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第7話 祝福の解体


 聖女の来訪というものは、もっと花の匂いがするものだと思っていました。


 実際に村へ現れたミレイユは、白い外套に金糸の縁取り、細い指先まで抜かりなく整えられ、朝の薄曇りの下でもきちんと「祝福」の形をしていました。馬車から降りるだけで村人が息を呑むあたり、見せ方の訓練が行き届いている。たいへん立派です。腹立たしいくらいに。


 ですが近くで見ると、その立派さの縫い目が少し見える。


 頬の赤みがやや不自然に強い。まばたきが少ない。視線が落ち着かず、それでいて笑みだけがきれいに固定されている。爪先に重心が寄りすぎ、呼吸は浅い。


 そして、瞳孔がわずかに開いていた。


「……お嬢様」


 隣でマルタが囁く。


「今、すごく嫌な顔をしました」

「観察の顔です」

「世間はそれを嫌な顔と呼びます」


 たいへん遺憾ですが、反論はしません。


 教会前広場には簡易の机が並べられ、白布のかかった配布台が二列、記録机が三台、そして少し離れて医療班の待機場所が設けられていた。昨日まで紙の上でしか存在しなかった段取りが、今は木と布と人間の緊張で組み上がっている。


 村人たちは遠巻きに集まり、囁き合い、胸元で祈り、しかし足は帰らない。怖いものほど見たいのが人間です。しかも今日は、聖女本人と異端の元令嬢が同じ広場に立つ。娯楽としてはだいぶ強い。


 査察官ユリウスは会場中央に立ち、相変わらず磨き上げたような無表情で全体を見ていた。白布の下のパン、封印された対応表、立会人、記録係。どこにも恣意が入らぬよう、まるで自分の信仰心まで秤に乗せているような顔です。たいへん真面目で結構ですが、見ているこちらの肩も凝ります。


 レオンは配布台の裏で、二色の細いリボンを指先でくるくる回していた。


「緊張している顔ですわね」

 わたくしが言うと、

「していますよ」

 彼は即答した。

「研究者が緊張しない公開実験なんて、だいたい失敗します」

「良いことを言っているようで性格が悪いです」

「盲検設計なので」


 もはや免罪符のように使っていますね、その言葉。


 ミケルは医療班の卓で薬箱を開け、包帯、煎じ薬、冷水、吐瀉物用の桶まで並べていた。並べ方に一切の無駄がない。準備の良い町医者は見た目だけで村人を安心させます。ご本人は相変わらず不機嫌そうですが、それがかえって「この人は浮ついていない」と伝わるので便利です。


「症状が強く出たらすぐ止める」

 彼はわたくしに念を押した。

「ええ」

「村人より先におまえが熱くなるな」

「わたくしはいつでも冷静です」

「その顔で言うな」

「どの顔です?」

「今の、証拠が目の前にぶら下がっている猫みたいな顔だ」


 不本意ですが、少しだけ心当たりがありました。


 鐘がひとつ鳴る。


 ユリウスが前へ出た。


「本日ここに集まった者へ告げる。これは教会の施しと通常の配布物の安全性確認のための公開検証である。憶測や扇動は禁じる。記録は双方の立会いのもと、厳正に行う」


 広場のざわめきがひとしきり波打つ。


 その後、聖女ミレイユが前に出た。陽の差さぬ空の下でも、彼女の白はよく目立つ。


「皆さま……どうか怖がらないでください。わたくしは、いつもどおり皆さまのために祈るだけです」


 柔らかく、震えるように、美しい声でした。


 広場のあちこちで、ほっとしたような息が漏れる。


 そうでしょうね。人は綺麗に整えられた声音へ、つい安心を預ける。


 だから厄介なのです。


 わたくしは記録机の横へ立ち、淡々と被験者番号を呼び始めた。事前説明を受け、同意した成人のみ。重症者なし。配布担当は封印表に従い、どちらのパンか知らずに渡す。観察担当も知らない。村人はなおさら知らない。


 これでようやく、人間の思い込みを少しだけ縛れる。


 最初の数名には、変化がほとんどなかった。


 広場の空気が少しずつ緩む。


 村人の囁きに「何も起きないじゃないか」が混じり始める。ミレイユの口元にも、安堵に似たものが浮かんだ。たぶん彼女自身、本気でそう信じていたのでしょう。


 しかし七番目の被験者が、十分ほどで額の汗を拭き始めた。


「暑いな……」

 と呟き、

「いや、寒い……?」

 と言い直し、

 次の瞬間には空を見上げて笑った。

「鐘が二つある」


 鐘は一つです。


 わたくしが記録し、ミケルが前へ出る。瞳孔、発汗、軽度のふらつき。中止。待機場所へ。


 広場のざわめきが変質した。


 祈りのざわめきではない。理解し始めた群衆のざわめきです。たいへん速い。人が信じる速度は遅いのに、疑い始める速度は時々驚くほど速い。


「偶然です!」


 ミレイユが、少し高い声で言った。


 その声の高さで、何人かが彼女を見る。


「その方は、もともと体調が……」

「被験前確認では安定していました」

 わたくしは言う。

「記録済みです」


「あなたは……あなたは、何でも数字にして……!」


 その言い方が、少しだけ懐かしかった。王都の夜会でも似たようなことを言われましたね。


「数字にしなければ、皆さまは毎回別々に怯えることになります」

「怯えさせているのはあなたでしょう!」


 感情の向きとしては正しい。


 ただし、今その台詞は悪手でした。


 なぜなら、その直後に十一番目の被験者が、同じように笑い始めたからです。ついでに十五番目は手指の痙攣、十七番目は異様な多弁、そして対照側では目立った症状なし。


 綺麗すぎるくらい差が出ました。


 わたくしの背中を、冷たい確信が這い上がる。勝利の熱ではない。むしろ逆です。あまりにも予想どおりだと、人はかえって冷える。


 レオンが横で小さく呟いた。


「出ましたね」

「ええ」

「きれいに」

「ええ」

「嬉しそうではありませんね」

「想定より症状が揃いすぎました」

「研究者の顔だ」


 褒められていませんわね。


 ユリウスは広場中央に立ったまま、もう何も言わなかった。言えないのではなく、言葉を選んでも無駄だと理解した沈黙です。沈黙にも種類がありますが、今の彼のそれはかなり重い。


 ここでレオンが、封印しておいた別紙を広げた。事前に行っていた簡易成分確認の結果です。完全な分析ではない。けれど、黒穂由来の混入を示すには十分な記述と標本がある。


 白布の上に、通常穂と黒変穂が並べられる。


 村人の顔が引きつる。


 こういう時、百の説明より、二つの見た目の差のほうがよく効きます。人類は視覚の生き物です。


「祝福配布物から、こちらの混入が確認されています」

 レオンが広場へ通る声で言う。

「既知の中毒症状と一致。記録との照合も可能です」


「違う……!」


 ミレイユが一歩前へ出た。


 白い靴先が石畳を鳴らす。


「そんなはず、ありません……! わたくしは皆さまを救いたくて……!」


 その顔は、本当に怯えていた。


 演技ではないとわかる程度には。指先の震え、浅い呼吸、焦点の定まらぬ目。加害者というより、構造の中心に立たされていた人間の顔です。


 そしてやはり、軽い中毒兆候がある。


 わたくしはそれを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。


 断罪は簡単です。観察よりずっと。


 だからこそ、ここで混ぜてはいけない。


「あなたには心がないの!?」


 ミレイユの声が、とうとう裂けた。


「こんなふうに皆の前で! 祈りも善意も、全部ばらばらにして! あなたには、人の心がわからないの!?」


 広場が静まり返る。


 見ている全員が、こちらの返答を待っていた。


 たいへん不本意ですが、こういう瞬間に限って言葉は綺麗に落ちてくる。


「心は」


 わたくしは記録紙を置いた。


「今ここで、測っています」


 風が吹く。


 白布が揺れ、黒穂の標本がかすかに転がる。


 誰もすぐには声を出さなかった。


 最初に動いたのは、広場の後ろにいた老婆でした。震える手で、持っていた祝福のパンを見下ろし、それから石畳へ落とした。


 次に、若い母親。


 次に、農夫。


 次々と、白い包みや食べかけのパンが地面へ落ちる。


 乾いた音。


 鈍い音。


 祈りの代わりに、廃棄の音が広場へ広がっていく。


 それを見て、ミレイユは後ずさった。

 白い顔から血の気が引き、今にも倒れそうに見える。


 ミケルが一瞬そちらを見たが、わたくしは首を振った。

 今は村人の急変対応が先です。優先順位は残酷ですが、残酷でなければ回りません。


 やがてミケルが医療班から戻ってきて、疲れた声で言った。


「軽症中心だ。想定どおり」

「ええ」

「……終わったな」


 わたくしは広場を見渡した。


 パンの散る石畳。沈黙する査察官。泣き崩れる者、青ざめる者、立ち尽くす者。構造が壊れる瞬間というのは、鐘でも鳴るかと思っていましたが、実際にはずいぶん静かなものです。


「いいえ」


 わたくしは言った。


「出版が残っています」


 横でレオンが、声を殺して笑った。


「好きですよ、その執念」

「執念ではなく手順です」

「そこが好きです」

「褒めているようで不穏ですわね」


 ユリウスは最後まで何も言わず、ただ標本と記録表を見ていた。

 そして広場を去る前、ほんの一度だけこちらを見た。

 その視線には敵意も軽蔑もなく、ただ疲れがあった。

 信仰の顔で立っていた人間が、現象の前で黙る時の顔です。


 村人たちが散り始めたころ、館から使いの少年が息を切らして駆けてきた。


「お、お嬢様!」


「何です」

「王都から、書簡が!」


 差し出された封筒には、王家の紋章。


 開く前から、少しだけ内容が読めてしまうのが嫌でした。


 封を切る。


 短い文。


 震えるような筆跡。


『全て誤解だった。戻ってきてほしい』


 広場の風が、紙の端を揺らした。


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