第3話 経験と統計
異端の館、という評価は、屋敷の外観に対してなら少々気の毒です。
たしかに古く、たしかに寒く、たしかに壁の一部は蔦に負けかけていますが、だからといって異端はないでしょう。せいぜい「修繕予算不足の館」です。
けれど玄関口に立った男――村の町医者を名乗ったその人物は、たいへん真剣な顔で言いました。
「……異端の館と聞いて来てみれば、本当に異端だったか」
朝霧を背負ったまま、黒い外套に薬箱。四十前後でしょうか。頬はこけ、目の下には見事な隈。髪は切る暇がないのか雑に束ねられ、靴には泥。疲労の塊のような見た目なのに、眼光だけは妙に鋭い。
そしてその視線は、応接間の壁に貼られた地図と、針と、糸と、机いっぱいの記録用紙を順番に刺し、最後にわたくしへ戻ってきた。
「失礼ですが」
わたくしは紅茶を置いた。
「館の印象を述べる前に、お名前を伺っても?」
「……ミケルだ。村で医者をしている」
「エレノアです」
「知っている。追放されてきた令嬢だろう」
「情報伝達が速い村ですわね」
「村は娯楽が少ないからな」
なるほど、よくわかる。
娯楽の少ない土地では、噂がよく走る。しかもこの村には、最近ちょうど「王都から変わり者の令嬢が来た」という、たいへん走りやすい題材が投下されたばかりです。
ミケルは薬箱を机の端に置き、地図を顎で示した。
「これはなんだ」
「最近の症例分布です」
「壁に針を刺して、人を数えているのか」
「ええ」
「気味が悪いな」
「病の流れは、たいへん綺麗に気味が悪いものです」
ミケルの眉がぴくりと動いた。
この手の相手には、丁寧に説明しても半分は反発される。ならば最初から、こちらの常識で押したほうが早い場合もあるのです。
マルタが後ろでおろおろしていた。
「お、お茶を……」
「いらん」
「断る速度が速い!」
「医者は忙しいんだ」
忙しいのは本当でしょう。薬箱の留め具は片方壊れかけ、袖口には乾いた薬草の粉がついていた。爪の間には土。患者の家からそのまま来たに違いない。
わたくしは椅子を示した。
「では忙しい方のために、手短に。最近、幻視、痙攣、多幸、発汗を示す患者を何人診ましたか」
ミケルは座らない。
「ずいぶん都合よく症状を並べる」
「都合がよいのではなく、観察に沿って並べています」
「現場を知らん机上の並べ方だ」
「机上に持ち込まないと比較できません」
ぴしゃりと返すと、彼はとうとう鼻で笑った。
「比較? 病人は一人ずつ違う。年も違えば体質も暮らしも違う。机の上で揃えたように扱うな」
「揃っていないから、揃っていないなりに数えるのです」
「数えれば治るのか」
「数えなければ間違いに気づけません」
朝からずいぶん景気のいい口論です。
応接間の空気がぴんと張り、ハロルドは気配を消し、マルタは「朝食前からこれを!?」という顔をしている。使用人の胃に悪いので、口論は本来あまり勧められません。
ですが、ミケルの反応は予想どおりでした。
経験の厚い臨床家は、しばしば数を侮る。毎日ひとりずつ向き合う者にとって、統計は冷たく見えるからです。その気持ちはわかる。わかりますが、個々の記憶は簡単に裏切る。
「では、あなたは何人診たのです」
わたくしが問うと、ミケルは腕を組んだ。
「最近三月なら、二十を超える」
「うち、祝福のパンを食べた者は」
「……知らん」
「診たのに」
「食ったかどうかが病に関係あるとは思わん」
「思わないから聞かない。聞かないから見えない。見えないから思わない。見事な循環ですわね」
マルタが「ひええ」と小さく言った。
言いすぎかとも思いましたが、ミケルは怒鳴らなかった。ただ無精髭の影を深くして、こちらを見た。
「貴族の物言いだな」
「職能の物言いです」
「職能?」
「疫学」
ミケルは露骨に嫌そうな顔をした。
「聞いたこともない」
「では今日お聞きになりました」
「それで病人が起き上がるのか」
「起き上がらない人を増やさないための学問です」
言うと、彼は初めて少し黙った。
沈黙の種類が変わったのがわかる。反発だけではない、どこか別の痛みが混じった沈黙。
その顔を見て、わたくしは少しだけ語調を落とした。
「……あなたは、祝福のパンを食べた患者を多く診ている」
ミケルの目が細くなる。
「なぜそう思う?」
「村の規模に対して教会の配布率が高い。症状の出方が似ている。あなたの疲れ方が、偶発を疑っている医者の顔ではない」
「顔で診断するのか」
「顔は有用な情報です」
「最悪だな」
たいへん褒め言葉に聞こえます。
ミケルはようやく椅子に座った。木の椅子がぎしりと鳴る。負けたからではなく、「このまま立っていると無駄に体力を使う」と判断した座り方でした。賢明です。
「……たしかに、妙な患者はいた」
彼は低く言う。
「祝福を受けたあと、夜に何か見えると言い出す者。痙攣する者。急に陽気になる者。だが、受けても何ともない者もいる」
「交絡因子ですわね」
「こうらく……?」
「結果を紛らわせる別要因。年齢、摂取量、栄養状態、もともとの体質」
言葉にした瞬間、ミケルの顔つきが少し変わった。
新しい器具を見た職人の顔です。
「……つまり?」
「反証例があるから仮説が死ぬのではなく、反証例の条件を調べることで仮説が育つ、ということです」
「育つ仮説か。妙な言い方だ」
「病は待ってくれませんから、こちらも育ちを早めませんと」
マルタが小さく首を振っている。おそらく「この会話、理解はできないのに勢いだけ怖い」という種類の反応でしょう。正しい。
ミケルは机上の記録を一枚つまんだ。
そこには発症日、年齢、祝福受領歴、主症状、転帰が簡潔に並んでいる。わたくしの字は読みやすさ優先で美しさに欠けるため、貴族の書面としてはだいぶ可愛げがない。
「これは、おまえが全部聞いたのか」
「ええ」
「村長から?」
「村長、使用人、家族、見聞きした者、症例本人」
「そんなことを、昨日一日で?」
「ええ」
「……暇なのか」
「追放直後ですので予定が空いております」
そこでミケルが、ほんの一瞬だけ笑った。
大笑いではない。口の端が少し動いた程度。ですが、この男の顔でそれが出るなら、かなり珍しいことでしょう。
「それで?」
わたくしは紙束を揃えた。
「あなたの記憶と、わたくしの記録を突き合わせたいのです」
「記憶は当てにならんと言ったばかりだろう」
「当てにならないから、使い方を工夫するのです」
ミケルは少し考え、それから薬箱を足元へ置いた。
「……三日前の若い女。二十歳。夜に虫が這うと騒ぎ、両脚に痙攣。祝福を受けていた」
「発症前の食事は」
「パンが主」
「次」
「羊飼いの老人。祝福は拒否。咳はあったが、幻視も痙攣もなし」
「次」
「鍛冶屋の息子。発汗、多弁、妙な万能感。自分は剣聖だと言い出して壁を殴った」
「症状の割に夢が小さいですわね」
「村の壁は硬いぞ」
会話が成立している。
これがいちばん大きい。
わたくしは聞き、ミケルは答えた。年齢、症状、発症日、祝福、食事、家の位置。ときに彼が「それは違う、あの患者は先に痙攣だ」と訂正し、わたくしが「では時系列を修正します」と書き換える。
個の医学と群の医学が、応接間の安い机の上でようやく握手する。
外では朝霧が晴れ、窓の向こうに共同畑が見え始めた。まだ土の色が濃く、芽吹きの緑は頼りない。その一角に、ところどころ不自然に黒い穂が立っている。
わたくしは窓を見た。
ミケルも見た。
「あれだな」
彼が言う。
「何年か前から混じるようになった」
「取り除かないのですか」
「取り除く。だが全部は無理だ。貧しい年は、多少悪くても混ぜて食う」
「そして教会は、それを祝福のパンとして配る」
「……そうだ」
部屋の空気がまた変わる。
これは口論の空気ではない。同じものを見た者同士の、静かな合意の空気です。
ハロルドが控えめに咳払いをした。
「お嬢様。書庫に、奥様が遺された古い医学書がございます」
「ありますの?」
「かび臭さには定評が」
「褒めていませんよねそれ」
ともあれ、書庫は有用でした。
昼前、埃をかぶった棚から引っ張り出した古い本は、紙が黄ばみ、革背はひび割れ、読むと鼻がむずむずする代物だった。知識とは、見た目がだいたい汚い。
ミケルと並んで頁をめくる。
薬草、熱病、瘴気、飢え、家畜由来の病。そして、穀粒の変質による中毒についての短い記述。
「黒穂……痙攣……幻視……」
わたくしが読むと、ミケルが横から指先で行を追った。
「似ているな」
「ええ」
「名前は」
「地方によって違うようですが……麦角、と」
その単語が、古い頁の上で妙に鮮明に見えた。
マルタが後ろで身震いする。
「名前がもう怖いです」
「安心なさい、名前が怖くても現象は現象です」
「逆に安心できません!」
ミケルは本を閉じ、深く息を吐いた。
「……おまえの勝ちだな」
「勝敗を競っていたつもりは」
「いや、競っていた。少なくとも私は」
彼は自嘲気味に言う。
「……経験だけで足りると思っていた。だが、診てきた患者が多いほど、かえって全部を同じ霧の中に押し込めていたらしい」
「経験は必要です」
「統計も、な」
「ええ」
「癪だが」
「光栄です」
わたくしが言うと、彼は今度ははっきり笑った。
疲れた顔のまま笑うと、少しだけ年相応に見える。ようやく医者ではなく人間の顔になった、と言うべきかもしれません。
「では」
わたくしは新しい紙を広げた。
「我々が次に調べるべきは、共同畑と祝福のパンの対応です」
ミケルが頷く。
「村のどの家がどの畑の粉を使うか、私なら聞ける」
「祝福を受けた家の発症率も比較します」
「発症率、か」
「便利な言葉でしょう」
「便利すぎて腹が立つ」
窓の外では風が少し出て、共同畑の穂がざわりと揺れた。
その揺れの中に、黒く変色した穂がいくつも混じる。
わたくしとミケルは、ほとんど同時に立ち上がった。
「見に行きますか」
「行く」
マルタがぱっと顔を上げる。
「昼食は!?」
「戻ってから」
「こういうときだけ息ぴったりなの、本当に嫌です!」
たいへん正しい抗議です。
ですが異常値というものは、たいてい食事時を選んでくれません。
だからわたくしたちは、昼前の冷たい風の中、村の共同畑へ向かった。そこには土と穀物と、そして仮説をひっくり返すか、あるいは確定させるだけの黒い穂が、目立たぬ顔で揺れていた。




