第6話 二重盲検
査読者、という単語は、普通もう少し穏やかに登場するべきです。
少なくとも朝から教会査察官と権利闘争をした館の応接間に、旅塵まみれの男が笑顔で現れて名乗るものではありません。査読とは本来、紙の上で静かに人を傷つける文化でしょうに、ずいぶん機動力のある方です。
「……あなたの査読者です」
そう言って微笑んだ男――レオンは、明るい栗色の髪を後ろで雑に束ね、外套の襟に隣国魔導学院の紋章をつけていた。金糸の入った深緑の刺繍。品は良いのに、本人の雰囲気が少し軽い。旅の途中でもパンを齧りながら論文を読むタイプの顔です。
応接間に沈黙が落ちる。
ミケルは眉をひそめ、マルタは「また変な人が増えた」という顔をし、ハロルドだけが静かに一礼した。執事は本当に便利です。人類はもっと執事を標準装備するべきでしょう。
「……わたくし、まだ何も投稿しておりませんけれど?」
わたくしが言うと、レオンはまるでそこを待っていたように笑みを深くした。
「はい。ですから正式には査読前の査読です」
「意味が増えておりません?」
「増えています。大変面白そうなので、先に来ました」
面白そう。
研究者の危険な言い回しです。
しかもこの男、応接間の机に広がる記録用紙と地図と分割表を見て、露骨に目を輝かせている。普通の貴族なら一歩下がり、普通の聖職者なら眉をひそめ、普通の村人なら「呪いの部屋だ」と噂するところです。なのにこの男は、玩具箱でも見つけた子供の顔をしている。
たいへん面倒そうです。
「どちら様だ?」
ミケルが低く問う。
「隣国魔導学院、流行病研究棟所属。レオン・アルヴェス」
軽く礼をしながらも、彼の視線は机から離れない。
「黒穂の採取標本、聞き取り、曝露群と非曝露群の比較……ああ、しかも途中で相対危険を独自命名してる。恩寵比ですか、詩的でいいですね」
「褒めているんですか」
「半分は」
残り半分が不穏です。
レオンは机へ近づき、紙束の端を摘まんだ。指先の動きが慣れている。紙を扱う人間の手です。インクの染みもある。旅装の軽さとは裏腹に、きちんと机に長く向き合ってきた手。
「誰が流しましたの?」
わたくしは問う。
「あなたのノートの写しが、隣国側に回っています」
「写し」
「ええ。王都で没収されたのでしょう?」
「窃盗でしたけれど」
「こちらでは大変話題です。王国の宮廷で、観察記録を呪詛と誤読する文化がまだ残っていたとは、という意味で」
その言い方に、マルタがぴくっと反応した。
「失礼ですけど、ちょっとわかります」
「侍女殿、正直で好きです」
軽い。
この男、口が軽いのではなく、重たい情報を軽く運ぶのが得意なのだろうと思いました。学者というより外交官に近い。どちらも油断ならない職種です。
「では」
わたくしは椅子を勧めずに言った。
「あなたのご用件は?」
「共同研究の提案です」
今度はマルタが「また増えた」とはっきり声に出した。
たいへんよい反応です。わたくしも同感でした。
レオンは構わず続ける。
「五日後、教会前で公開実験を行うと聞きました」
「聞くのが早いですわね」
「この村、噂が速いでしょう」
「娯楽が少ないので」
「素晴らしい研究環境です」
素晴らしくはありません。
ですが否定に体力を使うのも惜しい。
「あなたの仮説はおそらく正しい。ですが、公開の場で勝つには、正しさだけでは足りない」
レオンはそう言って、わたくしがつい先ほど考えていたことを、そのまま外から言い当てた。
少し癪です。
「恣意がないと示す必要があります。配布者も観察者も、どちらのパンかわからない形にする」
彼は机の余白へ素早く二本の線を引いた。
「二重盲検です」
ミケルが嫌そうな顔をした。
「また嫌な新語だな」
「便利ですよ」
「最近、便利の一言で全部押し切ろうとしていないか」
「便利ですから」
レオンはそのやり取りを面白そうに眺めながら、さらに紙へ書き込む。
「祝福のパンと、対照パン。形、大きさ、焼き色を揃える。配布時には識別不能。記録係も村人も、どちらを受け取ったかわからない。対応表は封印」
「そして後で照合する」
「ええ」
わたくしは腕を組んだ。
理屈は美しい。
問題は実装です。
「教会が受け入れるでしょうか?」
「受け入れさせるべきです。査察官は『恣意を挟むな』と条件を出したのでしょう?」
「ええ」
「ならその条件の最上位形です」
たしかに。
論としてはきれいすぎるくらいです。
きれいすぎる案は、だいたい誰かが面倒な作業を背負う構造になっている。そして今回、その誰かは高確率でわたくしです。
「それに」
レオンが机上の黒い穂の包みを指した。
「こちらには、隣国で半世紀前にほぼ同じ症例群が出た時の記録があります」
空気が変わる。
ミケルが顔を上げ、マルタも思わず動きを止めた。
「……半世紀前」
わたくしが繰り返すと、レオンは頷いた。
「我が国でも、黒穂の混入した穀物で村単位の発症がありました。幻視、痙攣、末梢の壊死、多幸。記録と対処法が残っている」
「ではなぜ?」
言いかけて、止める。
なぜ今まで教えなかったのか。
レオンは少しだけ笑みを薄くした。
「なぜ王国に共有しなかったのか、ですか?」
「ええ」
「国家は親切だけで知識を配りません」
たいへん嫌な答えです。
嫌ですが、正直です。
「王国が教会主導で『祝福』として処理しているなら、外から口を出しても揉めるだけだと判断したのでしょう。我々の先輩方は」
「先輩方、ずいぶん冷たいですわね」
「ええ。歴史の大半は冷たい」
その台詞は気に入りませんでした。
正しいからです。
応接間に一瞬、ひやりとした間が落ちる。そこへ、ミケルが重たく息を吐いた。
「知っていたなら、もっと早く」
「お気持ちはわかります」
「わかった顔で言うな」
「わかる顔をしないと今ここに立てませんので」
レオンもまた、感情の扱いに慣れているようでした。ただしユリウス査察官のような刃物の慣れ方ではなく、ぬるい布で包んで通す慣れ方。用途が違うだけで、これもたいへん厄介です。
「共同研究の条件をお聞きましょう」
わたくしが先に言うと、レオンは嬉しそうに頷いた。
「話が早い」
「王都で遅い話し合いには懲りましたので」
彼は指を一本立てた。
「第一に、データ原本はあなたが保有すること」
「……」
「驚きました?」
「少し」
「私は便利ですが、隣国は必ずしも善良ではありません。原本をこちらが持つと、あとで政治に使われる」
驚いたのはそこでした。
外から来た研究者が、最初にデータ主権をこちらへ返す。
警戒を緩めるには十分すぎる言葉です。もちろん、だからこそなおさら警戒すべきでもあるのですが。
「第二に、公開実験の実装はこちらで補助する。ただし結果の解釈は共同で」
「第三は?」
「私たちはあなたを我が国の魔導学院へ招聘したいと考えています。この招聘を検討してください」
来ました。
こういう話には必ず尾がついています。
マルタが小さく「うわあ」と言った。たいへん良い表現です。わたくしも同じ気持ちです。
「……即答はしませんよ」
「承知しています。なので検討です。少なくともうちは王都より話が通じますよ」
「それは今ここで比較されると王都が不利ですわ」
「ですよね」
素直に頷かれてしまうと、逆に腹が立ちません。
わたくしは椅子へ座り、紙を引き寄せた。
「いいでしょう。盲検計画を詰めましょう」
「はい」
「ただし、被験者保護が先です」
「もちろん」
「症状が出た場合の即時対応、観察時間、事前説明、強制なし」
「ええ」
ミケルがそこで口を挟んだ。
「待て」
彼は明らかに不機嫌だった。もっともです。知らない隣国の学者が突然現れ、こちらの場で方法論を増やし始めたのですから、機嫌が良い医者のほうが問題でしょう。
「二重盲検だか何だか知らんが、結局やることはパンを食わせるんだろう。病人を増やすかもしれん」
応接間の空気がまた少し締まる。
ここを誤ると、わたくしは冷酷な実験屋になります。それは避けたい。正確には避けるべきです。
「増やさない設計にします」
わたくしは言った。
「まず対象は重症化していない成人に限定。既往の強い者、衰弱の激しい者、高齢者、子どもは外す。量も最小限。症状が出た時点で中止し、記録して終える」
「それでも、出るかもしれん」
「ええ。ですから事前に本人の同意を取る」
「村人は『祝福』だと思えば同意するぞ」
「だから説明文言を工夫します」
レオンがすぐに紙へ書いた。
「『教会の施しの安全性確認のための試食』」
「詐欺では?」
マルタが言う。
「嘘ではありません」
レオンは言う。
「怖いくらい研究者です!」
「光栄です」
いや、光栄ではありません。
ですが本質はそこでした。教会を正面から否定せず、しかし安全性確認の枠組みに引き込む。村人に不要な恐怖を与えず、実際の曝露量も抑える。
ミケルはまだ険しい顔のままですが、完全な反対ではなくなっています。
医者が眉間に皺を寄せながら黙るときは、たいてい頭の中で可能性を計算しているときです。
「被験者ごとに診るのは私だ」
やがて彼は言った。
「症状が少しでも強ければ止める」
「お願いします」
「記録係は?」
「こちらで複数名。盲検を守るなら、配布担当と観察担当を分けます」
「会場動線も要るな」
「ええ」
ようやく、机の上の議論が実装の形になり始める。
レオンはその流れに乗るように、リボンの色分け案を出した。
「包装を二色に見せかけて、実際の意味は逆にする」
「逆?」
「観察者が『赤が祝福、青が対照』と思い込むと表情に出る。だから包装係だけが真の対応表を持つ」
「性格が悪いですわね」
「盲検設計はだいたい性格が悪いです」
認めるのですね。
しかし、その悪さは必要な悪さでした。人は見たいものを見ます。信じたいものを信じます。だからこそ、信じる人ごと縛る仕組みが要る。
夕方に近づくころ、計画はかなり具体化していた。
会場は教会前広場。
試食対象者の選定基準。
観察項目一覧。
症状発現時の待機場所。
配布順。
封印した対応表の保管法。
そして、被験者保護の医療班。
紙の量がさらに増え、応接間はとうとう貴族の家というより戦時司令部に近くなった。母が見たら眉をひそめるでしょうが、たぶん最後には椅子をもう二脚運ばせます。あの人はそういう人でした。
「お嬢様」
マルタが疲れた声で言う。
「今日だけで知らない言葉が六つ増えました」
「良いことですわ」
「脳が拒否しています」
「慣れます」
「慣れたくないです!」
レオンが笑いながら、ポケットから小瓶を取り出した。
「砂糖菓子です。頭を使うと糖が要る」
「怪しすぎます」
マルタが即答する。
「隣国では常識です」
「今この館で『隣国では』は信用の減点材料です!」
「もっともだ」
ミケルまで同意した。
こうしてみると、レオンは味方として来たのに、全方位から均等に疑われています。たいへん公平です。
そのとき、門前でまた馬の音がした。
伝令です。
今度は王都からの使いであることが、遠目にもわかる。紋章つきの外套、慌ただしい足取り、そして「よくない報せを抱えて走ってきた顔」。嫌な顔にも種類がありますが、あれは典型的です。
伝令は応接間へ通されるなり、膝をついた。
「急報にございます!」
わたくしは封を切る。
短い文面。だが十分でした。
王子殿下、幻視さらに悪化。聖女の傍を離れず、侍従二名に怪我を負わせる。聖女の祈祷と接触後、一時的な鎮静を示すも、数刻で再燃。宮廷医師団は対処不能――
わたくしは読み終え、静かに紙を置いた。
「悪化していますわね」
ミケルが手を差し出したので渡す。彼はざっと見て、舌打ちした。
「曝露継続か」
「ええ」
「王都は本気でわからんのか」
「わかりたくないのかもしれません」
レオンは伝令の泥だらけの靴まで眺めてから、低く言った。
「聖女自身も軽く中っている可能性があります」
「どういう意味です?」
「無自覚の媒介者かもしれない。加害の意図がなくても、構造の中で配っている」
その言い方に、わたくしは少しだけ救われた気がしました。
聖女ミレイユを断罪したいわけではない。
ただ、この構造を止めたい。
その線を、この男はちゃんと見ている。
「公開実験の日程は動かせません」
わたくしは言った。
「むしろ急ぐべきです」
「同意します」
レオンが言う。
「王都のためにも」
「村のためにも」
ミケルが言う。
その瞬間、三人の意見が綺麗に重なった。
少しだけ、可笑しい。
昨日まで「異端の館」と言われ、今朝は査察官と押収未遂をやり合い、昼には隣国の研究者が転がり込み、今は王子の悪化報告を囲んでいる。辺境の旧領の応接間としては、忙しさが完全に規格外です。
マルタが遠い目をしていた。
「普通の追放って、こんなに人が増えるものですか」
「いいえ」
「ですよね!」
「でもデータは増えます」
「そこだけ元気になるのやめてください!」
窓の外で、夕焼けが共同畑を赤く染めていた。
黒い穂がその中に点々と混じり、まるで最初から景色の一部であったかのように静かに揺れている。病とはたいてい、そういう顔をして隣にいる。日常に紛れ、祝福に紛れ、恋にも紛れる。
だから、解体には段取りが要る。
そしてその段取りは、今ようやく揃い始めた。
「五日後」
わたくしは机の中央へ計画書を置いた。
「教会前広場で、盲検試食を行います」
「ああ」
ミケルが答える。
「ええ」
レオンも答える。
その返事の直後、玄関先でざわめきが起きた。
村人の声。
怯えた、しかしどこか熱に浮いたような騒ぎ。
ハロルドが応対に向かい、すぐ戻る。その表情は珍しく、ほんの少しだけ硬い。
「お嬢様」
「何です」
「教会から使いが。……聖女本人が、明日、村へ祝福に来られるそうです」
応接間の全員が止まった。
レオンの笑みが薄れ、ミケルの顎が上がり、マルタは本気で膝から崩れかけた。
わたくしはしばらく黙ってから、静かに言った。
「ずいぶん早いですわね」
王都は燃えている。
教会は焦っている。
そして、構造の中心にいる本人が、こちらへ来る。
公開実験の前日に。
舞台に上がるには、これ以上ない配置でした。




