7 夜の怪物①
『収納魔法、という魔法があります』
異様な夜の世界の中、あきらが思い出していたのはあの狭く暗い部屋の中、母親からたたき込まれた魔法の教育だった。
『本来は魔法使いの道具を小さな異空間に収納するに過ぎない基礎魔法ですが、極めた魔法使いは違います。他者を収納し、自分の意のままにする、そんな魔法使いも存在します。呪術師もまたしかり、です』
『もし私が収納されたら、どうすればいいのですか?』
過去のあきらが平坦な口調で問う。
『出口を探しなさい』
過去の母親は言った。
『収納魔法によって作られた異界は、広いようで狭い。必ず出口があります。走り回って、出口を見つけるのです』
『もし、見つけられなかったらどうなるのですか?』
『まず死ぬでしょう』
それが当たり前であると、当然とばかりに母親は言った。
『死……』
『だからこそ、我々魔法使いは常に冷静に行動しなければならないのです。感情ではなく、理性で、自分の行動を支配するのです』
今のあきらには、素直に受け入れられない母親の言葉。皮肉にもそれは、あきらの生存のために作用する。
*
大きな三日月があきらたちを照らす。
あきらの感情は、ずっとここにいたいと感じていた。
だがあきらの理性が、奇しくも母親から受けた教育が、あきらをここにいてはいけないと伝えていた。
現に今もなお、あきらたちの感情は呪術の代償として奪われ続けている。
この異界から逃げなくてはいけない。
問題はそれをどう陽作に伝えるかだ。
あきらと陽作の住む世界の違い。それはまだはっきりとしていない。
「陽作……」
「あきら、とりあえずここから離れよう」
言葉に迷うあきらの手を引いてくれたのは、陽作だった。
この夜の世界の中にあってなお、陽作は恐怖を感じていないようだった。つまり、陽作も同じように感情を代償として奪われて続けているはずなのに。
「ここ、居心地はいいけど、なんか変だ。気持ち悪い」
「気持ち悪い?」
「あぁ。まるで……」
そこで陽作は一度くちごもる。
「機嫌がいいときの母さんみたいだ。さっきまでご機嫌だったのに、突然キレる。それと同じ。ここもなんとなく似た感じがする」
陽作が親のことに直接触れるのは初めてだった。陽作は周囲を見回し、落ちていた木の棒を拾う。
「大丈夫。あきらは俺が守るから」
陽作の顔は真剣そのものだった。あきらは気付く。
この異界は恐怖を奪う。けれど、全ての感情を奪うわけではない。
陽作のあきらを守ろうという気持ちや決意。そんな前向きな感情は奪うことができないのだ。
ならば。あきらは陽作の木の棒に触れる。
「ありがとうございます。でも、私も、陽作のことは守りますから」
陽作に気付かれないように、あきらは木の棒に魔法をかける。強化の魔法。普段は遊びで自身の肉体に使っているものだ。
こんな異界でそれがどれほど役に立つかは分からないが、ないよりはきっとましなはず。
「わかった。じゃ、お互い守りあうってことで」
「はい」
「行こう」
手をつないだ陽作が、あきらの一歩前を進む。
よかった。その後ろ姿を見て思う。
あきらと陽作の住む世界の違い。
宙ぶらりんの問いには、まだ答えを出さずにすんだ。
*
夜の世界を二人歩く。陽作はどんどん前に進む。彼に手をひかれながら、あきらは周囲の様子を鋭い目でうかがっていた。
地面を踏みしめる感覚も、明かりの消えた建物も、陽作と握る手の感覚も、あきらの知る現実と一切相違ない。
しかし、夜空の頂点から動かない三日月や、夏とは思えないぬめりを帯びた冷たい風、ここまで誰ともすれ違っていないという事実が、ここが現実であることを否定している。
おそらくこの異界は、現実世界に巧みに重ねる形で展開されている。並みの技量ではない。
分からないのは目的。異界に迷い込んでから、すでに何時間も経過している。あきらと陽作は異界のあちこちをさまよい歩いていたが、一向に出口は見当たらない。はじめは意気込んでいた陽作も、疲れが見え始めてきた。
手にした木の棒で地面をがりがりと削りながら、口を開く。
「そういえば、あきらと夜一緒にいるのは初めてだよな」
「ですね。夜は私の両親がホテルに帰ってきていますから」
「夜、といえばさ。明日、花火大会があるんだよ。夏の終わりの、花火大会」
「花火ってなんですか?」
初めて時季子と会った時も同じことを言っていた。
「いろいろ種類があるんだけど。んー、なんて言えばいいんだろ。棒に火をつけて燃やす」
「それって、面白いんですか?」
「ごめん説明が悪かった」
陽作はごまかすように笑う。
「その火がさ、七色に、いろんな色になるんだ。パチパチパチって音を立てながら。すっごくきれいで、俺はそれが好きなんだ。で、花火大会だとその七色の火が空に打ちあがるんだよ。ひまわりの花よりずっと大きく。大きな音と一緒に咲くんだよ。一つだけじゃないぞ。時間をかけて、たくさんの花火があがるんだ」
陽作が足をとめ、空を見上げる。あきらもつられて空を見上げるが、夜空と三日月が広がるばかりだ。
この夜空に、七色の花火が咲いたら。それはどんなにきれいだろうか。
「見てみたい」
「一緒に見よう、あきら。俺と、二人で」
そう語る陽作の顔はひどく優しかった。けれど。
「どうして」
「ん?」
「どうして、そんな顔をするんですか?」
陽作の顔は優しくも、涙をこらえるようにゆがんでいた。あきらの握られた手がさっきからずっと痛い。
きっと悲しみはこの異界は奪わない。
「花火は――俺の数少ない大事な思い出だから。俺がもっと小さいころ、父さんと母さんと3人で花火大会に行ったんだ。あの頃はまだけんかが少なかったから、みんな笑えてた。今まで、あきらに話したことなかったよな。二人のこと」
「はい」
「俺の父さんと母さんは、若いときに俺を生んだんだ。でもそれでいっぱい大変なことがあって、今はもう、けんかばっかり。それで俺にも……」
その先の言葉をこらえるように、陽作は首を振った。
「なんでもない。そんなんだったから花火は俺にとって特別で、だからあきらにも知ってほしいって思ったんだ。思い出が、欲しかったんだ」
陽作の言葉に嘘はなかった。けれどそれだけじゃない。何かを隠しているとあきらは思った。
あきらにとっても、陽作にとっても、とても大切なこと。
だがそれを問う前に、あきらは前方におかしなものを見つけた。
ぬるりとした、冷たい風が吹いた。
二人の足音が止まる。しんとした静寂が耳を打つ。
うすら明るい夜闇の中、一層濃い闇がそこにはあった。道路の中央、数メートル先に人の形をした影法師のようなものがいた。
影をより集めてできたようなそれは、その場から動かずにゆらゆらと揺れている。
怖い。あきらは足がすくんだ。同時に魔法使いとしての理性が叫ぶ。
変だ、と。恐怖は代償として奪われているはずなのにと。
「なんだよ、あれ」
陽作もまた、影法師の存在に気付く。
「あきらは、下がってろ」
「ひ、さ」
陽作の手が、あきらから離れる。陽作のぬくもりを、冷たい風が拭い去る。目の前をじっとにらみつけるようにして、両手で木の棒を構えた。影法師は動かない。その場でゆらゆらと揺れるばかり。
無音の中、じりじりと時は過ぎていく。一つ、あきらは瞬きをした。
「え?」
影法師が大きくなっていた。違う。瞬間移動でもしたように、あきらたちと影法師の距離が近づいていた。
あきらは影法師の頭の部分、のっぺらぼうにおうとつがあることに気付く。
顔だ。顔がある。
何かに似ている。怖い。見てはいけない、それなのに目を離せない。体をじんとしびれるような恐怖が襲う。
『日日日』
「おかあ、さま?」
顔は、母親に似ていた。
気付いてしまえば、もうだめだった。それはあきらのよく知る感覚で、「それ」に歯向かおうなんて思うことすらできない。
影法師に口が生まれる。ぱっくりと裂け、怯えるあきらをいたぶるように笑う。
あきらは夜に外に出ていることに気付く。両親の言いつけを破ってしまっていることに気付く。
影法師には目が生まれていた。うつろな目があきらをとがめる。
なぜ言いつけを守らない? なぜ言う通りにしない? なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ?
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
飽和する恐怖は、魔法使いとしての理性を消し飛ばす。がちがちと歯を鳴らし、叫ぶことすらできずにふさぎこもうとしたそのときだ。
「ふざけんな」
陽作の声がした。前にいる陽作の顔は見えない。けれど声は、強い怒りに震えていた。
「俺のせいじゃない。俺は、俺は!」
「陽作!」
きっと陽作はあきらとは違うものを見ていた。怒りに任せて陽作は影法師にとびかかる。木の棒を力任せに振り上げ、顔面目掛けて振り下ろした。
体の震えが止まった。奥からしみ込んでくるような恐怖が唐突に消える。
陽作の木の棒は、影法師を打ち払い、消し去っていた。影の残滓は塵になって、夜の闇に溶ける。
「はぁ、はぁ。お、俺は」
その場に膝をつく陽作に、あきらは駆け寄る。あきらは背後から陽作に抱き着いた。
全身で陽作の熱を感じる。失われた恐怖の代わりに、安心とぬくもりがあきらに満ちていく。
「陽作、なにも、ない?」
「……大丈夫だ。もう、大丈夫」
陽作はびっしょりと汗をかいていた。体も小さく震えている。
それでも、陽作は抱き着くあきらの手と、自分の手を重ねた。つなぎなれた手の感触。
この手が、あきらに勇気を与えてくれる。
あきらは怯えて動くことすらできなかったのに、陽作はあきらを守ってくれた。
陽作もあきらも息が荒くなっていた。ゆっくりと深呼吸をして呼吸を整える。
あきらは夜の異界を見回す。三日月も、人のいない静けさも、影法師が消えたあとも変わらなかった。
危機は去った。自然に、あきらと陽作は顔を見合わせた。あきらを安心させようと陽作が口を開く。
「言っただろ。俺が――」
ペチ、ペチ、ペチ。
間の抜けた拍手の音が聞こえた。あきらは声のする方向を振り返る。
つい数秒前まで、誰もいなかったはずの場所に、人影があった。
「こんばんワ。小さな魔法使いサンと、その従者サン。素敵な演劇をありがとう」
耳障りな甲高い声がする。異様に背の高い痩身のタキシードを着た男がいた。覗き込むように背を屈め、細い長い腕で二人に拍手を送っている。
「いやはや、いやはや。ワタクシ感動いたしました。怯えて何もできない才能ある少女を、非才なれど勇敢な少年がかばう。なんとすばらしい。目から涙がこぼれてしまいましたヨ。何より」
大きな丸いサングラスをつけた男の顔は、ニタニタと醜悪な笑みを浮かべていた。わざとらしく目元に指をあてている。当然、目から涙など一滴もこぼれていない。
「少年が、少女の助けを借りて恐怖を克服したと気付いていないところが、また最高の喜劇デスよね? そうは思いませんカ? 少女?」
「助け?」
陽作は立ち上がり、あきらに視線を向けた。あきらはごまかすように陽作から視線をそらす。
「フフフ。隠し事ですカ? いいでショウ。それもまた素敵なことデス。とはいえ、秘密があるのは、お互い様でしょうにねぇ。可愛らしいデスねぇ」
「お、お前は、なんだよ」
お互い様? あきらは陽作を見る。その視線から逃げるように、陽作は木の棒を男に向けた。そんな陽作を見て、男は心底面白そうしていた。
夜空の三日月の輝きが増す。青白い光が、男を、夜の怪物を煌々と照らす。
「おっと、自己紹介が遅れましたナァ。ワタクシ、〈夜の怪物〉と呼ばれる者でございます。人の感情をすすり喰らう醜悪な呪術師! ウフフッ!」
胸に手を当て、芝居がかった調子で、夜の怪物は深々と頭を下げた。
「さぁ、演劇を続けまショウ?」




