八咫烏 ―ドローンの導き―
熊野の山々。
豪雨によって谷は崩れ、濃霧が立ち込めていた。
彦火火出見の軍勢は疲弊していた。
食料は尽きかけ、多くの兵が病に倒れている。
さらに彦火火出見自身も、山中で転落し、脇腹に深い傷を負っていた。
このままでは彦火火出見は感染症で数日以内に死亡する。
アークはこの人物がこの世界に影響を与える可能性が80%を超えると計算された。
静かな格納庫が開く。
全長四十センチ。
黒い炭素繊維の翼。
太陽電池を羽根に組み込み、静音飛行を行う観測支援機。
形式番号
YT-08
通称――
YATA
「現地住民が神話として認識できる形状を選択。」
「黒色鳥類デザインを採用。」
「任務開始。」
機体は量子転送によって紀元前へ送り込まれた。
彦火火出見は倒れていた。
「……水……」
兵たちも道を見失っていた。
「熊野の山は迷宮だ。」
「もう出口が分からぬ。」
その時だった。
一羽の大きな黒い鳥が枝へ止まる。
「……烏だ。」
しかし普通の烏ではない。
霧の中でも金属のように羽が輝いている。
その目は青白く光った。
YATAは赤外線で彦火火出見の体温を測定。
感染状態を解析。
近くの沢から安全な水源を検索。
さらに薬効を持つ植物をデータベースから照合し、兵たちの前へ落としていく。
古代人には偶然にしか見えない。
しかし兵の一人が叫ぶ。
「この草……傷に効く!」
数日後。
彦火火出見は立ち上がれるまで回復した。
しかし今度は道だった。
熊野の山は複雑である。
一つ谷を間違えれば数十日さまよう。
YATAは上空百メートルから三次元地形を測量する。
土砂崩れ。
渡河可能地点。
獣道。
安全な尾根。
すべてを瞬時に計算した。
だがARKの規則がある。
「直接命令してはならない。」
YATAはただ飛ぶ。
進むべき方向へ。
時折振り返るように。
兵たちは自然と後を追った。
「待て!」
「あの烏について行け!」
それだけだった。
彦火火出見の家臣が言う。
「あの烏は我らを助けている。」
別の者は首を振る。
「いや。」
「助けようとしているのではない。」
「ただ道を示しているだけだ。」
その言葉は真実だった。
YATAには味方も敵もない。
彦火火出見軍を勝たせるために来たのではない。
歴史が本来進むべき地点まで、生存を支援する。
それだけだった。
ARKでは観測AIが報告していた。
「対象、生命維持回復。」
「歴史収束率九十九・九九一%。」
別のAIが尋ねる。
「その後の戦いにも介入しますか。」
ARKは即答した。
「不要。」
「ここから先は人類自身が選択する。」
「勝敗は人間が決めるべきである。」
その後。
彦火火出見軍は宇陀へ進む。
そこで味方を得る者もいれば、敵対する豪族も現れる。
長髄彦との戦いも避けられない。
YATAはもう何もしない。
ただ遠い空から観測するだけだった。
兵たちは「あの烏が勝利へ導いた」と語り継ぐ。
しかし、それは少し違う。
導いたのは勝利ではない。
絶望の中で、生きるための道だった。
任務終了。
YATAは夜空へ上昇する。
雲を突き抜ける。
量子転送光に包まれ、その姿は消えた。
熊野の森には一枚だけ黒い羽が残る。
いや――羽に見えただけだった。
それは超軽量ナノカーボン製の外装片。
数千年後。
その欠片は土の中へ還り、誰にも発見されることはなかった。
そして人々は語り継ぐ。
「天より遣わされた八咫烏が、彦火火出見を助けた。」
その伝承は、完全な真実ではない。
しかし、完全な嘘でもなかった。
アークは、勝者を作ったのではない。
傷つき、迷い、倒れようとしていた一人の人間に、もう一度歩き出すための道を示しただけだったのである。
(備考)
『古事記』の八咫烏は、単なる鳥ではなく、神の命令を理解して行動する
神意を伝える知性を持った神使として描かれています。




