第5話 異端の定義
教会の査察官というものは、朝の光と相性が悪いようです。
翌朝、館の玄関前に止まった馬車は黒く、窓枠に銀の聖印が打たれていて、遠目には大変に立派でした。けれど近づくと、装飾が多いわりに実用性が低そうで、たいへん教会的です。威厳というのは、だいたい掃除のしにくい形をしている。
降りてきた査察官もまた、よく磨かれていました。
三十代半ばほど。痩せた長身。黒の法衣は皺ひとつなく、胸元の鎖は朝日を嫌味なくらい反射している。頬は削ったように薄く、口元は線のように細い。人を裁くために整えられた顔でした。たいへん効率が悪そうです。もっと食べたほうがいい。
「神の秩序のもとに」
玄関先で彼は言った。
「査察官ユリウス・フェルナーと申します」
「疫学の秩序のもとに」
わたくしも言った。
「エレノアです」
隣でマルタが咳払いに見せかけて変な音を出した。朝から器用な侍女です。
ユリウス査察官の目が、ほんのわずかに細くなる。
「……疫学」
「ええ」
「昨日からその言葉を何度も耳にしておりますが、未だ内容が判然としません」
「大勢の不幸を、少しでも減らすための方法論です」
「それは信仰でも同じこと」
「では話が早いですわね」
彼はすぐには答えず、館の中を見た。
応接間へ通した瞬間、その視線は壁の地図、針、表、聞き取り記録を順に舐めるように移り、最後に机上の黒い穂の包みで止まった。
わたくしはそこで、ああこの方は「不気味だ」と思っているな、と理解した。
わかります。たいへんよくわかります。客を迎える部屋としては終わっていますもの。
母の時代には花と銀器が置かれていた応接間が、今は紙と針と穀物で満たされている。優雅さの代わりに因果関係がある。貴族社会では後者のほうが嫌われがちです。
「随分と」
査察官が言った。
「熱心に遊んでおられるようだ」
「調査です」
「異端者は皆そう言う」
後ろでミケルが腕を組み直した。昨夜のうちに残って泊まり込み、朝から顔色の悪さに磨きがかかっています。医者の徹夜は見た目に反映されすぎる。
「遊びでこれだけ紙を使うなら金がかかりすぎる」
彼がぼそりと言う。
「町医者殿」
ユリウスが初めてそちらを見た。
「あなたにも事情を伺う必要がありそうだ」
「でしょうな。伺われ慣れていないだけで、答えることはできます」
たいへん良いです。第一声から険悪。余計な礼儀に時間を割かなくて済みます。
ユリウスは応接間の中央へ進み、そこでわざとらしいほどゆっくりと向き直った。
「単刀直入に申し上げましょう。こちらで、聖女の祝福を疾病と呼び、教会の施しを毒と断ずる異端の噂が広がっています」
「まだ仮説段階です」
「仮説の時点で広めること自体が問題だと言っているのです」
「広めた覚えはありません。聞かれたので答えただけです」
「村の規模では同義でしょう」
たしかに。
この村で「ひとりに話す」は、「夕方には鶏も知っている」とほぼ同義です。そこは認めます。
わたくしは机の端に置いた記録を揃えた。
「ではこちらも単刀直入に申し上げます。最近この村では、幻視、痙攣、多幸、発汗を示す症例が増えています。祝福の受領歴と発症率に有意な偏りがある」
「有意?」
「偶然と片づけるには不自然な差、です」
「言葉を飾っても冒涜は冒涜だ」
彼の声音は平らでした。
平らなのに、刃物のように薄い。感情を見せない訓練を受けた人間の声です。わたくしは少しだけ好感を持ちました。感情のノイズが少ない相手は観察しやすい。
「冒涜かどうかは、観察結果とは独立した話ですわ」
「独立していません。信仰は共同体の基盤だ」
「病は共同体の基盤を崩します」
「だから教会が祝福している」
「だから発症率を見ています」
そこでマルタが、こっそり壁際へ下がった。たいへん賢明です。主が口論を始めると、近くにいる人間から消耗します。
ユリウスは机上の紙束を指先で弾いた。
「これらは押収します」
言い方があまりにも自然で、一瞬「今朝の牛乳を取ります」と同じ調子に聞こえたほどです。
押収。
その語が空気を変える。
ハロルドの背筋がわずかに伸び、ミケルの顎が上がり、マルタは目を見開いた。村長などは今にも帽子を抱えて逃げそうな顔です。共同体というのは、権威の声色ひとつで急速に縮みます。
「理由を伺っても」
わたくしは椅子に座ったまま問う。
「異端審問のため」
「法的根拠は?」
「教会規定第三……」
「世俗領主の私有財産を、どの条項で、どの範囲まで?」
ユリウスが言葉を切った。
ほんの一拍。
ですが、その一拍で十分でした。
王都で礼儀作法ばかり学んでいたように思われがちですが、貴族の娘は「相手が何を当然と思っているか」を見極める教育も受けます。特に相手が教会と王家ならなおさらです。食卓の座順も財産権も、形が違うだけで争点は同じ。
「……公の秩序を乱す疑いがある場合」
「私の領地内で、私的記録を保管しているだけです。乱しているのは現時点でどなたですか」
ユリウスの目がさらに細くなった。
美しい顔の人間が怒ると少し得をしますが、怒っている内容までは美しくならない。そこは公平です。
「聖女を疾病の媒介と示唆した」
「示唆ではなく、観察結果として関連を見ています」
「同じことだ」
「違いますわ。わたくしは断罪しているのではなく、検証しているのです」
ミケルが小さく鼻を鳴らした。
「その違いを理解する気があるなら、最初から押収なんぞ言わんでしょうよ」
ユリウスは彼を一瞥した。
「町医者殿。あなたには別件で伺うことがある」
「伺う?」
「過去に、教会指定の治療指針に従わず患者を死亡させた件で」
空気が止まる。
ミケルの顔から色が引いた。
マルタが息を呑み、村長は帽子を落としそうになるのを今度こそ両手で支えた。わたくしはユリウスの手元を見た。細い革の書類筒。そこから一枚だけのぞく封書の端。蝋封の赤に、見慣れない紋が混じっている。
教会の聖印ではない。
王国の紋章でもない。
隣国のものに似ている。
「……いつの話だ?」
ミケルが低く問う。
「五年前。妻君の件です」
その瞬間、ミケルの指が机の端を掴んだ。骨張った手。爪が白くなるほど強く。
なるほど、そう来ましたか。
権力は大抵、いちばん柔らかい傷を押す。
「彼女は」
ミケルの声が掠れる。
「祝福を受けても治らなかった」
「教会は最善を尽くした」
「最善?」
彼が笑った。笑いの形なのに、音は全く笑っていない。
「毎日祈って、最後に『神の御心です』と言ったのが最善か」
重い。
たいへん重い。
応接間に漂う空気が急に湿度を持ったように感じる。こういうとき、誰も紅茶に手をつけません。人類はもっと飲み物を信じるべきです。
ユリウスは平坦なまま言った。
「感情論に付き合う気はありません」
「こちらもありませんわ」
わたくしが口を挟むと、二人の視線が同時にこちらへ来た。よろしい。重たくなりすぎた空気は切り分けるに限ります。
「査察官殿、今の脅しは証言の信頼性を汚します」
「脅しではなく事実の確認です」
「今この場で持ち出す必要がある事実でしたでしょうか? でなければ、機能としては脅しです」
ユリウスは沈黙した。
その沈黙は否定ではない。言い返す語を選んでいる沈黙です。ならば押します。
「こちらの調査を止めたい理由は?」
「共同体の混乱を防ぐためです」
「観察は混乱ではありません」
「観察結果が信仰を損なう」
「信仰は検証を恐れないはずでは?」
言った瞬間、マルタが両手で顔を覆った。たいへんよく訓練されています。主が余計な正論を言ったときの反応が素早い。
ユリウスの目が、はっきりと冷えた。
「……その言葉の意味を理解して言っているのか?」
「ええ」
「信仰を試すのは傲慢だ」
「病を放置するほうが傲慢です」
ぴたり、と沈黙。
窓の外で風が鳴る。共同畑の方角から、乾いた穂擦れの音がかすかに届いた。見えない病気はいつだって、こういう静かな背景音みたいな顔をして忍び込みます。
ユリウスはゆっくりと息を吐いた。
「では、あなたは何を望む?」
「公開実験です」
今度こそ、部屋にいた全員が固まった。
マルタは「ああもう」と小さく呻き、村長は本当に帽子を落とした。ハロルドだけが微動だにしない。執事の鑑です。内心ではたぶん頭を抱えているのでしょうけれど。
「公開、だと」
ユリウスが復唱する。
「ええ。村人立ち会いのもと、祝福のパンと通常のパンを比較する。摂取歴、症状、時間経過を記録する。あなたも立ち会っていただけますか?」
「正気か?」
「検証に必要なのは正気です」
「違う!」
初めて彼の声が強くなった。
よい兆候です。整いすぎた人間が声を荒げると、そこに触れられたくない点がよく見えます。
「民衆の前で祝福を疑う場を設けろと言うのか」
「民衆の前で祝福の無謬を証明する機会、とも言えます」
「……」
「もし本当に神聖で無害なら、教会にとって益しかありませんわ」
ユリウスの喉が、ほんのわずかに動いた。
駒が返る音はしません。
ですが盤上の向きが変わったのはわかる。
こちらが「隠れて騒ぐ異端」ではなく、「公に確かめようとする側」に立った瞬間、押収や威圧は使いにくくなる。
信仰は密室を好んでも、公衆の前で密室の論理を使うのは難しい。
ミケルがゆっくり顔を上げた。
「……それなら、私も立ち会う」
「町医者殿は黙っていなさい」
「黙っていた結果が五年分あるんでな。もう飽きた」
彼の声音は低かったが、もう先ほどの揺れはなかった。傷を押されたあとに、逆に芯が出る人間はいる。丈夫というより、もう折れない場所まで折れたのでしょう。
ユリウスは法衣の袖を払った。
「危険です」
「何がです?」
「群衆は煽られやすい」
「ええ。ですから記録を取ります」
「記録で群衆は治まらん」
「ならあなたが治めればよろしいでしょう。査察官なのですから」
横でマルタがこめかみを押さえている。明らかに頭痛です。気の毒に。ですが大筋は順調です。
「……準備期間は?」
ユリウスがようやく言った。
来ました。
「三日」
「早すぎる」
「病は待ちません」
「民の手配、教会への通達、会場の確保」
「五日」
「……」
沈黙。
ユリウスは机上の紙を見る。押収すると言った記録。先ほどまでなら力づくで持っていけると思っていたのでしょう。ですが今となっては、この紙束は「公開実験を行うと約した件の前提資料」です。触るだけで立場が悪くなる。
彼はそれを理解している。
たいへん頭のよい方です。だからこそ面倒ですが、だからこそ話は進む。
「五日後」
ユリウスは低く言った。
「教会前広場で、公開の場を設ける。だが条件がある」
「伺いましょう」
「パンの配布と記録は、双方の立会人のもとで行うこと。恣意を挟まぬこと」
「同意します」
「症状が出た場合は即座に医療対応を」
「もちろん」
「そして」
彼の目が鋭く光る。
「結果がどう出ようと、群衆を煽る発言は慎むこと」
「結果を煽る必要はありません。結果は結果ですから」
ユリウスはそれ以上言わなかった。
代わりに書類筒を閉じ、立ち上がる。その動きは相変わらず無駄がなく、美しい。美しいのに好感が持てないのは、たぶん用途の問題です。
玄関へ向かう途中、彼はふと立ち止まり、こちらを振り返った。
「最後にひとつ」
「何でしょう」
「あなたは、聖女が故意に害をなしていると思っているのか」
良い質問です。
今ここで答えるべきものでもあります。
「まだ判断していません」
わたくしは言った。
「原因物質と、意図は別問題です。少なくとも現時点では」
ユリウスの視線が一瞬だけ揺れた。意外そうに。
たぶん彼の中で、わたくしは「聖女を断罪したい女」だと思われていたのでしょう。
違います。断罪は権力の仕事で、観察はわたくしの仕事です。
「……そうか」
それだけ言い残し、彼は去った。
馬車が門を出ていく音が遠ざかると、応接間に長い静けさが落ちた。
誰もすぐには喋らない。朝から人間の悪意と権利論と過去の傷が飛び交ったのです。胃にも心にも重い。
最初に口を開いたのは、やはりマルタだった。
「お嬢様」
「何かしら」
「どうしてあの方に、そんなに正面からぶつかれるんですか」
「正面からのほうが観察しやすいので」
「もっと人生を斜めに歩いてください!」
切実な叫びです。
ミケルが椅子に座り込むように腰を下ろした。
「……公開実験、か」
「ええ」
「胃が痛い」
「わたくしも少し」
「嘘をつけ。顔色が良いぞ」
「表情筋の教育の成果です」
ハロルドが静かに新しい紙を置いた。
「では、お嬢様」
「ええ」
もうやることは決まっています。
会場配置、立会人、記録係、配布導線、症状発現時の隔離場所。公開の場で負けないには、正しさだけでは足りない。正しさが見える段取りが要る。そこがたいへん世知辛いところです。
わたくしは椅子へ座り直し、ペンを取った。
そのとき、玄関先で馬のいななきがもう一度聞こえた。
「また査察官ですか!?」
マルタが半泣きで振り返る。
ハロルドが確認に出て、すぐ戻る。その顔は珍しく、わずかに困惑していた。
「お嬢様」
「何か」
「外に、見慣れぬ紋章の馬車が」
「教会ではない?」
「ええ。隣国風の意匠でございます」
「隣国」
全員の目が玄関へ向く。
ほどなくして現れたのは、二十代後半ほどの男だった。明るい色の外套に、旅塵のついた革靴。教会人のような磨き上げた静けさはないが、その代わり「徹夜明けでも机に向かえる種類の人間」特有の、妙な生気がある。目が笑っていて、口元が悪戯っぽく、そして視線は応接間の紙束を見た瞬間に露骨に嬉しそうになった。
たいへん嫌な予感がします。
男は軽く一礼した。
「初めまして、エレノア嬢」
その笑顔のまま、彼は言った。
「隣国魔導学院のレオンと申します。あなたの査読者です」




