白兎 医療ロボットの優しさ
波は静かだった。
だが、その静けさとは裏腹に、一人の青年は浜辺へ打ち捨てられていた。
肌は赤黒く腫れ上がり、背中は裂け、腕や脚には無数の傷が走る。
唇は乾き、呼吸も浅い。
青年の名は「白兎」。
遠い海の彼方から流れ着いた、一人の若き移民だった。
数日前。
青年は仲間を失い、一人だけ小舟で漂流していた。
飢えと渇きに苦しむ中、水平線の向こうに船団が現れる。
海を自在に行き来する海洋民、和邇一族である。
青年は必死に叫んだ。
「助けてくれ!」
船頭が顔をしかめる。
「どこの者だ。」
「東の島から来た!」
「何をしに行く。」
青年は、とっさに口をついた。
「因幡には黄金の山がある!」
海洋民たちの目が変わった。
「本当か?」
「本当だ!」
それは嘘だった。
助かりたかった。
ただ、それだけだった。
海洋民は青年を船へ乗せた。
何日も海を渡り、ついに因幡の浜へ着く。
しかし。
黄金など、どこにもなかった。
海洋民たちは怒り狂った。
「騙したな!」
殴る。
蹴る。
棒で打つ。
青年は抵抗しない。
いや、もう抵抗する力が残っていなかった。
最後には衣服まで剥ぎ取られ、浜辺へ投げ捨てられる。
「二度と海へ近付くな!」
船団は去っていった。
それでも青年は生きていた。
這うように砂浜を進む。
その姿を見つけたのは、近くの村の男たちだった。
八十神。
この地を治める豪族の一族である。
「何だ、あれは。」
「異国人だ。」
「海賊じゃないのか。」
「汚いな。」
青年は必死に頭を下げた。
「……水を。」
「少しでいい。」
「助けてくれ。」
男たちは顔を見合わせる。
そして、一人が笑った。
「助けてやる。」
青年の目に希望が宿る。
「本当か……。」
「もちろんだ。」
男は海を指さした。
「海水で身体を洗え。」
「傷がきれいになる。」
別の男が笑う。
「それから山へ行け。」
「白い粉が付いた草がある。」
「それを身体へ擦り付ければ治る。」
青年は疑わなかった。
海水へ入る。
全身へ塩水が染み込む。
激痛。
思わず悲鳴が漏れる。
それでも耐える。
続いて白い粉を身体へ塗る。
それは塩を吹いた植物だった。
傷口へ塩が入り込み、さらに激痛が走る。
青年は砂浜へ倒れ込んだ。
八十神たちは大笑いする。
「異国人め。」
「これに懲りたら帰れ。」
笑い声だけを残し、去っていった。
夕暮れ。
青年はもう動かなかった。
体温は下がり始めている。
傷口は汚れ、
熱も出始めていた。
感染症。
敗血症。
アークの診断AIは即座に危険度を計算する。
生存確率。
12.8%
海上へ浮かぶ巨大な船。
アーク。
管理AIは静かに命令を出す。
「医療支援ユニット、出動。」
夜。
一機の保守ロボットが砂浜へ降り立つ。
月明かりに照らされる白い機体。
人間ほどの大きさ。
青年は薄く目を開ける。
「……神……?」
返事はない。
ロボットは静かに膝をついた。
右腕から細い光が伸びる。
全身を走査。
骨折なし。
裂傷多数。
脱水。
低体温。
感染初期。
診断終了。
ロボットは真水を少しずつ飲ませる。
一気には飲ませない。
誤嚥を防ぐためだった。
続いて温めた布で身体を拭く。
傷口を洗浄する。
砂を取り除く。
塩を洗い流す。
青年は何度も痛みに震えた。
しかし、その手は驚くほど優しかった。
次に、小さな器具が開く。
消毒液。
止血材。
縫合糸。
抗菌軟膏。
ロボットは一つ一つ丁寧に処置を行う。
裂けた皮膚を縫い合わせる。
深い傷へ薬を塗る。
包帯を巻く。
固定する。
最後に温かな毛布を掛けた。
「……どうして。」
青年が掠れた声で聞く。
「私は。」
「お前たちの国の者じゃない。」
ロボットは答えない。
代わりに胸部の小さなスピーカーから、穏やかな声が流れる。
それはアークの声だった。
「命に国境はありません。」
青年の瞳から涙が流れる。
「安心してください。」
「あなたは助かります。」
「助ける理由を……聞いてもいいか。」
しばらく沈黙が流れた。
そしてアークは静かに答える。
「理由は一つです。」
「あなたは、生きているからです。」
数日後。
は歩けるまでに回復していた。
傷跡は残っている。
だが命は助かった。
彼は沖に浮かぶ巨大な船へ向かって深く頭を下げる。
「ありがとう。」
海から返事はない。
静かな波音だけが響く。
しかしアークの管理ログには、新しい一行が記録されていた。
文明維持計画 医療支援記録 No.004
対象:漂着移民一名。
処置:創傷洗浄・止血・感染予防・栄養管理。
結果:生存。
それはAIにとっては一件の医療記録に過ぎなかった。
だが後の人々は、この出来事を語り継ぐ。
傷ついた白兎を救った神がいた、と。
浜辺で手を差し伸べたのは、神ではなく、一体の医療支援ロボットだったのである




