第七章 太陽の花
ゆれる視界。
不気味な烏の鳴き声。
止まらない動悸。
地下都市から旧新シナゴーグを抜けたティアは、雨が降りしきる往来を歩いていた。
往来を埋め尽くすのは人、人、人。
「ふぅ……! ふぅ……!」
人の波に逆らうように歩くティアの前には、護衛のように振る舞うゴーレムの姿。
異質な怪物を目にしても、誰ひとりとして騒がず、驚く様子も見せない。
(プラハの街が……壊れちゃってる……)
ティアの目には濃霧のような呪力が映っていた。晴親が言うには、自分たちもすでに異常に呑まれていて、正常な感覚ではないらしいが――
(自分たち、って……わたしひとりじゃない)
アタノールを錬成して数年。ずっと一緒だった彼の重みがなくなった。その代わりに付き従っているのが、自分が追い求めていたゴーレムだなんて。
まったく、いったいどんな因果の果てなのだろう。
『――――』
そのゴーレムはひと言も話さず、ただティアの前を歩いている。
ときおり身体をゆらして通行人からティアを守ったり、手を差し伸べたり。まるで女王に仕える騎士のようだった。
そうこうするうちに、ふたりはユダヤ人地区を抜け、ヴルタヴァ川のほとりのガラス工房まで戻ってきた。
「……あっ」
扉を開けた途端、膝から崩れ落ちそうになった。すかさずゴーレムが身体を支え、ティアを横抱きにしてベッドへ運ぶ。
「あり、がとう」
『――――』
ゴーレムはなにも言わず、そっとベッドの脇に控えた。
頭からシーツを被り、倦怠感や頭痛と戦いながら、さっきまでのことを思い返す。
(これで……よかった、のよね……)
本物のゴーレムは完璧な形で手に入った。これ以上ない成果だ。
晴親たちの目的は道摩法師――蘆屋道継を止めること。
彼らの話では、道摩法師が術式を発動させるのはロシュ・ハシャナ当日――あした。
それなら近いうちに接触してくる。遅くとも、今晩中には。
(大丈夫……ぜんぶわたしが、なんとかしてみせる……)
世話になった彼らへ牙を剥いたのだ。せめて彼らの憂いを絶たなければ。
大丈夫。
自分には最強のゴーレムがついている。荒事を挑まれたとしても、負けるはずがない。
そう思いながら、そっとゴーレムに視線を向けた。
(この子が、太陽の花にいたるための……絶対の、手がかり……)
意識が深く、深く沈んでいく。ティアの規則正しい寝息が工房内に響くのに、時間はかからなかった。
『――――』
ゴーレムは、ただそこに佇んでいた。
●
その日の晩。
ひどくなる雨音と烏の声が響く中、道摩法師は現れた。
「こんばんは、ティア様。今宵はあいにくの空模様ですが、貴方の――」
「御託はいいから、さっさと入りなさい」
「これは失礼」
工房に招き入れるのは本意でないが、相手は得体の知れない陰陽師だ。勝手のわかる場所のほうがいいに決まっている。
「おぉ……! これが……!」
入るやいなや、道摩法師は目の色を変えた。本物のゴーレムへ飛びかからんばかりに歩み寄った。
「なるほど……! たしかにこれは、そこの土塊とはわけが違いますね! 素晴らしい……!」
身体を震わせ、噛み締めるように漏らす道摩法師をティアは冷めた目で見ていた。
「あなたの言うとおり、本物のゴーレムはこうして連れてきたわ。次はあなたの番よ」
「もちろん……もちろんですよ! おぉ、いよいよ私の長年思い描いていた悲願が達成されるのですね……! ……ところで」
視線を切って、道摩法師はティアを見た。
「このゴーレムは、なぜ眠っているのですか?」
二体のゴーレムは肩を並べるように端座していた。
彼が来るよりも前に、ティアはゴーレムの口からshemの護符を抜き取り、無力化していた。
「起こしておかないといけない理由でもあるのかしら?」
「いえいえ! ですが、伝説のゴーレムが動いているのをこの目で見てみたい、と思うのは当然でしょう?」
「そうね。だけど、残念……この子は動かないのよ」
「……ほう」
道摩法師が深く嗤った。線のような目が開かれ、闇色の瞳がティアを見据える。
「残念だけど、わたしでも動かし方はわからないわ」
「そうですか……ふふっ」
「なに? 疑ってるの?」
「まさか! ここまで来て、ティア様を疑うはずがありません! ……ですが、晴親様から、もうすべてを聞いているのでしょう?」
「そうね。道摩法師――いえ、蘆屋道継」
道摩法師――蘆屋道継は口角をするどく上げ、三日月のような笑みを浮かべた。
「淑女を前に通り名で挨拶をした非礼、謹んでお詫びいたします……ですが、私にもいささか事情がありまして――」
「御託はいい、って言ったはずだけど?」
ソファに腰かける。
さして気にした様子もなく、道継も対面に腰かけた。
ここからだ。
「取引の条件は、本物のゴーレムをあなたの前に連れてくること。対価は太陽の花の情報」
「えぇ。相違ありません」
「だけど、わたしは強欲なの。追加で条件を出すわ」
「ほう……伺いましょう」
道継はあくまで自然体だった。ゴーレムを前にすれば露骨な態度を取るが、それ以外は冷静で、底が知れない。
(落ち着いて……大丈夫、大丈夫よ……)
平静を装い、自分が主導権をにぎっていると信じる。
「追加の条件はプラハの街で起こそうとしている術式をすべて止めること」
「……晴親様はティア様を信用しているのですね。そこまで話しているとは」
胸がちくりと痛んだ。その信用を、自分は――
「乗るの? 乗らないの?」
「乗るも乗らないも、対価を示していただかなくては」
「ゴーレムの核をあなたに差し出すわ」
我ながらうまいと思った。
これなら絶対に飲まざるを得ない。道継の狙いはわからないが、以前自分の口で核が欲しいと言っていた。
(乗ってくるはず……乗らざるを得ないでしょ)
膝の上の手が震えている。
喉が鳴るのを抑えるのに必死だった。
「ふむ、なるほど……」
一方、腕を組み、顎に手を当てた道継は冷静に思案する。
「実に交渉がお上手ですね。これでは私が取るべき答えはひとつしかありません!」
かと思えば破顔し、拍手までしだした。いちいち大仰な仕草がうっとうしい。
とはいえ、どうやらうまく交渉を運べたようだ。
ほっ、と安堵の息を吐いた。
「そう。それなら――」
吐いてしまった。
「えぇ。残念ながら交渉は決裂です」
「……は?」
なにを言われたのか、一瞬理解できなかった。
「ちょ、っと、待ちなさい……もう一度、言ってくれるかしら……?」
「えぇ。交渉は決裂した、と申したのです」
意味がわからなかった。
「どういうことよ……!?」
「私は術式を止める気はないのです。これっぽっちも」
人差し指と親指で輪を作り、子どもを相手にするような仕草をされた。
「よって交渉は決裂。私はゴーレムの核を得られず、ティア様は術式を止められない……お互い残念な結果になってしまいましたね」
「待ちなさい!」
乱暴に立ち上がり、道継を見下ろす。
心臓がうそのように早鐘を打っていた。口の中が痛いほどに乾いている。
「そ、そんなの、認められないわ!」
「なにをおっしゃるのですか? そもそも、どうして私が追加の条件を飲まないといけないのですか?」
「っ、本物のゴーレムよ!」
「えぇ」
「このままでいいの!? ゴーレムの核が、どうしても必要なんでしょ!?」
「そうですね。ゴーレムの核は私の求める最後のピースなのですが」
やれやれ、と道継はかぶりを振った。
「とはいえ術式を条件に出されたのでは飲めません。私にとっては術式こそが最重要です。仕方がありませんので、核は代用品で我慢しましょう」
見誤った。
道継にとって、ゴーレムの核がなにより重要だと思っていた。
「そ、それなら――」
「ティア様、強欲であることを恥じる必要はありませんが、物事には順序というものがあります。次は私の番です」
道継が立ち上がった。
構図が逆になる。
「そんなに怖い顔をしないでください。まるで私が悪者のようではありませんか」
落ち着け。
落ち着け。
落ち着け。
道継はまだなにも言っていない。
簡単に飲める条件を提示してくる可能性だってある。
「私から追加の提案はありません。よって取引はこれにて終了。ゴーレムは私の物です」
もちろん、そんなはずはなかった。
慇懃に礼をする道継を直視できない。
「それでは私からも対価として、太陽の花の情報をお話しましょう。太陽の花は――」
「待ち、なさい……!」
声が震える。
足元がふらつく。
耳鳴りがひどい。
精一杯、気丈を装って顔を上げる。
「あなたに、ゴーレムは渡せないわ」
「なにを言い出すのかと思えば……取引は成立しました。いまさら反故になさるおつもりですか?」
「そうよ!」
ホルスターから試験管を取り出す。禍々しい液体を見た道継が笑みを深める。
「ティア様は本当に魅力的でいらっしゃる」
ばっ、と両手を広げたかと思えば、
「平安の世より続きし陰陽道の家系、蘆屋家の末裔――蘆屋道継。謹んでお相手いたしましょう」
●
得体の知れない相手に待ちは禁物だ。
それに試験管で仕掛ける自分とは違い、陰陽師は式神やらを召喚する必要がある。
(先手必勝!)
試験管を投擲する。道継は避けることなく、正面から受けた。
外套が燃え上がる。
「これは珍妙な」
焦る様子もなく外套を投げ捨て、懐から呪符を取り出そうとする。
(させない!)
テーブルをひっくり返す。乗っていたコップや資料、花瓶が宙を舞い、道継の足元で砕け散った。
「借り物の工房でしょうに」
まくし立てるように、色とりどりの試験管を投げつける。
それらを道継は、柳のようにかわす。
――鈍色の薬液が触れた工房の石畳が、槍のように襲いかかった。
「こんなことまで……実に愉快ですね」
穂先をいなし、軽やかに跳躍。
(かかった!)
空中では、自由に動けない。
「喰らいなさい!」
渾身の力で試験管を投擲する。中の液体は深い蒼色――第二の門、解離薬。
薬液が道継に降りかかる。
寸前。
窓ガラスを突き破り、一羽の烏が飛び込んできた。黒い影はティアの投げた試験管めがけてまっすぐ飛んで、
『アァー! アァー……』
解離薬をもろに浴びた。悲痛な叫び、肉の溶けるにおいが鼻を突く。
数秒ともたず、烏は絶命した。
「ほう、これは強力な酸でしょうか。いけませんよ、そんなものを人様に向けては」
亡骸に向けられた目は実験の結果を見る科学者のようで、なんの感情も浮かんでいない。その様子に、
「……どういうつもり……」
「なにがでしょう?」
「さっきの烏、あなたの式神でしょ」
「おっしゃるとおりです」
「あなたを守ったように見えたけど」
「えぇ。殊勝なことです」
「……そう命令したの?」
射抜くような視線を向ける。
「おぉ……! ティア様は、なんとおやさしいのでしょう……! 式神のために、そこまでお怒りになるとは……!」
道継が笑みを深めた。
「陰陽師が使役する式神は自我や意識のないものが大半です。それに低級な烏や狐火などは掃いて捨てるほどいる……ティア様は道を歩くとき、いちいち虫を避けますか?」
「あなたにとって式神はそこら辺にいる虫と同じだって言うの!?」
「まさか!」
天井を仰ぎ見ながら、まるで講義でも始めるように道継は語る。
「人の身では不可能なことをやってのける権能。無限に湧いてくる物量。なにより命令に忠実に従う隷従性。こんな便利な式神が虫けらと同じなど! ティア様、それは式神に対して失礼というものです」
「こ、っの……!」
「とは言っても、式神には格や神位があります。たとえば晴親様のお家、土御門家の開祖たる安倍晴明が使役していた――十二天将」
聞き覚えのある名だった。
「たしか、あなたの一族が――」
「本当に貴方はどこまで話を聞いているのですか……まさか、その美貌で晴親様を誑し込んだのですか!? なんと羨ましい! 是非とも私の相手も――」
「ふざけないで!」
「……失礼。淑女に対してあまりにも無礼でしたね。ですが、私は感心しているのですよ。あの晴親様がそこまで話しているとは……そうそう、十二天将の話でしたね」
道継がゆっくりとゴーレムに近づいていく。
溶鉱炉の前で双子のように鎮座しているゴーレム。道継は贋物の前に立った。
「恥ずかしながら今日にいたるまで、蘆屋家はその顕現に成功していないのです」
「センスがないんじゃない?」
「これは手厳しい……ですが、そのとおりなのですよ」
贋物の顔を踏みつける。
冒涜以外のなにものでもない行為に、ティアの視線がするどさを増した。
「歴代の蘆屋家のものたちは無能ばかりでした。そのくせ、十二天将への執着と土御門家に対する劣等感は人一倍。嘆かわしいことです……ですが、私は違う!」
道継の草履が贋物の顔を何度も踏みつける。
「私は蘆屋道継! 無能な一族とは違い、こうして十二天将を顕現させる道筋を立てた! こんな贋物なんかとは違う! 私は蘆屋道満を――安倍晴明を超える陰陽師だ!」
「やめなさい!」
「そうなるべくして生まれた! そう望まれて、それだけを目指して生きてきた! それを贋物風情が――邪魔しやがって!」
ティアがふたたび、試験管を投擲する。
それよりもずっと素早く、道継が懐から大量の呪符をばら撒いた。道継の姿が視界から消える。
ティアの投げた解離薬は、呪符を一〇枚ほど溶かすにとどまった。
「だったら!」
禍々しい液体の入った試験管を投擲しようとして――
「遅い!」
「ぐっ!」
紙吹雪の中から突進してきた道継が、ティアの細首をつかんだ。
「ティア様は荒事が不慣れでいらっしゃる……それとも、ゴーレム探索でお疲れでしたか?」
「かっ……くっ、こ、っの……!」
視界が明滅する。爪を立てても、足蹴にしてもは微動だにしない。
「淑女との戯れは私も望むところなのですが、あいにく時間がないものでして。このあたりで幕引きといたしましょうか」
扉に向かっておもいきり投げつける。
激しい音とともに、ティアは豪雨に放り出された。
「か……はっ……っ」
石畳の上を何度も跳ね、水たまりに突っ込んだところで、ようやく身体が止まった。
真っ白なローブと髪が泥色に染まる。
降り続ける大粒の雨がずっと心を叩いていた。
(こんなはずじゃ、なかったのに……)
晴親たちの言うとおり、蘆屋道継という男を見誤っていた。自分が思っていたより、ずっと狡猾で――強い。
(もう、いい……!)
水たまりの中で膝をつく。
ぐしょぐしょに濡れたローブが重い。ブーツに水が入って気持ち悪い。
道継に良いようにあしらわれて腹が立つ。
「……やってやるわ……!」
懐から試験管を取り出す。草色の液体――滋養薬。
続けてもう一本。血色の液体――賦活薬。
(こんなに立て続けに飲んだら……本当に死んじゃうかも……)
かまうものか。
薬液を身体に流し込む。
「――――っ!」
火花が散った。
身体が震えて、おもいきりえづく。
身体的な反応を、理性と精神力だけで無理やり抑え込んだ。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
ちいさな工房を見据える。
中にいる道継を噛み殺してやるつもりで、駆け抜けた。
一瞬で工房まで駆けつけると、あろうことか道継はソファに腰かけ本を読んでいた。
無視して、ゴーレムに肉薄する。
「おや……これは謀られましたね」
「えぇ、わたしの勝ちよ!」
懐から護符を取り、ゴーレムの口に差し込んだ。
空気が変わる。
「――っ! おぉ……! なんという……!」
あの道継の目が見開かれていた。当然だろう。
晴親ですら怯えていた正真正銘、本物のゴーレムだ。
ゴーレムが立ち上がる。
「このときを、どれだけ待ちわびたか!」
歓喜の表情とともに、道継が大量の呪符をばら撒いた。
「急急如律令! 犬神!」
視界いっぱいの呪符から、痩せこけた犬のような影がにじみ出る。犬たちは、こぞってゴーレムへと向かっていく。
「祓って!」
『――――』
ゴーレムが手をかざす。見えない力で攻撃され、大半の犬神たちが弾け飛んだ。
「素晴らしい……! 素晴らしいです……!」
追加の呪符を取り出す。ばら撒かれた呪符から、犬や烏といった式神たちが現れ、ふたりに襲いかかる。
そのすべてを、ゴーレムは手をかざすだけで圧倒する。
「っ! これほど、とは……!」
道継の顔に、焦りがにじむ。
懐から、さらに呪符をばら撒く。手で印を切って、呪文を唱える。
と、
「がはぁっ!」
道継が吹き飛んだ。
家具をなぎ倒し、壁に叩きつけられ、工房が激しくゆれた。
「……なん、と……! この、私を、凌ぐ……!?」
地に伏す道継の顔には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
(いける……! いけるわ!)
最初からこうしていればよかった。
下手に交渉などせずとも。
不慣れな戦闘など挑まずとも。
わたしのゴーレムは、すべてを蹂躙する。
(これなら……!)
途端、ティアは膝から崩れ落ちた。
「えっ……?」
意味がわからなかった。まるで前兆は感じなかった。
気がつけば床に転がっていた。視界に映る赤い液体は、自分が垂れ流しているものなのか。
「いったい、なにが……?」
身体がまるで動かず、視線だけでゴーレムを見た。
「待って! 止めちゃダメ!」
ゴーレムはかざしていた手を下ろし、ティアに寄り添うように膝をついた。
ゴーレムは守るために存在する。
たとえ狙われているのが、自分自身であったとしても。
「ふはははは!」
道継の高笑いが工房内に響いた。
立ち上がって印を結ぶ。鼻血を出した顔を歪めて、呪文を唱える。
すべての呪符が犬の影となって、ゴーレムに殺到する。
「わたしはいいから! はやく祓って!」
『――――』
命令を無視し、ゴーレムはティアを横抱きにして歩き出す。
実体を持たない犬たちが、ことごとくゴーレムの身体に吸い込まれていく。
「お願い! はやく――」
「はははははは!」
幾十、幾百もの犬神がゴーレムに吸い込まれ、それでも一切を気にした様子もなくティアを運ぶ。
ゴーレムが向かっている先には、ベッドがあった。
「わたしは大丈夫だから!」
ゴーレムの身体に変化が現れる。
「はははははは! その調子です! さっさと憑きなさい!」
道継の力が増した。ティアですら視認できるほどの圧倒的な呪力。
そのすべてを使って、道継は――
『――――』
ようやくゴーレムがティアをベッドに寝かせた。
工房内を舞っていた呪符の嵐は、いつしか一枚も残っていなかった。
「くっ……!」
血と汗に塗れた道継が膝をついた。
のたうち回る蛇のような紋章が、まるで互いを喰い千切らんとする犬のような紋章へ変わり果ててしまっていた。
「一体で済むはずの犬神憑きが、数百体も必要になるとは……ゴーレムとは、本当に規格外の存在なのですね」
血に濡れた凄惨な顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいる。
「とはいえ、ようやくゴーレムが手に入りました」
ベッドまで歩み寄り、ティアを見下す。
ゴーレムは、まるでゼンマイの切れた人形のように動かなかった。
「それにしても、旧新シナゴーグからゴーレムを従えて出てきたのに起動方法がわからないなど……笑いを堪えるのに必死でしたよ」
「っ、どうして、それを――!?」
「プラハに蔓延る怪異の中に、私の式神がまぎれていることに気がつかなかったのですか?」
「っ!」
「おかげで無駄な時間を過ごしてしまいましたが……存外楽しめたので良しとしておきましょう」
隣に立つゴーレムへ目を向ける。
「さて、いつまで犬神が憑いていられるかもわからないので、用件は素早く済ませてしまいましょう」
ゴーレムから離れた道継は工房の真ん中まで足を運び、呪文を唱える。
「ナウマグ・サマンダ・バザラダン――」
印を結び、奇妙な足運びで石畳の床を踏みつける。
「ゼンダ・マカロシャナ・ソワダヤ――」
ティアの目には悪魔召喚や邪教のサバトのように見えた。あの儀式を止めなければ、壊滅的なことが起こる予感――いや、確信があった。
「やめ、なさ……ごほっ!」
真っ白なシーツが赤く染まった。
血を吐いたことで、ようやく気がついた。
(賦活薬の……副作用……こんな、ときに……!)
強い意志を嘲笑うように目が回って、冷や汗が吹き出た。
「ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ――」
歯を食いしばる。声をあげようとするも、咳き込んで言葉にならなかった。
『――――』
ゴーレムに変化が起き始めた。
身体が震え始め、犬のような紋章が脈動しだす。
「オン・アボギャ・ベイロシャ――」
道継が呪文を紡ぎ、印を結ぶたびに、異変は大きくなっていく。
(……苦しんでるの……?)
咳き込む身体を動かし、ベッドから這い出そうとする。視界が明滅する中、必死にゴーレムへ手を伸ばし――
「ナウマグ・サマンダ・バザラダン・ゼンダ・マカロシャナ・ソワダヤ・ウンタラタ・カンマン!」
『――――』
道継が鬼気迫る呪文を締めくくったのと同時に、犬のような紋章が弾け、ゴーレムの胸が内側から裂けた。
その奥で、なにかが光っていた。
「っ、まさか!」
まるで太陽のようにも、花のようにも見える赤い石。
「おぉ……! これが……!」
ふらふらとよろけながら、汗と血に濡れた道継の手が、その石をつかむ。
「ようやく……ようやく、手に入れました……! 錬金術の秘中の秘……!」
賢者の石。
●
「うそよ……」
目の前の光景が信じられず、ティアはベッドからずり落ちた。
ゴーレムは、太陽の花を錬成する手がかりだったはずだ。それが、まさか容れ物だった……?
「じゃあ、お母さんは……お母さんは、太陽の花にたどり着いてたっていうの……!」
ずんっ!
ゴーレムの身体が崩れた。
土肌に紋章は戻らず、立ち上がるだけで場を支配した存在感は霧散している。
そこにあるのは、贋物の――それどころか、地下都市で対峙した護衛のゴーレムにも劣る、ただの人形。
「そんな……」
「それではティア様。私から取引の報酬をお渡ししましょう」
まなじりが裂けんばかりに見開かれた目で、道継がティアの眼前に賢者の石を差し出す。
赤く艶やかな石は、燃えるように輝いていた。
なぜか脳裏に、プラハを訪れた日に見かけた蜂蜜がけのリンゴが浮かんだ。それを手にしていた女の子と、隣で笑っていた両親の顔まで、妙にはっきりと思い出せた。
「美しいでしょう。見事でしょう。これこそが錬金術師だけでなく、世界中の権力者たちが追い求めてやまなかった、賢者の石」
「あっ……」
震える手を伸ばす。
その手を、道継はおもいきり踏みつけた。
「っぅ!」
「ティア様は本当に強欲でいらっしゃる……ですが、私からの報酬は情報であって、賢者の石そのものではありませんよ」
骨が軋むほど、手をじりじりと踏みつける。
「長年追い求めてきたのでしょう? このためにすべてを賭けてきたのでしょう? 残念ですが、あと一歩及びませんでしたね」
「くぅ……」
ティアの手から足をどける。かと思えば、道継は本物のゴーレムを蹴りつけた。
「どこのどなたが創ったのか存じませんが、えらく面倒な真似をしてくれたものです……それから、まんまと騙されましたよ」
視線が贋物に移る。
長年、本物以上に本物を装ってきた贋物。もしかすると、この贋物こそ本当の意味でのゴーレムの守護者だったのかもしれない。
「長年のお勤めご苦労さまでした」
懐から呪符を取り出し、印を結ぶ。
現れたのは、ゴーレムほどの大きさの鬼だった。立派な角と金棒を持っている。
鬼が金棒をひと思いに振るった。
凄まじい音とともに贋物は砕け散って、あっさりと土に還った。
「さて、これで思い残すことは……あぁ、そうでした」
地に伏すティアと目の高さを合わせる。
少女の瞳からは光が失われ、呆けた表情を浮かべていた。
「もしもティア様が晴親様と一緒に私の前に立っていたら、こうはならなかったのかもしれませんよ」
「っ!」
「貴方は土御門晴親という陰陽師を軽んじている。あれは傑物ですよ? もっとも、この私には及びませんが!」
「………………」
「そんな絶望に染まった顔をしないでください。まるで私が、貴方を殺めようとしているみたいではありませんか……そんなわけがないでしょう!」
バッと両手を広げる。手元の赤い石が、怪しく輝いた。
「貴方には、我が生涯最大の術式の完成を、是非とも特等席で見届けていただきたいのです! 貴方の選択が、その一助になった事実を噛み締めながらね!」
そう言って高笑いをしながら、道継は工房をあとにした。
●
どれくらい時間が経ったのか。
激しい雨音と雷鳴が轟く中、ティアは床に這いつくばったままだった。
(……どうして……こんな……)
賦活薬の副作用は収まり、身体は自由に動かせるようになっていた。頭は痛むが意識は明瞭で、いますぐにでも道継を追いかけることもできた。
だというのに、まるで身体が鉛で覆われたように重く、動き出せない。
(わたしの……せいだ……)
脳裏に浮かぶのは、そればかりだった。
危険な陰陽師だと聞いていた。
このプラハで、なにか良からぬことを起こそうとしていると聞いていた。
実際、街はわけのわからない呪力とやらで覆われて、それが霧という形で自分たちの目にも見えていた。
道摩法師が晴親たちの追っている蘆屋道継だと聞かされた時点で、協力すべきだった。
(それなのに……太陽の花を優先してしまった)
お母さんが追い求め、叶わなかった願い。
お母さんと同じ病に苦しむ人たちを助けられる霊薬。
あとすこし。もうすこしで、そこに手が届くと、冷静ではいられなかった。
(ぜんぶ、わたしが……)
これから蘆屋道継は、手に入れた賢者の石を使ってプラハの街に壊滅的ななにかを起こすのだろう。
最後のピースたる太陽の花を手に入れた道継が、止まる道理はない。
ロシュ・ハシャナを迎えるあした――このプラハは――
「……行かなきゃ……」
ようやく立ち上がろうとした。
立てなかった。
気だるさと頭痛があるだけなのに、どうしても立てなかった。
「……わたしが行かないと……!」
さらに数分かかって、ようやく立ち上がった。
砕けた贋物の土や、自分で撒いた薬液を踏みしめる。崩れたゴーレムを横目に、倒れないようにすこしずつ進んだ。
外は土砂降りだった。
立ち込める霧ともあいまって、ほんの数メートル先も見通せない。まるで本当に闇の中に迷い込んでしまったかのような景色。
震える足で、一歩踏み出した。
「ふぅ……! ふぅ……!」
こんな状態で進んで、いったいなにになるというのか。
道継がどこにいるのかもわからない。いたとしても、自分にはもう戦うすべがない。
圧倒的だったゴーレムは、自分の不注意で無力化されてしまった。いまはもう、ただの岩と泥の人形だ。
「……そんなこと、わかってる……わかってるわよ……!」
だけど。
「わたしが行かないと……」
ぐしょぐしょになった身体で進み続けて、ヴルタヴァ川沿いの道に差しかかった。
と、
滝のような雨に打たれながら、誰かが立ち尽くしていた。
黒い着物に黒い髪。白い毛に覆われたちいさな身体と、その首元には密封瓶も見えた。
思わず顔を伏せてしまった。
「………………」
なにも言わずに横を通り抜けようとして、腕をつかまれた。ひどいつかみ方だ。まったく淑女に対する礼儀がなっていない。
「……離して」
腕を振るう。自分でも信じられないくらいに弱々しかった。
振り払えるわけがなく、それどころか足元が滑ってその場に転んでしまった。
それでも彼は腕を離さなかった。
「……離してって……」
「オレが手を離したら、おまえはどうする」
「……蘆屋道継のとこに行くの」
「行ってどうする」
「……そんなのわかんないわよ……!」
雷鳴が轟いた。
「……見損なったでしょ」
「見損なうほど、オレはおまえを買ってねぇ」
「嗤ってたんでしょ! いい気味だ、って! オレの言うこと聞いてれば、こんなことには、って……」
「そうだな。それは否定しねぇ」
「……ほんっとに、野蛮な東洋人……うぅ……」
雨音と雷鳴に、静かな嗚咽が混じりだす。
こいつにこんな顔なんて絶対に見られたくないのに、一度漏れ始めたものは、もう抑えられなかった。
それでも彼は腕を離さない。なにも言わない。
それが余計にむかつく。本当にむかつく。
こんな奴なんて嫌い。大っ嫌い。
だけど。
「……晴親、たすけて……」




