第2話 村落の異常値
辺境へ向かう馬車というものは、貴族の品位と腰椎を同時に試してきます。
王都の石畳を外れた途端、車輪は「もう遠慮はしません」と言わんばかりに跳ね始めた。座面は柔らかいのに意味がない。柔らかいものの下から固い衝撃が律儀に伝わってくるからです。クッションはよく働いていましたが、路面のやる気が強すぎました。
「お嬢様、大丈夫ですか……?」
向かいに座るマルタが、青い顔で聞いてくる。
大丈夫ではありません。ですが観察は可能です。
「揺れの周期が一定ですわね」
「その感想、気分が悪い人のものじゃないです」
「気分が悪いからこそ、他のことを考えるのです」
「もっとこう、景色が綺麗とかありません?」
言われて窓の外を見る。
春先の薄い空。まだ冷たさの残る風。王都の周辺では整然としていた畑が、辺境へ進むにつれて少しずつ粗くなる。柵は傾き、道端の草は勝手に伸び、洗濯物は堂々とはためいていた。よく言えばのびのび、悪く言えば全部が少し雑です。
「景色が綺麗ですわ」
「今、絶対思ってない顔でした」
侍女というものは、主の表情を読む能力だけが無駄に高い。
実際のところ、わたくしの関心は景観より分布にあった。畑の作付け、水路の位置、集落の密度、教会の尖塔が見える頻度。王都では装飾としてしか目に入らなかったものが、距離とともに情報に変わっていく。
追放というのは、本来たいへんに不名誉な出来事のはずですが、こうして王都を離れてみると、妙に視界が開けるのだから困ります。
昼過ぎ、馬車は最初の村の手前でいったん速度を落とした。
街道脇の畑で、ひとりの農夫が大声で笑っていた。
笑うだけなら結構なことです。労働に陽気さは必要でしょう。けれど、鍬を持ったまま何もない空に向かって「おお、鳥だ! 青い魚が飛んでいる!」と叫ぶのは、通常の農業からやや逸脱しています。
しかも魚は飛んでいません。
「……マルタ」
「見ています。わたしも見ています。今のはたしかに変です」
農夫の頬は赤く、額には汗。足元はふらつき、焦点の合わない目で空を見ている。近くの女房らしき女性が、半泣きで腕を引いていた。
「また始まったよ、この人!」
「おお、天使が二人に増えた!」
「増えてません!」
見事な応酬です。
わたくしは窓を少し開けた。乾いた土の匂い、家畜の匂い、それから穀物を蒸したような甘い匂いが流れ込んでくる。
足元には、黒く変色した穂。
ああ、なるほど。
「止めてちょうだい」
御者に声をかけると、マルタがぎょっとした。
「今ですか!?」
「今です」
「でも追放の途中ですよ!? もっとこう、みじめに俯いて通り過ぎる場面では!?」
「みじめさに症例は増やせませんもの」
「その理屈、人生のいろいろを置いていってませんか!?」
馬車が止まる。
降りると、風が思ったより冷たく、スカートの裾が大げさに揺れた。辺境の土は王都より色が濃い。踏むと少し湿り、靴底にまとわりつく。整えられた庭園の土とは違い、こちらの土は働くための顔をしていた。
農夫の妻らしき女性が、こちらを見て露骨に警戒した。
「なんです、あんたら?」
もっともです。追放途中の元公爵令嬢と侍女は、村の道端に出現する存在としてあまり一般的ではありません。
「発症はいつからです?」
わたくしが問うと、女性は目をぱちくりさせた。
「……は?」
「笑い、幻視、発汗、ふらつき。いつから」
「え、ええと、昼前から……?」
返ってきた。人は意外と、相手が真顔だと答えてしまうものです。
「食事内容は?」
「朝にパンとスープを……いや、でも、なんでそんな」
農夫がそこで急にわたくしを見て、ぱっと顔を輝かせた。
「おおお、白い鳥だ! しゃべる!」
「人間ですわ」
「鳥がしゃべった!」
「会話になってません!」
マルタが横で小声で叫ぶ。たいへんうるさいですが有用です。村人の緊張が少しだけほどけた。
農夫の足元にしゃがみ込み、落ちた穂を拾う。通常のライ麦より色が悪く、粒のかわりに黒紫の細長い塊が混じっている。嫌な見た目です。穀物はもっと素朴であるべきでしょうに、これは妙に禍々しい。
しかし外見が禍々しいからといって、教会はたぶん気にしない。祝福の名がつけば、だいたいのものは丸くなる。名前の力は強い。
「お嬢様、それは……」
「後で包んでおきます」
「素手で触るんですか」
「今さら貴族らしさを発揮しても遅いでしょう」
「たしかに遅いですけど!」
結局、農夫は妻と近所の男たちに抱えられて家へ戻された。去り際までずっと「魚が飛んでいる」と言っていたので、彼の空だけたいへん賑やかだったのだと思います。
再び馬車に乗り、夕刻前に旧領へ着く。
母の形見である辺境領地の館は、想像していたよりまともで、想像していたより寒かった。
石造りの古い屋敷。蔦の這う壁。玄関前の砂利は半分ほど雑草に侵略されている。噴水はあるが噴いていない。門扉は立派だが、片方だけ少し傾いている。総じて「昔はかなりよかった」が全方面から滲んでいた。
出迎えた執事のハロルドは、白髪をきっちり撫でつけ、完璧な一礼をした。
「お帰りをお待ちしておりました、お嬢様」
「ただいま戻りました」
「本来ならもっと晴れやかな事情でお迎えしたかったのですが」
「事情は天候のようなものです。到着した以上、使います」
ハロルドの眉が一瞬だけ動いた。笑いをこらえたのか、頭痛の兆候かは判別がつかない。
館の中は乾いた木と古布の匂いがした。磨かれてはいるものの、長く空いた家特有の沈黙がある。廊下には母の肖像画。応接間には布を掛けられた家具。窓辺には冬の名残の光。王都の屋敷が「見せるための場所」なら、こちらは「耐えるための場所」でした。
嫌いではありません。
荷を部屋に運ばせる間に、わたくしはさっそく台所と食糧庫を見せてもらった。
「普通、先に部屋を見るのでは?」
マルタが言う。
「人は寝室で発症率を比較しません」
「比較する気はあるんですね……」
食糧庫には小麦、ライ麦、干し肉、豆、塩。辺境らしい実用の並び。その一角に、先ほど見たのと似た黒紫の混入した袋がいくつかある。
「このライ麦は、どこから?」
「共同畑からでございます」
料理女が答える。
「今年は少々、出来が悪く……。黒いのは取り除いておりますが、全部は難しく」
「最近、村で奇妙な病は?」
料理女と下働きが顔を見合わせた。
「病、というほどかは……」
「でも笑ったり、暴れたり、夜に何か見えるって言う人は……」
「年寄りだけじゃなくて若いのも」
「あと、教会で祝福を受けた家は丈夫になるって話で、皆こぞって」
祝福。
その言葉が出た瞬間、頭の中で王都の夜会と畑の農夫が一本の線でつながる。
わたくしは応接間へ戻り、机を使えるように命じた。
「紙を。できれば大判で。炭筆も。定規。糸。色付きのピンか何か。なければ針でも構いません」
ハロルドが静かに問う。
「お嬢様、何をなさるおつもりで」
「村の見取り図を作ります」
「……領地経営の把握に?」
「症例の把握に」
ハロルドは一拍、黙った。
その沈黙に「お嬢様はやはり少々変わっておられる」が綺麗に含まれていたので、こちらも遠慮なく続ける。
「発症地点、居住位置、水源、共同畑、教会。関連が見えます」
「普通は、まず医者を呼ぶのでは?」
「呼びます。ですが先に地図です」
「地図が先なんですか」
「流行に地理はつきものです」
説明しても納得されていない顔でしたが、忠実な使用人は優秀です。十分後には応接間の机から花瓶と飾り皿が撤去され、代わりに紙が広げられていた。王都なら趣味の悪い静物画が置かれていた位置に、辺境の村の粗い地図が載る。たいへん健全です。
わたくしはピン代わりの待ち針を並べ始めた。
村の中心。教会。井戸。共同畑。農夫の家。先ほど道で見た発症者。使用人たちから聞き出した「最近様子のおかしい家」。死者が出た家。
「お嬢様」
後ろからマルタが、半ば呆れた声を出す。
「王都を追い出されて最初にすることが、壁一面の不穏な図って、もっとこう……」
「建設的でしょう」
「見た目は完全に陰謀です」
「陰謀ではなく分布です」
「言い換えても怖いです」
確かに、広げた紙に針を刺し、糸で地点をつなぐ光景は、事情を知らない人間にはだいぶ不気味でしょう。ですが研究は、たいてい途中の見た目があまりよくありません。パン生地も焼く前は妙な塊ですし。
村長が呼ばれてきたのは、その少し後だった。
日に焼けた大柄な男で、帽子を胸に抱え、落ち着かなげに玄関から入ってきた。急に領主の娘が戻り、しかも応接間で地図に針を刺しているのですから、気の毒なことです。
「お初にお目にかかります、ええと……」
「エレノアです」
「お、お嬢様」
彼の視線が机の上に落ち、ぴたりと止まる。
「……これは」
「最近、妙な症状を示した方の家です」
「はあ」
「死亡された方は」
「……三人、です」
三人。
数としてはまだ少ない。けれど、村の規模を考えれば軽視できる数字ではない。
「皆、同じ病だと?」
「わかりません。ですから聞きます」
わたくしは椅子を勧め、村長を座らせた。最初は渋っていたものの、人は座らせると少し話しやすくなる。立ったままでは逃げ腰になりやすい。これもまた、地味ですが重要な観察です。
「まず、最初の方のお名前を」
「え、ええと、ヨハン爺さんで……」
「年齢は?」
「六十七」
「発症時期」
「冬の終わり頃で」
「主症状」
「夜に何か見えると騒いで、手足がつって、そのあと急に元気になったと思ったら、倒れて……」
記録する。
次。
次。
次。
村長は最初こそ戸惑っていたが、問う順番が一定だとわかるにつれ、答え方にもリズムが生まれた。人は形式があると安心する。儀式も会議も診察も、だいたいそのためにあるのでしょう。
「共通点は」
「共通点……?」
「食事、水、仕事場、教会、祭礼」
そこで村長が「あ」と声を出した。
「そういえば、亡くなった三人とも、春前に聖女様の祝福を受けていました」
部屋の空気が静かに張る。
マルタが息を呑み、ハロルドが目を伏せた。料理女などは露骨に胸元で手を組んでいる。祝福という語には、それだけで会話を止める力があるらしい。
「内容は?」
「教会で配られるパンです。食べれば健やかになると」
パン。
やはり。
わたくしは地図の端に新たな欄を作り、祝福受領の有無を書き足した。
「お嬢様……」
マルタが小声で言う。
「それ、王都で言っていた……」
「ええ」
わたくしは頷く。
王子殿下の瞳孔。額の汗。高揚。多弁。
道端の農夫の幻視。
そして村の死者たち。
バラバラだった点が、ゆっくりと同じ面に乗り始めている。
窓の外では、夕暮れの色が畑へ沈み、教会の鐘がひとつ鳴った。館の古いガラスが、低い音にかすかに震える。
良い鐘の音でした。だからこそ厄介です。人は綺麗な音に意味まで預けてしまう。
「村長。祝福のパンは、どこで配られています?」
「教会で……毎週の祈りのあとに」
「受け取った家を一覧にできますか」
「で、できますが……まさか、お嬢様」
「まさか、ですわね」
村長の顔色が変わった。信仰と生活が結びついた土地では、疑いはそのまま恐怖になる。
ですから、今は断定しない。
断定は、データのあとです。
「安心なさい。まだ仮説です」
わたくしはそう告げ、机の中央にノートを置いた。
王都で没収された診録帳ではない。こちらへ来る途中で馬車の中、マルタに予備を出させた新品の帳面。革も固く、ページは白い。まだ何も知らない顔をしている。
悪くない。
ペン先を浸し、最初の一行を書く。
症例番号一、再開。
すると背後で、マルタが小さく呻いた。
「再開って言いました……?」
「ええ」
「終わってなかったんですね……」
「終わるには早いでしょう」
「普通は婚約が終わった直後、もっと別の再開があると思うんです。人生とか」
もっともな意見です。
ですが人生もまた、症例の積み重ねでできているのではないでしょうか。少なくとも今のわたくしには、そのほうが扱いやすい。
その夜、村からさらに二件の聞き取りが届いた。
一件は、祝福を受けたあとで痙攣を起こした若い女。
一件は、祝福を断って無事だった偏屈な羊飼い。
地図の上の針が一本ずつ増えるたび、部屋の静けさが濃くなる。館の応接間はいつしか、亡き母の客間ではなく、辺境の小さな観測所になっていた。
そしてその翌朝。
朝霧の残る中、黒い外套を羽織った男が館に現れた。
薬箱を提げ、疲れた顔で、玄関先から応接間の針だらけの地図を見て眉をひそめる。
「……異端の館と聞いて来てみれば、本当に異端だったか」
村の町医者だと名乗ったその男は、開口一番そう言った。




