第4話 曝露と非曝露
共同畑というものは、遠目にはたいへん牧歌的です。
風に揺れる穂。土の匂い。空の広さ。のどかな農村絵画として売り出せそうな光景なのに、近づくと穂のあちこちに黒紫の異物が混じっていて、急に「穏やかな顔をした何か」に見えてくるのだから、自然は油断なりません。
わたくしは畑の畦にしゃがみ込み、問題の穂を摘んだ。
「やはり混じっていますわね」
「前からあるにはあった」
隣でミケルが腕を組む。
「だが、今年は多い気がする」
「気がする、では困ります」
「気がするしかない畑仕事への侮辱か」
「侮辱ではなく補強です」
言いながら穂を布に包む。黒い塊は見た目がひどい。穀物は本来もっと誠実な顔をしているべきでしょうに、これは妙に艶があって不吉です。食べ物に威圧感は不要です。
マルタは少し離れた場所で、スカートの裾を持ち上げたまま固まっていた。
「お嬢様、ほんとうに畑に入るんですか」
「入りました」
「入った後に確認しないでください!」
「大丈夫です。泥は洗えば落ちます」
「問題はそこだけではない気がします!」
足元の土は昨夜の冷えをまだ残して柔らかく、踏むたびに靴底へ重たくまとわりつく。王都の庭園の土は、貴族のために汚れ方まで上品でしたが、こちらの土は労働のために容赦がない。好感が持てます。
共同畑の見取りを簡単に取り、村の粉挽き経路と教会への納入をミケルから聞き出しながら、わたくしは頭の中で表を組んでいく。
祝福を受けた人。
受けていない人。
発症した人。
しなかった人。
分けるだけなら単純です。人間関係よりよほど素直です。
「つまり何をする気だ」
畑を見回しながら、ミケルが問う。
「症例対照です」
「……また新しい嫌な言葉が来たな」
「嫌な顔をしないでください。便利ですから」
「おまえの便利はだいたい私の胃に悪い」
気の毒ですが、研究とはしばしば胃に悪いものです。
館へ戻ると、応接間はすでに書記室のような有様になっていた。大判の紙、瓶入りのインク、糸、針、聞き取り記録、簡易地図。母の残した上等な花台には、いま黒い穂を包んだ布が載っている。たいへん実用的で結構です。
わたくしは机に向かい、紙の中央へ大きく十字線を引いた。
「曝露」
「ばくろ?」
「曝露。要因にさらされることです」
「要因?」
「今回は祝福のパン」
「すごいな。教会が聞いたらその紙を燃やすぞ」
「紙は燃えますからね」
そうではない、とミケルが言いたそうな顔をしたが、まず言葉の定義が先です。人は曖昧なまま怖がると、必要以上に大きく騒ぎます。王都の夜会で十分見ました。
わたくしは四つに区切った表へ項目を書いた。
祝福あり・発症あり。
祝福あり・発症なし。
祝福なし・発症あり。
祝福なし・発症なし。
「綺麗ですわね」
「それを見て最初に出る感想が綺麗なのか」
「情報が整列していますもの」
「今、おまえが王子に嫌がられた理由を少し理解できた」
「光栄です」
マルタが茶器を運びながら、露骨に嫌な顔をした。
「まったく光栄じゃない文脈でしたよね?」
「文脈は観測者の主観です」
「今それを主張するの、かなりずるいです!」
とはいえ、ずるくても進めます。
村長、ハロルド、料理女、ミケル、村の若者二人まで動員し、半日かけて聞き取りを重ねた。祝福を受けた家、受けなかった家、病人の発生、時期、年齢、普段の食事。家ごとに事情は違い、証言は雑で、記憶は都合よく抜け落ちる。人間の口述というのは本当に扱いづらい。
ですが、扱いづらいからこそ数にする価値がある。
夕方前、ようやく第一集計が出た。
わたくしは表を見て、ペン先で軽く叩いた。
「出ましたわね」
ミケルが肩越しに覗き込む。
「……ずいぶん差があるな」
「ええ。祝福を受けた群の発症率が、受けていない群より明らかに高い」
「明らか、か」
「少なくとも、見逃せる差ではありません」
紙の上では、ただの数字です。
けれど現実には、その数字のひとつひとつが、夜中に叫んだ家であり、痙攣した身体であり、倒れた老人であり、わけもなく笑い続けた農夫です。
静かに腹の底が冷えていく。
わたくしはその冷えを、意識して言葉に変えた。
「祝福は、疾病です」
部屋がしんとした。
マルタが持っていた菓子皿を危うく落としかけ、ハロルドは目を閉じ、村長は帽子を握りしめる。ミケルだけが沈黙のまま表を見ていた。医者の沈黙です。嫌な仮説が当たったときの、たいへん重い沈黙。
「まだ仮説だ」
ややあって彼が言う。
「ええ、仮説です」
「だが、仮説にしては嫌なほど筋が通っているな、嫌なほど」
「ええ」
「嫌なほど」を二度言いましたが、そのくらい嫌なのです。
わたくしは別紙へ数式めいたものを書き始めた。群ごとの発症率、その比。厳密さには足りないが、村の応接間でやるには十分な骨格です。
ミケルが顔をしかめる。
「今度はなんだ」
「相対危険度」
「もっと教会に嫌われそうな響きだな」
「では用語を与えましょう」
ペンを止める。
少し考え、書いた。
「恩寵比」
「急にそれっぽい顔をしたな」
「概念は着飾らせると村に入りやすいのです」
「詐欺師の才能があるぞ」
「研究者です」
「近い気がするんだが」
失礼な話です。
ですが、用語は大事でした。専門の言葉は便利でも、剥き出しだと人を遠ざける。少なくともこの村で「相対危険度」と言っても、半分は新しい収穫祭の名称だと思われるでしょう。
だから恩寵比。
祝福を受けた者が、受けていない者に比べてどれだけ発症しやすいか。
名前だけなら上品です。中身はたいへん不穏ですが。
そこへ、聞き取りに出ていた村の若者が息を切らして戻ってきた。
「追加です! 北の外れの家、先月も祝福を受けてて、そのあと娘さんが変な笑い方して倒れたって!」
「変な笑い方」
「はい、こう、ハハハハって止まらなく」
「再現しなくて結構です」
記録に加える。
数字がひとつ動く。
表の比がわずかに変わる。
その変化を見た瞬間、わたくしの胸の奥で妙な高揚が走った。
危険な高揚です。証拠が補強される快感。研究者が最も自戒すべき種類の喜び。
だから、わたくしは意識して紅茶を飲んだ。ぬるい。誰かが何度も温め直した結果の、ちょっと疲れた味がする。非常によい。人を落ち着かせます。
「お嬢様」
マルタが恐る恐る言う。
「その、数が増えるたびにちょっと目がきらきらするの、やめたほうが……」
「していません」
「しています」
「光の反射ですわ」
「感情の種類を光学現象にしないでください!」
ミケルが吹き出した。
ちゃんと吹き出したのは初めてです。咳に偽装しようともせず、椅子の背にもたれて笑っている。疲れた顔に笑い皺が寄ると、少しだけ場がやわらぐ。
「おまえの侍女は有能だな」
「ええ。観察精度が高いのです」
「主に必要なのはそこじゃなくて手綱では」
「マルタ、あなたそんなふうに思っていたの?」
「思っています!」
応接間の空気が、ほんの少し軽くなる。
けれど軽さは長く続かなかった。
日が傾きかけたころ、馬を飛ばしてきた使者が門前へ現れたからです。
王都の紋章をつけた若い伝令で、馬も本人も泡を吹きそうな勢いだった。ハロルドが応接間へ通すと、彼は床に膝をついて封書を差し出した。
「王都より急報でございます!」
開けば、短い文面。
王子殿下、再び発作的興奮を示し、夜半に幻視と激しい依存行動あり。聖女の傍を離れず、侍従への暴力も生じている。医師団は原因不明として沈黙。帰還を求むる声も一部にあり――
そこまで読んで、わたくしは紙を畳んだ。
「お嬢様……」
マルタが不安げに覗き込む。
「戻られるんですか」
「いいえ」
「即答!」
「戻ったところで、王都の床に数字は増えませんもの」
「人として冷静すぎません?」
「今さらです」
ミケルが手を差し出したので、封書を渡す。彼はざっと目を通し、顔をしかめた。
「王子まで同じ症状か」
「夜会の時点で可能性は高かったですね」
「なら最初からそう言えばよかっただろう」
「婚約破棄の壇上で『殿下、瞳孔が開いております』と?」
「……たしかに殴られるな」
「ええ。しかも正しく殴れないでしょう。運動失調があるなら」
マルタが両手で顔を覆った。
「もう少しだけ王族への敬意をですね」
「診察に身分は関係ありません」
「発言に命は関係あります!」
もっともです。
もっともですが、ここで重要なのは王子の容態悪化が、こちらの仮説と一致していることでした。しかも「聖女の傍を離れず」という情報つき。曝露継続の可能性が高い。
わたくしは机上の表へ視線を戻した。
村の数字。
王都の急報。
共同畑の黒い穂。
教会の祝福。
すべてが少しずつ、一枚の図に寄ってくる。
「ミケル」
「なんだ」
「症状の出た家と、出ていない家で、さらに年齢と摂取頻度を分けたいのですが」
「今からか」
「今からです」
彼は深く息を吐いたが、反対はしなかった。これがいちばん大きい。最初に館へ来たときの「異端の館」呼ばわりから考えれば、たいへんな進歩です。人類の発展はたいてい、こういう渋い諦めの形をしています。
夜になるころには、紙の枚数がさらに増えた。
幼児は比較的軽い。
高齢者は重い傾向。
祝福の回数が多い家ほど症状が強い可能性。
食糧事情が悪い家ほど発症率が高いかもしれない。
「サンプルが少ない」
ミケルが机を睨みながら言う。
「断言には足りん」
「ええ。だから信頼区間を考えます」
「しんらい……?」
「推定の幅です。どれくらい確からしいかの揺れ」
「言い方がやさしくなったな」
「疲れてきましたので」
「正直で助かる」
わたくしは紙の端に、雑ではあるが幅の概念を書き込んだ。
確実にこれだ、とまでは言い切れない。
けれど偶然で片づけるには、寄りすぎている。
その「寄りすぎ」をどう扱うかが、科学の性格なのです。
マルタが眠そうな目をこすりながら、テーブルへ新しい蝋燭を置いた。
「もう夜ですよ……」
「ええ」
「普通の令嬢は、夜にこんな紙まみれになりません」
「普通の令嬢は追放先で発症率を比べませんから」
「知ってます!」
窓の外では、闇の底に村の明かりが点々と浮いていた。教会の塔だけが少し高く、そこから見えない力が村を包んでいるようにも見える。
ですが、力があるように見えるものほど、近づけば構造があります。
そして構造には、たいてい数えられる部品がある。
「明日」
わたくしは新しい紙束を揃えた。
「祝福の配布経路をさらに追います。教会そのものを調べる前に、村で外堀を埋める」
「教会は黙っていないぞ」
「ええ」
そのときでした。
門前で馬が止まる音。
次いで、硬い靴音。
ハロルドが応接間へ入る。その表情は普段と同じく静かでしたが、静かすぎるときの執事はだいたい良くない知らせを持ってきます。
「お嬢様」
「何か」
「教会より使者が」
部屋の空気が一気に冷えた。
「異端の噂について、査察官が明朝こちらへ到着するとのことです」
マルタが小さく悲鳴を上げ、村長は帽子を落とし、ミケルは舌打ちした。
わたくしは机上の表を見下ろした。
祝福あり。
発症あり。
祝福なし。
発症なし。
綺麗に分かれた四つの箱が、蝋燭の光の中で静かに浮かんでいる。
「ちょうどいいですわね」
わたくしはそう言った。
「向こうから、検証対象が来てくれるのですから」




