表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/8

第4話 曝露と非曝露



 共同畑というものは、遠目にはたいへん牧歌的です。


 風に揺れる穂。土の匂い。空の広さ。のどかな農村絵画として売り出せそうな光景なのに、近づくと穂のあちこちに黒紫の異物が混じっていて、急に「穏やかな顔をした何か」に見えてくるのだから、自然は油断なりません。


 わたくしは畑の畦にしゃがみ込み、問題の穂を摘んだ。


「やはり混じっていますわね」


「前からあるにはあった」


 隣でミケルが腕を組む。


「だが、今年は多い気がする」


「気がする、では困ります」

「気がするしかない畑仕事への侮辱か」

「侮辱ではなく補強です」


 言いながら穂を布に包む。黒い塊は見た目がひどい。穀物は本来もっと誠実な顔をしているべきでしょうに、これは妙に艶があって不吉です。食べ物に威圧感は不要です。


 マルタは少し離れた場所で、スカートの裾を持ち上げたまま固まっていた。


「お嬢様、ほんとうに畑に入るんですか」

「入りました」

「入った後に確認しないでください!」

「大丈夫です。泥は洗えば落ちます」

「問題はそこだけではない気がします!」


 足元の土は昨夜の冷えをまだ残して柔らかく、踏むたびに靴底へ重たくまとわりつく。王都の庭園の土は、貴族のために汚れ方まで上品でしたが、こちらの土は労働のために容赦がない。好感が持てます。


 共同畑の見取りを簡単に取り、村の粉挽き経路と教会への納入をミケルから聞き出しながら、わたくしは頭の中で表を組んでいく。


 祝福を受けた人。


 受けていない人。


 発症した人。


 しなかった人。


 分けるだけなら単純です。人間関係よりよほど素直です。


「つまり何をする気だ」


 畑を見回しながら、ミケルが問う。


「症例対照です」


「……また新しい嫌な言葉が来たな」

「嫌な顔をしないでください。便利ですから」

「おまえの便利はだいたい私の胃に悪い」


 気の毒ですが、研究とはしばしば胃に悪いものです。


 館へ戻ると、応接間はすでに書記室のような有様になっていた。大判の紙、瓶入りのインク、糸、針、聞き取り記録、簡易地図。母の残した上等な花台には、いま黒い穂を包んだ布が載っている。たいへん実用的で結構です。


 わたくしは机に向かい、紙の中央へ大きく十字線を引いた。


「曝露」

「ばくろ?」

「曝露。要因にさらされることです」

「要因?」

「今回は祝福のパン」

「すごいな。教会が聞いたらその紙を燃やすぞ」


「紙は燃えますからね」


 そうではない、とミケルが言いたそうな顔をしたが、まず言葉の定義が先です。人は曖昧なまま怖がると、必要以上に大きく騒ぎます。王都の夜会で十分見ました。


 わたくしは四つに区切った表へ項目を書いた。


 祝福あり・発症あり。


 祝福あり・発症なし。


 祝福なし・発症あり。


 祝福なし・発症なし。


「綺麗ですわね」


「それを見て最初に出る感想が綺麗なのか」

「情報が整列していますもの」

「今、おまえが王子に嫌がられた理由を少し理解できた」


「光栄です」


 マルタが茶器を運びながら、露骨に嫌な顔をした。


「まったく光栄じゃない文脈でしたよね?」

「文脈は観測者の主観です」

「今それを主張するの、かなりずるいです!」


 とはいえ、ずるくても進めます。


 村長、ハロルド、料理女、ミケル、村の若者二人まで動員し、半日かけて聞き取りを重ねた。祝福を受けた家、受けなかった家、病人の発生、時期、年齢、普段の食事。家ごとに事情は違い、証言は雑で、記憶は都合よく抜け落ちる。人間の口述というのは本当に扱いづらい。


 ですが、扱いづらいからこそ数にする価値がある。


 夕方前、ようやく第一集計が出た。


 わたくしは表を見て、ペン先で軽く叩いた。


「出ましたわね」


 ミケルが肩越しに覗き込む。


「……ずいぶん差があるな」


「ええ。祝福を受けた群の発症率が、受けていない群より明らかに高い」


「明らか、か」

「少なくとも、見逃せる差ではありません」


 紙の上では、ただの数字です。


 けれど現実には、その数字のひとつひとつが、夜中に叫んだ家であり、痙攣した身体であり、倒れた老人であり、わけもなく笑い続けた農夫です。


 静かに腹の底が冷えていく。


 わたくしはその冷えを、意識して言葉に変えた。


「祝福は、疾病です」


 部屋がしんとした。


 マルタが持っていた菓子皿を危うく落としかけ、ハロルドは目を閉じ、村長は帽子を握りしめる。ミケルだけが沈黙のまま表を見ていた。医者の沈黙です。嫌な仮説が当たったときの、たいへん重い沈黙。


「まだ仮説だ」


 ややあって彼が言う。


「ええ、仮説です」

「だが、仮説にしては嫌なほど筋が通っているな、嫌なほど」

「ええ」


「嫌なほど」を二度言いましたが、そのくらい嫌なのです。


 わたくしは別紙へ数式めいたものを書き始めた。群ごとの発症率、その比。厳密さには足りないが、村の応接間でやるには十分な骨格です。


 ミケルが顔をしかめる。


「今度はなんだ」

「相対危険度」

「もっと教会に嫌われそうな響きだな」

「では用語を与えましょう」


 ペンを止める。


 少し考え、書いた。


「恩寵比」

「急にそれっぽい顔をしたな」

「概念は着飾らせると村に入りやすいのです」

「詐欺師の才能があるぞ」

「研究者です」

「近い気がするんだが」


 失礼な話です。


 ですが、用語は大事でした。専門の言葉は便利でも、剥き出しだと人を遠ざける。少なくともこの村で「相対危険度」と言っても、半分は新しい収穫祭の名称だと思われるでしょう。


 だから恩寵比。


 祝福を受けた者が、受けていない者に比べてどれだけ発症しやすいか。


 名前だけなら上品です。中身はたいへん不穏ですが。


 そこへ、聞き取りに出ていた村の若者が息を切らして戻ってきた。


「追加です! 北の外れの家、先月も祝福を受けてて、そのあと娘さんが変な笑い方して倒れたって!」


「変な笑い方」

「はい、こう、ハハハハって止まらなく」

「再現しなくて結構です」


 記録に加える。


 数字がひとつ動く。


 表の比がわずかに変わる。


 その変化を見た瞬間、わたくしの胸の奥で妙な高揚が走った。

 危険な高揚です。証拠が補強される快感。研究者が最も自戒すべき種類の喜び。


 だから、わたくしは意識して紅茶を飲んだ。ぬるい。誰かが何度も温め直した結果の、ちょっと疲れた味がする。非常によい。人を落ち着かせます。


「お嬢様」


 マルタが恐る恐る言う。


「その、数が増えるたびにちょっと目がきらきらするの、やめたほうが……」

「していません」

「しています」

「光の反射ですわ」

「感情の種類を光学現象にしないでください!」


 ミケルが吹き出した。


 ちゃんと吹き出したのは初めてです。咳に偽装しようともせず、椅子の背にもたれて笑っている。疲れた顔に笑い皺が寄ると、少しだけ場がやわらぐ。


「おまえの侍女は有能だな」

「ええ。観察精度が高いのです」

「主に必要なのはそこじゃなくて手綱では」

「マルタ、あなたそんなふうに思っていたの?」

「思っています!」


 応接間の空気が、ほんの少し軽くなる。


 けれど軽さは長く続かなかった。


 日が傾きかけたころ、馬を飛ばしてきた使者が門前へ現れたからです。


 王都の紋章をつけた若い伝令で、馬も本人も泡を吹きそうな勢いだった。ハロルドが応接間へ通すと、彼は床に膝をついて封書を差し出した。


「王都より急報でございます!」


 開けば、短い文面。


 王子殿下、再び発作的興奮を示し、夜半に幻視と激しい依存行動あり。聖女の傍を離れず、侍従への暴力も生じている。医師団は原因不明として沈黙。帰還を求むる声も一部にあり――


 そこまで読んで、わたくしは紙を畳んだ。


「お嬢様……」


 マルタが不安げに覗き込む。


「戻られるんですか」

「いいえ」

「即答!」


「戻ったところで、王都の床に数字は増えませんもの」

「人として冷静すぎません?」

「今さらです」


 ミケルが手を差し出したので、封書を渡す。彼はざっと目を通し、顔をしかめた。


「王子まで同じ症状か」

「夜会の時点で可能性は高かったですね」

「なら最初からそう言えばよかっただろう」

「婚約破棄の壇上で『殿下、瞳孔が開いております』と?」

「……たしかに殴られるな」

「ええ。しかも正しく殴れないでしょう。運動失調があるなら」


 マルタが両手で顔を覆った。


「もう少しだけ王族への敬意をですね」

「診察に身分は関係ありません」

「発言に命は関係あります!」


 もっともです。


 もっともですが、ここで重要なのは王子の容態悪化が、こちらの仮説と一致していることでした。しかも「聖女の傍を離れず」という情報つき。曝露継続の可能性が高い。


 わたくしは机上の表へ視線を戻した。


 村の数字。


 王都の急報。


 共同畑の黒い穂。


 教会の祝福。


 すべてが少しずつ、一枚の図に寄ってくる。


「ミケル」


「なんだ」

「症状の出た家と、出ていない家で、さらに年齢と摂取頻度を分けたいのですが」

「今からか」

「今からです」


 彼は深く息を吐いたが、反対はしなかった。これがいちばん大きい。最初に館へ来たときの「異端の館」呼ばわりから考えれば、たいへんな進歩です。人類の発展はたいてい、こういう渋い諦めの形をしています。


 夜になるころには、紙の枚数がさらに増えた。


 幼児は比較的軽い。


 高齢者は重い傾向。


 祝福の回数が多い家ほど症状が強い可能性。


 食糧事情が悪い家ほど発症率が高いかもしれない。


「サンプルが少ない」


 ミケルが机を睨みながら言う。


「断言には足りん」


「ええ。だから信頼区間を考えます」


「しんらい……?」

「推定の幅です。どれくらい確からしいかの揺れ」

「言い方がやさしくなったな」

「疲れてきましたので」

「正直で助かる」


 わたくしは紙の端に、雑ではあるが幅の概念を書き込んだ。


 確実にこれだ、とまでは言い切れない。


 けれど偶然で片づけるには、寄りすぎている。


 その「寄りすぎ」をどう扱うかが、科学の性格なのです。


 マルタが眠そうな目をこすりながら、テーブルへ新しい蝋燭を置いた。


「もう夜ですよ……」

「ええ」

「普通の令嬢は、夜にこんな紙まみれになりません」

「普通の令嬢は追放先で発症率を比べませんから」

「知ってます!」


 窓の外では、闇の底に村の明かりが点々と浮いていた。教会の塔だけが少し高く、そこから見えない力が村を包んでいるようにも見える。


 ですが、力があるように見えるものほど、近づけば構造があります。


 そして構造には、たいてい数えられる部品がある。


「明日」


 わたくしは新しい紙束を揃えた。


「祝福の配布経路をさらに追います。教会そのものを調べる前に、村で外堀を埋める」

「教会は黙っていないぞ」

「ええ」


 そのときでした。


 門前で馬が止まる音。


 次いで、硬い靴音。


 ハロルドが応接間へ入る。その表情は普段と同じく静かでしたが、静かすぎるときの執事はだいたい良くない知らせを持ってきます。


「お嬢様」


「何か」


「教会より使者が」


 部屋の空気が一気に冷えた。


「異端の噂について、査察官が明朝こちらへ到着するとのことです」


 マルタが小さく悲鳴を上げ、村長は帽子を落とし、ミケルは舌打ちした。


 わたくしは机上の表を見下ろした。


 祝福あり。


 発症あり。


 祝福なし。


 発症なし。


 綺麗に分かれた四つの箱が、蝋燭の光の中で静かに浮かんでいる。


「ちょうどいいですわね」


 わたくしはそう言った。


「向こうから、検証対象が来てくれるのですから」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ