表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/8

第5話 異端の定義


 教会の査察官というものは、朝の光と相性が悪いようです。


 翌朝、館の玄関前に止まった馬車は黒く、窓枠に銀の聖印が打たれていて、遠目には大変に立派でした。けれど近づくと、装飾が多いわりに実用性が低そうで、たいへん教会的です。威厳というのは、だいたい掃除のしにくい形をしている。


 降りてきた査察官もまた、よく磨かれていました。


 三十代半ばほど。痩せた長身。黒の法衣は皺ひとつなく、胸元の鎖は朝日を嫌味なくらい反射している。頬は削ったように薄く、口元は線のように細い。人を裁くために整えられた顔でした。たいへん効率が悪そうです。もっと食べたほうがいい。


「神の秩序のもとに」


 玄関先で彼は言った。


「査察官ユリウス・フェルナーと申します」


「疫学の秩序のもとに」


 わたくしも言った。


「エレノアです」


 隣でマルタが咳払いに見せかけて変な音を出した。朝から器用な侍女です。


 ユリウス査察官の目が、ほんのわずかに細くなる。


「……疫学」

「ええ」

「昨日からその言葉を何度も耳にしておりますが、未だ内容が判然としません」

「大勢の不幸を、少しでも減らすための方法論です」

「それは信仰でも同じこと」

「では話が早いですわね」


 彼はすぐには答えず、館の中を見た。


 応接間へ通した瞬間、その視線は壁の地図、針、表、聞き取り記録を順に舐めるように移り、最後に机上の黒い穂の包みで止まった。


 わたくしはそこで、ああこの方は「不気味だ」と思っているな、と理解した。


 わかります。たいへんよくわかります。客を迎える部屋としては終わっていますもの。


 母の時代には花と銀器が置かれていた応接間が、今は紙と針と穀物で満たされている。優雅さの代わりに因果関係がある。貴族社会では後者のほうが嫌われがちです。


「随分と」


 査察官が言った。


「熱心に遊んでおられるようだ」


「調査です」

「異端者は皆そう言う」


 後ろでミケルが腕を組み直した。昨夜のうちに残って泊まり込み、朝から顔色の悪さに磨きがかかっています。医者の徹夜は見た目に反映されすぎる。


「遊びでこれだけ紙を使うなら金がかかりすぎる」


 彼がぼそりと言う。


「町医者殿」


 ユリウスが初めてそちらを見た。


「あなたにも事情を伺う必要がありそうだ」

「でしょうな。伺われ慣れていないだけで、答えることはできます」


 たいへん良いです。第一声から険悪。余計な礼儀に時間を割かなくて済みます。


 ユリウスは応接間の中央へ進み、そこでわざとらしいほどゆっくりと向き直った。


「単刀直入に申し上げましょう。こちらで、聖女の祝福を疾病と呼び、教会の施しを毒と断ずる異端の噂が広がっています」


「まだ仮説段階です」


「仮説の時点で広めること自体が問題だと言っているのです」


「広めた覚えはありません。聞かれたので答えただけです」


「村の規模では同義でしょう」


 たしかに。


 この村で「ひとりに話す」は、「夕方には鶏も知っている」とほぼ同義です。そこは認めます。


 わたくしは机の端に置いた記録を揃えた。


「ではこちらも単刀直入に申し上げます。最近この村では、幻視、痙攣、多幸、発汗を示す症例が増えています。祝福の受領歴と発症率に有意な偏りがある」


「有意?」

「偶然と片づけるには不自然な差、です」

「言葉を飾っても冒涜は冒涜だ」


 彼の声音は平らでした。


 平らなのに、刃物のように薄い。感情を見せない訓練を受けた人間の声です。わたくしは少しだけ好感を持ちました。感情のノイズが少ない相手は観察しやすい。


「冒涜かどうかは、観察結果とは独立した話ですわ」

「独立していません。信仰は共同体の基盤だ」

「病は共同体の基盤を崩します」

「だから教会が祝福している」

「だから発症率を見ています」


 そこでマルタが、こっそり壁際へ下がった。たいへん賢明です。主が口論を始めると、近くにいる人間から消耗します。


 ユリウスは机上の紙束を指先で弾いた。


「これらは押収します」


 言い方があまりにも自然で、一瞬「今朝の牛乳を取ります」と同じ調子に聞こえたほどです。


 押収。


 その語が空気を変える。


 ハロルドの背筋がわずかに伸び、ミケルの顎が上がり、マルタは目を見開いた。村長などは今にも帽子を抱えて逃げそうな顔です。共同体というのは、権威の声色ひとつで急速に縮みます。


「理由を伺っても」


 わたくしは椅子に座ったまま問う。


「異端審問のため」

「法的根拠は?」

「教会規定第三……」

「世俗領主の私有財産を、どの条項で、どの範囲まで?」


 ユリウスが言葉を切った。


 ほんの一拍。


 ですが、その一拍で十分でした。


 王都で礼儀作法ばかり学んでいたように思われがちですが、貴族の娘は「相手が何を当然と思っているか」を見極める教育も受けます。特に相手が教会と王家ならなおさらです。食卓の座順も財産権も、形が違うだけで争点は同じ。


「……公の秩序を乱す疑いがある場合」


「私の領地内で、私的記録を保管しているだけです。乱しているのは現時点でどなたですか」


 ユリウスの目がさらに細くなった。


 美しい顔の人間が怒ると少し得をしますが、怒っている内容までは美しくならない。そこは公平です。


「聖女を疾病の媒介と示唆した」

「示唆ではなく、観察結果として関連を見ています」

「同じことだ」

「違いますわ。わたくしは断罪しているのではなく、検証しているのです」


 ミケルが小さく鼻を鳴らした。


「その違いを理解する気があるなら、最初から押収なんぞ言わんでしょうよ」


 ユリウスは彼を一瞥した。


「町医者殿。あなたには別件で伺うことがある」

「伺う?」

「過去に、教会指定の治療指針に従わず患者を死亡させた件で」


 空気が止まる。


 ミケルの顔から色が引いた。


 マルタが息を呑み、村長は帽子を落としそうになるのを今度こそ両手で支えた。わたくしはユリウスの手元を見た。細い革の書類筒。そこから一枚だけのぞく封書の端。蝋封の赤に、見慣れない紋が混じっている。


 教会の聖印ではない。


 王国の紋章でもない。


 隣国のものに似ている。


「……いつの話だ?」


 ミケルが低く問う。


「五年前。妻君の件です」


 その瞬間、ミケルの指が机の端を掴んだ。骨張った手。爪が白くなるほど強く。


 なるほど、そう来ましたか。


 権力は大抵、いちばん柔らかい傷を押す。


「彼女は」


 ミケルの声が掠れる。


「祝福を受けても治らなかった」

「教会は最善を尽くした」

「最善?」

 彼が笑った。笑いの形なのに、音は全く笑っていない。

「毎日祈って、最後に『神の御心です』と言ったのが最善か」


 重い。


 たいへん重い。


 応接間に漂う空気が急に湿度を持ったように感じる。こういうとき、誰も紅茶に手をつけません。人類はもっと飲み物を信じるべきです。


 ユリウスは平坦なまま言った。


「感情論に付き合う気はありません」

「こちらもありませんわ」


 わたくしが口を挟むと、二人の視線が同時にこちらへ来た。よろしい。重たくなりすぎた空気は切り分けるに限ります。


「査察官殿、今の脅しは証言の信頼性を汚します」

「脅しではなく事実の確認です」

「今この場で持ち出す必要がある事実でしたでしょうか? でなければ、機能としては脅しです」


 ユリウスは沈黙した。


 その沈黙は否定ではない。言い返す語を選んでいる沈黙です。ならば押します。


「こちらの調査を止めたい理由は?」

「共同体の混乱を防ぐためです」

「観察は混乱ではありません」

「観察結果が信仰を損なう」

「信仰は検証を恐れないはずでは?」


 言った瞬間、マルタが両手で顔を覆った。たいへんよく訓練されています。主が余計な正論を言ったときの反応が素早い。


 ユリウスの目が、はっきりと冷えた。


「……その言葉の意味を理解して言っているのか?」

「ええ」

「信仰を試すのは傲慢だ」

「病を放置するほうが傲慢です」


 ぴたり、と沈黙。


 窓の外で風が鳴る。共同畑の方角から、乾いた穂擦れの音がかすかに届いた。見えない病気はいつだって、こういう静かな背景音みたいな顔をして忍び込みます。


 ユリウスはゆっくりと息を吐いた。


「では、あなたは何を望む?」

「公開実験です」


 今度こそ、部屋にいた全員が固まった。


 マルタは「ああもう」と小さく呻き、村長は本当に帽子を落とした。ハロルドだけが微動だにしない。執事の鑑です。内心ではたぶん頭を抱えているのでしょうけれど。


「公開、だと」


 ユリウスが復唱する。


「ええ。村人立ち会いのもと、祝福のパンと通常のパンを比較する。摂取歴、症状、時間経過を記録する。あなたも立ち会っていただけますか?」


「正気か?」


「検証に必要なのは正気です」


「違う!」


 初めて彼の声が強くなった。


 よい兆候です。整いすぎた人間が声を荒げると、そこに触れられたくない点がよく見えます。


「民衆の前で祝福を疑う場を設けろと言うのか」

「民衆の前で祝福の無謬を証明する機会、とも言えます」

「……」

「もし本当に神聖で無害なら、教会にとって益しかありませんわ」


 ユリウスの喉が、ほんのわずかに動いた。


 駒が返る音はしません。


 ですが盤上の向きが変わったのはわかる。


 こちらが「隠れて騒ぐ異端」ではなく、「公に確かめようとする側」に立った瞬間、押収や威圧は使いにくくなる。

 信仰は密室を好んでも、公衆の前で密室の論理を使うのは難しい。


 ミケルがゆっくり顔を上げた。


「……それなら、私も立ち会う」

「町医者殿は黙っていなさい」

「黙っていた結果が五年分あるんでな。もう飽きた」


 彼の声音は低かったが、もう先ほどの揺れはなかった。傷を押されたあとに、逆に芯が出る人間はいる。丈夫というより、もう折れない場所まで折れたのでしょう。


 ユリウスは法衣の袖を払った。


「危険です」

「何がです?」

「群衆は煽られやすい」

「ええ。ですから記録を取ります」

「記録で群衆は治まらん」

「ならあなたが治めればよろしいでしょう。査察官なのですから」


 横でマルタがこめかみを押さえている。明らかに頭痛です。気の毒に。ですが大筋は順調です。


「……準備期間は?」


 ユリウスがようやく言った。


 来ました。


「三日」

「早すぎる」

「病は待ちません」

「民の手配、教会への通達、会場の確保」

「五日」

「……」


 沈黙。


 ユリウスは机上の紙を見る。押収すると言った記録。先ほどまでなら力づくで持っていけると思っていたのでしょう。ですが今となっては、この紙束は「公開実験を行うと約した件の前提資料」です。触るだけで立場が悪くなる。


 彼はそれを理解している。


 たいへん頭のよい方です。だからこそ面倒ですが、だからこそ話は進む。


「五日後」


 ユリウスは低く言った。


「教会前広場で、公開の場を設ける。だが条件がある」

「伺いましょう」

「パンの配布と記録は、双方の立会人のもとで行うこと。恣意を挟まぬこと」

「同意します」

「症状が出た場合は即座に医療対応を」

「もちろん」

「そして」


 彼の目が鋭く光る。


「結果がどう出ようと、群衆を煽る発言は慎むこと」


「結果を煽る必要はありません。結果は結果ですから」


 ユリウスはそれ以上言わなかった。


 代わりに書類筒を閉じ、立ち上がる。その動きは相変わらず無駄がなく、美しい。美しいのに好感が持てないのは、たぶん用途の問題です。


 玄関へ向かう途中、彼はふと立ち止まり、こちらを振り返った。


「最後にひとつ」


「何でしょう」

「あなたは、聖女が故意に害をなしていると思っているのか」


 良い質問です。


 今ここで答えるべきものでもあります。


「まだ判断していません」


 わたくしは言った。


「原因物質と、意図は別問題です。少なくとも現時点では」


 ユリウスの視線が一瞬だけ揺れた。意外そうに。

 たぶん彼の中で、わたくしは「聖女を断罪したい女」だと思われていたのでしょう。

 違います。断罪は権力の仕事で、観察はわたくしの仕事です。


「……そうか」


 それだけ言い残し、彼は去った。


 馬車が門を出ていく音が遠ざかると、応接間に長い静けさが落ちた。

 誰もすぐには喋らない。朝から人間の悪意と権利論と過去の傷が飛び交ったのです。胃にも心にも重い。


 最初に口を開いたのは、やはりマルタだった。


「お嬢様」


「何かしら」

「どうしてあの方に、そんなに正面からぶつかれるんですか」

「正面からのほうが観察しやすいので」

「もっと人生を斜めに歩いてください!」


 切実な叫びです。


 ミケルが椅子に座り込むように腰を下ろした。


「……公開実験、か」

「ええ」

「胃が痛い」

「わたくしも少し」

「嘘をつけ。顔色が良いぞ」

「表情筋の教育の成果です」


 ハロルドが静かに新しい紙を置いた。


「では、お嬢様」

「ええ」


 もうやることは決まっています。


 会場配置、立会人、記録係、配布導線、症状発現時の隔離場所。公開の場で負けないには、正しさだけでは足りない。正しさが見える段取りが要る。そこがたいへん世知辛いところです。


 わたくしは椅子へ座り直し、ペンを取った。


 そのとき、玄関先で馬のいななきがもう一度聞こえた。


「また査察官ですか!?」


 マルタが半泣きで振り返る。


 ハロルドが確認に出て、すぐ戻る。その顔は珍しく、わずかに困惑していた。


「お嬢様」

「何か」

「外に、見慣れぬ紋章の馬車が」

「教会ではない?」

「ええ。隣国風の意匠でございます」

「隣国」


 全員の目が玄関へ向く。


 ほどなくして現れたのは、二十代後半ほどの男だった。明るい色の外套に、旅塵のついた革靴。教会人のような磨き上げた静けさはないが、その代わり「徹夜明けでも机に向かえる種類の人間」特有の、妙な生気がある。目が笑っていて、口元が悪戯っぽく、そして視線は応接間の紙束を見た瞬間に露骨に嬉しそうになった。


 たいへん嫌な予感がします。


 男は軽く一礼した。


「初めまして、エレノア嬢」


 その笑顔のまま、彼は言った。


「隣国魔導学院のレオンと申します。あなたの査読者です」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ