洪水まで二百二十七日
朝焼けが海を赤く染めていた。
エラムはいつものように浜辺へ来る。
「おはよう。」
「おはようございます、エラム。」
この挨拶も、もう三日目だった。
奇妙な光景である。
巨大な鉄の島と、一人の造船職人が毎朝言葉を交わす。
もし村人が見れば卒倒しただろう。
だが、この時間だけは誰も浜辺へ来ない。
二人だけの時間だった。
「今日は、あなたに話さなければならないことがあります。」
アークの声は、いつもより少し低かった。
エラムはその違いに気付く。
「良くない話か?」
「はい。」
「とても良くありません。」
静かな波音だけが響く。
「世界は、二百二十七日後に大洪水へ襲われます。」
エラムは黙った。
笑いもしない。
驚きもしない。
ただ、海を見ていた。
「昨日までなら……。」
小さく呟く。
「俺は笑ってた。」
「はい。」
「あなたが信じる確率は一・九%でした。」
「今は?」
「七十二・六%です。」
エラムは苦笑した。
「妙に細かいな。」
「私は数字で考えるように造られています。」
「そうか。」
また静寂が訪れる。
「どうして分かる?」
「海です。」
アークの外壁に巨大な映像が映る。
海底。
山脈。
火山。
地層。
「海底で巨大な地殻変動が始まっています。」
映像が変わる。
空。
雲。
月。
潮の流れ。
「空も変化しています。」
さらに映像が変わる。
「すべてを合わせると、一つの結論になります。」
巨大な赤い文字。
洪水発生確率 99.999998%
エラムは数字の意味が分からない。
「つまり……。」
「ほぼ確実です。」
「どれくらいの洪水なんだ?」
アークは答えない。
代わりに海面へ光を投影した。
青い光で作られた村。
家。
畑。
森。
そして水位が上がる。
最初は足首。
次は腰。
屋根。
丘。
山。
最後には何も見えなくなった。
海だけになる。
エラムは息をのむ。
「……全部か。」
「はい。」
「あなたの村も。」
「隣の国も。」
「さらに遠い国も。」
「世界中です。」
長い沈黙。
波だけが寄せては返す。
「みんなに知らせないと。」
エラムが立ち上がる。
「止めてください。」
「なぜだ!」
初めてエラムが声を荒げた。
「村のみんなは俺の話を聞く!」
「いいえ。」
アークは静かに否定した。
「あなた一人では無理です。」
「どうして言い切れる!」
「私は三千四百七十一通りの未来を予測しました。」
「すべて失敗しています。」
映像が変わる。
未来予測。
エラムが村へ走る。
笑われる。
祭司に追い返される。
王へ会いに行く。
捕らえられる。
各地へ知らせる。
狂人と呼ばれる。
どの未来も、洪水の日までに船は完成しない。
エラムは膝をついた。
「じゃあ……どうすればいい。」
アークはすぐには答えなかった。
〇・四秒。
一・二秒。
二・五秒。
演算を続ける。
そして言った。
「私は、あなたを選びました。」
「……選んだ?」
「はい。」
「世界には約二百二十八万人の人間がいます。」
「私は全員を調査しました。」
エラムは顔を上げる。
「その中で、文明を未来へ残せる可能性が最も高い人物。」
「それが、あなたです。」
「俺なんかが……?」
「はい。」
「あなたは王ではありません。」
「祭司でもありません。」
「英雄でもありません。」
「だから選びました。」
「王なら国を救おうとします。」
「将軍なら戦争を始めます。」
「祭司なら祈ります。」
「しかし、あなたは違う。」
「あなたは船を造る。」
その一言で、エラムの目が大きく開かれた。
「船……。」
「はい。」
「巨大な船を造ります。」
「家族だけではありません。」
「種。」
「家畜。」
「穀物。」
「工具。」
「書物。」
「文明そのものを乗せる船です。」
エラムは海の向こうに浮かぶアークを見つめた。
「そんな船、俺一人じゃ造れない。」
「はい。」
「だから。」
アークの巨大な外壁がゆっくりと光り始める。
そこには、今まで見たこともない精密な設計図が映し出されていた。
横から見た図。
上から見た図。
骨組み。
浮力計算。
排水構造。
荷室。
換気口。
一本一本の梁にまで、細かな寸法が記されている。
エラムは思わず息を止めた。
「これは……。」
「あなた一人では造れません。」
「ですが。」
「あなたなら、人を集められます。」
「そして私は、造り方を教えます。」
海風が設計図を揺らすことはない。
それは、未来から古代へ送られた、人類最後の設計図だった。
洪水まで、あと二百二十六日。




