってきたのだ、王宮から、この裏通りまで。その顔には、朝にはなかった光がまぶしいほど満ちている。
「名前、呼ばれて、返事、できました」
「おめでとうございます」
「あの、わたし、あなたのおかげで」
「わたくしは何もしておりません」
言い慣れた言葉である。三年、毎晩、写しをやってきたのはこの子だ。読んで、書いて、返事をしたのもこの子である。わたくしはただ、髪を上げただけにすぎない。
「でも」
娘は袖で目のあたりを乱暴に拭う。けれど、その口元は泣き顔になりきれず、何度も笑いそうに震えている。
「でも、試験前に鏡を見たとき、負ける気がしなかったんです」
喉の奥が、ひどくではなく、ほんの少しだけ熱くなる。その少しが、いまのわたくしには息を止めたくなるほど大きい。
――負ける気がしなかった。
わたくしはその言葉を、聞いたまま、どこへ置けばよいのか分からない。褒められ方の作法を、わたくしは習っていない。習わなかったのではなく、習う機会がなかったのだと思う。受け取れば手の中で壊しそうで、返せばもう戻らない気がして、ただ黙って抱えている。
帰りぎわ、ロミーは戸口で振り返る。傾いた光の中で、高く結った髪が、朝よりも誇らしげに揺れる。
「みんなに言います。この店で結ってもらうと、その日、負けないって」
「そういうことは――」
やめてくださいませ、と言おうとして、言えない。そんな噂は困るはずなのに、耳の奥では、誰かがまたこの戸を開ける音を、もう待ち始めている。
夜、土間に一人になって、わたくしは銅貨三枚を框の上に、音を確かめるように並べた。三枚では、櫛は帰ってこない。それでも、この三枚には昼のあいだの重さがある。ロミーの熱がまだ残っているようで、冷たいはずの銅が、灯りの下でかすかにあたたかく見える。
翌朝、小さなためらいを抱えたまま戸を開けると、朝の光の中に二人並んでいる。
先頭は、昨日と同じ男である。




