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第8話 追試不要



 王子の来訪というものは、もっと馬蹄の数が多いものだと思っていました。


 少なくとも婚約復活を願って辺境まで来るなら、騎士だの侍従だの馬車だのを盛大に引き連れ、「王都が間違いを正しに来ました」という顔をするのが定石でしょう。ところが実際に現れたアルベルト殿下は、従者を最小限しか伴わず、旅埃をかぶった上着のまま、母の旧領の門前に立っていました。


 たいへんにみすぼらしい。


 いえ、王族に対して用いる形容ではないのは承知していますが、観察結果としてはそれが最も近い。夜会で婚約破棄を叫んでいた頃の、あの磨き上げられた高揚感は消えていた。頬は削げ、目の下に濃い隈、髪も少し乱れている。瞳孔は落ち着き、手指の震えもない。汗もない。症状は治まりつつある。


 そして、そのぶんだけ、ひどく人間らしい顔をしておられました。


「……お嬢様」


 マルタが応接間の窓から外を覗き、心底嫌そうに言った。


「本当に来ました」

「書簡まで寄越したのですから、来るでしょう」

「普通、書簡で断られたら来ません」

「普通の人なら」


 窓の向こうでは、アルベルト殿下が門番に何か言い、少しだけ気まずそうに視線を逸らしていた。たいへん珍しい光景です。王子にも気まずさという機能があったのですね。失礼ながら、ずっと未実装だと思っておりました。


「お通ししますか」


 ハロルドが静かに問う。


「ええ。玄関先で帰すと話が長引きます」

「すでに長引きそうな気配しかしません」

 マルタが言う。

「ですから、椅子のある場所で終わらせます」


 応接間は、数日前までの戦時司令部めいた姿から、ようやく少しだけ人間の部屋に戻っていた。


 地図の針は外され、聞き取り記録は綴じられ、黒穂の標本は木箱に収められている。代わりに机の中央には、二つの書類が置かれていました。

 ひとつはあの日の婚約破棄を記した公文書。

 もうひとつは、今朝方までレオンと詰めていた論文草稿。


 並べると、紙の厚さが違う。


 前者は断罪のために整えられた紙で、後者は観察のために積み上げられた紙です。どちらが好みかと言われれば、もちろん後者でしょう。前者は人を切るだけですが、後者は構造を切る。


 玄関の音。


 ほどなくして、アルベルト殿下が応接間へ通された。


 一歩、入ってくる。


 部屋を見回す。


 その視線が、わたくしではなく、まず机の上の論文草稿へ吸い寄せられたのが少しだけ可笑しかった。きっと、もうその紙が自分の知っているエレノアそのものに見えたのでしょう。今さらですけれど。


「……久しいな、エレノア」


 殿下は言った。


 声は以前より低く、勢いが少ない。その代わり、喉の奥で言葉が少し引っかかる。回復期の人間の声でした。身体が落ち着いたぶん、心だけがまだ追いつかないのかもしれません。


「ええ。お久しゅうございます、アルベルト殿下」


 わたくしは立たずに答えた。


 無礼ではありません。ここはわたくしの領地で、これは私的な面会です。立つ必要はない。ハロルドはその点の空気を正確に読み取り、殿下を客席へ案内した。執事は本当に便利です。


 殿下が座る。


 椅子の背に寄りかからない。


 指先だけが膝の上で組まれ、ほどけ、また組まれる。以前なら見られなかった仕草です。症状由来の落ち着きのなさではなく、ただの居心地の悪さ。たいへん健康的。


「……お身体の具合は?」

 わたくしが問うと、

 殿下は少し驚いたように顔を上げた。

「心配してくれるのか」

「症状が治まったようで何よりです」


 沈黙。


 たいへん静かな一撃でした。


 マルタが後ろでわずかに視線を逸らす。侍女が主の会話から目をそらす時は、だいたい「うわあ今の痛い」と思っている時です。正しい反応です。


「……治まった」

 殿下はややあって答えた。

「少なくとも、あの頃のような……熱はない」

「それは結構です」

「医師団も、今さら同じことを言った。食事と休養と、聖女との接触を断てと」

「たいへん妥当ですわね」


 殿下は苦く笑った。


 王子が苦く笑うというのは、絵としてはだいぶ整っています。けれど中身はおそらく、ここ数日で人生の帳尻が急に合い始めた人間の顔でした。人は、自分の愚かさが現象として説明されると、少しだけ救われ、それとひき換えに、ひどく傷つきます。


「私は……」


 殿下は指先を見た。


「何もわかっていなかった」


「ええ」

「否定しないのだな」

「観察結果のとおりですので」


 少しだけ、殿下の口元が揺れた。怒ったのではありません。むしろ、ああやはり君はそれを言うのか、と納得したような顔です。


「公開実験の報せも、村での記録も読んだ」

「隣国から写しが早かったようですわね」

「……そうらしいな」

「情報伝達が速いのは、村だけではなかったようで」


 すると殿下は、はじめてほんの少しだけ肩を落とした。


「笑われた」

「どこで?」

「どこで、も何も……宮廷じゅうでだ。あからさまではないが、わかる。私は祝福ではなく中毒に溺れて婚約者を捨てた愚王子として、たいへんわかりやすい」


 その自己認識は、正直かなり進歩しています。


 昔なら「誰かが私を陥れた」と言っていてもおかしくなかった。

 回復とは恐ろしいものです。人に現実を見せてくれる。


「それで」


 わたくしは机の端の公文書を軽く指で押さえた。


「本日のご用件は?」

「書簡に書いたとおりだ」


 殿下は顔を上げる。


 青い瞳は、もう夜会の時のように濡れた光を持っていない。ただ疲れていて、真っ直ぐで、だからこそ見ていられる類の色でした。


「全て誤解だった。私は……君を、失って初めて……」


 言いながら、声が少し震えた。


 これは演技ではないでしょう。演技ならもっと整える。今の殿下は整え方を忘れている。


「エレノア、私は君を愛していた」


 マルタが、後ろで無音のまま顔をしかめたのが気配でわかる。たいへん率直な侍女です。


 わたくしは少し考え、それから紅茶を一口飲んだ。冷めている。今日は会話の進みが早く、ちょうどよく冷めました。


「殿下」


「なんだ?」

「その恋慕は、摂取量に依存していました」


 今度こそ、応接間が完全に止まった。


 ハロルドですら、一瞬だけ瞬きを忘れた気がします。


 アルベルト殿下は、まるで横から小石を投げられたような顔をした。痛みというより、予想外のところに当たった顔です。気の毒ですが、最も正確な表現でした。


「……そんな言い方をするか」

「現時点で最も再現性の高い表現です」

「もう少し、こう……」

「情緒的に?」

「あるだろう、普通は!」

「普通ではない関係でしたので」


 殿下は口を開き、閉じた。


 怒鳴らなかった。これも回復の証拠です。以前なら三文芝居の壇上で叫んでいたでしょうに、今はそれを飲み込める。人間、治ると本当に静かになりますね。


「……たしかに、あの時の私は異常だった」

 やがて彼は言った。

「だが、今は違う」

「ええ。違います」

「なら」

「違うからこそ、なおさら戻れません」


 わたくしは机の中央の二つの紙を、彼の前へ少しだけ押し出した。


「こちらを」


 殿下の視線が落ちる。


 左に、公文書。


 右に、論文草稿。


 前者には王家の印。後者には、わたくしとレオンの注記、ミケルの症例追記、そして村の記録にもとづく表と図。


「婚約破棄は、法的に完了しています」

「……」

「そしてこちらは、わたくしが、これから先に積み上げるものです」


 殿下はゆっくりと、論文草稿の端へ指を伸ばした。触れてよいか迷うような、奇妙に遠慮がちな手つき。以前の彼なら、ノートを勝手に開き、声高に読み上げていたのに。


 人は後悔すると、急に紙へ丁寧になります。


「これは……隣国へ?」

「ええ。魔導学院へ提出予定です」

「行くのか」

「はい」


 短く答えると、殿下の喉がわずかに動いた。


「王都では、だめか」

「王都では、わたくしの診録が呪詛として朗読されます」

「……すまなかった」

「ええ」


 謝罪は受理します。


 しかし受理することと、帰ることは別です。


 殿下は両手を組み直した。長い指が、どこにも置き場を見つけられないまま動く。見ていると少しだけ気の毒です。少しだけ。


「君が必要だ」


 彼は低く言った。


「王都に。……いや、私に」


「症例としてはもう必要ありません」

「そういう話ではない!」


 久しぶりに声が跳ねたが、すぐに自分で抑えた。

 あと少しで昔の殿下らしさでしたのに。

 この方は変わられました。


「私は、取り返したいんだ」

「何をです?」

「間違えたものを」

「それは結構な心がけですわ」


 わたくしは頷いた。


「では、それは王都でなさってください」

「君がいなくても?」

「ええ」

「そんな……」


 そこで初めて、殿下の顔に明確な痛みが浮かんだ。


 恋を失った顔、というより、戻ると思っていた場所が本当になくなったのだと知った顔です。よく見ると、かなり幼い。王家の教育は人を王子にはしても、大人にはしないことがあるのでしょう。


「エレノア」


 彼は言った。


「一度だけでも、考え直してはくれないか」


 応接間は静かでした。


 外では風が、母の旧領の木立を揺らしている。館の窓は少し古く、風の強い日にはかすかに鳴る。その音を聞きながら、わたくしは自分の中をひとつずつ確かめた。


 未練はあるか。


 ない。


 怒りはあるか。


 少しだけ、記録として。


 情は。


 なくはない。人としての分くらいは。


 けれど、それは過去へ戻る理由にはならない。


「殿下」


 わたくしはまっすぐ彼を見た。


「追試の必要を認めません」


 言葉が落ちる。


 静かに。


 確定として。


 アルベルト殿下は、しばらく動かなかった。反論もしない。怒りもしない。ただ、その一文が自分の中で完全に意味を持つまで、じっと受け止めているようだった。


 やがて彼は、ほんの少しだけ笑った。


 苦くもなく、高ぶりもなく、諦めに近い笑み。


「……最後まで君らしいな」

「そうでしょうか」

「ああ。ずいぶん痛いが、よくわかる」


 それから彼は立ち上がった。


 椅子の脚が床を鳴らす。来た時よりも少しだけ姿勢が低い。敗北したからではなく、ようやく現実の重さに合った立ち方を覚えた人のそれです。


「論文は、必ず出せ」

「出します」

「王国で必要なら、今度は正しい形で支援を出す」

「検討しておきます」

「検討か」

「ええ」


 殿下はまた少し笑った。


 良いことです。人は完全に壊れている時より、少し笑える時のほうが扱いやすい。


 玄関まで見送りはしなかった。


 王子の退出に見送りが要らないのは少し妙な話ですが、今日はそれでよい。個人的な終わりに儀式は不要です。


 馬車の音が遠ざかる。


 応接間に、長い静けさが残った。


 最初に口を開いたのは、やはりマルタでした。


「お嬢様」

「何かしら?」

「今の最後の台詞、格好良すぎて腹が立ちました」

「そう」

「あと、途中の『摂取量に依存していました』は人の心がない」

「この間で測ったはずですが」

「測った結果そうなるの、やっぱり怖いです!」


 わたくしは少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 ちょうどその頃、廊下の向こうからレオンが書類を抱えて現れた。相変わらず気配が軽い。隣国の研究者は廊下まで軽やかでいけません。


「帰りました?」

「ええ」

「残念。少し見たかったですね」

「趣味が悪いですわ」

「研究者なので」


 またそれですか。


 彼は机の上の論文草稿を見て、ぱらりと一枚めくった。


「最終修正、ここだけです。症例番号の表記を揃えてください」

「ええ」

「あと、学院へ出す輸送便が明朝発ちます」

「承知しています」


 窓の外では、夕方の光が庭を斜めに切っていた。ここ数日で見慣れた辺境の光です。王都の磨かれた黄金色とは違う、少し鈍くて、でも広い光。


 わたくしは新しいノートを手元へ引き寄せた。


 失った革表紙の診録帳の代わりに、昨日レオンが持ってきた、隣国製の頑丈な装丁。紙質は良く、綴じも固い。実用一点張りで、たいへん好ましい。


「もう書くんですか!?」

 マルタが言う。

「今ですか!? 本当に今!?」

「旅立ちの前に、始めておきたいので」

「普通は荷造りとか余韻とか」

「余韻は輸送便に乗りません」


 ペン先を浸す。


 白い頁をひらく。


 そして最初の行へ、静かに記した。


 症例番号一、再開。


「再開なんですね……」

 マルタが遠い目をした。

「本編完結したのに……」

「症例は完結を待ちません」

「人生のどこでその思想を拾ったんですか」

「たぶん生来です」


 レオンが肩越しに覗き込み、愉快そうに笑う。


「次は何です?」

「まだノイズです」

「いいですね、その始まり方」

「褒めても何も出ません」

「論文なら出るでしょう」

「ええ」


 窓の外、遠くの街道で、もう見えない王子の馬車が土煙を残していた。


 こちら側では、積み上がった草稿と、新しいノートと、明朝発つ隣国行きの荷箱がある。


 勝利の熱狂はありませんでした。


 けれど確定はあった。


 それで十分です。


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