表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/8

第1話 症例番号ゼロ



 夜会というものは、どうしてこうも発汗に向かない衣装規定を好むのでしょう。


 王宮大広間の天井では、枝分かれした燭台が金色の炎を何十本も揺らし、その下では貴婦人方の扇が白い羽虫のようにひらひらしていた。音楽は軽やか、笑い声は高く、宝石はうるさく、香水は重い。実に観察に向かない。


 もっとも、観察に向かないのは空気だけで、対象そのものはむしろ見やすのですが。


「――エレノア・グランヴィル! 貴様との婚約は、この場で破棄する!」


 王子殿下の声はよく通った。


 通りすぎるほどに。


 わたくしはグラスを置き、静かに顔を上げた。案の定、周囲の会話は一拍遅れて止まり、大広間の視線が一斉にこちらへ集まる。人間は突然の大声に弱い。群れとしては大変に扱いやすい反応です。


 王子殿下――アルベルト殿下は、赤みの差した顔で壇上に立っていた。隣には白絹のドレスに身を包んだ聖女ミレイユ。殿下の腕にそっと手を添え、今にも泣きそうな目でこちらを見ている。


 泣きそう、というより、泣く準備が万端、と言ったほうが正確でしょうか。


 なるほど、段取りがよろしい。


「聞けばおまえは、聖女ミレイユを妬み、呪詛の言葉を日々ノートに書きつけていたというではないか!」


 わたくしの背後で、誰かが「まあ」と吸い込むように言った。


 王子殿下の手には、一冊のノートがある。革表紙の、見慣れたもの。わたくしの診録帳でした。


 没収された覚えはありませんが、返却の覚えもありません。つまり窃盗ですわね、と思ったものの、今はそこが本題ではない。


 殿下はノートを開き、勝ち誇ったように読み上げた。


「『症例一、若年男性。瞳孔散大、多幸、発汗、焦燥、判断力低下』! 『曝露後、依存的接近を示す』! 『反復投与の可能性あり』! これのどこが医術の記録だ、呪いの手順ではないか!」


 何人かが息を呑み、何人かが顔をしかめ、何人かが「たしかに」とでも言いたげにこそこそした。


 たしかに、夜会の真ん中で読み上げるには不穏な単語が多い。けれど本来、診録とは患者の前で朗読するものではありません。朗読してよいのは詩集くらいでしょう。しかも恋の詩。症例記述を声に出してうっとりしている人がいたら、わたくしは距離を取ります。


 殿下は鼻息荒く、さらにページをめくる。


「『祝福接触後に症状増悪』! 『原因物質は未同定、追試が必要』! 追試だと? 聖女の祝福を原因物質呼ばわりするなど、許されると思うか!」


 ああ。


 そこまで読まれましたか。


 ならば、もう一行下も読めばよろしいのに、と少しだけ思いました。『対象は極めて扱いやすい』と書いてあります。おそらく今、証明されました。


 聖女ミレイユが、殿下の袖をきゅっと掴んだ。


「アルベルト様……もう、おやめください……。わたくしのために、こんな……」


 やめてほしそうな声音でしたが、指先にはずいぶん力が入っている。爪が布地に沈み込むほどです。視線は潤み、頬はかすかに紅潮し、呼吸は浅い。可憐さというのは、観察項目に分解すると意外と忙しい。


 わたくしは一歩、前へ出た。


 大広間の床は磨き込まれ、燭光が靴先に映る。滑りやすいので、劇的な宣告には向きません。転ぶと台無しですからね。


「エレノア、言い訳があるなら聞いてやってもよい」


 殿下が顎を上げる。


 金糸の刺繍が光り、青い瞳がこちらを射抜く。


 その瞳孔は、今宵に限って少し開きすぎていた。


 発汗あり。多弁。頬面紅潮。手指の微細な震え。高揚感。判断の雑さ。直近二週間の接触頻度上昇。


 仮説の精度が上がってきましたわね。


「言い訳はありません」


 わたくしがそう答えると、どよめきが走った。


 殿下は勝ちを確信した顔で口角を吊り上げる。あまりにも教科書どおりの反応で、少しだけ申し訳なくなるくらいです。


「では認めるのだな!」


「記述した事実については」


「事実だと……! まだ言うか!」


 殿下の声がひときわ高く跳ねた。近くの老伯爵がびくりと肩を震わせる。お気の毒に。ご年齢を考えると刺激は少ないほうがよろしいでしょうに。


 聖女が震える声で割って入る。


「どうして……どうして、そんなに冷たいのですか。殿下はあなたを信じようとなさっていたのに……」


 信じようと、ですか。


 わたくしは殿下を見た。


 正確には、殿下の額の汗と、指先で無意識に叩くリズムと、落ち着きなく動く視線を見た。


 そして聖女を見た。


 白い手袋の下で、左の人差し指にだけ微細な痙縮がある。疲労か、緊張か、それとも。


「冷たい、とは……」


 わたくしは首を傾げた。


「観察者に対して、よく用いられる評価ですわね」


 沈黙。


 ついで、場違いなくらい大きな笑いを、ひとりの侯爵夫人が寸前で飲み込んだ。肩だけが揺れている。たいへん失礼ですが、気持ちはわかります。


 殿下のこめかみに青筋が立った。


「まだその態度か! おまえはいつもそうだ! 人の心を数字や言葉に切り分け、まるで標本でも見るような目をする!」


「標本にはもう少し丁寧に触れます」


 言ってから、ほんの少しだけ失言だったかもしれないと思いました。


 ですが遅い。


 大広間の空気が「今のはひどい」に傾いたのがわかる。聖女は小さく息を呑み、殿下は「聞いたか!」と言わんばかりに腕を広げた。


 はい、聞こえました。皆さま耳がよろしい。


「やはりだ! この女には情がない! ミレイユの祝福を呪いと呼び、私の愛を病と書きつけた!」


 そこもお読みになったのですか。


 困りました。個人的な仮説メモまで朗読されるとは、守秘義務の感覚が根本的に異なるようです。


 わたくしは心の中でノートの冥福を祈った。


「エレノア様……」


 聖女が一歩、前へ出る。


 白い裾が床を撫でる。花びらめいた所作。たいそう美しい。


「わたくし、あなたと争いたくはありませんでした。けれど、殿下を苦しめる方を見過ごすことも……」


 言いながら、彼女は殿下の袖から手を離し、胸元で両手を重ねた。


 その瞬間、殿下の視線が落ちる。追うように。惜しむように。喉がわずかに鳴る。


 興味深い。


 非常に。


 だんだんと、夜会が研究会に見えてきました。


 招待状の文面は覚えていませんが、「新規症例の提示あり」とでも書いておいてくだされば、もっと早く来たものを。


「もう十分だ」


 殿下は高らかに宣言した。


「エレノア・グランヴィル。貴様から婚約者の位を剥奪し、王都から追放する!」


 追放。


 その単語は、さすがに重かった。


 広間の空気がざわりと波立つ。遠巻きの令嬢たちが顔を見合わせ、貴族たちの扇が小さく動き、楽師のひとりが弦を触り損ねて、かすかな不協和音が落ちた。


 追放先はどこかしら、とわたくしは思った。


 わたくし個人への感慨ではありません。地理的条件です。気候、食料流通、水源、土壌、教会の影響力。辺境なら辺境で、症例の偏りが見られるかもしれない。


 つまり、悪くない。


「返答は?」


 殿下がせかすように言う。


「返答、ですか」


 わたくしは一礼した。


 豪奢な裾が床をなでる。礼法教師の厳しさに、今日ばかりは感謝いたしました。追放されるにしても、美しく退場するに越したことはありません。


「承知いたしました」


 広間が静まり返る。


 あまりにあっさりしすぎたのか、殿下の顔にわずかな戸惑いが浮かんだ。


「……それだけか?」


「はい」


「泣きも縋りもしないのか!」


「必要性を感じませんので」


 必要性、という言葉がまたよろしくなかったのか、周囲の何人かが眉をひそめた。


 しかし必要性は大切です。感情にも時間にも荷馬車にも積載量というものがありますから。


 聖女が、かすかに目を見開く。


 期待していた反応と違ったのでしょう。劇というものは、相手役が台本どおり泣き崩れてくれないと締まりが悪い。


 申し訳ありませんが、わたくしは今、泣くより気になることがありました。


 殿下の手の震えが先ほどより強い。


 発汗も増えた。


 そして何より、あの笑い方。勝利の場面にしては、少しだけ過剰です。


「最後に何か申し開きは!?」


 殿下がほとんど叫ぶように言った。


 わたくしは少しだけ考えた。


 申し開きではなく、所見ならあります。


 ありますが、この場で述べても、だれも喜ばないでしょう。特に殿下は。


 ですから、もっとも穏当な一言を選んだ。


「追試が必要ですね」


「は?」


 殿下が間の抜けた声を出した。


 隣で、聖女の笑みが一瞬だけ凍る。


 よろしい。少しは届いたようです。


「症状の再現性が高すぎますもの」


 わたくしがそう言うと、とうとう侯爵夫人が扇で口元を覆ったまま盛大に肩を震わせた。笑いなのか、咳なのか、その判定は保留にしておきます。


 殿下は顔を真っ赤にした。


「連れ出せ!」


 近衛が二人、進み出る。


 わたくしは抵抗せず、そのまま歩き出した。人に腕を掴まれるのは好みませんが、今夜は仕方ありません。こういうとき騒ぐと、あとで青あざの位置がずれて観察しづらいのです。


 大広間の扉が近づく。


 背中に無数の視線が刺さる。嘲り、憐憫、好奇心、安堵。人の目というのは、向ける側は気軽でも、向けられる側には重いものです。


 けれど、その重さも扉一枚でずいぶん変わる。


 夜会の喧噪が閉ざされ、廊下の冷気が頬を撫でた瞬間、わたくしはようやく息を吐いた。


「……お嬢様」


 控えていた侍女のマルタが、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。


「本当に、追放だなんて……!」


「ええ」


「ええ、ではありません!」


 小声なのに必死で、しかも怒っている。たいへん忠実な侍女です。忠実すぎて、たまに主を叱る。


「お荷物は、最低限ですがまとめてあります……。その、旦那様のご命令で、辺境の旧領へ……」


「母の領地ですか」


「はい……」


 それは好都合だった。


 辺境。旧領。母の残した土地。王都から距離があり、中央の目が届きにくい。地図が頭の中で広がる。


 ライ麦の生産地帯が近かったはずですわね、と記憶をたぐる。


 そのとき、先の回廊から、給仕の少年が二人の下男に肩を貸されて歩いてくるのが見えた。顔面蒼白、額に汗、足元はふらつき、口元には妙にしまりのない笑み。


「大丈夫なの、あの子?」


 マルタが眉をひそめる。


 少年は「へいきです、へいき」と呂律のゆるい声で言いながら、何もないところでつまずいた。下男が慌てて支える。


 鼻先を、かすかに甘い香りがかすめる。


 さっきの宴で配られていた祝い菓子の匂いだ。


 わたくしは立ち止まった。


 少年の瞳孔を見た。


 発汗、ふらつき、多幸。


 そして、同じだ、と確信する。


 殿下と。


「お嬢様?」


「マルタ」


「はい」


「辺境へ向かいましょう」


「それは、もちろん……」


「症例が増えます」


 マルタが両手で口を押さえた。


「今それを喜ぶの、やっぱりちょっと怖いです!」


 わたくしは廊下の窓から見える夜を振り返った。


 王宮の塔が、闇の中に黒く立っている。


 そのどこかで、王子殿下はまだ熱に浮かされたような顔で、今宵の勝利を信じているのでしょう。


 ですが、勝敗の判定には時期尚早です。


 なにしろ、データが足りない。


 そして翌朝、辺境へ向かう馬車の窓から、わたくしは最初の村で奇妙な光景を見ることになる。


 畑の脇で笑い続ける農夫の足もとに、黒く変色した穂が散っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ